第21話

「急に押しかけるようなかたちになってすみません」


 朝霞くんは、わたしと顔を合わせるなり、まず頭を下げ謝罪の言葉を述べた。その横には、ひなちゃんが立っていた。いつものように赤いワンピースを着ている。


 なにが起きているのか寝起きのわたしにはわからなかったけれど、とりあえず部屋に通した。我が家の廊下を歩く二人を背後に感じながら、ぎこちなく働く脳を覚醒させるように努める。


 まずはそう状況整理からが妥当だろう。


 朝霞くんたちと最後に会ったのは、二日前のことだ。そう、二日前。これに間違いはないだろう。


 しかし、残念ながら、わたしの脳はきちんと働いてくれず、そこで考えることを放棄してしまう。これは寝起きがどうとか、という問題ではなく、たぶん一時的なパニック状態に陥っているのだろう。


 わたしの部屋に彼らを通し、適当に座ってもらうように促した。朝霞くんは少し困ったような顔をした。ひなちゃんは容赦なくベッドに飛び込んだ。その瞬間にワンピースの中が見えそうになって、自然と目が動いてしまったけれど、残念ながらなにも見ることはできなかった。鉄壁のスカートだ。


 それから、二人を放置し、キッチンに向かった。食器棚からグラスを取り、水道水で器を満たした。そして一気に飲み干す。まるで二日酔いの成人のようだが、これでもまだ女子高生である。忘れていない。


 そのままそこで顔を洗った。髪はもう今さらなので、手入れはしない。服装がやや気になるところだが、これも今さらなので着替えるのを諦めた。嫁入り前に、こんな姿を見られてしまうとは思わなかった。唯一の救いは、下着姿ではなかったことだ。しかし、考えてみれば、下着姿で来客に対応する人などいない。


 家族はみんな出かけているようで、リビングは静かだった。いたときのことを考えると、少し憂鬱になった。あることないことを根掘り葉掘り訊かれたことだろう。


 朝霞くんたちになにか持って行こうかを思ったけれど、今の状態ではグラスを二つ以上持つことを危険と判断し、おもてなしを断念した。


 部屋に戻り、床に座っている朝霞くんと向かい合うように座った。部屋の奥にベッドがあり、そこにひなちゃんがいるため朝霞くんもベッド側にいる。わたしは扉側だ。まるでわたしが来客したみたいで、可笑しかった。


 わたしはとりあえず、思っていたことを訊いた。


「なんでわたしの家知ってるの?」


 マンション住まいであることは話した記憶はあるが、しかしそれ以外のことは話していない。何階に住んでいるのかも、窓からの景色も、近くにある建物のことも、なに一つ話していない。それでも、朝霞くんたちはここに訊ねてきた。


 朝霞くんは困った顔したあと、また謝った。


「すいません。こういうのはやりたくなかったんですけど……」


「こういうのって?」


「アヤカシに訊きました」


 なるほど、とわたしは納得した。その手があったか、と。


「本当にごめんなさい。だけど事態が事態だったので、仕方がなかったんです。一刻を争うことなんです」


「え? なに、どういうこと?」


「『コックリさん』のこと憶えてる?」


 身体を起き上がらせ、ひなちゃんが真剣な顔つきをして言った。


 一気に頭の中にあった靄が晴れる。


 わたしは思わず、固唾を呑んだ。


『コックリさん』だって?


「善孤を還したことで、丸く収まったと思ったけれど、どうやら悪い予想の方が当たっていたみたい」


「終わって……ない、の?」


 わたしは恐る恐る訊いた。


 ひなちゃんは目を瞑って、数秒の間を開けた。


「終わってないよ。あの日からずっと続いてる」


 その一言に、わたしはたしかに驚愕したけれど、しかしそれよりも強い恐怖が身体の底から生まれた。寒いわけでもないのに、自然と身体が震え始める。それを止めようと、左腕を右手で押さえたが、意味はなかった。


 まさか……、あれが……。


 助けを求めるように、朝霞くんを見たが、彼もまた真剣な眼差しをわたしに向けていた。まるでわたしを逃げないようにしているようだった。そう、きっとそれは正しいのだ。また現実から目を逸らさないように、逃避しないように、彼はわたしを留めていてくれているのだ。


 二人はそれから数分間、黙っていた。たぶん、わたしに気を使ってのことだろう。動転したままでは、拒絶が発生して、状況を呑み込めなくなる。一刻を争うと、彼は言っていた。聞き漏らしてはならないのだ。彼らが言葉にする一字一句を、記憶に、心に刻まなければならない。そうしなければ、わたしはまた……。


 本当に、わたしは弱い人間だ。早く治るとは思っていなかったけれど、ここまで染み付いてしまっていると、洗い流すことはできないのではないかと疑いたくもなる。


 意志が弱い。


 信念が脆い。


「あの日、ヒナが言ったこと憶えてる?」


 わたしは首を振った。憶えていると答えることはできたけれど、すべて、余すところなく、細部まで憶えているかと問われると、自分の記憶に対する信憑性が著しく低下するため、ここは憶えていないと答えるべきだった。なにより、善は急げ、だ。無駄なやり取りをする必要はない。


「小谷ちゃんたちが行った『コックリさん』で、教室に作られてしまった場は二つだったかもしれないって話。一つは善孤、もう一つが『コックリさん』。ヒナはあくまでその可能性を指摘しただけだったけれど、それは残念ながら的中してたみたい。だから根本的な解決はしてない」


「どういうこと?」


「善孤の場は小谷ちゃんの力で解決できたけど、『コックリさん』の場は今も儀式のあった日から変わらず残っているってこと」


「それじゃあ、わたしたちは、今まで『コックリさん』のいる教室で過ごしていたってこと?」


「そうなります」


 朝霞くんは感情を出さずに言う。


「俺たちが『コックリさん』の存在に気付いたのは、この間、つまり小谷さんがお友達と電話をしたときです。あのときは常名ちゃんがいたし、それに確信があったわけじゃないから言えませんでしたけれど。俺とヒナ、そして鳴は同時に嫌な気配を感じ取りました」


「それで『コックリさん』だってわかったの? それっておかしくない? だってみんなは『コックリさん』を見たことがあるわけでも、会ったことがあるわけでもないのに、それを断言しちゃうなんて……」


「知ってたよ」


「え?」


「ヒナと朝霞は少なくとも『コックリさん』の気配を知ってる。だってあの日、その気配を持っていた人が家に訊ねてきたんだから」


 あ、と思った。場が二つできていたのなら、あの場に『コックリさん』がいたというのなら、わたしがその気配を纏っていてもおかしくはない。それはほんのわずかな気配だったと思う。善孤の力があったからなのかはわからない。けれど、善孤の気配が入り混じっていたからこそ、その気配は薄まり、感じ難くなっていた。


 朝霞くんたちが、電話の声で、あるいは電話が繋がったことによって、その気配を感じ取り、以前の経験を思い返したのだろう。そこから、『コックリさん』を割り出した。


「俺たちは『コックリさん』を退治しなければなりません。そうしないと、おそらくこの街全体が呪われるかもしれませんから」


「わたしの学校に?」


「いえ、たぶん、それだけじゃないです。あのとき小谷さんと一緒にいた三人のもとにも行かなければならないです。むしろ、そっちが本命ですね。それでいくつか質問とお願いがあるんですが」


「なに?」


「最近、お友達やその周りのご家族に変わったことはありませんでしたか?」


 少し考え、わたしは首を横に振った。


「そうですか……」


 朝霞くんはほんの数秒俯いて、背後にいるひなちゃんの顔を見た。ひなちゃんはそれとほぼ同時に頷いた。二人の間で、なにかを確かめ合っているのだろう。そして、また向き直して、わたしを見据える。


「率直に言います。『コックリさん』は小谷さん以外の三人に憑いています。今は三分割になっているので、個々の力は弱まっていますが、時間が経てば、あるいは一つに戻ったときにはそれ相応の力を得ることでしょう。そうなれば、三人とその関係者に不幸が訪れます。災い、と言うんですか、こういうの。よくわかりませんが、理不尽な不幸が訪れることは間違いありません」


「わたしは? わたしにはなにもないの?」


「おそらくだけど、二つ発生した場は、途中で分かれちゃったんだと思う。たぶん小谷ちゃんがルールを破ったときに、明確に二つに分かれて、善孤の場が小谷ちゃんに、『コックリさん』の場が三人の周囲にできてたんだよ。そのときの予兆を小谷ちゃんは見てたし、ヒナや朝霞も話には聞いていたのに、まさかここまでのことになるとは思わなかったよ」


 あの日の教室でのことを思い出すのは、あまり気が進まなかったけれど、それでもいざ思い出してみると、それはあっさりと鮮明に思い出された。


 わたしは『コックリさん』から逃げられなくなったことに対して、ルールを破ることでその眼を自分に向けさせた。そうしたら、異常な空間からいつもの教室に帰れた。


 そして、わたしの目には映ったのだ。


 あの奇妙なものが――。


 ひなちゃんはその場にいなかったから判断は難しいと言っていたあれは、わたしの恐怖が具現化したものであり、そして同時にわたしが恐怖していた『コックリさん』そのものだったのだ。


 わたしは三人を助けようとした。だからルールを破った。


 けれど、実際には『コックリさん』の残った教室に、三人を残しただけ。


 彼女たちになにも変化がなかったから、全部終わったと思っていた。今ではもう笑い話にできるような、そんな気楽ささえ感じることができる。


 だけど、終わってなかった。


 教室にいたのだ。彼女たちに憑いていたのだ。


 そう考えるとあれからの日々が恐ろしいものだと思えた。彼女たちの背後には『コックリさん』がずっといて、わたしたちを見ていた。


「どう……、すれば、いいの?」


 声を絞り出してみたが、自分ではきちんと言えているのかわからなかった。


「そうだ! 『コックリさん』をすればいいんだよね。今度はきちんと還ってもらえばいいんだから」


「違うアヤカシを呼び寄せたらどうするの?」


 冷たく突き放すような一言に、わたしは言葉を失った。もちろん、それがわたしのことを思って、言ってくれているのだということはわかる。


 やばい……。気が狂いそうだ。


 恐怖に負けてしまいそうだ。押し潰されるのか、打ち破られるのか、引き裂かれるのか、磨り潰されるのか……。とにかく心が痛く、そして苦しい。


「俺たちにできるのは『コックリさん』と直接話すことだけです。祓うことも一応はできるんですが、それだとお友達にかかる負担は大きいし、この街に本体の一部を残される危険性もあります」


 今でも三つに分かれているアヤカシが、それ以上に分かれることができないとは言い切れない。誰かに憑き、力を蓄え、また分裂。その繰り返しを続け、街に蔓延る存在となってしまう。


 時間が経てば経つほど、不利になるのは人間側だ。普通の人には見えないアヤカシたちを捜し出すのは、力を持った特別な人の助力なしでは不可能だ。その人たちを集めるための時間、集まるまでの時間が今は惜しい。


「悪質なアヤカシを祓うためには、常に危険が伴います。ほとんどの場合、魂を掴まれていますから、引き剥がすのは難しい。下手なことをすれば、憑かれている人を殺すことになってしまう」


 殺す。その朝霞くんには似合わない一言に、わたしは思わず彼の眼を見た。


 あの眼にはなにが映っているのだろう。


「そうなってしまうのは、俺としても小谷さんにとっても本望ではありません。だからここは話し合いで決着をつけようと思います」


「応じてくれると思う……?」


 わたしの不安を晴らすように、朝霞くんは笑みを浮かべた。


「思います。アヤカシって結構話のわかる奴らなんですよ」


「わたしは、なにをすればいいの?」


「小谷さんは、ヒナと一緒にお友達のところを尋ねて来てください。できればご家族の様子も見てきて欲しいです。まあ、その辺りはヒナが感じ取ってくれるだろうから、問題はないと思いますけれど」


「わかった」


「不本意だけどね。ここは朝霞の住む街だから、無下にはできないよ」


「朝霞くんはどうするの?」


「俺は鳴と、『コックリさん』と対話するための場を作ります。これは心配するようなことじゃないですよ」


 それから朝霞くんとひなちゃんから段取りを聞き、わたしたちはそれぞれ行動に移っていった。


 二人から話を聞いたあとに見るいつもの景色はどこか黒ずんでいて、今までとは違った場所に見えた。どこにいてもおかしくない。誰が犠牲になるかわからない。そういった恐怖が作りだした幻影が、街に染み付いてしまっている。


 そんな幻影に囚われていたからこそ、わたしは気付かなかった。


 見えていなかった。


 朝霞くんの本心を。


 その計画を。

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