第20話

 どうしてあんなことを言ってしまったのか、本当にわからなかった。口にすれば、場の空気は悪くなるし、相手を不快な気持ちにさせてしまう。わかっていた。経験上、そうなることは予期できた。


 人は理解できないことを嫌う。自分たちと違うモノを拒む。興味があるように見せているのは、そのことが自分にはまるで関係のない場所で発生しているからだ。他人事だから、興味が持てる。見たいと、会いたいと言う。


 しかし、いざ「それ」が自分たちの近くにいると、「それ」を拒絶する。気持ち悪いからと言って、頭がおかしいなどと理由をつけて、信じようとはしない。目に見えないことは初めからわかっていることなのに、触れることができないと知っていたのに、そういう場面に出くわすと簡単に手のひらを返す。


 悪いことだとは思わない。それが楽な生き方だとわかっている。誰か一人を庇うより、その他大勢に加わり非難した方が、断然、楽だ。賢い生き方だ。


 それを念頭に置いているから、特殊な力を持った人は他人との関わりを断じる。簡単に崩れていく関係、自分を守るために傷つく誰か。そんなものに耐えられるはずがなかった。初めから無関係で、孤立していた方が楽なのだ。


 お互いに関わらないでいた方が、お互いのためになる。


 なのに、どうして言ってしまったのか。


 同じ力、けれど同等ではない力を持っている相手とはいえ、この間までそのことを嫌悪していた。普通であろうとした人だ。普通でいたいと、拒まれたくないと切に願ったからこそ、なにも見えていなかった。そんな人に、言ってしまっていい言葉だったのだろうか。


 小谷さんがここに安らぎを求めていたように、俺自身も小谷さんに安らぎを感じていたのか。心の拠り所として、この人なら大丈夫だと思っていたのか。


 自分に問い質しても、なにもわからない。


 だから気持ち悪い。自分自身のことがなに一つわからないことが、不快なものを触れているかのように、気持ち悪かった。


 場の空気を悪くしてしまったことに、あるいは小谷さんに不快な思いをさせてしまったことに、「すいません。変なこと言いました」と詫びを入れた。


「そんなことないよ」


 小谷さんは首を横に振った。


「嬉しかった」


「え?」


「朝霞くんはひなちゃんと違って、思ってることをなにも言わないから、今みたいに本音の一部でも話してくれことが嬉しかったよ」


「ヒナが……本音を話す?」


「ちょっと、朝霞! そこに疑問を抱く場面じゃないよ!」


 小谷さんは俺たちを見て、温かく微笑んだ。


「なんだか、少し将来が見えたような気がする」


「それは――よかったです」


 俺も少し小谷さんのことがわかったような気がした。久しぶりに他人を受け入れようとしている。やっぱりいい人なのだろう。善孤が寄り添ってきたことだけはある。


 どんな将来が見えたのかは不安だったが、たぶんまともなことじゃないはずだ。そういう道を選ぶと思う。


 場の空気がやや戻ったと感じたとき、鳴が突然立ち上がった。無言の、流れるようなその動作に小谷さんは驚いていた。姿を消し、別の席へ移動する。今いた席から一番離れた席だ。仕方ないとはいえ、小谷さんの目は開きっ放しで、少し面白かった。


「え? なに? なにが起きるの?」


「お客さんですよ」


 ヒナが思いっきり俺に体重を預けてくる。リクライニングチェアとでも思っているのだろうか。少なからず、クーラーの効いた部屋にいる心地はしなかった。不機嫌そうな顔をしているのが容易く脳裏に浮かぶ。


 扉が開かれ、ベルが軽快な音を奏でる。


「おはようございまーす」


 何度目も訪れている場所にも関わらず、相変わらず彼女は恐る恐るそう言うのだった。なにかに怯えているわけでもない。それが不思議で仕方ないのだが、わざわざ訊くほどでもないと思い、そっとしておいている。


 澄まし顔をしている鳴は、きっと内心で喜んでいるのだろう。いつもこの瞬間を楽しみにしている。


 小谷さんは扉を凝視しているようで、振り向いたまま動かなかった。


「いらっしゃい」


 姿を見せた常名ちゃんに声をかけた。彼女も好きなのかいつもワンピースを着てきた。それと最近は宿題の問題冊子を入れるために手提げ袋。そして麦わら帽子だ。見知らぬ顔を見つけたのか、常名ちゃんは入り口で立ち止まってしまった。


「あ、朝霞くん」


「なんですか?」


「あれは誰なの?」


「お客さんです」


「だ……、抱きしめても、いいのかな?」


「本人に許可を得てからにしてください」


 心なしか身体を震わせている小谷さんにそう答えた。どうやら子供好きのようだ。もしかしたら見えてきた将来というのも、俺の思っているほどのことじゃなくて、案外、教師や保母さんあたりなのかもしれない。


 小谷さんを警戒していた常名ちゃんだったが、しばらくして近づいてきた。やや早歩きで、あっという間に小谷さんの横を通り過ぎた。


「おはよう。今日も暑いね」


「はい。ですけど、ここが涼しいから大丈夫」


 不思議なことに、関係が少し良好になったおかげなのか、常名ちゃんの俺に対する口調が敬語と口語が混じるようになった。悪いことじゃなかったが、これについては以前に気になり過ぎて訊いてしまった。尊敬している目上の人だから敬語を使いたいが、「お兄ちゃん」だから敬語は使いたくないというジレンマからくるものらしい。彼女がそれでいいのなら、と別に口を出さなかった。


「また来たんだ」


 ヒナが喧嘩口調で言った。これもいつも通り。


「来ちゃダメだったの? 朝霞お兄ちゃんは前にまた来てねって言ったよ」


 小谷さんが「お兄ちゃん」という単語に反応する。説明を訴えかける目をしているが、それは今できることではなかった。


「そんなの社交辞令に決まってんじゃん。ここは喫茶店なんだから、そう言うのが当たり前なの」


「それって別に来ちゃダメとは言ってないよね? だからわたしの行動は間違ってない。それにここは朝霞お兄ちゃんの家で、あなたの家じゃない」


「ヒナの家でもあるもん!」


 この小学生同士の喧嘩で唯一の救いといえば、俺のことを巻き込まないことである。話題に上がることはあっても、話しを振られることはない。静観を決め込むことができる。


 そうだとしても、流れを断ち切らないとならない。でなければ、二人は本当にどうしようもない喧嘩を、少しずつ論点がずれながらも続けるのだ。


「常名ちゃんはなにか飲む?」


「麦茶がいい!」


「待ってて」


 と移動しようと思ったが、ヒナが離れようとしない。話を聞いてないはずがない。仕方がないので、ヒナを抱きかかえ、背中に回し、おんぶすることにした。これのどこかが崇高なアヤカシの姿だと言うのだろうか、甚だ疑問だが、仕方ないと割り切った。常名ちゃんがいるときは、子供っぽさが増すような気がする。もしかしたら背丈などが似ているために影響が出やすいのかもしれない。


 羨ましそうにヒナを見る常名ちゃん。羨ましそうに俺を見る小谷さん。その視線から逃げるようにキッチンへと向かった。


「いつまで、くっ付いてるんだ? 暑いだろ」


「暑くないよ。それともなに? ちびすけに抱きつかれたいの?」


「別にそういうことじゃないんだけど……。というかなんで常名ちゃんと仲が悪いんだよ。初対面のときからだろ?」


「ただの人だからね」


 それだけとは思えなかったが、それ以上の追及をしなかった。


 グラスに氷を入れ、麦茶を注いでいると小谷さんがやってきた。もの凄く疲弊している顔だ。


「早く戻ってきてよー……」


「なにかあったんですか?」


「あの子ってなんなの? 『お兄ちゃん』って言ってたけど」


 心なしか首に回されているヒナの腕に力が入ったようだ。少し暑苦しい。


「兄みたいな存在ってことです。ちょっと訳ありなんですよ」


「複雑?」


「いえ、話せば簡単なんですけど、そう簡単に話すわけにはいかないです。常名ちゃんが許すのなら話しますけど」


「常名ちゃんって言うんだ」


「話してないんですか?」


「見とれたせいで忘れてた。――そうそう、それで常名ちゃんもわたしのことを見てくるんだよ」


「よかったじゃないですか」


「よかった。うん、たしかによかったんだけど……」


 目がね、と小谷さんは俯いた。


 どんな目で見られたのか、見当もつかない。


「なんか探るような目で見てくるんだよね。上から下まで。なんていうか正体を探るというよりは、鑑定してるって感じ」


「それで、その目に耐えきれずに逃げてきたんですね」


 小谷さんは小さく頷いた。子供好きの小谷さんが相当なダメージを受けている。


 たしかに、常名ちゃんみたいな子は珍しい。例の教育のために、精神年齢を段飛ばしで上っていき、かなり大人びている節がある。慣れなければ、その見た目とのギャップに参ってしまうのも頷ける。初対面のときに、俺がどう思ったのかは忘れてしまったが、たぶん今の小谷さんみたいになっていたと思う。


 常名ちゃんが傍にいないこの機に、小谷さんに言う。


「彼女、普通の人ですから、鳴のこととかヒナのことは内緒にしておいてください」


 そうなんだ、と小谷さんは意外そうに言った。


「少し変わった子だから、なにかあると思ったけど違うんだね――うん、わかった。あと、朝霞くんとわたし――まあ、つまるところアヤカシ関連は禁句ってことね」


 あまり時間をかけると、麦茶がぬるくなってしまうため、小谷さんと離れないヒナを連れて席に戻る。その道程で、常名ちゃんの様子を見たが、相も変わらず笑顔の眩しい子である。こっちの様子に気付いて、にこにこしている。鳴のいた席に座ったようだ。


「はい、これ」


 テーブルにコースターを置き、その上にグラスを乗せた。テーブルには算数と漢字の問題集が広げられている。今は、算数と戦っているようだ。ぱっと見ただけだが、手のつけてある問題は全部正解していた。


「算数は得意?」


「得意じゃないけど、できるよ」


「できない方がおかしいけどね」


 そのヒナの呟きは、常名ちゃんには届かなかったようだ。何事もないかのように取り組んでいる。もしこれで無視を決め込んでいるだけなら、たいしたものである。


「そろそろ下りないか?」


 背に乗るヒナに提案した。しかしヒナは下りる動作を見せないどころか、身体を乗り出してきた。より密着した形になり、その暑苦しさといえばとてもじゃないが耐えきれないものだ。今日のヒナは不思議と馴れ馴れしい――というよりは友好的である。


「疲れた? なら座ればいいよ」


「そういう問題じゃ……」


 言いかけて、口を閉ざした。それはヒナにはなにを言っても無駄だからだと思ったからではなく、目の端に映った常名ちゃんの顔が強烈な印象を与えてきたからだ。


 にこにこ笑みを浮かべているように見えるその表情は、その裏腹にものすごい怒気を感じ取ることが容易で、それに気付いた小谷さんも目を丸くしている。


「ねえ、朝霞お兄ちゃんが困ってるでしょ。いい加減にしたら?」


「困ってなんかないよ。本当に困ってるのなら、力尽くで落としてる」


「優しいからできないだけだよ。そんなこともわからないの」


「優しいだけ、なのかな?」


 そのヒナの一言が引き金となり、二人の戦いが始まった。殴る蹴るなどの暴行、髪の引っ張り合い、止まない罵倒――そんなことは一切なく、お互いに相手を無視するようになった。発言の所々に、それとなく相手の悪口が含まれるようになって、間に挟まってしまっているこっちの身も案じて欲しかった。耳が痛い。


 そんなとき、ヒナたちの様子を少し離れた席で見ていた小谷さんの携帯電話が鳴った。常名ちゃんは携帯電話を持っていないため、小谷さんのだと判断できた。


 小谷さんは慌てるように携帯電話を取り出し、ディスプレイを見る。どうやら電話であるらしく、無言で片手を顔の前で立てたので、俺は黙って頷いた。常名ちゃんも自然と口を閉じた。


 室内は着信音で満たされ、小谷さんが着信に応えるために通話ボタンを押したその一瞬だけ、音がなくなったようだった。


 そして、その感覚は突如として、身体中を駆け巡った。


 ぞっとした寒気が周囲に一気に溢れたかのようだった。この寒気は、外気などで感じるものではない。そう確信することができた。鳥肌が皮膚の表面に現れず、その代わりに嫌な汗が滲み出てきた。


 本能的に感じた恐怖だろうか。


 恐怖なのかさえ疑問に思える。


 それほどまでに気持ち悪い。


 ヒナもその異常な気配を感じ取ったようで、首に回していた腕がするっと滑り、ようやく床に足をつけた。様子を窺ってみれば、ヒナは無表情でただそこに立っているだけのマネキンのようだった。頭の中で、この現象について整理をしているのだろう。過去の経験にないか、記憶にないかを照合しているのだ。


 邪魔をするのも悪いので、周囲を確認することにした。


 常名ちゃんは、いきなり床に足をつけたヒナに驚いたものの、小谷さんが電話をしているためか、一言も口にしない。それからヒナへの興味が失せたかのように、テーブルに広げられた夏休みの宿題に取りかかった。実に効率的である。


 鳴の姿はなかった。はっきり言ってしまえば、いつ頃までいて、いつ頃姿を消したのか、全くわからない。常名ちゃんが来てからは、一度もその声を聞いていないと思う。


 小谷さんは普通に電話をしている。つまり、あの気配には気付かなかったのだろう。


 総括すると、俺とヒナ、おそらく鳴は気配に気付き、小谷さんと常名ちゃんは気付かなかった。


 おぞましい寒気、それとあの狂ったような感覚は、いったいなんだったのか。身体の内に潜む得体の知れない感情を引き摺り出されるかとさえ感じた。

クーラーのおかげで汗が渇いていくが、数倍の冷たさが生じた。今度こそ、鳥肌が表面に現れた。


「うん、それじゃあ、またね」


 電話が終わったらしく、小谷さんは携帯電話を閉じた。考えを巡らせていたせいか、会話の断片すら耳に入ってきていない。


 ヒナが俺の服の裾を引っ張ってきたので、わかっていると意思表示するため、ヒナの手に触れた。


「あの、小谷さん」


「ん? なに?」


「どなたからだったんですか?」


「友達だよ。なんで?」


 上手く言葉が見つからない。こういうとき、相手が人でなければ、といつも思う。


「いえ、特に意味はないんですけど、いつもと声の調子が違うなーと思って」


「そうだった?」


 小谷さんは自分の声を思い出すかのように、こめかみを指で小突き始めた。それは数秒間、続けられた。


「わかんないけど、まあ、そうかもしれないね」


「お友達、ですか……」


 嫌な予感が、脳裏に過ぎった。


 十中八九、と言っても過言ではない。


 おそらく、あの中の誰かなのだろう。


 少し間をあけてから、切り出した。


「もしかして、あのときの――」


「そうそう。どこまで紹介したか忘れちゃったけど、みっちゃんだよ。これから遊ぼうって、余裕かましてくれるよ、ホントに」


 名前を聞いて、それは確信に変わった。けれど、それを今、小谷さんに話す必要はない。悟られないように、表情を作る。


「それじゃあ、もう行かれるんですね」


「うん。ごめんね、突然来ちゃって」


「いえ、構いませんよ。また来てください」


 小谷さんは心底嬉しそうな顔をして、店を出ていった(最後にヒナに抱き付いたが、ヒナは抵抗をしなかった)。


 嵐が過ぎ去ったかのような、あるいはこれから訪れるための静けさが、店内に充満した。


 ヒナは常名ちゃんにちょっかいを出すことをしない。小谷さんが出ていった扉を眺めているだけだ。


 それからは、常名ちゃんの宿題を見てあげたり、一緒に昼食をとったりした。常名ちゃんには申し訳なかったが、その間ずっと、頭の隅には小谷さんのことが残っていた。どうしても離すことができなかったのだ。


 夕方、五時になると常名ちゃんは帰宅をした。彼女はいつもこの時間に帰るのだ。実に小学生らしいと言える。一人で大丈夫かといつも通り訊き、大丈夫といつも通り返答がされた。


 門のところまで見送りをし、家に戻っている最中に、鳴が姿を現した。


「おい、朝霞。あの娘、いや、あの娘の友人だったか、かなり不味い状況だぞ」


「わかってる。俺もヒナもちゃんと気付いた。お前、いつの間に消えたんだ」


「私は声に敏感なアヤカシだからな。気配を感じ取ったと同時に、外へと退避した。わかるか? それだけのことが起きている」


「原因はわかってるんだ」


 そう原因はわかっている。


 それが小谷さんと俺たちの関係の始まりだったのだから。


「ほう、その原因とは?」


 俺は足を止め、鳴を見た。ちょうど正面に立つかたちで、鳴の後ろからはオレンジ色の西日が差していた。その逆行のせいで、鳴の身体は黒く見え、眩しさで目を細めた。


「『コックリさん』だよ」


 そう答えたのは、俺ではなく家から出てきたヒナだった。

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