第18話

「朝霞ぁ、どこかに行こうよー。どうせ夏休みとかいう長期休暇なんでしょー」


 珍しく朝の早い時間に起きてきたと思ったら、「おはよう」の挨拶もなくヒナはそんなことを言い出した。


 着替えは済ましてあり、いつもの赤いワンピースだ。他にも服を持っているはずなのだが、どうやら一番のお気に入りらしい。もしくは、ただ着るのが楽というだけだろう。赤く長い髪はところどころ跳ねており、まるでタコの足を見ているようだった。


「どこかってどこだよ」


「海とか、プールとか」


「水風呂にでも入ってろ」


「つめたっ!」


「水風呂だからな」


「そうじゃないよ。対応が冷たいって意味」


 俺たちは話しながら、リビングから店の方へと移動する。エアコンが復帰してからというものの、俺たちの居場所はそこになっていた。なにより、玄関でもある店は、以前から他の部屋よりも涼しかった。


 勉強をするときも、読書をするときも、飲食も、生活のほとんどを店で過ごしている。テレビがないだけで、あとは水道でもなんでもある。俺とヒナはテレビを見るタイプではなかったので、不自由はしていない。ただ寝るときだけは、自分たちの部屋に戻るようにしていた。


 基本的には玄関としての機能を保持しているので、裸足で歩くことはない。たまにとはいえ、店に来てくれる人はいるのだ。そんな人に不衛生なところは見せたくはなかった。


 店に来てくれる人というのは、母さんの知り合いだけだ。この街で出会った人たちで、母さんを普通の人だと思っている。関係としてはそこまでの人たち。だけど、母さんの大切な知り合いであることに変わりない。


「いい朝だな、朝霞」


 店と家の境界線となっている暖簾をくぐると、そこには腕を組んでいる鳴がいた。なに食わぬ顔で、席に着いている。常名ちゃんの一件があって以来、この家、正確にはこの家の庭に住んでいた。


「おはよう。ここにいるくらいなら、リビングの方へ来ればいいじゃないか。一人でそんなところにいても仕方ないだろ」


「そっちへ行ったとしても、することがないしな。どこにいても変わりはない。ならば、ここであの子が来るのを待っていた方がいい」


「今日も来ると思うか?」


 常名ちゃんの一件で変わったのは、鳴の住処だけではなかった。常名ちゃんは俺を「朝霞お兄ちゃん」と呼ぶようになり、毎日のようにここへ来るようになった。小学校は夏休みに入る少し前から午前授業や短縮授業ばかりで、それでいて小学生なのですることもない。学校の友達と遊ぶという選択肢が常名ちゃんにはないようで、本当に毎日ここへ来るのだ。つい先日にいたっては、夕飯まで食べていったこともある。


 別に嫌悪しているわけではない。ただ、買い物に小学生二人(内一人はそう見えるだけ)を連れている高校生――しかも、片方は街でも有名な赤い子、もう片方は見覚えのない子なのだから、変な噂が立っても不思議ではない。むしろ目に見えると言ってもいい。


「来るだろうな。夏休みとかいうやつなんだろ? たしか、あれの家で宿題をやっていたのを見たことがある」


「そっか。そういえば、小学生は宿題がたくさんあるんだったな」


 俺はキッチンへ、ヒナは鳴の向かいの席に座った。いつだったか、小谷さんが座っていた席である。


 鳴が住み始めた当初は、ヒナと鳴が別々の、しかも離れた席に座るものだから、配膳をする俺としては迷惑なものだった。とはいえ、鳴はなにかを食べるわけではなく、なにかを飲むだけである。その辺りは、ヒナとは違うみたいだった。


「トーストとコーヒーでいいよな?」


「私はいつも通り」


「ヒナは牛乳がいい!」


「了解」


 朝食を用意しながら、考える。


 もし、家族というものがあったのなら、こんな感じだったのだろうか。こんな風に会話をしていたのだろうか。今となっては手に入らない日常があったのだろうか。


 それにしても、不思議な家になってしまったものである。母さんがいた頃は人二人、アヤカシ一体だった。この間までは人一人、アヤカシ一体。そして今は人一人、アヤカシ二体となってしまった。


 これはもう人の家と言えないような気がした。人よりもアヤカシの方が、数が多い。人の家にアヤカシが住んでいるというより、アヤカシの住む家に人が住んでいるようである。


 なにがどうしてこうなってしまったのか。


 どこで変わってしまったのか。


 トレーに全員分の食事を乗せ、テーブルに運ぶ。もちろん、このアヤカシたちが手伝うことはないし、期待もしていない。そこにいるだけで、そこにあるだけなのだ。


 それぞれに割り振り、俺はヒナの横に座る。


「いっただきまーす!」


 ヒナが元気よく食事の挨拶をした。昼寝のときと、食事のときだけはやけに元気である。他のことには面倒そうな顔をしているというのに、わかりやすい奴である。


 俺にとっては、わかりやすいからこそ、ヒナのことがわかりにくくなっていた。このすべてが演技である可能性だってある。そう振る舞っているだけで、そう見せつけているだけで、その本心は誰にもわからない。


 静かにしている鳴の方が断然わかりやすい。心のままに行動していることが、手に取るようにわかる。それが鳴のよさである。嘘偽りのない言動、行動。それが徹底されている。


 俺の視線にヒナが気付く。


「そんなに見ても、このジャムはヒナのだからあげないよ。このパンもね」


「いらねえよ。そんなジャムが山盛りになったパンなんか」


 俺はティッシュを取り、ヒナの口の周りに付いたジャムを拭きとった。鼻の頭にも付いていたので、それも拭きとる。ヒナが「まだ食べてる途中だよっ」と不機嫌そうな顔を見せたが、そのジャムの付着量は微笑ましい量を超えていたため、無視した。


 精神年齢が日々下がっているような気がする。


 というか、無防備になったのか。


 人の生活に慣れてきたという可能性もある。


「本当にそいつはアヤカシなのか?」


 鳴が訊いた。


 ヒナがそれに答える。


「なに? なにか文句あるの? いつでも相手になるよ」


「あいにくだが、私は喧嘩するタイプのアヤカシではない。腕っ節などに自信がないことに自信があるほどだ。だから遠慮させてもらう」


「だったら口出さないでくれる? ここではヒナの方が先輩――というか、アヤカシとしてもヒナの方が先輩だからね」


「なんだ? 先輩と呼べばいいのか? いくらでも呼んでやるぞ、クソガキ先輩」


「ガキって言ったな! ヒナの方が先輩だって言ってるのに!」


 このやり取りも幾度となく繰り返されてしまって、慣れてしまった。鳴が煽って、ヒナが声を上げる。


 やはり精神年齢が下がっているのだろうか? 以前までのヒナが見せる態度ではない。もっと冷静というか、冷めた性格をしていたような気がする。

環境が変わったせいなのか?


 新たなアヤカシがこの家にいるせいで、ヒナが自分を保てなくなっているとは考えられないだろうか。しかし、ヒナは普通のアヤカシは違う。アヤカシとしての格が違う。些細な環境の変化で、ここまで変わるとは思えない。


 考えていても仕方がない。ヒナのことはヒナにしかわからないのだから、俺がいくら考えても答えが出るはずがない。あとで訊いてみよう。もちろん、鳴がいないところで。


 喧騒の中、俺は自分の分のトーストを食べ終える。そしてコーヒーを飲みながら、今日の予定について考える。


 鳴が言うには、今日も常名ちゃんがここへ来るらしい。宿題をしに来るのか、それともただ遊びに来るのかは不明である。昼から来るのか、それとも午前中から来るのかも不明。不明なことばかりだが、別に困ることはない。常名ちゃんの相手は、俺だけではなくヒナだっているのだから、なにかあればヒナに常名ちゃんのことを任せよう。


 とにかく、俺としてもやり終えないといけないことがある。掃除、洗濯はもちろんのこと、夏休みの課題をやらなければならない。小学生ほどでないにしろ、それなりの量がある。勉学だけであることは、唯一の救いだろう。絵日記みたいな宿題があった場合、なにを書けばいいのか見当がつかない。自由工作もまた同様である。


 いまだに、絵日記と一言日記の存在意義がわからない。


 単に俺が嫌っているだけというのもある。


「さてと」


 空いた皿とカップをトレーに乗せていく。案の定、俺のだけだった。


 キッチンへ運び、人まず置いておく。どうせ、あとで残った分も片付けるのだから、まとめてやった方がいい。


 家の方に戻り、洗濯を始め、掃除を済ませる。この二つを終わらせるのは、そう時間はかからない。なにせ毎日やっていることだ。特別なことがない限りは、難なく終えることができる。


 洗濯機が仕事を終えるまでは、時間が余るため、適当にテレビでも見始める。どの番組も特に面白そうではない。そもそも面白い番組に出会ったことがなかった。


 洗濯ものは、店とは反対側にある庭に干す。これもすぐに終わった。


 自室に戻り、宿題でもやろうかと思ったが、まずは店の方に行くことにした。そろそろ喧嘩のようなものが終わり、そして朝食も終わっているとありがたかった。


 行ってみると、喧嘩のようなものも朝食も終わっていた。鳴は静かに窓を通して外の様子を眺めている。常名ちゃんの来訪を待っているのだろうけれど、まだ八時半ほどのため、来るとしてももう少し日が昇ってからだろう。だからと言って、俺が口出すことではない。鳴は、鳴のやりたいことをやればいいのだ。


 ヒナは、キッチンの流しで歯を磨いていた。洗面所に行けと思ったが、その移動が面倒だったのだろう。その気持ちはわからないでもない。なにせ、俺もこっちに歯ブラシを置いていた。ときどきだが、ここでヒナと並んで歯を磨くこともあった。


 最近は小学校高学年程度の大きさを気にいっているらしく、成長させることも衰退させることもしていない。気まぐれで姿を変えていたときよりはマシである。見るたびに変わっていた、なんてこともあった。慣れとは恐ろしいもので、今は姿を変えられても、冗談を言ったりすることができるようになった。きっとそれと同じように、今の状況にも慣れてしまうのだろう。人と生きるのではなく、アヤカシと生きることに――。


 ときどき、自分が本当に人なのかを疑うことがある。人から拒絶され、アヤカシに受け入れられている俺が、果たして本当に人であるのかを。


 しかし受け入れてくれるアヤカシはほんの少しだ。だから俺はアヤカシでもないのだ。どちらでもない。どちらにも属さない。


 だけど、やはり人なのだ。なによりも本質を見抜くアヤカシに人扱いされているのだから、それは揺るがないだろう。


 どちらかと言えば、人。


 人から外される、人。


 人の器を持ち、中をアヤカシで満たしている、人。


 俺はいつから人ではなかったのだろう。いつからアヤカシを――見ることが叶わない存在を見ることができたのだろうか。生まれたころからすでに見えていた? だとすると、俺にとって人もアヤカシも変わらない存在だ。言い方を変えれば、人もアヤカシもどちらも同じように見え、どちらも異なっているように見える。人だと思えばそれはアヤカシで、アヤカシだと思えばそれは人で……。


 なにより俺にとって他の人と違う点はそこだ。俺の力は隠そうと思って隠せるものではないのだ。見えるモノを見えないようにすることはできない。小谷さんはできた。俺はできない。そこが小谷さんとの絶対的な、一生縮まることを知らない、むしろ年月を重ねるごとに広がっていく差だ。


 とはいえ、小谷さんのこの未来さきのことは予測することができない。いろんな出会いがあり、いろんな発見があるだろう。そのたびに変わっていくもの、変わらないもの、感じるものがあるはずなのだ。それがきっかけで力が大きくなってしまうこともあるはずなのだ。


 まあ、小谷さんがそれを望めば、その現実から目を背けなければだが。


 ヒナの横で俺も歯を磨き、それを終えたあとに食器を洗った。もちろん、食器を洗う前に流しを軽く掃除している。こっちで歯を磨くときのデメリットといえば、これくらいだろう。


 布巾で濡れた食器たちを拭いているとき、鳴が言った。


「おい、客だぞ」


 鳴が「客」と呼ぶのは、俺、ヒナ、常名ちゃん以外のモノを呼ぶときだ。なにより常名ちゃんが来たときは、もう少し声が嬉しそうである。……おそらくだが。


 扉が開かれ、設置したばかりのベルが室内に軽快に鳴り響いた。ヒナは風鈴を付けようとしたが、それは無理というものだ。


「こんにちはー」


 そう挨拶して入ってきたのは、小谷さんだった。以前見たときより、髪が少し伸びている。


 その姿を見た、鳴が言う。


「朝霞の知り合いは女ばかりだな」


 それは俺に対する皮肉で、鳴自身、それが小谷さんに聞こえているとは思っていなかっただろう。

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