第15話

 常名ちゃんとヒナが来たのは、連絡をしてから数十分してからのことだった。ヒナと家で二人になっていたから、常名ちゃんのことが心配だったが、それは過ぎたことだったみたいだ。きちんと約束していた場所まで来てくれていた。


 赤いワンピースと水色のワンピースの二人。どちらも麦わら帽子を被っているせいか姉妹、それも心なしか双子に見えなくもなかった。


 常名ちゃんは少し緊張しているのか、表情が強張っているようだった。これから会うのは、お婆さんの声を真似ている主だ。しかしそれは真実を知っているからであって、常名ちゃんからすれば、お婆さんかもしれない相手なのだ。幽霊かもしれないと言っていた。たぶんそれは願望なのだろう。生きていなくても、本物のお婆さんであって欲しいという女の子の些細な願いなのだ。


 一方のヒナは不機嫌そうだ。どうでもいいことに付き合わされているためなのか、それとも常名ちゃんと家に残してしまったからなのか。その両方とも充分に可能性はあるし、そこにさらに他のことも加わるかもしれない。


 生きてきた月日を考えれば、ヒナの方が常名ちゃんよりも圧倒的に上なのだが、性格はヒナの方が子供っぽい。化けることで精神年齢もそれに合わせているのだろうか? 普段の振る舞いを見ればそれも考えられるが、素であの性格であると断言できそうだった。


 ヒナは俺の横を見て、


「ふーん。そういうこと」


 と誰に言うでもなく呟いた。


 アヤカシの正体がわかったからそう呟いたのではなく、推測していた答えと照らし合わせ、間違っていなかったことを確認したのだ。


「あの、朝霞さん。おばあちゃんの声を真似ていた人というのはどこですか?」


「俺が常名ちゃんに言わなくちゃいけないのは、まずそのことなんだ」


「それはそうだと思いますけど……」


 常名ちゃんは俺の言っていることがわかっていないのだろう。少し困惑した表情になっていた。


「今回の件――つまり常名ちゃんに電話したのは、人じゃないんだ」


「人じゃない? 幽霊ってことですか?」


「アヤカシって言うんだ。知っている人は」


 幽霊と妖怪などを総称してアヤカシだという考え、アヤカシは妖怪で、幽霊とは異なる存在だとする考えなどあるが、俺は前者を聞かされ続けているためそう言った。


 常名ちゃんは、質問を続ける。


「でも、朝霞さんは信じていないって言ってませんでしたか?」


「言った。俺はそういうアヤカシという存在を見ることができる。だから信じてない」


「言ってる意味が……」


「常名ちゃんは人の存在を信じる?」


「信じるもなにも、ここに……あっ」


 常名ちゃんは俺の言葉の意味に気付いた。


 俺にとってアヤカシと人は同じように目に映る。信じる、信じないというのは、自分で確かめることができないものに対して使う言葉だ。


 主観的要素の大きい言葉。


 幽霊を信じるかどうかを聞かれたときに、「信じる」「信じない」と言うのは幽霊が見えていない人だからだ。見えていれば、信じるまでもなく目に映し出すことができる。その質問に意味はなく、答えることが難しい。だから、その他大勢が答えるように「信じない」と言う人は少なくない。


 常名ちゃんが言ったように、


 信じるまでもなく、そこにいるからだ。


「じゃ、じゃあ、私に電話してきたのもアヤカシなんですか?」


「ああ。常名ちゃんの目にはなにも映らないだろうけれど、たしかにここに――俺の横にいるんだ」


 俺の横にあるのは、あの大きな木だ。太陽からの光を遮り、この庭に広い木陰をもたらしている名前のわからない木。俺もそうだし、常名ちゃんとヒナもその木陰の中にいる。俺たちを日差しから守ってくれている。


 そして、常名ちゃんの成長を見守ってきている。


 この家にいたお婆さんと同じように、この庭でそんな二人の姿を見続けていた。楽しく話している姿、厳しく躾けられている姿、泣いてしまっている姿……。時間が流れていく中で、様々な姿を見てきただろう。


 だからこそ、情が湧いてしまった。


「この木がそうなんですか?」


 常名ちゃんは木に近づき、その幹に触れた。自分の背よりも数十倍は高い木を見上げ、その目には映らないものを探している。


 見えてさえいれば、傍にいることに気付けるのだが、それは叶わぬことで、どんなに努力しようと報われないことだ。立ち入ることのできない、踏み入れることのできない領域。


 鳴は静かにそんな彼女のことを見ていた。


「あの娘は、よく泣いていたよ。あれに叱られるということはなかったが、あれを喜ばせるためにあれこれして、走り回って、怪我をして泣いていた」


 鳴は、決して二人の名前を呼ばなかった。お婆さんのことは「あれ」、常名ちゃんのことは「孫娘」か「娘」のどちらかであった。彼女のお婆さんのことはわからないが、常名ちゃんの名前を知らないということはないはずだ。俺が何度か口にしているのもそうだし、彼女のお婆さんが名前を呼んだことを一度は聞いていると思われる。


 それでも頑なに名前を呼ぼうとしないのは、線引きをしているのかもしれない。


 人とアヤカシ。


 同じ世界に住みながら、相容れぬ関係。


 あるいはもっと簡単な理由で、感情でそうしているのかもしれない。


「あれはそんな孫娘を見て、笑っていたよ。優しい顔だった」


 たったそれだけのことを聞いただけで、常名ちゃんがこの家でどんな日常を送っていたのかも、鳴がどんな目でその様子を見ていたのかも、明白だった。


 長い年月を生きるアヤカシにとって、人の一生など些細なものでしかない。些細だからこそ憶えていようとは思わない。だが、鳴は憶えていた。その目に焼き付いた光景を思い出すことができていた。


「あの娘が帰ると、いつもあれは寂しそうな顔をした。人が孤独を嫌うものだということは知っていたが、あれはそういうことではなかった。自分の死期を悟っていたのだろう。命の火が消えていくことがわかっていた」


 寂しそうな顔は、常名ちゃんのことを思っていたからだろう。自分の死期を、終わりを教えることだって躊躇う。それを伝えれば、自分の孫がどんなに悲しむかわかっていたから。


「誰もいない庭に向けて話しかけていたよ。誰かのおかげでアヤカシという無駄な知識を持っていたからな。孫娘のことを見守っていて欲しいと何度も頼まれた」


「それで、電話をしていたのか」


 常名ちゃんに気付かれないように、呟くように話しかけた。


「人のことはわからないが、あの娘があれの声を聞けば喜ぶだろうと思ってのことだ」


「両親に言うなって告げたのはどうしてだ?」


「大事になるからに決まっているからだろう。アヤカシの存在が認知されていないことくらい知っている」


「アヤカシなのに、人を思うのか」


「私たちにだって変わり者くらいいるさ。あそこの赤いのもそうなんじゃないか?」


「……まあ」


 アヤカシの中のアヤカシ。


 変わり者の中の変わり者。


 それがヒナ。


 人の目からも、アヤカシの目からも異質に映ってしまう。


 常名ちゃんが心配そうにこっちを見た。本当にそこにアヤカシがいるのか、鳴がいるのか不安になったのだろう。


 俺は無言で頷き、大丈夫だということを示した。


 常名ちゃんは頷き、再び見上げる。


「アヤカシさん。いつも電話ありがとう。おばあちゃんの声を聞けて嬉しかったです。ずっと聞けたらいいと思います。ずっと話せたら嬉しいです」


 だけど、と常名ちゃんは言う。


「それじゃあダメなんです。いつまでもおばあちゃんを頼ってばかりじゃダメなんです。声を聞いちゃうと会いたくなっちゃうから。おばあちゃんにも、あなたにも」


 その声は震えていて、いろんな感情が入り混じっているのだろう。普段の一線引いた丁寧な口調が崩れている。


「わたしは大丈夫だから……、寂しさになんかに負けないから」


「あんなことを言いに来たのか、あの娘は」


 鳴は常名ちゃんを見ながらそう言った。


「あれくらいなら電話で充分なはずだ。わざわざここまで来なくても」


「元気な姿を見せに来たんだろ。ああ言ってるし」


「本当に人ってやつが、なにを考えるのかわからんな」


「その割には嬉しそうだな」


「ふん。どうだかな」


 鳴のしたことは、常名ちゃんを導かず、停滞させただけだ。常名ちゃんのお婆さんの頼みごとを聞き入れ、それを達成しようとした。


 鳴は考えたのだろう。どうすればいいのか、なにをすればその頼みを達成できるのかを考え、そして声を真似た。アヤカシである鳴が、常名ちゃんに会わずに済む一番の方法だからだ。


 話ができれば、常名ちゃんも悲しまないだろうと。


 常名ちゃんのお婆さんといつまでもいたいという気持ち、お婆さんの常名ちゃんを見守っていたいという気持ちを叶えられるはずだった。


 そしてそれは途中までは叶えられていた。


 常名ちゃんが、近衛家を尋ねるまでは。


 お婆さんもわかっていたのだと思う。見えざるモノに頼んだことは、常名ちゃんに夢を見させてしまうことだと、言い方を変えれば、幻覚を見せてしまうことだと気付いていた。いつまでもお婆さんが傍にいるのだという非現実的な現象が起きる可能性があることを見越していた。


 だからこそ、近衛の名前を常名ちゃんに教えたのだ。


 常名ちゃんが幻想から脱却し、現実を受け入れると決心をしたときに、その手伝いを任せられるのが、母さんしかいなかった。その過保護な教育に利用されたともとれるが、そうではなく、自分の愛する孫を任せられるに値する友人だったのだと思う。


 そこまでの間柄だったこと思うと、お婆さんに会ってみたかった。


 母さんとどんな話をして、どんな経緯で出会ったのか、いろんな話を聞きたかった。


「結局、あれの思い通りになったということか」


「そうだな。まあでも、悪い気はしないだろ? 人の成長を目の当たりにできたんだからな」


「ふん、そういうことにしてやる」


「素直じゃないな」


 鳴と話していて、常名ちゃんがなにを話していたのかをまったく聞いていなかった。


 常名ちゃんはお世辞にも明るいとはいない雰囲気を纏いながら、近づいてきた。言いたいことは全部言ってしまったのだろう。


 本当に強い子だ。


 俺なんかとは違う。


 現実を受け入れようとしなかった俺とは――。


「もういいのか?」


「うん……。もう、いい」


「……大丈夫か?」


「だい、じょうぶ……」


「今のことだけじゃないぞ? これからも」


 その小さな体が小刻みに震えていた。麦わら帽子もそうだが、顔を俯けていてさらにその表情は見えない。だけど、きっと堪えているのだ。お婆さんの言い付けを守ろうとしている。


 常名ちゃんは、俺の服の裾を掴んでいた。しっかりと、力強く握っている。


 俺はヒナを手でこちらに来るように誘った。ヒナはそれに応じるように、ゆっくりと近づいた。


「今日も空が青いな」


 俺は空を仰いで言った。夏らしい空だと思った。


「そうだね」


 ヒナも同じだった。それは麦わら帽子が下に落ちないように手で支えるのが見えたから、確認することができた。


「あの日も、こんな空だったな」


 鳴もまた空を仰ぐ。この家に長いこといたため、知っているだろうとは思ったが、それは見事に的中したようだ。


 その日、常名ちゃんは誰に見られることなく、悲しみの涙を流した。


 もしくは、決別の涙を。

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