第10話
「うへー、暑かったよー」
電池の入った買い物袋を持ったまま、客席に座り込んだ小谷さん。髪が汗で少し濡れているようだった。
「すいません。俺も本当に行くとは思ってなかったので、目を離していました」
ヒナの冗談にまさか従うとは思わずに、俺はキッチンに入って行った。しかし小谷さんは「わかった」と言って灼熱地獄に飛び込んで行ったのだ。扉の開閉の音でそれに気付き、驚いてしまった。その拍子に食器を落とさなくて本当によかったと思う。
小谷さんが戻ってきたのはそれから十五分ほど経ってからだ。この家の近くに電池の売っているような店はないため、どこかに走って行ってきたのだろう。
この人はきっといい人なんだな、と素直に思った。
しかしそれはわかっていたことだった。
昨日の深夜のことだ。小谷さんはアヤカシに追われ、この家に逃げ込んできた。そのときの様子を今でもはっきりと憶えている。得体の知れない《なにか》に追われ、心が恐怖で蝕まれているのがよくわかった。
小谷さんは『コックリさん』という降霊術を学校の友人と行い、成功してしまった。本来なら成功するはずのない降霊術が見事に成功し、小谷さんたちは『コックリさん』を呼び出してしまったのだ。
そのことに小谷さんたちが気付いたのは『コックリさん』の最後に行う――『コックリさん』の帰還を願うときのことだ。小谷さんたちの願いを、頼みを『コックリさん』は拒絶したのだ。
小谷さんは友人たちが恐怖に負けそうになってしまったのを見て、ある一つの決心をする。それは『コックリさん』を行うときに守らなければならない規則を破ることだった。
そうすれば標的が自分だけになる。そう思ってのことだった。
思惑通り、小谷さんは《なにか》に追われることになる。
そして、この家に辿り着いた――《なにか》とともに。
俺とヒナは小谷さんから話を聞き、助けることにした。ヒナは小谷さんが行った『コックリさん』について解説をし、今回の『コックリさん』の正体は善孤という心優しい狐のアヤカシであることを説明した。
善孤は仲間想いのアヤカシであり、『コックリさん』で帰還を拒絶したのは、契約者である小谷さんがそう願っていたからである。
小谷さんは少し特殊な人だった。普通の人よりも少しだけアヤカシとの波長が合っていることもそうだが、《見ない》ということに長けていた。
現実から目を背けること、現実を見ないこと。
極めつけは、現実にあるモノを視界から消すことができる。
そこにあるはずのモノを認識しないことができる人だった。
それゆえに、いつもそばにいた善孤を認識せず、悩みの種であった進路という現実から目を背けた。善孤はその現実から逃避の願いを叶えるために、帰還を拒んだのだ。その特殊な空間にいれば、進路に向き合うことがなくなる。そんな小谷さんの小さな願いを自らの命を削ってまで叶えようとした。
最終的には、小谷さんが善孤との和解――というよりは契約を切ると言ったほうが正しいのだが、ここは和解でいいのだろう。小谷さんが現実から目を背けずに立ち向かうと決心したことを感じ取った善孤は消えていった。
ここまでが小谷さんが知っている話。
ここからは俺とヒナしか知らない話だ。小谷さんには話す気はないし、話したところでどうにもならない。小谷さんの問題は解決しているのだから。
小谷さんの前で、俺は小谷さんを助けたいとヒナに言ったが、本当はそうではない。俺が助けたかったのは善孤のほうである。
善孤は小谷さんのために力を使い過ぎて衰弱していた。そんな状態でアヤカシから見ても力の強い俺と、アヤカシの中でも圧倒的に力の強いヒナがいるこの家に入ってこようとしたのだ。
その行為はほとんど自殺に近い。衰弱した体で茨の道を歩くよりも、酷なことだったはずだ。
そのままにしておけば、善孤の小谷さんを助けようとする想いが無駄に散ることになる。その命とともに儚く消えていってしまう。
それが耐えられなかった。
俺にとってはアヤカシも人も変わらない存在だ。この眼でその姿を見ることができ、この耳でその声を聞くことができる。この手で触れることだってできるのだ。
人の身勝手な行動でアヤカシが命を落とす必要はない。その逆もそうだ。
『コックリさん』については誰が見ても人が悪い。面白半分で手を出していいわけがないのだ。小谷さんもそのことはわかってくれていた。
このことが一つ。
そしてもう一つが、善孤が死んでしまったことだ。
小谷さんは仲間のところに帰ったと思っているが、そんなことはできない。善孤には帰る力も残っていなかったのだから。
小谷さんの話では、子猫程度の大きさしかなかったそうだ。それは力の消費を表していた。学校の扉を吹き飛ばすことができるほどの善孤が、子猫程度の大きさであるはずがないのだ。
小谷さんを追いかけているときも力を使ったのだろう。誰かの助けを求めた小谷さんの願いを律儀に叶えてしまった結果だったのだ。
それがなければこの家に入ってきても消滅することもなかっただろう。俺とヒナの前でもその存在を保てていたはずなのだ。
しかしそれすらできないほど力を失ってしまった。
それでも善孤は小谷さんを想った。
そんな善孤を俺は助けたかったのだが、善孤の力はすでに尽きていて存在を保っているのもやっとだった。小谷さんが善孤と和解しているとき、俺もヒナも善孤の力を感じることはできなかったのだ。
そして善孤は――消滅した。小谷さんとの別れを済ませたことは、善孤も喜ばしいことだろう。そういうアヤカシなのだ、善孤は。
「どうしたの?」
俺が小谷さんの顔をずっと見ていたせいか、小谷さんは恥ずかしそうだった。
これは俺が悪い。
「いえ、えっと……何か飲みますか? 一応ですけどそこにメニュー表があります」
テーブルの上に台を使って立てかけてあるラミネート加工が解かされたメニュー表を指差した。メニュー表といっても、そこに書かれているもので俺が出せるものなど多寡が知れている。
小谷さんはメニュー表を手に取り、まじまじと見つめた。
「……そういえば、この家の庭って結構広いよね。昨日初めて来たときは暗くて気付かなかったけど、門からそこの扉までの距離が少しあるなんて驚いたよ」
「これでも少し縮まったほうなんですよ」
「そうなの? それも驚きだなー」
小谷さんはメニュー表をテーブルの上に置いた。そして足と腕を伸ばし、体の筋肉をほぐしていた。
「わたしの家って一軒家じゃなくて、マンションなんだぁ。だから庭とか憧れてるんだよね。しかもここって見た目が洋館って感じじゃない。わたしそういうの好きなんだ」
「そうなんですか。俺はマンションとか住んでみたいと思いますけど」
とは言ったものの、この家から離れる気は毛頭ない。俺の帰る場所はここで、住める場所もここしかないのだ。ほとんど地縛霊みたいなものだ。
地に縛られ、動けないでいる。
あるいは囚われているのかもしれない。
「小谷さんの家はここから近いんですか? 学校のほうからは距離があると言っていたような気もしますけど」
「どうだろ? うちからここまでと、学校までの距離は同じくらいかなぁ。学校からここまでだと割と距離あるかなってくらいにしか思ってないよ」
「ところで小谷ちゃんはなにしに来たの?」
ふとエアコンの前で両手を羽のように広げ涼んでいるヒナが言った。エアコンが起動してからはずっとあのままの体勢で一歩も動いていない。体に悪そうだと思ったが、アヤカシにそういう気遣いはいらないような気がしたために、なにも言わずに放っておいた。
たぶん、扇風機の前で声を出すくらいの感覚なんだと思う。
やったことはないけれど。
「なにか理由がないとここに来ちゃいけないの?」
「うーん、なんていうか、また厄介事を持ってきたのかと思って。厄介事って言うのも嫌だし、またというのもおかしな話だけどね」
「なにもないと思うけど……。昨日のはあれで解決したんだから……そうだ! 今日の私のことについて話すよ」
「今日の話?」
「後日談ってやつかな」
「後日談って、まさかコックリさんに参加した三人の話をするのかな?」
「よくわかったね。ひなちゃんって頭良いね。……というか、見た目はロリッ子だけど、実際は何歳なの?」
「年齢なんて概念はアヤカシにはないよ。いや、ないわけじゃないけど、なんていうか、どう説明したらいいかわからないよ。まあ、でも見た目通りの年齢だと思ってよ。人なんて見た目第一でしょ? 実年齢よりも容姿のほうを重視するのが人だって、ヒナは思ってるから」
「ふうん? じゃあ今は十一、二歳くらいなんだ……ってあれ? 昨日はもう少し小さくなかった?」
「それも年齢と同じだよ。ん、これはちょっと違うかな。まあ変幻自在に姿を変えられるんだと思ってよ」
「へえ、アヤカシって凄いんだね。なんでもできちゃうんだ」
ヒナは一向に小谷さんのことを見ようとはしない。背を向けたまま小谷さんと会話を続けている姿は、少し不思議な感じがした。年齢の概念がなく、容姿でそれを判断するのなら小谷さんが言った通りヒナの年齢は小学校高学年であり、小谷さんよりも年下ということになる。おそらくだが、見た目で判断しろとは言ったものの、それは自分のほうが上だということを含んでいるのだろう。そう釘を刺したのかもしれないが、小谷さんには通じていないみたいだ。
ヒナはエアコンに顔を向けながら言った。
「アヤカシが凄いんじゃないよ。人があまりにも劣っているだけ」
そう言われてようやく小谷さんはその顔に変化を示した。ヒナの態度が気に入らなかったのか、それとも言葉に怒りを感じたのか、はたまた思い当たる節があったのか。そのすべてだとしてもおかしくはない。
しかし小谷さんは意外に表情を隠せるタイプの人みたいだ。今はもういつも通りの顔になって――。
「……ねえ、朝霞くん。ひなちゃんはいつもあんな感じなの?」
いなかった。
俺にそう訊ねた小谷さんの顔はあきらかに怒っているようだ。いや、どうだろう? 怒っていないのかもしれない。ただ気に入らないだけということもある。
「まあ、割といつもあんな感じですよ。ただ今は昼ごはんを食べていないので、少し気が立っているのかも」
「そうなんだ……」
「どうかしたんですか?」
「もしかしたら、ひなちゃんは人が嫌いなんじゃないかなって思ってね。だけど、そうすると、朝霞くんといるのも不思議に感じるじゃない?」
どう答えるのか困った俺は、「不思議ですね」と当たり障りのない、けれど疑問を解決しない答えを返した。
ヒナの気持ちを知らないわけではない。
どう思ってここにいるのかも。
どんな犠牲を払ってここにいるのかも。
しかしそれは小谷さんには関係のないことで、俺が勝手に言葉にしていいものでもない。いや、そうじゃない。アヤカシの気持ちなんて理解できないとハッキリ言ってしまえばいいのかもしれない。ヒナがどう思っても、どんな犠牲を払ったとしても、それでここに縛られようとしている気持ちなんて、たとえ相手が人であったところで、到底俺には理解することができない。
俺がここに縛られているように、ヒナがここに縛られようとする理由なんて――。
考えたくもない。
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