第9話
「おかえり、朝霞」
「ただいま……ってお前誰だ?」
「ヒナだよ!」
「ヒナ? ああそうか、成長したのか」
学校に行っていた数時間の間に、ここ最近は幼い女の子の姿だった奴が、小学校高学年程度まで成長していたら誰だって驚くだろう。
「うん。たまにはね」
「そんなに気軽にできることだったのか」
「うんにゃ、できない」
「どっちだよ」
目の前にいるヒナは、誰が見てもどこから見てもただの髪の赤い女の子なのだが、それは外見だけの話で、中身は全くの別モノだ。中身というよりは正体といったほうがいいかもしれない。
アヤカシ――人に見えざるモノ。
彼らは人には見えないが、同じこの世界に住んでいるモノだ。どこにでもいて、どこにもいないのが、普通である。見ようと思って見えるモノたちではない。
どんなに見ようと修業を積んだところで、それにはなんの意味はない。見るためには先天的な《なにか》か、あるいはアヤカシのほうが歩み寄ってくるしかない。
そして俺にはその《なにか》がある。
ヒナが言うには、それは魂の波長らしい。波長が合うためにアヤカシを見ることができ、アヤカシもそれを感じ取れる――とか。そんな説明をヒナから受けたことがあったが、理解することはできなかった。
「アヤカシのことが人に理解できるわけがないし、逆に人のことがアヤカシに理解できるわけじゃないからね」
仕方ないよ、とヒナは笑って言っていた。
「ふわぁー」
そんなことを思い返しているとヒナが大きなあくびをした。綺麗に並び生えている白い小さな歯が見えた。
「どうしたんだ? 寝不足か?」
ヒナが寝不足であるのは珍しい。人間でもしない早寝早起きをする健康優良児なのだから、そういったことは本当に少ない。それに加えて昼寝もしているのだから、どちらかといえば寝過ぎだ。
「寝不足だよ。もしかして朝霞眠くないの? 昨日徹夜だったのに」
「いや俺は眠いよ。学校にも行ってきたし。でもお前は家にいたんだから、当然寝たんだろ?」
今朝までのこともあって、学校を休もうと思ったけれど、午前のみの授業であることを思い出して、重いまぶたと戦いながらも登校した。
しかしやっぱり夏の朝の日差しは容赦がない。照りつけるその光を妨げる手段もなく、登校中に何回か倒れそうになった。日陰を極力通るようにしたが、日陰のみを歩いて行けるわけもない。それにそんなことができるのは小学生までだ。塀に 沿って歩くことや、日向は飛び越えたりなんてことは高校生のやることではない。
ここで雲の一つや二つあればよかったのだけれど、雲は少し早い夏休みのようだった。太陽はまるでどこかのロックスターのように輝いていた。
というよりはぎらついていた。
もう夏なのかと感心している自分と、もう夏なのかと脱力した自分の両方が、喧嘩をせずに俺の中にいた。
しかし……、学校にいたときも思ったけれど、屋内にいても屋外にいても暑いのには変わらない。通気をよくしたとしても、外から入ってくるのは涼しい風ではなく、生暖かい風だ。
そこで俺は一つ提案をすることにした。提案だが、決定事項である。
「よし! クーラー点けようぜ」
「ホントに!? いつもはお金がかかるからダメだって言ってるのに」
「ヒナは外に出てないからわからないだろうけど、かなり暑いぞ。今の俺たちにその暑さは酷過ぎる。よってクーラーをつけて昼飯を食べて、涼しい部屋で寝よう」
「ナイスアイディアだね! そうとなれば早くクーラーのリモコン探さなくちゃ」
「あ」
そこでようやく思い出した。
どうしてヒナにクーラーを点けることを禁止にしていたのかを。
そういえばエアコンは壊れているんだった。もちろん、この家にある三台すべてが壊れているわけではない。そうであったのなら、多少出費があったとしても修理を業者に頼んでいる。壊れているのは二台だ。どちらもかなり古い型のエアコンで、点ければ電気代が冗談じゃないほど高くなる。この家自体がかなり古いので、それは仕方のないことだ。電気製品にはとことん疎いのだ。買いに行くなんてこと恐ろしくてできない。
そして残りの一台は、最近出たばかり――というわけでもないが、他の二台よりは圧倒的に新しいものだ。しかし電気代がかかる。
その理由の一つとして、大きさがある。この家の一部は喫茶店のような作りになっている。そのため客席やキッチンなどがあり、割と広いスペースがあるのだ。喫茶店としては狭いかもしれないが、家の一部屋と考えるなら広い。だからエアコンも大きめのものが設置されているのだ。
たった二人のために稼働させるには、少し抵抗がある。
しかし背に腹は替えられない。
「まあ、いいか」
「朝霞、朝霞。リモコンどこ? 見つからないよ」
ヒナが食器棚の中を漁っているが、その中にあるとは思えない。背伸びをしているせいかふらついていて、少し危なっかしい。
「そんなところにはないだろ。たぶん、リビングの棚のほうじゃないか?」
「わかった!」
ぱたぱたとリビングの方へ向かったヒナの背を見送りつつ、はたしてリビングの棚にリモコンが入っていたかを考えてみたが、思い出せなかった。
今、俺がいる場所は家の玄関なのだが、先ほども言った通り、見事に喫茶店のようになっている。母さんの昔からの夢で、数年前にようやく叶ったというわけだ。
店を出すのには資金と場所を必要とする。資金の方はあったらしいのだが、いい場所が見つからず、この際だからといって、家の玄関を増築した。古い家なので庭は広く、土地の方には不自由することはない。むしろ少しばかり家に着くのが早くなれたくらいだろう。
しかしそのせいもあってか、知る人ぞ知る隠れ喫茶店になってしまい、客の方はあまりきた例がない。母さんの友達が来るくらいだったが、それでもとても喜んでいた。
最後に来た客は誰だろう?
昨日は店の客としてきたわけじゃないから……。
「朝霞! あった! あったよ!」
ふと背後から声を掛けられて、振り向く。そこには笑顔でリモコンを持っているヒナの姿があった。その頬には汗が流れていた。
「へえ、本当にあったのか。言ってみるもんだ」
「ええ!? あると知ってたんじゃないの」
「まあいいじゃん。とりあえず点けよう。多少の風が入ってくるとはいえ、暑いんだ」
「そうだね。でもヒナにはわかんないからパス」
腕を大きく振りかぶってリモコンを投げられた。くるくると回転をしながら飛んでくるリモコンを両手で上手く受け止めた。
リモコンの小さな画面を見ると、暖房になっていたのでボタンを操作し冷房に切り替える。設定温度が二十八度と表示された。それで充分だとは思うが、こういうのは気分の問題だ。そう思い一度だけ設定温度を下げ、二十七度にした。あとは強風にして、エアコンを起動させるだけだった。
「朝霞―。まだー? 暑いよー」
「もう少しだから、我慢しろ」
リモコンをエアコンに向け起動ボタンを押す。
が、エアコンはうんともすんとも言わなかった。不思議に思った俺は、リモコンを二回ほど叩いて、もう一度ボタンを押した。しかしそれでもエアコンは沈黙をしたままだった。
「朝霞?」
心配をしているヒナをよそに、俺は原因を探った。電源のほうはきちんとコンセントが繋がっているので問題はない。リモコンはさっきまで操作できたことを考えると、やはり問題は本体そのものにあるようだ。
「ヒナ」
「なーに……」
「エアコン……壊れてるっぽい」
「んな!?」
ヒナはものすごい速さで俺に近づき、その手からリモコンを奪った。使い方を知らないのは本当らしくボタンを押そうとせずにブンブンと勢いよくリモコンを振っていた。俺がなにをしていたのかを見ていなかったのがよくわかった。腕が疲れたようで、次はボタンを無造作に押していた。設定がめちゃくちゃになっているに違いない。しかしそれでもエアコンはその口を開くことはなかった。
「点かないじゃん!」
「そう言っただろ」
「なんでー! エアコンが点かないとヒナ死んじゃうよー」
「アヤカシのくせにそう簡単に死ぬかよ」
「死ぬの! 今すぐエアコンが点かないと死ぬ! なんでこういうときは点かないの。たまにしか仕事しないんだから、今働かないでどうするの?」
何故か途中からエアコンに話しかけているヒナを横目で見つつ、その手に握られているリモコンを奪い返した。強く握って振っていたせいか汗が滲んでいた。リモコンをシャツの裾で拭いたあと、もう一度ボタンを押す。やはりなにも言わない。
エアコンをじっと見てみても、なにもわからない。エアコンの相手はヒナに任せて、俺はリモコンの電池が入っているかを確認した。しかしそれはさっき設定をいじったときに確認済みだった。
そういえば少し画面の文字が薄かったような……。
思い至ってすぐに画面を確認した。そこにはなにも映っていなく、電池切れを意味していた。
「原因がわかったぞ、ヒナ」
「本当に? なにがどうおかしかったの?」
「電池がなかったんだよ。ほら」
リモコンの画面をヒナに見せたが、ヒナは首を傾げた。
「電池はあるよ? だってヒナが確認したもん。この裏側の蓋を取るんだよね? たしかにあったよ」
今度は俺がヒナの言葉に首を傾げた。電池の入っている場所くらいは知っているだろう。たとえリモコンの使い方を知らなくても、それくらいは少し考えればわかりそうなことだから、ヒナの口からそんな言葉が出ても不思議だとは思わない。
だけど――電池がある?
確認した? どうやって。
そして俺は気付いた。
「あー、そうか。そういうことか」
「どういうこと?」
「俺が言ってることとヒナの言ってることは違うってこと」
「ん? 同じことじゃないの? それとも朝霞がおかしなこと言ってたとか」
「それはない。つまりな、俺が言ってる『電池がない』というのは電池切れのことなんだ。つまり、えっと……」
アヤカシにどうやってわかりやすく説明できるかを考える。言葉を選ばないといけない。それもアヤカシの常識にあるようなことで、だ。
「力がなくなったってことだ。昨日の善孤のように」
そう言われて、ヒナも気付いたようだ。
俺が言った『電池がない』というのは『電池の力がなくなった』ということで、ヒナが言ったのは電池の有無であることに。
ヒナは、電池はリモコンの中にあると言ったのだ。電池の中身ではなく、電池そのものの有無を確認した。
「じゃあ、電池を替えればいいってことだね」
「そういうこと。だけど問題が一つある」
「どんな?」
「電池がない。今度はヒナの言ったほうの意味だ」
この記憶に間違いはないだろう。先週あたりにテレビのリモコンの電池を取り換えた。そのときに最後の電池だな、と思った記憶がある。たぶんヒナがリモコン内の電池がある場所を知っていたのはこのときに見ていたのだ。
俺は溜息を吐いた。こんなことになるくらいなら先週気付いたときに買うべきだった。
「どうしたの? ないなら買いに行けばいいじゃん」
しかしヒナはその溜息の意味がわからなかったらしい。
「じゃあ、ヒナが行けよ……」
「お金ないよ」
「渡せば行くんだな?」
制服であるスラックスの尻ポケットから財布を取り出し、千円札を抜き出す。よく見てみればその千円札は一つ前の肖像画のものだった。
ヒナに渡すと、「行ってくるよー」と元気に走っていく。いつだったかにヒナにねだられ渋々買った帽子を被せようと思ったが、その必要はない。
きっと家から出ることができないのだから。
軽快に走っていたヒナが、扉を開けたときだった。外から流れ込む熱気がヒナを包み込んだ。その拍子に手から千円札がすり抜け、宙を舞ったが、奇跡的に俺の手元に舞い戻ってきた。
「……ヒナ、とりあえず扉を閉めろ」
ゆっくりと扉を閉め、ヒナはその場にへたり込んだ。
「外は……、外は地獄だよ……」
「知ってるよ。だからクーラーを点けようって話になったんじゃないか」
アヤカシが暑さに弱いというのは、驚くことではない。水辺のアヤカシは暑さに弱いモノが多いそうだ。たとえば、河童は頭の皿が渇くと死んでしまうという有名な話がある。それと同様に表皮が渇き過ぎると死んでしまうというアヤカシは多くいる。
と言っても、俺は会ったことがない。
その辺にいるのなら一度会ってみたいものだ。
まあだからといって、ヒナが水辺のアヤカシというわけではないのだけれど。
「さて、どうするか」
ヒナに言うのでもなく俺はなんとなく呟いた。ヒナには聞こえているだろうけれど、もう外に出たくないと言うに違いない。
だが、その予想を裏切るかのようにヒナは言う。
「た、大変だよ、朝霞! こんなときにこんなハプニングが重なるなんて、この家は、朝霞は何かに取り憑かれてるよ! 祓ってもらわなくちゃ!」
「そのなにかってのはお前じゃないのか?」
「せっかくクーラーの効いた涼しい部屋で過ごせると思ったヒナのこの期待に満ちた気持ちをどこに持っていけばいいの?」
「その辺に植えとけば、そのうち芽が出るんじゃないか?」
「あーもう! これも全部太陽のせいだ。ちょっと説教してくるよ!」
「頑張れ。期待はしてないけど」
しかしヒナがその場を動くことはなかった。言うだけどうにもならないが、とりあえずなにかを言いたい気分だったのだろう。やるせない気分だったのだ。
俺はこうしても仕方ないと思い、昼飯でも作ろうとキッチンへ向かった――そのときだった。ヒナが閉めた扉が勢いよく開いたのだ。もし扉が内側に開く仕様であれば、ヒナは吹き飛ばされていたに違いない。
そして扉を開けた張本人と熱気が家に上がり込んだ。
「朝霞くん。ひなちゃん。やっほー! また来ちゃった……ってあれ? ひなちゃんそんなところでなにしてるの?」
その顔は見覚えのあるものだった。出会ったのは昨晩、別れたのは今朝なのだから忘れるはずがなかった。服装も制服のままである。
まあ、学校があったのだから当たり前なのだが。
「六時間ぶりですね、小谷さん」
「うん、そうだね。六時間ぶりくらいだね」
小谷さんと軽く挨拶をしていると、ヒナが力なく動き出した。今朝よりも体が大きくなっているためか、小谷さんとの身長差は少し縮まっていた。
「小谷ちゃん」
「うん?」
「この家に入るためには電池が必要だよ。持ってるかな? 持ってないなら買ってきてね」
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