第2章 現実《げんじつ》を受け入れる

第8話

 そこは大きく広い、昔ながらの日本家屋だ。その場にいるモノなら外観を見ただけで、その歴史をひしひしとその身に感じることができるだろう。ただの家ではない、と誰もが同じ感想を持つ。しかしその反面、屋内には優しさと温もりがあった。木造であるためなのか、まるで森林の中にいるような心地よさがある。庭には池があり、気持ち良さそうに見事な鯉が泳いでいた。


 そんな誰もが牽制してしまいそうな家には二人の人間しかいない。その広さと大きさを見れば何十人と住めてしまいそうなのだが、やはりそこにはたった二人の人間しかいなかった。


「ねえ、おばあちゃん」


 二人のうちの一人である女の子が、小さな声で言った。


「おばあちゃんはわたしの前からいなくなっちゃうの?」


 女の子の祖母はそんなことないよ、と笑顔で言ったが、その声は今にでも消えてしまいそうなくらい不安定なものだった。彼女はまだ日が出ているというのに、布団に横になっていた。女の子はそのそばで小さく座っている。この大きく広い家のたった一室に二人、それも二人でも広すぎる上に、二人はあまりにも小さかった。


「お婆ちゃんはね、お前の前からいなくなったりしないよ。お婆ちゃんがいなくなったらお前は生きていけないだろう?」


「でも、でもでもでも」


 女の子は今にも泣きだしそうだった。


 一人になるのが怖いのだろう。


 独りになるのが――怖い。


 そんな女の子を見て、やはり女の子の祖母は笑顔を見せた。そしてその触れてしまえば簡単に折れてしまいそうな細い腕を力の限り伸ばし、女の子の頭を撫でた。柔らかそうな女の子の髪。女の子は撫でられたのが嬉しいのか、瞼に溜まっていた涙が零れてしまうほどの笑顔を見せた。


 とても幸せそうだった。


 もし、と女の子の祖母は女の子の頭を撫でながら言った。


「もしお婆ちゃんがいなくなったら、お婆ちゃんの友達のところへ行きなさい。少し変わっているけど、とてもいいところだから」


「そんなの嫌だよ! いなくなるなんて嫌だよ! ずっと……、ずっと私といてよ……。いい子にするから。いい子になるから……」


「お前はもういい子になっているよ」


 その声はとても優しい声だった。


「でも本当に困ったりしたときは、そこへ行くんだよ。近衛という家だ。憶えたかい?」


「憶えられないよ。憶えたらおばあちゃんどこかへ行っちゃうんでしょ。だったらいやだよ」


 女の子の顔に笑みはなかった。ただただ泣きじゃくるだけだ。それが女の子にできる唯一のことだから、それ以外にどうすればいいのか女の子にはまだわからなかった。


「今は泣いてもいい。だけど、家族以外の前では泣いてはいけないよ」


 女の子の祖母はすっと女の子の頭を撫でるのを止め、彼女の頬に触れた。その手はしわくちゃで、温もりなど感じられそうにないくらい肉が付いていなかった。

けれど女の子にはその手が輝いているように見えた。


 撫でられれば幸せを感じられ、触れられれば温もりを感じることができるその手は女の子にとっては魔法の手だった。


 庭に生えている木々に留まった鳥や蝉が鳴いている。


 池で気持ち良さそうに泳いでいる鯉が跳ねる。


 軒先に吊るされた風鈴が風に揺られ冷たい音を鳴らす。


 女の子は頬に手が当てられている間、まるで違う世界いるような気分になった。ここには自分と祖母しかしない。他の誰にも邪魔されることなく暮らしていける。


 目を瞑り、その温もりと幸せを感じとる。不安も不幸も打ち消してしまうその手が心地よかった。


 いつまでもその手で触れていて欲しかった。



 その四日後、女の子の祖母は、女の子の前からいなくなった。

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