第10話
詩織の自宅は豪邸だった。あっけからんと指紋認証システムがある門を操作して庭を通る詩織を見て太郎は唖然としていた。以前の彼女もお嬢様であったけれども、ここまで住む世界が違うと思わざるを得ないところを見たことはなかった。以前に見た家だって住宅街に並んでいる一軒家の一つであったし、内装も特に衝撃を受けるほどのものもなかった。例えば中世ヨーロッパや戦国時代の甲冑であるとか、虎や熊ののんべんだらりとした剥製だとか、そう言った太郎が金持ちを想像するようなものが置かれていることもなく、至って普通の家庭だったはずだ。それが僅かに数年でこんな屋敷を構えてられるとは。
庭は広く陸上競技場に使えそうなほどだし、中央には豪奢な噴水が備えられていて、ライトアップまでされている。値の張るホテルと言われればうなずける。それほどだった。詩織に促されてその背を追う太郎だったが、噴水を超えたあたりで、三メートルもあろうかという重厚な玄関が口をあけて、そこから男が一人飛び出してきた。
銀の髪は全体的に短く刈られていて、前髪ばかりが七三分けのように後ろへ流されている。右目を縦に切るように額から頬へ傷跡があって、体格も筋骨隆々で歴戦の戦士のような風貌だ。そんな男がびしっとスーツに身をまとって首元もしっかりとネクタイで締めて、感極まった様子で太郎達に向かって駆け寄ってくる。見覚えがある。彼はおそらく詩織の父親の——と、視界に太郎を認識したらしい瞬間から彼は憤怒の形相で跳躍し、何もない腰元へ手を掲げると、どこからともなく
全体重と重力を上乗せした攻撃は、すんでのところで尻もちをついて回避した太郎が先に立っていた場所にクレーターを作り上げるほどの威力だった。レイピアは傷一つついておらず、無論折れる気配もない。土煙が上がって、それを横薙ぎに斬って払われて太郎の視界は一部ではあるが、良好になった。しかしその視界にいるのは鬼とも見紛う男であって、今なお命の危機は去っていない。
マジかよなんでだよ、と思いながらも声はでない。出る余裕がない。呼吸をするのすら精一杯で気をつけないと忘れてしまいそうになるほど切羽詰まっている。ついさっきまでなんだかかっこよい感じにできてたじゃないかと嘆いても、右手も左手も右足も左足もなんら反応を示さない。
何もできない自分を罵って詩織の父親の攻撃をどうにか避けていく。
薙ぎ払い、突き、斬り上げ、振り下ろし、回転斬り、宙を飛んでさらに突き。どたばたと悲鳴を上げながら間一髪のところで避けてまた尻もちをついた。
ジ・エンド。喉元にレイピアの切っ先を当てられる。
「君は……」
その体躯だけでも腰が抜けるほどの威圧感があるというのに、低く野太いその声は太郎をさらに委縮させた。
「詩織の——!? ちょっと詩織! 詩織ちゃん!?」
瞳の据わった詩織が無言で父親に攻撃をしていく。詩織の拳をいなしながら父親は何度も詩織の名前を呼んだ。
「詩織ちゃん? やめなさい。やめ、やめなさい。わかった、パパが悪かっ——詩織! おっと今のは良いパンチだ——痛っ、痛い。痛いよ、詩織? こら、こら詩織。ははっ」
名を呼ばれても意に返さず詩織は何度となく屈強な体躯に拳を突き出していく。肩、腕、腹、脇腹、背、腰。そして足技も使い始めた。
「詩織、やめなさい。詩織ちゃーん? 痛いよ、パパはサンドバッグじゃないんだぞー? 詩織——顔はだめ、顔はいけない。ちょっと本気になっているね? 詩織、だめ、だめだぞ。おーい、聞こえているのかな?」
笑顔でいなしながらも詩織の攻撃が何度か深く刺さっている。
「タロウになんでひどいことするの」
ぼそりと言った。
「タロウ?」
詩織の拳を掴んで止めて、父親は眉をひそめた。それから尻もちをついたままの太郎のほうに眼をやって、じいっと眺める。目を見開いた。
「タロウ! おお、君がタロウか! 大きくなったね!」
とびきりの笑顔でそういって、手を広げた。太郎のもとへ近寄ると、そのまま右手を差し出して、握手を求めた。少し警戒しながら太郎がその手を取ると、引っ張って太郎を立ち上がらせ、強く抱きしめた。
「久しぶりだ! ははは、すまないね。どこかの悪い虫が詩織についてしまったのかと思って害虫駆除をしようとしてしまった! ……君は悪い虫じゃあないよな?」
耳元でそうつぶやかれた。背筋が凍るほど殺気に溢れていた。父親の——アルフォードの厚い胸板を抉るように太郎は何度も頷いた。アルフォードは太郎を放して、「ならよかった」とほほ笑んだ。
「食事の用意はできている。にしても遅かったじゃないか。どうしてこんな時間まで外にいたんだい?」
アルフォードが詩織に厳しい目を向けた。
「それは、その」太郎が弁明をしようとしたが、詩織が遮って、
「タロウと久しぶりに会えたから近くを見て回っていたの。ごめんなさい」
と頭を下げた。
「なるほど。まあ今回は許そう。しかし、詩織。君はまだ子供だ。タロウもそうだ。こんな遅い時間まで外を出歩いているのは非常に心配だ。何かが起きてからでは遅いのだからね。以後気を付けるように」
アルフォードがそう言って、ウインクをした。二人が頷いたところを見るとアルフォードは納得したようで、「じゃあ行こうか」と玄関へ向けて手を伸ばした。先に歩くアルフォードの背を追いかける。
小さな声で詩織に、「どうしてあんなことを?」と太郎が訊ねると、「パパも多分あの変化には気づいていないと思ったから」と返された。確かに、あれだけの異変があって、さらにそれがもとに戻ったというのに、それについて特に何も言ってこないとなると、そう考えた方がいいのかもしれない。太郎は詩織の返事に頷いた。
アルフォードのあとを追って入った玄関の向こうは衝撃的だった。テレビの中継で見たことがあるような、国会議事堂のような階段が目の前にある。広々とした階段が、中央に伸びて、途中から左右に分かれている。さらにその階段の前に数人の使用人が待ち構えていて、柔和な表情で頭を下げている。メイドだ。執事だ。さらにあたりを照らす自分の身長ほどもありそうなシャンデリア。
これが家なんてありえない、と太郎は思わず口をあけた。
「荷物は彼らに預けるといい」
アルフォードはそう言って使用人を二人ほど手招きした。すっと近づいてきた男性と女性の使用人に鞄を渡すと、二人は軽く会釈をしてどこかへ行ってしまった。その姿を眼で追いかけていると、アルフォードから「こっちだ」と声をかけられた。我に返って、太郎はアルフォードについていく。詩織はその様子を見て楽しそうに笑っていた。
食堂につくと、ドラマで見たような長机があって、中央に蝋燭台があって、キャンドルが置かれており、その上には小ぶりのシャンデリアがあった。シャンデリアが高級感を醸し出すのかもしれないなと考えを散らせながら、促されるまま席に座る。よそから借りてきた猫のように身を縮めている太郎の向かいに詩織が座っている。目が合った。微笑まれた。ぎこちなく微笑み返す。
「そんなに緊張しなくていい。これからここは君の家になるんだから」
アルフォードが諭すように言った。
自分の家。こんなにすごいところが。場違いな気がして思わずうつむいた。心配そうに詩織が太郎を見る。
「なんか、申し訳ないです」
両手を膝の上で握りしめて、身を縮める。目に映るものすべてが自分の住んでいたところと大違い過ぎて、どうも気が落ち着かない。
「最初は慣れないものだ。でも、住めば都という言葉があるだろう。そのうち、慣れるさ」
「すみません、ありがとうございます」
「何よりまずは食事だ。うちのシェフが腕によりをかけて作ったんだ。ぜひ食べてくれ」
「本当は私が作りたかったんだけど、もう作ってもらってたみたい」
詩織が気まずそうに言った。
「おや、詩織の手料理が食べられるのかい? だったらそれでもいいんだが」
「いいの、今日は」
「そうかい。じゃあまた今度の機会を待つとしよう。さあ、持ってきてくれ」
アルフォードが近くの使用人に声をかけると、彼女はかしこまりましたと一礼して、その場を離れた。間もなくして料理が運ばれてくる。
テーブルマナーもよくわからない太郎だったが、アルフォードや詩織の動作を見様見真似でどうにかした。緊張で料理は喉を通らないかもと思っていたが、それは杞憂で、空腹には勝てず出された料理はすべて平らげてしまった。前菜から始まり、デザートまで、フルコース料理であったが、どれもがきれいで、どれもが手が進むほど美味だった。すべてを食べ終えて、食後に出されたコーヒーを飲んでいると、アルフォードが太郎に声をかけた。
「ちょっと私の部屋に来てくれないか」
「いいですけど……」
「なに、さっきのことは申し訳なかったと思っている。もうあんなことは起こらない。約束するよ。詩織にも」
眉間に皺を寄せていた詩織に微笑むと、アルフォードは席を立った。
「大丈夫だよ、詩織姉ちゃん」
太郎も詩織に声をかけて、席を立った。
「詩織も疲れているだろう。先にお風呂に入ってきなさい。それまでの間、タロウと昔話をするつもりだ」
そう言ったアルフォードを追いかけて食堂をあとにすると、アルフォードは自室のある二階へと向かった。木目調のドアを開けると、机の上に一台のパソコンと、それから何かの資料の山があった。ドアを閉めて、机の向こうにアルフォードが腰掛けると、太郎に近くのソファに座るよう促した。一度頭を下げて、革張りのソファに腰掛ける。ふかふかで自重でゆっくりと腰が降りていく。傷をつけないように慎重に腰を落としたが、想像以上に下まで降りていくようで、どきどきした。
アルフォードが何度か話そうと口を開いては息を吐く。気まずい。気まずいことこの上ない。一体アルフォードは何の話をするつもりなのだろう。太郎は辺りを見渡して、ここも今までの生活とまるで違うものだとしみじみ思った。本棚は父の書斎で見ていたものと同じようだが、数が段違いだ。様々な蔵書がある。きっと魔法関連のものも多いだろう。
「タロウ」
急に名前を呼ばれた。びくりとアルフォードのことを見る。
「実を言うと、私は君を知らない」
太郎の声は出なかった。口を開けて、息が止まった。
「この資料は君に関するものだ。君の出生から今現在の学内通知表に至るまで、とにかく君が関連しているだろう物事を洗いざらい調べた。ところが、その記録がよくわからない」
「よく、わからない、というのは……」
「出生届はある。しかし両親の名前は不明。君が生まれた病院に連絡をして資料をよこしてもらったが、その当時の記録がさっぱりだ。都も国も、君を知らない。なぜか、国民として君の名前はあるが、ではその経歴はどうだと調べると、あやふやだ。突然、高校から君は確かに存在する」
アルフォードの眼は真剣で、冗談を言っているようには見えない。
「例えば小学校は青葉第一小学校に入学していたかと思えば第二小学校にいたり、はたまた私立にいたりとその資料によってまちまちなんだ」
アルフォードは一度大きく息を吐いた。
「詩織は君をずっと待っていた。幼馴染だと言って、九年間、君が現れるのを待っていた。私にはそれが真実かどうかわからない。正直、君を見るまで詩織は何か幻想を見ていたのだろうと思っていた。しかし君は現れた。今日、こんなに遅い時間まで帰ってこなかったのは、君に関する何かがあったからなんだろう?」
太郎が目を泳がせる。口を開こうとしたとき、アルフォードがそれを制した。
「無理に話さなくていい。荒唐無稽な話なんだろうから。でもそれは真実でもある。そうだろう?」
アルフォードが微笑む。
「君は詩織にとっての
アルフォードが指を組んだ。
「だから、これから先、君たちが何をしようと、君たちが行うことを信じるよ。さすがに非行に走ったらそれは全力で止めさせてもらうがね」
いたずらにウインクをされた。
「先も言ったが、ここはもう君の家だ。おかえり、タロウ。明日からはまた学校だ。色々と大変だろうが、頑張るんだよ」
太郎は静かに頷いた。そして、「ありがとうございます」と小さく、けれどもはっきりと言った。
「そろそろ詩織も風呂からあがったころだろう。君も入るといい。場所がわからなければ、使用人に聞くといい。みな親切だからね」
太郎は礼をして部屋を出た。
使用人に風呂場を訊ねて教えてもらい向かうと、詩織が風呂場の前で待っていた。長い黒髪は湿っているし、寝間着姿だしどうやら風呂上りらしい。
「詩織姉ちゃん、風邪ひいちゃうよ」詩織が大丈夫だと返した。
「大丈夫? パパに何もされてない?」自分以上にそのことが心配だったらしい。よくよく考えれば会って早々にあれだけ殺されかけたのだから心配するのも無理はない。
「うん、大丈夫だよ」苦笑いしながら太郎は答えた。
「よかった。えっと、そのね」
「うん?」
「ゆっくり休んでね。明日から学校だから」
何かを言おうとして、それを止めて詩織はそう言った。
「うん、詩織姉ちゃんもね」太郎がそう返すと詩織は微笑んで頷いた。
「おやすみ、タロウ」
「おやすみ」
詩織が去っていくのを見届けると、太郎は風呂場に入っていった。
それから広さに「でけえ!」と叫んで、何事かと侵入してきた使用人に何度も頭を下げるのだった。
キミとセカイが乗った天秤 久環紫久 @sozaisanzx
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