第9話
「第一の関門——魔塔ギャラルホルン。よくぞここまで来たものだ。我が名はヘイムダル。このギャラルホルンを有し、
美丈夫はそう名乗り、手に持つ錫杖のような槍を器用に回して、とんと床を叩いた。
目下の隈から赤い血が垂れるよう顔中に線が伸びている。背から純白の羽のようにマントがたなびく。太郎たちを見下すように一瞥すると、
「主人公たる器かどうか、ここで今——見定めさせてもらおう」
と、跳躍し、太郎目掛けて槍を一突きした。それを詩織が蹴り返して太郎の前に立つ。とっさのことに太郎は反応が出来なかった。詩織が割って入らなければ、胴に穴が開いただろう。しかし太郎には詩織に礼を言う余裕はなかった。くるりと身を反転させてヘイムダルが構えなおす。それから一度ため息をつき、目を閉じた。
「貴様はどうでもよいのだ。失せよ」
「そういわれても私はタロウのお姉ちゃんだからどうでもよくないの。今タロウのこと傷つけようとしたよね」
殺意を持って詩織はヘイムダルを睨む。
「威勢の良さは買ってやろう。さもワルキューレのようだ。しかし、私が用を持つのはそこの主人公のみ。
ヘイムダルが詩織に右手をかざす。詩織は身構えた。
「”
途端、詩織がふらりとその場に倒れこんだ。あっけなく、何の前触れもなく、突然に。徐々に太郎の目が見開かれていく。力なく横たわる詩織をようやく認識できると、一目散に詩織のもとへ駆け寄った。抱きかかえ、詩織の名を呼ぶ。詩織の身を揺さぶって、叫ぶ。しかし詩織は目を閉じたままで太郎の呼びかけに応える気配はない。
ヘイムダルは平然とその場に構えなおし、先のように太郎を見下すように見ている。
「さて、それでは見定めさせてもらおうか。といっても、いずれにせよ殺すのだがな」
「何したんだよ」
息だけが漏れたように太郎は言った。
怒髪天を衝く。撃鉄が銃弾を撃ちだしたように太郎に怒りの感情が熾烈に沸き上がり、体中を支配していく。
「詩織姉ちゃんに何したんだよ!!」
獣のように叫んだ。
「それを聞いてどうする。もしその娘がすでに死んでいたら? もしその娘がまだ生きていたら? いずれにしても今、お前がその娘をどうにかすることはできない。聞くだけ無駄だろう。仮に私がその娘にした何かを知ってお前はどうする」
つまらなそうにヘイムダルは息を吐いた。
「何も出来ぬ。何も力を持たぬ。目の前で娘を無力にも失う。それのどこが主人公か。貴様を選んだという者どもも所詮は——神に太刀打ちできるわけもなし。呆れたものだ。その娘、この
ヘイムダルがもう一度右手を詩織にかざす。
太郎は詩織を強く抱きしめた。手放さないように抱きしめた。
結局守れない。それじゃ意味がない。無力のままじゃ意味がない。
詩織を守りたい。助けたい。なのに力がない。——それは違う。力はある。きっとある。あの男が言っていた。自分の心臓にゼウスの魂の欠片を埋め込んだと。じゃあどうして今までその欠片は何の反応も起こさないのか。ここに辿り着いたとき、詩織の足を引っ張ってしまった。詩織に助けてもらった。治癒魔法をかけてもらった。それどころかつい今だってそうだ。詩織が割って入ってくれたおかげで太郎は生きている。詩織はただの幼馴染なだけなのに、それだけなのに太郎を身を挺して守ってくれた。
この世界に戻ってきて、詩織にどれだけ助けられた?
わずかにまだ一日すら経っていないのに詩織はどれだけ太郎のことを助けてくれた?
どれだけ想ってくれた?
なのに、自分はどうだ。今も怒りに震えるだけで無力さを嘆くだけで、それで何も変わらない。変わらないどころか、詩織と比較すれば腹立たしいくらいマイナスだ。
太郎はぎりと奥歯を噛みしめる。
立ち上がれよ。立ち上がって戦えよ。ふざけんじゃねえよ。何やってんだよ山田太郎。いつまで弱い自分のままでいるつもりだよ。いつまで弱いことにかまけて誤魔化すつもりだよ。生まれ変わったんじゃないのかよ。
心の中でそう叫ぶ。
主人公になるんだろ。自分の思う主人公ってなんだ。
「
ガンと顔をあげてヘイムダルを見る。決意のこもった眼差しは正義の炎で爛々と燃え滾っている。詩織を抱きしめる左手は、決して詩織を手放さないようきつく固く力がみなぎっている。右手を高く掲げる。言うべき言葉はなぜだか分かる。頭の中に湧いてくる。心臓が教えてくれている気がした。ここで踏ん張ると決めたのだ。もう逃げないと決意した。
詩織の心臓は動いている。それがわかって安心した。だったら助けることが出来る。いや、もし止まっていてもきっと助けることが出来る。そんな自信がふつふつと湧き上がってくる。自分の心臓がそう脈打っている。
構える太郎に、詩織を抱える左手から、詩織の体を流れる血潮が、生命の鼓動が勇気をくれた。
「この
叫び、共に掲げた右手をヘイムダル目掛けて振り下ろす。無数の電撃がヘイムダルへ降り注ぐ。フロア一体が閃光に包まれた。太郎自身が予想だにしていないほどの威力で鮮烈な雷光と衝撃波、爆音に思わず目を閉じた。
かすかに目を開ける。今だに鼓膜が震えていて音が入ってこない。肉の焼ける匂いが鼻につく。先のエレベーターの煙など比にならないほどの濃煙がヘイムダルが、そして大蛇の顔があった方に立ち込めている。
太郎の右手が震えている。否、体中が震えていた。心臓がうっとうしいくらい脈打っている。がたがたと震えながら、それでも詩織は手放さなかった。
濃煙が徐々に薄れていく。向こうに人影が見える。仕留めきれなかった。思わず心が折れそうになる。今の自分にできる最大限の攻撃だった。仕留め切れると思っていた。しかし結果は今目の前にある通りだ。ヘイムダルはまだ立っている。奥歯を噛みしめる。
煙が晴れ、姿が見える。体中から煙を立たせながら、ふらりと膝をついた。その後方、あの巨大な蛇の顔が消えていた。ヘイムダルは肩を揺らして笑い出した。まだ余力があるらしい。太郎が詩織をかばうようにしながら構える。
「成功だ、大成功だ!」
ヘイムダルが叫んだ。そしてその場に大の字に寝転がった。
「しかしそうか、
まだ笑い続けている。雷に打たれて頭がおかしくなってしまったのかと太郎は思った。狂気的に見えるヘイムダルから少しずつ距離を取る。太郎の腕の中で詩織はまだ目を閉じたままだ。
「どこの馬鹿の入れ知恵だ? 私だったら
「まだやる気か?」
太郎が倒れたヘイムダルを睨み言う。
「いいや、戦う理由はもうないからね。その娘ももう起きているはずなんだが」
大きく欠伸をしながらヘイムダルが言った。ヘイムダルの言葉を聞いて詩織がぴくりと体を揺らした。太郎が詩織を見る。
「詩織姉ちゃん?」
優しく呼びかける。詩織がかすかに目を開けた。
「かっこよかったよ、タロウ」
そう言って微笑む。太郎は詩織を抱きしめた。
「よかった、よかった……!」
何度もそう言って、強く抱きしめた。
「いやはや、この体勢のままで申し訳ない。魔力をだいぶ使ってしまったのと、この体にまだ慣れていなくてね。眠くて仕方ないのだ」
「えっと……」ヘイムダルの言葉で太郎は詩織から離れ、頬を掻いた。詩織は残念そうに太郎を見る。
「困惑するのも無理はない。つい今まで敵だと思っていた者がこんなにフレンドリーに話しかけると普通は思わないだろうからね。しかし先の行動にはそうせざるを得ない理由があったのだよ」
ヘイムダルがごろんと横ばいになって肘を立て、頭を支えて太郎を見た。
「別に抱き合っていても構わないよ。初々しい二人を見ていてこちらもにやりと笑えるからね。にしても、君たちがここまで走って向かおうとしたのを見たときは肝が冷えた。途中で空を飛んでくれて助かったよ。それよりもなぜこうなっているのか説明しなければならないかな。ならないだろうな。君は当事者だ、知らなければならないだろう」
ヘイムダルは一度大きく欠伸をした。それから立ち上がって、
「まずは謝罪からか。心を逆なでするようなことをしてすまなかった」
深く頭を下げた。
「私としても大きな賭けだったのだ。君の力をわずかにでも覚醒させるためのね——そして結果それは大成功した。お嬢さんもすまなかった」
二人にもう一度深く頭を下げる。それから顔を上げて、二人の反応を見た。太郎も詩織も咎める様子がないのを見ると、軽く会釈をして、話を切り出した。
「さて、君たちはこの世界が異世界と同調していることを知っているね?」
太郎が頷く。
「神々が新たな境地へ辿り着こうと考えた上の蛮行だ。そして、その先駆けとしてラグナロクを引き起こそうとしたのがつい先に見たあの大蛇——
心底感心しているようにヘイムダルは言った。
「それで、私は世界蛇に操られるようになっていたんだが、多少は意識があった。だから魔物になったものたちがここから出ていかないように結界を張った」
「あれはあなたがやったんですか」
「ああそうとも。しかしまあ、世界蛇のせいでずいぶんと汚らしい結界になってしまったがね。それでもないよりはましだ。それから君を待った。あのエレベーターを使ってくれて助かった。あのエレベーターの音ときたらこの世のものとは思えない。実際この世のものではないんだが——」
と、ヘイムダルが急に押し黙った。
「どうしました?」
「……眠い」
え、と太郎と詩織が眉間に皺を寄せた。どういうことだと疑問に思う。
「さっきも言ったろう。この体にまだ慣れていないから”眠る”のが下手なんだ。おかげでいつも眠いんだが、今回のは今まで以上の睡魔だ。はは、これが睡魔というやつなんだな。今回のはかなり手強そうだ。はあ、北欧神話でも戦いの神を挙げろと言われたら私の名前などそうそう上がらないんだが、今回は頑張りすぎた。すまない、話はまた今度にしよう、少し、眠る……」
ゆっくりと倒れて、そのままヘイムダルは眠ったようだった。最後の方はほぼほぼ寝言に近かった。
「えっと、ヘイムダルさん? その、僕たちはこれからどうしたらいいんですか?」
ヘイムダルからの返答はない。詩織を見る。詩織も困ったように笑うだけだった。
「本当に寝ちゃった、のかな」
聞き耳を立てればすうすうと寝息が聞こえる。
「寝ちゃったね」詩織が言って伸びをした。
「どうしよう、かな」
「どうしようね」
辺りを見てみれば、あの気色悪い模様は消えていた。元の東京スカイツリーに戻ったらしい。しかし元に戻ったということは、と太郎がついさっき登ってきた螺旋階段のほうに行ったが、それはもうなくなっていた。
「どうやって帰ろう……」
「飛べばいいじゃない」
「あ、そっか。その手があったか」
詩織の方は魔法のあるこの世界にすっかり順応できているようだった。太郎の方はまだまだな様子だ。辺りを見ても、もうすっかりもとの東京スカイツリーのようだ。ふとヘイムダルのほうを見る。
「この人、このままここに置いていってもいいのかな」
「うーん、寝ちゃってるし、起こすのも悪いよね」
「確かに……あ、そうだ」
太郎は思いついたように学ランを脱いでヘイムダルにかけてやった。
「ここ高いし、ていうか人来るようなところじゃないから寒いだろうし、このまま寝てたらきっと風邪引いちゃうだろうし」
そう言って詩織に向きなおる。詩織が羨ましそうにヘイムダルを見ていた。
「そろそろ行こう。なんか、よくわかんないけど、一件落着したみたいだし。はあ、でも、今回はこれでどうにかなったけれど、あの蛇って、倒せたのかな……」
「どうだろう? 私はわからないけれど、また現れたらそのとき倒せばいいじゃない」
たしかに、と太郎が苦笑いして頷く。
「それまでは学校で学べばいいと思うな。私が言うのもなんだけれど、うちの学校、すごいから」
「すごい?」
「うん、国立機関なだけあって、戦闘訓練もあるし、世界が変わって、魔法を用いた戦争を起こさないよう、それぞれがそれぞれに牽制し合っている状態だから万が一のために備えて戦闘カリキュラムをしっかりしてるんだよ」
だから、と詩織はつづけた。
「きっとタロウは主人公になれると思う。私はそばでその様を見守りたいな。ひとまず帰ろっか。お腹すいたでしょ? 何食べたい?」
詩織が太郎の手を取って、そのまま駆け出していく。困惑する太郎を楽しそうに見ながら、解き放たれている窓から、高度六三四メートルの宙へ跳躍した。太郎のことを抱きしめて、滑空していく。来るときよりも速度を増して、楽しそうに飛ぶ。
彼らが去った東京スカイツリー。そこに倒れていた人々は魔物の姿から解放され、それぞれが今までどうしてこんなところに倒れていたのか、なぜ体が痛むのかを疑問に思いながら意識を覚醒させていたころ。
学ランをかけられて横になっていたヘイムダルはゆっくりと目を開けていた。
「ふむ。確かに彼が主人公というのはなんとも面白い話だ。これは、忘れ物か?」
かけられた学ランを手に取って、首をひねる。
「ああ、なるほど。所謂、寝具の代わりだろうか。いやはやなんにせよ、彼の優しさに感謝しよう。見ず知らずの神にこんなことをしてくれるとは思わなんだ。さて」
ヘイムダルが遠くを眺める。
「何を取っても可能性の話なのだから、全てを悪く思うこともあるまい。それでも君はことが悪く転がると思ってここまで出向いてきたわけだな。私が悪に染まるとか、彼があっという間に命を落とす未来でも見えたのかね」
ヘイムダルが首を後ろへ向けて問いかけた。彼の後ろから男が一人現れた。謎の空間で太郎を助けたというあの男が。
「起きていたのか」
別段興味もなさそうに男が言う。それに対してヘイムダルはにこやかに答えた。
「言ったろう。この体にまだ慣れていないんだ。昔は必要なかったから、眠るのが下手でね」
「ああそうだ。お前があの蛇に食われてギャラルホルンが鳴り、天上に門が開くのが見えた」
「……それについては済まなかった。危うくその未来が起こりえた」
「それについてはどうでもいい。お前があのまま蛇に食われていれば蛇ごとお前を殺しただけだ。むしろそれがチャンスでもあった。ゼウスの魂の欠片がどう起動するのか皆目見当がついていない。だが、恐らくという仮定の域を出ない話ではあるが、世界が危機に陥ればあいつが主人公にならざるを得なくなり、秘めたる力が覚醒するやもしれなかった」
「随分と質の悪い賭けだな。下手をすればみな死ぬぞ。もっとやりようがあるだろう」
「お前は人間ではないからそう楽観的に思えるのだ。そもそも世界が——数多く存在する世界が一つに収束しようとしていること自体、人間にとってはこの上ない異常だ。だから急いた。だが、まさかこれほど被害がなく僅かであっても覚醒させることが出来るとは思ってもいなかった」
男が素直に感心する。
「言ったろう。やりようはあると。まあ、そのやりようも非人道的ではあったが」
「多少の犠牲は仕方あるまい。それに今回は犠牲という犠牲は出ていないのだ。ならばとくにいうこともあるまい。それより問題はあの蛇がまだ生きているということだ」
「そうだなあ……おそらくあれは
「お前もよそのことは言えんだろう。よくもまあ、神から人へ降りてきたものだ。北欧の連中は馬鹿なのか?」
「馬鹿とは失礼な。宗教問題は危険なんだぞ? 英雄だからといって何もかも許されるとは思わないことだ。それに、人へ近づいたのは、そうだなあ、ちょっとした罪滅ぼしさ。すべての神が人の敵ではないのだと、そう伝えたくてね。私はギャラルホルンを鳴らさない。ラグナロクは起こらない。危うく鳴らしかけたがね。まさか
「それは知らん。俺は神じゃないからな」
「まあいいさ、とりあえず、彼との縁はできた。これで手助けできる」
「ラグナロクは起こらずとも、それに似た何かは起きる」
「それを最小限に抑えるために、私も動くよ。何より、彼が気に入った。主人公になりたい主人公か。手助けのし甲斐があるじゃないか」
「なんにせよ、助力してもらえるというなら助かる。では、俺はこれで」
「ああ、またいつか会おう」
男が姿を消す。東京スカイツリーの頂上で、わずかに結界を張り付けて風を通さぬようにしたあと、
「さて、眠るとしよう。せっかく寝具を借りたことだしな」
と、ヘイムダルは一人横になった。
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