時計塔に眠る怪人
@keisei1
第1話 プロローグ
「ジファ。聴こえる? 二人の心は離れていてもきっと一つ。だから私はこう言える。ジファ、大好きだよ」
ファンタジー小説家、七瀬美樹に呼びかける声。それはなぜか彼女自身の声だった。そのあどけない声は、美樹の耳からすぐに消えた。
「何なの? 今のは」
そう口にする彼女は、少し長めのまつ毛が印象的だ。美樹の服は赤を基調にした身軽な装いで、中柄の背丈が、彼女の艶やかな容姿を柔らかくしている。
美樹は気を持ち直して、自分に言い聞かせる。
「気にしない、気にしない」
美樹はレストランで向き合う、出版関係の仲間と料理をつつく。食事会はアットホームな雰囲気だ。そのほどよい距離感が、美樹には心地いい。
食事会の幹事でいて、宣伝部長、相川遥が煙草を吹かせる。
「さぁ。今夜は飲んで食べるよー! 乾杯!」
食事会は美樹の小説の出版を祝うものだ。みな思い思いに、美樹の完成したばかりの小説の感想を言いあっている。
「ホント、いい雰囲気ね」
美樹がそう目を細めると、今度は一瞬、彼女は遠くから自分に呼びかける声を聞いた気がした。その声は機械的で無機質。感情の起伏がなく、どこか抑制しているようだ。声は呼びかける。
「ハロー。ミス美樹」
物憂げでもあるその声は、美樹の胸に届き、すぐに遠く離れて消えた。
「ちょっ、ちょっと待って」
美樹が戸惑うも、食事会は楽しげに続き、彼女の身に起こった「不思議な出来事」などまるで意に介していない。
何かの「幻覚」か「幻聴」か。不思議な感覚を覚えた美樹は、口元に指先をあてて、「機械的な声」を気にかける。すると今度は体中に吹き抜ける風を、彼女は感じた。空高く舞い上がる「若い男」の姿も、美樹の心に浮かぶ。困惑する彼女に、「若い男」はこう囁く。
「美樹。来るんじゃない。こっちは危険だ」
美樹は「男の声」に動揺する。すると美樹の親友、橘音々≪たちばなねね≫が、こう口を開く。
「今度の小説の主人公。なってないな。実の兄弟を倒そうってんだから」
美樹は、あけすけな音々の感想を耳にしつつも、「機械的な声」と「若い男」。その二つが気になって仕方がない。食事会に集中しようにも出来ない。
音々は、美樹との間に座る男の子の髪の毛をくしゃくしゃにする。男の子は、美樹の一人息子の宙夜≪ちゅうや≫だ。音々は、宙夜の背中をバシバシと叩いて、笑う。
「いい子に育てよ。坊や」
5才になる宙夜は、ただただ静かに頷くばかりだ。美樹はその様子を見て安心する。美樹は離婚して三年経つ、シングルマザーでもある。
頼りない母親でも、幼い宙夜のために、せめて執筆だけはより一層励んでみよう。そう美樹は心に決めていた。
だが、そんな美樹の気持ちを打ち砕くように、今度は「三人の男」の姿が彼女の脳裏に浮かびあがる。
三人の男たちは話しあっているようだ。彼らには、切迫したムードさえあり、危機感に駆り立てられているのが、美樹には分かる。男たちの内、一人がこう口にする。
「美樹……。七瀬美樹。彼女にしよう」
「七瀬美樹」。たしかに男は美樹の名前を「指名」した。美樹はその事実に当惑しながらも、消えていく三人の男達の姿になすすべもない。
美樹が口元に指先を立てて、考え込むと、先の宣伝部長、遥が隣の丸眼鏡をかけた男性にも話しかける。
「俊樹君。君はどう思う? 彼女の作品」
遥に軽く肩を叩かれた、丸眼鏡の男の名前は、風氏俊樹≪ふうしとしき≫。美樹と同じファンタジー作家で、美樹のライバルとも目されている。
遙に話しかけられた俊樹は、夢見がちな空想家という趣きだ。何やら考えごとをしていた俊樹は答える。
「はい。良かったと思いますよ。壮大でダイナミック!」
「はぁ。抜けるなぁ。俊樹君。あなたは、美樹のライバルなんだから、もっと気を張る! 分かった!?」
「はぁ。そうなるよう、ガムバリマス」
俊樹の気の抜けた返事を皮切りにして、飲み会へと早変わりした食事会は、やがて盛況のうちに終わった。
みなが店を出ると、夜空を仰ぎみる美樹の耳に、また「機械的な声」と「若い男」の声が、今度は合わせて響いてくる。いい加減、美樹は動揺を隠せない。「機械的な声」と「若い男」の二人は言葉を交わしているようだ。
「復讐を……、やり遂げんことを」
「二人の永遠の……、友情に誓って」
美樹の心は大きく揺れたが、今はとにかくも、平静を装うのが先だと分かってもいた。美樹は俊樹に声をかけようとするが、俊樹は、澄んだ瞳で夜空を見上げるばかりだ。
俊樹の瞳は悲しげでいて、どこかノスタルジーにも彩られている。その姿を見て美樹は、彼の心が「今」「ここに」いないのが、なぜだか分かった。
美樹が俊樹から視線をそらすと、食事会のメンバーはそれぞれの帰路についていた。美樹も宙夜と一緒に駐車場へ向かう。
その時、彼女の心に再び「若い男」の姿が浮かび上がる。男は美樹に手を差し伸べる。
「ようこそ。我らが新世界へ」
美樹は、その艶≪あで≫やかな声に惹きつけられる。だが彼女は目を瞬≪まばた≫かせて、若い男を振り切り愛車に乗り込む。
たびたび介入してくる「幻覚」のせいで、美樹は食事会を存分には楽しめなかった。だが彼女は一つの仕事をやり遂げた達成感で満ちていた。気がかりなのは、今夜、彼女を見舞った三つの不思議な「イメージ」。若い男、機械的な声、三人の男たち、それだけだ。美樹はその三つを振り払うように、自分の「現実」、宙夜へ声をかける。
「帰ろっか。宙夜」
「うん。そだね」
母子で声を掛けあう美樹の車は、夜の街を走り出す。だが最後にまた、ハンドルを握る美樹の胸に、謎の声が響く。それは最初に美樹が聞いた、彼女自身の声でもあった。
「ずっと……、あなたのことは忘れない」
最後に呟く、美樹自身の声。
「ジファ、大好きだよ」
その声は、深く美樹の心へ染み渡るように響き渡り、そして消えた。
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