第11話「夜に消える」



 老婆の骸をかざしながら、気持ち悪くニタニタと舌を伸ばすバケモノめいた姿を目撃し、鷹志田と小夜子は金縛りにあったかのように動けなくなった。

 それはそうだろう。

 大量の血を流してピクリとも動かない幸吉、無表情のまま呆けてしまったかのごとき琴乃、そして打ち捨てられたマネキンのような老婆の死体、なによりもそれらを不条理で支配するかのように佇む朱いかすりの着物の女のなんという不気味さよ。

 現実とは思えないほどに血なまぐさく、悪夢そのものの狂気に満ち満ちていた。

 我にかえるということは有り得ないと思えるほどの吐き気を催す緊張が途切れさせたのは、二人が入ってきた戸口から出ていこうとする無数のコウモリの羽ばたきだった。

 天井のどこかに潜んでいたのだろうか。

 何人かが蠢いていてもじっとしていたコウモリどもが我さきにと離れから逃げ出そうとしていたのだ。

 闇夜の中の突然のコウモリの羽ばたき、それこそまさに恐怖を煽って止まないはずだというのに、皮肉にも鷹志田にわずかに思考する力を取り戻させる。

 水の中で溺れたかのような非現実的な感覚は続いていたが、とりあえずここを出なければという思いだけは脳内に漂っていた。

 鷹志田は小夜子の肩を抱き寄せ、ざっと後ずさった。

 まだ数歩進んで手を伸ばせば、琴乃を引っ張り寄せることもできる。

 苦しい呼吸の中、なんとか呆けたように立ち尽くす中年女の二の腕までを掴む。

 引っ張ると彼女は三歩だけ歩いた。

 自力ではないがそれでもいい。

 ここに残すわけにはいかない。

 その思いのままに鷹志田がさらに引き寄せるために力をこめるが、琴乃は動かない。

 おかしいと顔を上げると、動かないのではなく、動けないのだとわかった。

 琴乃は抱きしめられていた。

 背後から朱い着物の女に。

 その飛び出た黒い両眼と鷹志田の視線が絡み合う。

 先に逸らしたのは当然の如く、鷹志田だ。

 虚ろで汚穢な眼差しを直視できなかった。

 鷹志田の手が琴乃の腕から離れると、彼女の目にようやく光が戻った。

 いや、そこに映っていたのは光ではなく恐怖だった。

 助けを求めていた。

 自分がすでに死の顎に囚われていることを理解して、そこから救い出して欲しいという哀れな眼差しだった。

 もう一度、鷹志田が手を伸ばすが、琴乃はそれを掴まない。

 いや、掴めない。

 女によって琴乃は無野やりに引っ張られていったからだ。

 手を差し伸べた姿勢のまま硬直した鷹志田たちの視界の中から、琴乃と彼女を背後へと引きずる女は徐々に消えていった。

 闇の中へ。


「助けて、ねえ、助けてよ!! お願い、助けてェ……」


 だが、その手は取るものはいない。

 もう手遅れであった。

 彼女は無残にも意に反して背後へと引きずられていく。

 そして、ダンボールだらけの物陰に琴乃は完全に姿を消してしまった。

 屠殺場へ引き連れられる哀れな雌牛のように。

 しばらく経って、我に返った鷹志田がその物陰をそっと覗き込んでも、ただ闇と影があるばかりで誰ひとりも残ってはいなかった。

 琴乃はもうどこにもいない。

 離れの室内には、もう生きているものは鷹志田と小夜子しか残っていなかった。



 それが生きている琴乃が目撃された最後の瞬間であり、その後、彼女については死体さえも発見されることはなかった……。

 宇留部琴乃は狂気の世界のどん底へと落ちていってしまったのである。



      ◇◆◇



 何が起きたのかさえはっきりしない夢魔の状況の中、鷹志田は小夜子を伴って居間へと戻った。

 とにかく人の顔が見たかった。

 それ以外は何も一切考えられない。

 刀自にお別れをするといって中々戻ってこない二人を心配していたのか、居間に入ると舞衣がすぐに声をかけてきた。

 が、二人の様子があまりにも異様なのでその声掛けも不発に終わる。

 二人は温かい部屋の床に安堵したのかべたりと座り込んだ。

 もう一歩も動けそうにない。

 あの着物の女さえ来なければ、だが。

 もし来たら何があっても逃げ出すだろう。

 それほどまでに彼らの感情は得体の知れないものへの恐怖でいっぱいだった。


「どうしたんだよ、姉ちゃん」


 さとしが姉に訊ねた。

 気丈で陽気な姉の魂が抜かれたような様子を弟は今まで見たことがなかった。

 姉弟としてはどうしても心配である。

 その母親である菊美は傍によって、顔を覗き込んだ。

 優しく肩に手を添える。


「大丈夫、気分でも悪いの?」

「う、うん……」


 若い女の子が放心しているということで、一緒にいた男が何かをしたのではないかと疑われても仕方の無いところであった。

 が、その鷹志田も異常なほどにぼんやりとしていておかしな様子ということで遠巻きに見られるだけで済んだ。

 小夜子の服装が乱れてでもいたらきっと酷く詰問されたではあろう。

 意を決して話しかけたのは舞衣だった。


「先生、どうされたんですか? 小夜子ちゃんもなんだかおかしいし、何かあったのですか?」


 鷹志田は答えない。

 まだ思考がはっきりとはしていなかった。

 あまりのことに脳が微睡みからの覚醒を拒絶している、そんな感じであった。


「おいおい、二人共。なんか、幽霊でも見たみたいだぜ。なんだ、青子婆ちゃんが化けて出たのかよ」


 静磨が軽口を叩く。

 彼なりに場を和ませようという意図の元の発言だったが、それは逆効果だった。

 ひきつけを起こしたかのように肩を抱いて震えだす小夜子と、激しく咳をする鷹志田の様子は強いショックを受けたものだと誰の目にも明らかだった。

 静磨が原因だということは明確だった。

 その場にいたものたちの無言の非難の視線を受けて、静磨は首を振って弁明した。


「あ、いや、俺はそういうつもりじゃ……」

「静磨兄貴はちょっと黙っててよ。姉ちゃんたち、なにかあったみたいだからさ」

「おおかた、その弁護士センセが小夜子にクラっときて襲ったんじゃないのか」

武兄たけにいも黙って!」

「……随分と偉そうになったもんだな、智」

「状況をよく見てよ。そんなだから嫁さんにまで逃げられんだよ……」

「なんだと、てめえ」

「二人共いい加減にしなさい。それと、静磨くんも武くんも茶化したりしないで。小夜子が怖がっているじゃない」


 さすがにこの場で一番の年長者に言われて男二人は口を閉ざす。

 分が悪いと思ったのだろう。

 武は味方になってもらおうと自分の両親の姿を探した。

 そして、この時点になって初めて彼は父親も母親もいなくなっているという事実に気がついた。

 

「あれ、そういえばオヤジとおふくろはどこに行ったんだよ?」

「―――知らない。便所じゃね」

「夫婦でかよ。んな訳ねえだろが。おい、舞衣、おまえ知らねえか?」

「小夜子ちゃんと鷹志田先生が出て行ったときには、もういなかったと思うけど……」

「ち、どこをほっつき歩いてんだよ、あの連中。しょうがねえ、探しに行くか」


 その武のボヤキを耳にした時、鷹志田はいきなり立ち上がった。


「だ、ダメだ、ここから出たら! 外に出るな!」

「……え」

「何、どういうこと?」

「とにかく、外に出るのはやめろ! 出るな!」


 肩を掴まれた武が嫌そうに顔をしかめる。

 いきなり暴力を振るわれたような気がしたのだ。

 しかも相手は初対面に等しい外部の弁護士だ。

 そこが武の気に障った。


「なんだよ、てめえ」

「いいから、私の言うことを聞け!」

「なんで他人のてめえの指図に従わなければならないんだ。ふざけんな」


 三十歳にしてはやや幼児的な部分のある武は、鷹志田への反感をそのまま表に出した。

 口調もかなり汚くなる。

 だが、二人が完全に衝突することはなかった。

 小夜子までが鷹志田に同調したからだ。


「武兄さん、止めて! お願いだから、センセーの言うとおりにしてよ。表に出ないで!」

「な、なんだよ、おまえまで……」


 さすがの武も、従姉妹までが金切り声を上げるとやや動揺した。

 しかも声優を目指しているだけあって、小夜子の肺活量と滑舌のよさで叫ばれると耳が劈かれるように痛くなる。

 熱くなりかけていた武でさえも黙り込んでしまう破壊力があった。


「……武さん、落ち着いて聞いていただけますか?」

「お、おう」

「あなたのお父上が亡くなられました。―――正確に言うと、殺害されました」


 一瞬、室内が白けたかのように沈黙する。

 武が何かを言い出す前に、鷹志田は続ける。

 女性と違って男の場合には、話せば話すだけ冷静になるタイプが多い。鷹志田は緊張をおしゃべりをすることで紛らわせる性質の持ち主だった。


「刀自の部屋のあと、小夜子さんと離れの様子がおかしいので見に行ったところ、そこで宇留部幸吉さんが何者かによって殺害されている現場に遭遇しました」


 鷹志田は言葉を選んでできるだけ冷静に、上ずらないように一定のスピードで話した。

 聴衆を刺激しないためだ。

 自分自身を興奮させないためでもある。


「殺されたって……誰に?」

「犯人については現認しましたが、誰なのかはわかりません。ただ、おかしな人物であることは確かです」

「……犯人って、まだここにいるのかよ。誰だよ!」


 正直に口にすると疑われるかもしれないと危惧した。

 あまりにも嘘っぽい相手だからだ。

 まるで映画の怪物のような……。

 だが、正確に説明しなければわかってもらえないだろう。

 躊躇しつつも、可能な限り呼吸を落ち着けて鷹志田は語った。


「朱いかすりの着物の女性です。実際に殺害現場に居合わせたわけではありませんが、彼女が犯人でほぼ間違いないでしょう。それと……お母様、琴乃さんがその女に拉致されました。どこに連れて行かれたかはわかりません」


 おそらく琴乃は生きていまい。

 あの化物じみた女にどこかに連れて行かれて無事なままとは到底思えない。


「朱いかすりの着物……?」

「それは本当なの?」

「ちょっと待てよ、姉ちゃん、マジか。マジなのか!」

「?」


 宇留部家の親族の反応は予想とは違っていた。

 幸吉が殺害され、琴乃が拉致されたことよりも、犯人ともくされる女の方に関心が寄せられていたのだ。

 まるで知っていたことを再確認するかのごとく。

 同じ光景を目撃した小夜子の様子も言われてみればおかしかった。

 どこがとまでははっきりと言えなかったが……。


「鷹志田先生、本当なのですか」

「ええ。嘘はつきません。そういう時でもありませんし。ですから、この居間から外に一人で出ることは絶対に止めてください。あの凶悪な殺人者にまた襲われないとも限らないからです」

「殺しって……」


 舞衣は痛々しくつぶやいた。

 現実認識ができないのだろう。

 鷹志田だってそうだ。

 荒事になれた警察官という訳でもない彼には、自分を落ち着かそうとするだけで手一杯だった。

 大声を上げて逃げ出さないのは、この屋敷から逃げ出す場所がどこにもないからだ。

 本能的に悟っていた。

 外に出ればきっとあいつに殺される。

 三台ある車だって鍵がないので使えない。

 舞衣のインプレッサは故障しているし、エブリイのキーは清美が、プリウスは寅彦が持っているので、この二人がいなければエンジンを起動させられない。

 深夜の山道をあんなものを警戒しながら逃げることはまったくもって非現実的だ。


(待てよ。そうなると、どこかに行ってしまった清美さんと全く戻ってこない寅彦さんの二人だって無事とは限らない。もしかして、幸吉さんよりも先に殺されている可能性があるということか!)


 恐ろしい真実にたどり着いてしまった気がして、鷹志田の額に夥しい汗が湧く。

 そして、それだけではない。

 あの化け物が振り回していた生首。

 あれは間違いなく亡くなった刀自のものだ。

 では、刀自の遺体をどこかに運び出したのもあいつ、ということにならないか。

 ……次々と浮かび上がる妄想の波紋は(いや、鷹志田はそれが真実だと確信しかけていた)、鷹志田の精神を破壊し尽くさんばかりに広がっていく。

 いったい、何が起きているのか。

 ただの法律相談に来ただけの自分がなぜこんな目に合わねばならないのか。


 ゴホッ、ゴホ


 やり場のない憤りで思わずむせてしまう。

 精神の不調が肉体の不調まで招いているようであった。

 瞼を閉じるとさっきの朱い着物が浮かんでくる。

 この人工の明かりに照らされた場所に居続けてさえいれば、アイツが追ってこないという保証はない。

 あれが今この瞬間にもこの居間に突入してきたら、私はどうすればいい?

 だったら戦う?

 立ち向かう?

 かっこよく?

 無理だ。私は漫画やゲームの主人公なんかではない。

 ただの人間なんだぞ、私は!

 それにアイツの、あの化け物は殴って蹴って斬れば死ぬゲームのモンスターと一緒なのか?

 とてもそうは思えない。

 逃げるというか、ここでアイツが来ないように祈って隠れている方がまだマシだ。


「……どうすりゃあいいんだ」


 鷹志田は恐怖のあまり震えている自分の膝を抱きしめた。

 体育座りなんて高校の時以来だ。

 みっともなかったがそれで落ち着けるのならそれでいい。

 ふと、気がついて顔を上げると、宇留部家の面々がおかしなことを口走っていた。

 鷹志田には誰も注意を向けていない。


「だから、母さん、お祖母ちゃんの言ってた通りになったんだよ! ずっとお祖母ちゃんが言ってたじゃないか! それなのにさ、伯母ちゃんといい幸吉さんといい、全然耳を貸さないから!」

「そんな……そんな馬鹿な話があるわけないじゃない! あんたらだって変だって……!」

「俺たちだってそりゃあ言ったさ。何億円の遺産なんだし。でもさ、お祖母ちゃんの話を少しぐらい聞いたって良かっただろ!」

「智、あんたもお祖母ちゃんのことを痴呆とか言ってたじゃん」

「……ああ、悪かったと思うよ、今は。だけど、そんなこと言ってる場合じゃないだろう」

「あんたも自分のことを棚に上げないで。でもまあ、確かに智の言うことももっともね。これからを考えないと……。武兄はどうすんのよ」

「どうするって、まだオヤジたちが死んだとは限らねえし……」

「死んだって! あたしはこの目で見たんだ! 伯父ちゃんはお腹を刺されて血がバンバン流れて動けなくなってた! 伯母ちゃんはあいつに連れてかれた! 嘘なんかじゃない! もう事実なんだよ!」

「信じられるか!」

「信じろよ!」


 残った宇留部の家族は、長女の娘である舞衣、次女の息子の武、三女の菊乃とその二人の子供たち、そして刀自の妹の孫にあたる静磨だけであった。

 ここにいない菊乃の夫と静磨の母のことには誰も触れない。

 息子の静磨が無言のままなので、話にでてこないのだ。


「そういえばお父さんはどうなったの? 早く帰ってきて欲しいんだけど……」

「―――お母さん、お父さんのことは今は考えちゃダメだよ。きっと無事に大塚さんのところにいると思うけど……」

「小夜子、あんた、何を言っているの? お父さんは無事に決まっているじゃない?」

「母ちゃん、ちょっと考えろよ。父ちゃんは……」

「智、黙りなさい!」

「うるせえよ、姉ちゃん!」


 掴みかからんばかりの勢いで口論を続ける宇留部のものたちは、どんどんと菊乃一家内の争いになっていく。

 人数的には家族が三人なので、ある意味では多数派となっているからだ。

 武はさっきからオロオロするばかりで、静磨は無言。

 菊乃一家の発言が目立って増えているのも当然であった。

 そして、一家にとって消息不明の父親のことが気になるのは果たして当然の流れである。

 薄々わかっていたとしても。


「だから、今は、をどうするのかが問題なのよ! あんたまで死にたいの! いい加減にして! 家族で言い争いをさせないでちょうだい!」


 ……

 ダイシ?

 ……なんだ、それ?

 鷹志田は垂れていた顔を上げた。

 その名前に何かがあるような気がしたからだ。

 だから、訊いた。


「そのダイシ様ってなんですか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る