第10話「わらえ」



 弁護士が従姉妹の清美が出かけていないということを報告にきたとき、琴乃は夫の態度がおかしくなっていることに気がついた。

 いや、だいぶ昔からわかっていた。

 今になってという話ではない。

 だから、彼女は夫を廊下に強引に連れ出した。

 運が良いことに居間にいた誰もが、彼女たち夫婦の行動に気を留めることをしなかった。


「な、なんだよ」

「いい加減にしてちょうだい」

「何の話だ?」

「私が気がついていないと思っているの? 心底舐められたものね。自分の女房をとことん馬鹿にして楽しいの?」

「だから、何の話だよ!」

「大きな声をださないで。……いいわ、もういい機会だから話し合いましょう。こっちに来て」

「どこに行く気だ」

「離れよ。あそこなら、誰も来ないわ」


 琴乃の剣幕に、幸吉はまともに反論もできなかった。


(―――まさか気がついていたのか)


 もちろん、彼と琴乃の従姉妹である清美の関係についてだ。

 すでにかなり長い間、清美とは肉体関係を伴う恋愛もどきを続けている。いわゆる不倫だった。

 彼が宇留部の養子になれたことも、実は清美との関係が大きく左右している。

 清美が自分の不倫相手を、実の母親を利用することで、強引に刀自である青子の息子にしたのである。

 それは将来的に幸吉が琴乃と別れても、清美と再婚することで財産を相続できるようにという思惑もあったからだ。

 ただ、息子である静磨の本当の父親との結婚生活に失敗した経験のある清美にとって、幸吉の存在は慰めとなっていたこともあり、どちらかというと彼女の方が熱を上げていたといってもいい。

 ナイスミドルの範疇に含まれる容姿の持ち主である幸吉は、五十を越えても言い寄ってくる女がいる男前であるから当然とも言えた。

 その分、自分の周りの女の気配を消すことに長けていた幸吉は、妻が自分の不倫に気づいていたということがショックであった。

 絶対にバレやしないとたかをくくっていたのだ。

 不倫や浮気をするものにありがちな、自分だけはバレないという根拠のない自信を有していたからだ。

 同時に配偶者やパートナーを必要以上に軽く考える特徴も兼ね備えていた。

 要するに周囲と人生を甘く見ていたのだ。


(ごまかせるか……? こいつの勘違いだということで。あとで清美と口裏を合わせないと。静磨くんの就職の相談を受けていたとかで……いけるか?)


 妻を裏切っていたとはいえ、離婚までするつもりはなかった。

 清美が彼に向けていた感情に比べたら、彼からのものははるかに薄かった。

 バツイチの女と遊びたかっただけで、それが妻の従姉妹だということで背徳感がさらに増していたから付き合いが長くなっただけのことだ。

 だから、この窮地を乗り越えたら、清美との不倫は精算することに決める。

 問題はその乗り越え方だけだ。

 ガラス戸を開け、そこにあるサンダルを履いて、少し離れた場所にある離れに向かう。

 その間、琴乃は一言も口をきかない。

 話し掛けられるのを拒絶しているようだった。

 幸吉は妻が自分の浮気のために混乱しているのを気遣えるだけの優しさを持った男ではなかった。

 口を開けば恨み言が出そうだと、じっと我慢している妻の気持ちなど理解できない。


「入って」


 離れの戸には鍵がかかっていなかった。

 そこは普段は納戸の代わりに使われている場所だった。

 琴乃が小さい頃は遠縁の親子が住んでいたが、それ以来、誰かが住むことはなかったはずである。

 中には山のようにダンボールが積まれ、古新聞の束や日本酒の空き瓶などが乱雑に置かれていた。

 積もり積もった埃が臭く、鼻が曲がりそうである。

 電灯はない。

 夜に使う場所ではないからだ。

 天窓があったので、そこから差し込む月の光だけが頼りだった。


「……おい、何を誤解しているか知らないが、ちょっと落ち着けよ」

「落ち着いているわよ。ずっとね」

「なんなんだよ、いったい」

「……あなた、今更誤魔化せると思っているの。バカじゃないの。ホント、最低ね」

「だから……」

「証拠、あるわよ」


 琴乃はポケットから財布を出して、その中から一枚の名刺を抜き出した。

 受け取って見ると、興信所の調査員の名刺であった。


「なんだよ、これは?」


 努めて平静を保ったつもりだったが、声が上ずってしまう。

 その意味がわかったからだ。


「そこにお願いして、あなたと清美ちゃんの調査をしてもらったの。都合三回分のいやらしいデートの証拠が手に入ったわ。興信所の人に言わせれば、離婚するには十分なレベルだって話よ」

「……おい、ちょっと待てよ。いくら夫婦だからって俺にもプライバシーが……」

「プライバシー?」


 小馬鹿にしたように琴乃はせせら笑った。


「どの口が言うのかしらね。それにプライバシーなんて言ったら、私はあなたの携帯のメールだって全部コピーしてあるわよ。あなたと清美ちゃんが、散々っぱら私をバカにして愛を語らっているメールを山ほどね」


 思わずポケットのスマホに触れる。

 まさかロックがかかっているはずだ。


「信じられないって顔ね。いいわ、教えてあげる。あなたの携帯の解除番号は平安京と鎌倉幕府でしょ。社会科の教師のくせに安易すぎない? あなたって昔からそんな語呂合わせばかり選ぶからすぐにわかったわよ」

「お、おい。ホントか、ホントにメールを見たのか」

「まだ信じられないの。私のことをBBAとか書いていたでしょ。それに清美ちゃんのことをきょーちゃんとか書いていたわよね。どお? そろそろ信じた。私があなたたちのことを途中から泳がしていただけだってことに」

「……」

「馬鹿だって見下していたBBAに実はさらにコケにされていたと知って、どんな気持ちよ。教えてくださらない。この不倫クズオトコ」


 妻に罵声を浴びせられる。

 確かに見下していた女に。

 それは幸吉の平静さを完全に壊した。

 被っていた仮面にヒビが入る。


「てめえ、女房の分際で……夫に向かって舐めた口をきくんじゃねえ」

「あらあら、そろそろ素のあなたが顔を出す頃だと思っていたけど、やっぱり出てきたわね。いつものナイスミドルごっこはもうやめたの」

「くそ、てめえ」

「あなたってホントはそういう男よね。見た感じはいいけど、中身はほんと下品。武とよく似ているわ。まあ、私も武がああいう感じに育ったからなんとなくあなたの本音が見えるようになったけど、よく隠しきっていたもんよね。お母さんを騙して養子になるため? うちの財産が欲しいの? 残念、あなたになんかあげはしないわ」

「ふざけんな!」

「負け犬になりそうだから、今度は腕づく? どうぞどうぞ、殴ればいいじゃない。そしたら被害届を出してあなたを破滅させてあげるわよ。不倫したうえに暴力沙汰、DV。ほんと、武とそっくりだわ。クズなところが親子よね」


 立て板に水でまくしたてられ、幸吉は反論ができなかった。

 不倫が発覚していたことを知らなかった彼と、周到な準備をしていた琴乃とではスタートラインが違う。

 だから、咄嗟に考えがまとまらないのだ。

 口を開けば品のない罵倒に近い文句しか出てこない。

 このまま行けば、きっと押し切られる。

 琴乃はそれを承知で夫を追い詰めているのだ。


「何かもっとまともなことを言いなさいよ!」

「うるせえ、てめえのババアはもう死んだ。だから、宇留部の財産の四分の一は俺のもんだ。だから、てめえと離婚したってもう構わねえんだよ。いいぜ、別れてやるよ! 俺もてめえみたいなのとはもう一緒に居たくねえしな」

「あんたなんかに絶対に財産は渡さないわ!」

「いいや、いただくね。がっぽりな。舞衣にいく分だってもらってやらあ!」


 二人が喚きあったとき、お互いの耳に何か妙な音が聞こえた。

 それは嗄れた声のようであり、吹き荒ぶ風の音のようでもあった。

 思わず二人が争いを忘れ口を閉じた瞬間。




 キャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャ




 耳障りな金切り声が響き渡る。

 いや、それが声だったのかどうかも怪しい。

 無機物が大量に擦れ合えばきっと生みだすことができるような異音でもあったからだ。


「な、なによ」

「何だって言うんだ!」


 二人は最後に夫婦らしい息の合った反応を見せた。

 しかし、それが本当に最期であった。

 部屋の片隅。

 ただダンボールが積み上げられてできた闇の中に、朱いかすりの着物を纏った女が立っていた。

 顔は見えず、ただ真っ白くて細い素足だけがぼうっと浮かんでいるようだ。

 人の気配など微塵も感じていなかった二人は息を飲んだ。

 誰かがいるなんて思いもよらなかったからだ。


「誰!?」


 叫んだが、返事はない。

 代わりに着物の女は前にすっと出た。

 顔が月明かりによって晒される。

 ぎょっとした。

 女には目がなかった。いや、正確に言うのならばなにか黒いものが眼窩からとびだしていた。それが何かはわからないが、はっきりとわかるのは不気味でおぞましいということだけだった。

 口角が吊り上がると、そこにはあるはずの歯は一切見えなかった。

 黒い空間と赤く蠢く舌があるだけ。

 そして、ずんずんと二人のもとに近づいてきて、腕が届く位置まで寄ると、ぶんと右腕が突き出され、その先端が幸吉の腹に伸びる。

 熱い衝撃が幸吉を襲った。

 視線を下げると、先の鋭い棒状のもの―――おそらくは火箸が幸吉の腹部を半ばまで貫いていた。

 痛いほどに熱いが、すぐには何が起きたのかを把握できない。

 火箸が腹に刺さっているのに。

 なのに、なのに、現実とは認められない。

 そんな風になったらきっともう死ぬしかないのに。

 だが、叫び声は出なかった。

 膝から崩れ落ちるだけ。

 琴乃はよろよろと夫から遠ざかる。

 夫を助けるということよりも、そのかすりの着物の女から一歩でも少しでも離れたかったからだ。

 その視線が再び凍りついた。

 女の出てきた物陰に、白いものが転がっていたからだ。

 見覚えがある。

 実の母親の寝巻きだった。

 そして、その寝巻きを着ていたはずの母親はついさっき死んだはず。

 では、どうしてそこにあるのか。

 寝巻きの中身はどこにいったのか。

 幸吉を火箸で刺した女はそのまま物陰に戻り、闇の中に手を突っ込んだ。

 再び出てきたその指は皺のできた細い枝のようなものを握っていた。

 驚きのあまり琴乃は目を見開く。

 それは枝ではなく、人の腕だったからだ。

 物陰から強引に引きずり出されてきたのは、琴乃の母親の上半身だった。

 何度か介護をしている時に見覚えのある母のやせ細った骸であった。

 着物の女は老いて亡くなった母親の身体を持ち上げると、信じがたい力でもって振り回し始めた。

 死後硬直によって硬くなっていた死体は鈍器となって部屋中を荒らしていく。

 ダンボールが壊れ、落ち、中身を撒き散らし、ガラス瓶は割れ、新聞と雑紙は紙切れを飛ばす。

 老婆の遺体を嵐のごとく振り回し、女は室内をどんどん汚していった。

 散らかしていった。

 それはまさしく地獄絵図だった。

 地獄の行脚だった。


 そして、女は嗤う。笑う。唇が割らう。 






 キャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャキャ

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