第9話「離れの異界」
「え、何よ、どういうこと?」
最初は開いた襖の隙間から差し込む廊下の明かりのせいで、布団の中の遺体が見にくくなっていただけだとも思えたが、手元の電灯のスイッチを押して室内が明るくなっても、事実に変わりはなかった、
中央に敷かれた布団にはあるはずの遺体がなかった。
それどころか、半分以上めくられた掛け布団からは、さっきまで眠りについていた刀自が起きだしてどこかに去っていったようにさえも見える。
だが、室内を見渡してもどこにも彼女の姿はない。
小夜子と鷹志田は押入れや物陰を調べてみたが、当然、刀自の遺体は見当たらないし誰も隠れてなどはいなかった。
つまり、刀自の遺体は部屋の中にはないという結論に落ち着いたのである。
わけがわからなくなった鷹志田が、居間まで皆を呼びに行こうとした時、めくられた布団に手を突っ込んだまま、小夜子が言う。
「センセー、ちょっと待ってよ」
「どうしました?」
「なんか、ここ温かい。さっきまでお祖母ちゃんが寝ていたみたい」
「まさか」
鷹志田も真似してみる。
確かに、多少温かい。
布団の中には体温による温みが残っていた。
「刀自はもうお亡くなりになっていましたよね」
「うん。それは確か」
「脈は図りました?」
「それはわからないけど、呼吸をしてないのは確認したよ。あたしが頬に触ったら冷たかったし。お祖母ちゃんは絶対に死んでた、眠っていただけなのを見間違えたということはないと思う」
だったら、なんで布団が温かいんだ。
誰かが寝ていた訳ではあるまいし。
それに刀自の遺体はどこに行った?
それこそゾンビのように勝手に歩き出しでもしない限り、誰かが持ち去ったとしか思えない状況である。
「お祖母ちゃん、もしかして生き返ったのかな……?」
小夜子の疑問は当然だった。この状況で導かれる解はそのぐらいだ。
「可能性はありますね。お医者さんが死を断定したわけではありませんから。息を吹き返したという可能性は捨てきれませんし。ただ、とりあえず、親族の皆さんに報告しましょう。それと、警察を呼ぶことになるかも」
「けーさつ?」
「はい、もし刀自が生きていたとしたら、行方不明になっているか誘拐の可能性がありますから」
「―――そだね」
小夜子が内容を理解して頷くと、二人は急いで居間へ戻ることにした。
やや元気のない小夜子の手を引いて、なんとか歩かせる。
三十過ぎて、出会ったばかりの若い女の手を握るハメになるとは、さすがの鷹志田も考えていなかった。
基本的にモテない性格の持ち主なので、面食らった部分もある。
役得とは考えられない喪男なのだ。
「ストップしてください」
鷹志田が足を止めた。
小夜子は不思議そうに視線を上げた。
「あの部屋って、なんです?」
刀自の部屋から居間に戻る途中、窓の外に彼の記憶にない棟があった。
確かに広い屋敷だが、見覚えのない場所というものがあるほど広くはないはずだ。
鷹志田のもつ敏感な部分が警告してくる。
何かおかしいと。
「離れだよ」
「そんなもの、ありましたっけ?」
「センセーに用意された客間の反対側だから、たぶん教えてもらわなかったんじゃないかな」
「どうやって行くんです。来るときにはあそこと繋がった廊下はなかったと思いますけど……」
「完全な離れなんだよ。だから、一度、外に出なきゃならないの。えっと、そこの縁側からなら行けるよ」
「……刀自の部屋からでも?」
「うん」
ガラス戸を開くと、サンダルが並んでいる。
どうやらこれを履いていけばいいらしい。
舞衣から預かって返していなかった懐中電灯で離れを照らしてみる。
誰かがいる様子はない。
六畳の部屋が二つほどありそうな大きさだ。都会なら一家族なら暮らしていけるサイズだった。
玄関らしいものもあり、よく見るとかなり古い形だがエアコンも設置されている。
離れというよりもただの家のようだった。
「どうしたの?」
「誰かがいたような気がしました」
「―――まさか、泥棒?」
「だとすると、さすがに変ですね。この屋敷にはすごく金目のものがありそうですけど、あまりに人里から遠すぎます。いくらなんでも窃盗の目的にするには無理がある」
「……」
「もしかしたら、刀自の遺体の行方がわかるかもしれませんよ……」
鷹志田の発言にはなんの根拠もなかった。
ただの思いつきの範疇でしかない。
しかし、小夜子はありうることと考えた。
彼女自身はあまり意識していなかったが、隣にいるこの弁護士を頼もしい男として認識し始めているせいだった。
頼もしい男の意見になら従ってみよう。
本来の彼女なら少しは疑問を口にしたはずであるが、今回に限りそんなことはなかった。
「行ってみようよ、センセー」
「そうですね」
二人はサンダルに履き替え、月夜の下を歩く。
少しの足音が響き渡る、山奥の静寂の中を。
一歩、二歩、三歩……。
だいぶ昔に落ちた葉がしゃりしゃりと踏むたびに音を立てる。奥多摩ならでは静かな趣きも緊張が強すぎると癇に障るだけだ。
ゆっくりと警戒しながら、懐中電灯の明かりだけを頼みにして進んだ。
離れの戸口に立ち耳を澄ますと、二人の背中に怖気が走った。
「何か、聞こえない?」
「ええ。確かに」
「呻き声みたいだった。あたし、声優志望だから耳はいいんだよ。誰かが絶対に中にいるよ!」
「怖いことを言わないでください」
だが、鷹志田の指は戸の引っ掛け口に伸びた。
中を見なければならない。
どういう訳かそれだけが頭に浮かんでいた。
聞かなかったフリをしてさっさと逃げればいい。自己防衛のための本能がそうわめき散らす。だが、ここで開けてみないときっと良くないことになるのでは、というピント外れな無意識が働いていたのだろう。
開けていいのか、開けていいのか、いやもう嫌だ、なにも考えずに開けてしまえ。
やけになったかのごとく鷹志田は戸を横に引いた。
すると、暗い室内に男がうずくまっていた。
男だと思ったのは黄土色の分厚いジャケットを着ていたからだ。そして、ついさっき彼はそのジャケットを目にしていた。この屋敷の居間で。
うずくまっているといよりも腹ばいになっているというべきか。
苦しそうに四肢を痙攣させる。
いきなり首が持ち上がった。
丸っこいフレームの銀縁がキラリと光る。
懐中電灯の明かりに浮かび上がる顔は苦悶にゆがんでいた。
男は宇留部幸吉であった。
しきりに腹部と地面の間に手を差し入れようと動いている。まるで、何かを拾い集めようとしているかのごとく。
もっともヒクヒクと震えるばかりで同じ動作を繰り返すだけ。
何をしているのかを訊ねようと鷹志田が口を開きかけた時、幸吉の足元あたりに黒いものが広がっていることに気がついた。
じわじわと溢れ出るもの。
あとからあとから床を覆っていく。
「血!」
その正体に鷹志田はようやく思い至った。
インテリらしく頭の回転の早い彼でも、知人が夥しい量の血を流しているという発想をすぐには持てなかったのだ。
特大の血の入ったバケツをひっくり返したかのように、次から次へと流れ出していく有様に、鷹志田は目眩がした。
とても現実のこととは思えない。
「お、伯父さん!」
小夜子の叫びがようやく彼を我に返した。
呪縛がやっと解けたかのように、事態を把握する。
前に出ようとすると足がもつれて転びそうになるが、なんとか踏ん張り、幸吉に近寄ろうとする。
「幸吉さん、しっかり!」
だが、鷹志田の声は届かなかったのか、がくりと肩が落ち、幸吉は前につんのめった。
横っ面が床に触れた土下座のような体勢のまま、高校教師は動かなくなった。血に粘ついた髪が海藻のようだった。
時折、痙攣するのは断末魔の蠢きか。
自ら流した血の海の中、もがき続けることもできず、宇留部家の次女の夫は死んだ。
酸鼻を極めた光景の上で。
ある意味では鮮烈な死に様だった。
「し、死んだの……?」
鷹志田は頷く。
この出血ではいくらなんでも駄目だろうと悟った。
日常と狂気の隙間に滑り落ちてしまったはずなのに、意外と冷静な自分に愕然としながらも。
人の死を間近で目撃するという衝撃体験の中、なんとか様子を見ようともう一歩進みかけた時、ガタン。また、音がした。
高らかに哄笑しながら、何かがそこに立ち尽くしているような気がした。
女の形をした怪物が。
だが、実際にそこにいたのはまたも見知った顔だった。
ムカデにパンツの中を這いずり回られているようなむず痒さを覚えたのは、その無表情の中に糊塗された異常のせいだろう。
冷め切ったような無表情。
鷹志田は彼女については、憎々しげな嫌味か皮肉か文句を言っているシーンしか知らなかったので、最初は別人にしか思えなかった。
だが、感情というものがなくなってみると、やはり姪である舞衣や小夜子によく似ている、骨ばった美女ではあった。
それが壁にもたれかかってあらぬ方向を見つめている。
「琴乃さん……?」
話しかけてみても反応はない。
呆然としている。
鷹志田の脳裏に浮かんだこの光景を解釈する答えは、「琴乃が夫である幸吉をなんらかの手段を持って―――おそらく刃物―――殺してしまった」というものだけだった。
それにしては琴乃には血飛沫ヒトツさえもついているように見えない。
「何、ここ……」
小夜子がつぶやいたので、思わず周囲を見渡してみて仰天した。
琴乃夫婦しか見えていなかったが、この部屋の惨状も凄まじいものがあった。
倉庫がわりに使われていたらしくいたるところにダンボールが転がっていたが、そのほとんどが無残に変形していたのだ。
古新聞は散乱し、空き瓶らしきものも割れてガラス片となっている。
まるで室内を暴風が跳ね回ったかのごとく。
ところどころに舞っている埃の様子から、ついさっき何かが起こった結果であるらしいことは明白であった。
(ちょっと待てよ……おい。なんだ、それ)
そして、鷹志田は見た。
宙に浮かぶ生首を。
いや、生首を掴んでこちらに見せつけるものを。
まるで水戸黄門が最後に出す印籠のように高らかと首を掲げるものを。
そいつは飛び出た黒い両眼をもった人に似た何かであった。気が狂ったかのような朱黒いかすりの着物をまとい、黒ずんだ虚無の視線を向け、凝固している。凝固している。凝固し続けている……。
しかし、何よりも。
そいつの纏う着物が左前なのが、恐ろしかった。
着物を着た方の左手が懐に入るようにするのは、この国においては死者にだけ認められるものだからだ。
つまり……あいつは……
きっと死人なのだ。
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