第8話「失踪」



 鷹志田が外に出ると、どういう訳か舞衣もついてきた。

 だが、奥多摩の夜に出るためのなんの準備もしていなかった彼と違い、舞衣は大きめの懐中電灯を二つも用意していた。

 そのうちの一つを手渡されたせいで、足元に気をつける必要がなくなると、鷹志田は文句を言えなくなる。

 綺麗なまでの月夜とはいっても、街灯もなく舗装もされていない場所を歩く際には足元に注意が必要だ。

 慣れていない彼ならば尚更である。

 舞衣の気遣いがなければそれなりに不便を感じたことであろう。


「……どうして、舞衣さんがついてくるんです?」

「すいません、ご迷惑ですか」

「いや、まあ、別に私だけでなんとかなると思うんですけど……」

「むしろ、先生がわざわざ外に出る必要の方がないと思います」

「それは……」


 鷹志田が、幸吉の話を聞いて様子を見ようと思いついたのは、特にはっきりとした理由があるからではない。

 ちょっとした予感めいたものがあった。ただそれだけだ。

 それがどういうものかと問われたとしても生憎と答えられないが、大人しく宇留部邸の中でじっとしているよりはマシという判断だった。

 論理を重んじ、三段論法を武器とする弁護士にはひどく似つかわしくない行動であると自分でも思う。

 条文も規則も関係ない、ただの感覚だけで動くのは。

 靴を履いて外に出ると、昼に通った階段を下り、駐車場に向かう。

 足元を電灯で照らしていたのでほとんどふらつくことはない。

 たいした距離はないので、二人は会話をすることもなく無言のまま歩んだ。

 駐車場には三台の車が置かれていた。

 幸吉のエブリイと寅彦のプリウス、そして舞衣のインプレッサだ。


「……確かに私たちが乗ってきたエブリイがあります」

「清美おばさまはもう随分前に出かけたはずなんですけど、おかしいですね」

「幸吉さんは窓から確認しただけみたいですから、ちょっと直接ボディに触ってみましょうか」


 鷹志田がエンジンのあるあたりに触れても、熱はほとんど感じ取れなかった。

 どうやら車を出して戻ってきたということはなさそうだ。

 中を覗き込んでも、清美の姿は見当たらない。

 試しにドアを開けてみたら、鍵はかかっていなかった。


「無用心ですね。閉め忘れかな」

「それはないと思います。幸吉おじさまは基本的に神経質ですから。いくら、このあたりが泥棒さんだってこない田舎だといってもロックを忘れることはないでしょう」


 改めて中を見ても、特に変わった様子はない。

 ただ、運転席のシートが限界まで倒されているのが気になった。

 誰かが寝ていたのだろうか。

 キーも穴に差し込まれていないので、動かすことはできそうになかった。

 なんの手がかりもないので仕方なくドアを閉めると、指先に妙な違和感があった。

 月明かりの下では黒いシミにしか見えないが、いつのまについたのかどうやら油汚れのようだった。

 気になったので背広の内ポケットからハンカチを出して拭う。


「清美さん、いないみたいですね。母屋に戻ったのかな」

「部屋が三十ありますから、幸吉おじさまと入れ違いになっただけかもしれませんしね。では、早く帰りましょうか」

「それはそれでおかしいんですけど……。何かあったと見るべきなのかな。急にトイレが近くなってこもっているとか」

「うちにはトイレが五つありますから」

「さすがに作りすぎでしょ。ホテルですか」


 個人の所有とはいえ宇留部邸ほどの大きな屋敷になると、さすがに複数のトイレが必要とされるのはわかるがそれでも五つは多いな、と鷹志田は思った。

 彼の実家の部屋数と同等だ。

 エブリイのライトを消したおかげでさらに暗くなった駐車場で、二人は首をひねった。

 清美が出発していないとなると、改めて医師を迎えに行かねばならなくなる。

 しかし、その前に彼女がどうして出発しなかったかがわからない。

 何かあったのだろうか。

 例えばトイレが近かったとか……。


「とりあえず寒いので家に戻りましょうか」

「そうですね」


 連れ立って戻ろうとしたとき、鷹志田の眼が妙なものを捉えた。

 赤いハンドバッグだった。

 どうみても女性向け、しかも年配に似合う品だ。


「あれ、清美さんのかな」


 どこかに行ってしまった女性を探しに来た途中で、その女性の持っていそうなアイテムが落ちている。

 このシチュエーションにおいてならば、その二つを結びつけて考えるのは不自然ではない。

 鷹志田はハンドバッグに近づいた。

 駐車場の脇のスギやカラマツ、シラカバという樹々の根元の茂みに無造作に置かれている。

 まるで見つけてくれと言わんばかりの場所に。

 そのことを深く考えずに、鷹志田は近づく。

 すると、


「ダメです!」


 と舞衣に手を掴まれた。

 意味が分からなかった。


「え、どうしたんです?」

「このあたりの夜の藪には野犬が隠れていることがありますから、無闇に近づいてはダメです!」

「そうなんですか……。でも、あのハンドバッグが」

「あ、後回しにしましょう! 早く!」


 ハンドバッグに興味があったが、清美のものという確信もないので、すぐに諦めることにした。

 あとで取りに行けばいいか。

 舞衣に手を引かれ、母屋へと戻ることになった。

 玄関に入ると、やはり建物の中は温かく、二人はほっと胸を撫で下ろす。

 やはり奥多摩の冬の夜は寒い。


「この寒さだと外にはきっといませんね。歩いてどこかに行ってしまった様子もありませんし」

「でも、やっぱり清美おばさまの靴はありませんね」


 鷹志田が来たときと違い、玄関には二足の靴がなくなっていた。

 一つは三女の夫の寅彦のものだとすると、もう一つが清美のものだろう。

 少なくとも二人の人間が屋敷から出て行ったのは確かだ。


「やっぱり外出しているんですよ」

「外はかなり寒いのに。どこに行ったんだ?」


 暖を求めて鷹志田たちが居間に向かうと、残った宇留部の親族が揃って、あーだこーだと議論をしていた

 父親の葬儀を経験した菊乃たちがこれからの予定を決めているらしい。

 まだ若い小夜子はようやく祖母の死を実感し始めているのか、さっきまでとは比べ物にならないぐらいに落ち込んで、ソファーにもたれかかっている。

 智もそんな姉の調子に引きずられたのか、台所でのさっきの陽気さは影をひそめていた。

 もっともさっきの調子の方が空元気だったのかもしれないが。

 一人だけ、親族の輪から外れて何やら携帯端末を弄っている三十代の男がいる。ガタイがあるせいかやけに目立つ。

 宇留部武うるべたけしであった。

 鷹志田たちが顔を見せると、顔を上げてずかずかと近づいてきた。


「あんたら、どこに行ってたんだ?」


 口調に刺がある。

 誰かにいいがかりをつけようとするときに特有のそれだった。

 視線を鷹志田に向けたまま、逸らそうともしない。あんたらという複数形で呼びかけてはいたが、ターゲットは間違いなく鷹志田一人だった。

 理由は不明だが、どうやら鷹志田は武の逆鱗に触れたらしい。


「ちょっと駐車場まで」

「何しに? 女を連れ回してか」

「ああ、そういうことですか。―――別に当職は舞衣さんと逢引きをしていたわけじゃありませんよ。ご心配なく」

「なんだと? てめえ」

「……あ、幸吉さん。清美さんはどうやら出かけていないみたいですよ。やっぱり駐車場にエブリイがまだ停ってました」


 武を無視して、幸吉に話しかける。

 幸吉は彼の父親だ。

 息子の頭ごしに父親に話しかけることでタイミングと気をそらして、相手にしないようにした。

 案の定、幸吉と親族の注意は外出したままの清美の話題へとそれる。


「なんだって、どういうことだい、弁護士先生?」

「今、舞衣さんと見てきたんですが、清美さんはまだどこにも出発していないようですね。それなのに靴が玄関にないので、屋敷の中にもいなさそうなんですが……」

「じゃあ、いったいどこに行ったんだ?」

「さあ。わかりません。……舞衣さん、ここら辺って夜にふらっと気軽に出かけられるような場所ってありますか?」

「すいません、夜になったにもうどこにも。うちの近所には隣の大塚さんの家ぐらいしかありません」


 すると、清美は寅彦のあとを追って、大塚の家に向かったのだろうか。

 わざわざ野犬も出るかもしれない山の中にはいるはずもない。

 従姉妹のことが気になっていたらしい菊美が口を挟む。


「そういえばうちの旦那もまだ帰ってこないのよね。もう二時間ぐらい経つから、いくらなんでも帰ってきていい頃合なんだけれど。何を手間取っているのかしら、あの人」

「寅彦さんっていつごろ、ここを出たんですか?」

「七時くらいかな」

「―――もう九時か。いくらなんでも遅すぎますね」


 気がつくと、残った八人全てがこの会話に聞き耳を立てている状態だった。

 最初の難癖をスルーされた武だけが、離れた場所で憮然とした顔をしている。

 小夜子が手にしていたお茶を飲みながら言う。


「清美おばさんには、切れた電話回線の修理業者への連絡も頼んでおいたんだけど、これじゃ明日ってわけにはいかないね」

「そういえば、なんで電話の回線なんかが切れたのですか?」

「わかんないよ。いくらなんでもそんなに簡単に切れるもんじゃないから。もしかして、誰かに切られたんじゃないかな?」

「姉ちゃん、変なことを言うな。―――怖えだろ」

「それはいったいなんのためにですか、小夜子さん」

「さあ」


 そういえば寅彦がわざわざ隣の家にまで出かけたのは、電話回線が切れたからという話だったが、よく考えてみるとおかしい。

 電波が届かず、ネットも繋がらず、唯一の連絡手段である電話線が切られたなんて、まるで推理小説かなにかだ。

 しかも、その推理小説というのは、ある特別な設定の元でのパターンが確立されたもの。

 つまりは「嵐の山荘」ものだ。

 いわゆる、閉じ込められた場所で助けを求められずに登場人物が殺されていくパターンである。

 まさか、現代の日本、さらに東京都でこんな目に合わされるなんて想像もしたくなかった。

 小夜子と目が合う。

 彼女もどうやら似た感想を抱いていたらしい。


「じゃあ、『こんなところにはいられるか、俺は自分の部屋に帰らせてもらう!』って誰が言うか賭ける?」

「不謹慎ですねえ、小夜子さん」

「人の想像力はシャットダウンできないものよ」

「……」


 鷹志田は空いている椅子に座った。

 舞衣の隣は意識的に避けた。

 さっきの武の絡み方を分析すると、どうやら舞衣に男が近づくことを警戒しているのだろうと思われるからだ。

 鷹志田自身はイケメンというわけでもなく、ごく普通の容姿の男なので、従姉妹をたぶらかす男を排除しようという親族的意識によるものとはちょっと考えられない。

 会ったばかりであるし、美人ではあったとしても親しくなるほどの時間はないからだ。

 だから、ありうるとしたら武から舞衣への恋慕のあまりの嫉妬だろうか。

 つい最近離婚したばかりの男がどうかとも思うが、だからこそ手近な美女に手を出そうとしているともいえる。

 最悪なのは財産目当てだ。

 借金があるということなので、もしかしたら懐が火の車で、そのために舞衣を狙っていることもありうる。

 従兄弟の智にあそこまで警戒されているのだから、そちらの方の可能性が高いか。

 どのみち、鷹志田にとってはあまりよい話ではない。

 顧問弁護士になるとしたら、おかしな邪推をされかねないし、それに対してはいつもよりも毅然と対応しなければならない相手となるからだ。

 しかし、武の問題よりもさらに重要なのは電話線が切れた(もしくは切られた)という事実だった。

 普通に過ごしている限り、超大型の台風でもこない限り、電話線が切断されるなんていとうことはありえない。

 何かおかしなことの前触れと考えるのが一番まともだ。


(冗談半分という感じだが、小夜子の気が塞いでいる様子なのと、さっきの話はまったく関係ないということもなさそうだ。この家族では何があってもおかしくなさそうな雰囲気があるしな。もともと、さっき小夜子は相続問題でトラブルがありそうだということを私にも仄めかしていたし……)


 通夜と葬儀の段取りがおおよそ固まり誰も積極的に口を利かなくなると、居間はだいぶ沈鬱とした雰囲気になる。

 ついさっき祖母が、母が、義母が亡くなったばかりなのだ。

 しかも病院での死亡と異なり、医師も看護師もいない、親族だけしかいない状況。

 通常ならば、連絡を受けた近所の家の人たちなどが顔を出してくれたりするが、そういう他所からの風が吹き込むようなこともなく、ただ停滞した時間が流れる。

 せめて、清美か寅彦が戻ってきてくれればよかったのだが、それすらも叶わない。


(とりあえず、私も刀自とお別れをしておくか。―――どうやら通夜どころか葬儀まで参加しなきゃならなそうだし)


 彼のスケジュール帳には今週の土日の予定はない。

 楽しみにしているサッカーのJ1はまだ開幕していないし、他に週末はなにもすることがないせいだった。

 普段、彼の出身大学で開いている大学生相手の刑法講座はこの案件に備えるためにキャンセルしてある。

 だから、最悪の場合、月曜日の朝に事務所に出勤すればそれでいい。

 宇留部家の葬儀にまでつきあう必要性はまったくなかったのだが、やはり鷹志田はちょっとだけお人好しであった。


「……すみません、私は部外者なのですけど、一応刀自に通夜の前に最後のお別れをさせてもらっていいですか? これも何かのご縁ですし」

「別にいいのに。お祖母ちゃん、別に期待していないと思うよ」

「こら小夜子。すいませんねえ、先生。母も喜ぶでしょう」


 菊美の態度は、娘の小夜子に対するときはわかりやすい母としてのものに変わる。

 財産関係の話をしているときの、般若のような顔とはまるで別人のようである。


「じゃあ、あたしが案内してあげるよ。舞衣従姉さんに頼むともめそうだし」


 良く見ている。

 武とのトラブルの発生に気がついているのだろう。


「ではお願いします」


 頭を下げると、鷹志田は出てきた時とは違う別の女に連れられて、居間をあとにすることになった。

 刀自の部屋に行くのは二度目だったが、それが彼女の生前と死後であるというのはあまりない体験になるだろう。


「失礼します」


 真っ暗な遺体の安置された部屋に入ったとき、鷹志田と小夜子は息を飲んだ。

 飲まざるを得なかった。


 なぜなら、布団の中に安置されているはずの故人の遺体が―――何処かへと消え去ってしまっていたからであった……。

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