エピローグ「C.M.H.S.」

 戦いが終わった後の、「アアア」の状態は悲惨の一語に尽きた。死傷者は数百人にも及び、建物の被害も甚大だった。また、致命的損傷を受けたフォーマットは、完全に修復不可能だった。そして、「アアア」の「最高教典」、すなわち「高等数学の書物」は、教団幹部では、一ページも理解できない難解なものだった。

 しかも、今回の戦いを通じて、「純粋数学フォーマット」は意外なもろさを露呈させた。その完成の先に、不老不死の実現があるのかも、極めて疑問視されるようになったため、幹部達のフォーマット解明に注ぐ情熱も、急速に冷めてしまった。そんなこともあって、「アアア」に組まれていた「純粋数学フォーマット」の構造は、どうやら永遠の謎となりそうだった。

 「アアア」都市内部は、じっと座っているだけでも、頭がふらつき、気分が悪くなってくるような有様であり、もはや人が住める環境ではなくなっていた。住人達は、続々と他の都市への移住を開始した。

 「アアア」教典の世界観を理解していた「唯一の信徒」であるマドゥは死亡してしまったから、まもなく「アアア」のフォーマットは完全消滅する。そうなれば、その後の「アアア」は、周辺都市の基本フォーマット支配領域に飲み込まれて、法学的には「さら地」になる運命だ。

 早いうちに、ここは只の廃墟となるのだろう。一人の「天才学者」が、永遠の真理を求めた夢の跡となって。


☆       ☆


「お、坊主。今度は前よりも良く出来てるぞ。勉強したな。感心だ」

「そうでしょ。僕だって学士ですから、日々成長してるんですよ」

 そして七日後、僕は再び信仰都市「ホノ・トム・キイ」の「入城審査」を受けている。あの時の審査官のおじさんは、一目で僕の事を思い出してくれたようだった。

「お……今度は『色彩コード』も問題ない。いいぞ、これなら、名前の方もつづりをいじくらなくていいだろうな」

「『マサト』でいいんですね」

「ああ、構わない。お……今度は短期滞在じゃないのか? 『登録住人』になる申請?」

「ええ、この前来た時に、ここが気に入ったんです」

「そうだろう? 俺が言った通りだったろ。特に、ここは『食品コード』がいい。飯が美味いんだ」

「ニョクマムとナンプラーが調味料の主体な所が、ですか?」

「その通り、お前味がわかってんな。まあ、この町でうまくやっていけよ」

「ありがとうございます。また、次に外に出る時があったら、よろしくお願いします」

 約一週間ぶりの「ホノ・トム・キイ」は、前来た時とは、微妙に違った印象に感じられた。町の「色彩コード」も、通行人の「服装コード」も変わっていない。お姉さん達の、ギリギリな道徳もそのままだ。幸いにして。

 でも、僕の心が以前とは全く変わっている。少なくとも、あの時にのしかかっていた重圧は、今ではどこにも無いのだ。

 道すがら、お菓子屋を見つけたので「じゃがたら君」と「ビコビコーン」を買っていった。貧乏な僕なりのお土産のつもりだ。

 そして、再びやってきた。自分でも、不思議なくらいそこへの道順をはっきりと覚えていた。忘れもしない、「くらやみ乙女」と書かれた看板。

 今回は「営業中」という札がドアにかかっている。心地よい緊張感と共に、呼び鈴の紐を握り、引いた。

 ドアの向こう側から、涼しげな鈴の音が小さく聞こえて来た。

「マサト君ね。開けていいわよ」

 店の中から懐かしい「あの声」が答えた。

 ドアを開けると、あの日と同じように、机に向かって作業中の教授の姿があった。

「早かったわね。ホタルコちゃん。彼が来たわよ」

 教授の口調は、初めからプライベートモードだった。今度は、仕事の依頼主としてではなく、教授のゼミの学生として、この店の助手として、僕を迎え入れてくれたのだ。

 店の奥から、パタパタと歩く音がした。僕と始めて遭遇した時のように、とんでもなく短いスカートをはいて、真っ白なフトモモをあらわにしたホタルコちゃんが、蒸かしたてのまんじゅうを載せたお皿を両手で持って現れた。

「うわあ! 待ってたんですよぉ! いらっしゃい」

 以前と変わらぬ、花のような笑顔。

 瞬間、甘酸っぱく、そしてほろ苦い軋みが胸にかすめた。


 今度の一件で、これまでの僕を支えていた唯一の支柱は、決定的に崩壊してしまった。

 今の僕は「何の力も持たない、空っぽの、只の名前しか持たないマサト」にすらなっていないのだ。


 この胸の内に、ぽっかりと空いた、底なしの空洞。


 そこに、何かしら意味を成すものを、一から築く事が出来るのか、出来ないのか。まだ、何の確信も持てていない。

 しかし今の僕は、少なくとも、何をしなければいけないのか、自分が何をしたいのか、それだけははっきりしている。


 勉強をしたい……

 強くなりたい……

 力をもちたい……

 今度こそ、本当に守りたい誰かを守れるようになりたい……


 その為にも、僕はこの人達の傍にいたいのだ。

 そして、つり橋の上で、僕が抱いた感情とやらの正体も、じっくり時間をかけて見極めて行けばいいと思っている。

「マサトさんも、手を合わせてあげてください。今日は、マドゥさんの『ショナノカ』なんです」

 ホタルコちゃんの視線を追うと、部屋の奥に、「ブッダン」が置いてあることに気が付いた。

 そういえば、この都市の教典はブッディ系統だった。

「死なば、みなホトケですよぉ」

 ホタルコちゃんは、寂しげな、そして優しげな面差しで、ブッダンを見つめている。

 ブッダンの中には、僕が大好きだったエシャと同じ顔をした女の子の写真が飾ってある。

 室内に歩を進め、ブッダンに真正面から向かい合うと、僕は、生まれて初めて「ガッショウ」を行った。「僕が好きだったエシャ」、そして、「僕がこれまで生きてきた時間」への決別の想いと共に。

「長旅でお腹がすいてるんじゃない? 食べなさいよ。マサト君」

 教授は、皿に盛ったまんじゅうの一つを手に取って、僕に差し出すと、

「今日のC.M.H.S.はつぶあんよ。つぶあんもいいものだわ」

 と、いたずらっぽい微笑を浮かべた。

 僕は、それに精一杯の苦笑で答えながら、湯気の立ち昇るまんじゅうを教授の手から受け取った。今なら、自信を持ってこれを食べられる……不思議とそんな確信が自分の中にはあった。

 そして、まずはこのまんじゅうの美味しさを、この人に伝えなくちゃいけない……


 僕はC.M.H.S.の最初の一口を頬張ると、万感の想いと共に、口一杯に広がるその味を噛みしめた。


「完全書式アアア」完

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ペンタ・ブラッド ~完全書式アアア~ SEEMA @fw190v18

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