「シャイロットストーン」

 夢を見ていた。


 僕は、広い広いヒマワリ畑の中にいた。

 これは、「あの夏の日の記憶」だ。


 幼い頃に救貧院の遠足で行った、見渡す限り満開のヒマワリ畑。


 エシャは、大喜びで、畑の中に走っていく。背の低い彼女は、すぐに大きな黄色い花の中に埋もれてしまった。

 僕はその後を追いかける。

 いつのまにか、ヒマワリ畑で追いかけっこが始まった。駆けていくエシャも、追いかける僕も笑顔だった。あんなに幸せに笑えたのは、あれが最後だった。あれは、僕が元気に走るエシャを見た、最後の時だった。


 もう、あの日は帰らないのか。

 あんな風に笑える日は来ないのか。


 未来には当たり前のように、幸せな世界が待っているのだと、無邪気に信じることはできないのか。

 いや、取り戻してみせる。

 あの日に見た未来を。

 そう思いながら、今まで頑張ってきた。


 エシャを助ける。


 そして、もう一度、二人であの満開のヒマワリを見に行くんだ。きっとその日が やってくるんだ。その思いだけが、僕をこれまで支えてきた……少なくとも僕はそう思ってきた……


 やがて、まぶたの向こう側から、曙光がうしおのように押し寄せて来た。


 鳥の鳴き声が、あちらこちらから届いてきて、僕を浅い眠りからそっと拾い上げた。


 その次の瞬間の事だった。


 床の下から、ビリビリと振動が湧き上がってくる。

 これは地震ではない。

 もっと、鋭利で攻撃的な何かだ……

 一体これは?

 教授はいち早く立ち上がっている。ただならぬ気配を察したのか、隣の部屋からホタルコちゃんの声が飛んできた。

 僕も遅れて、覚醒しきってない身体を奮い起こした。

「教授!何ですか、これは!」

「分からない!そっちのボードはどうなってる!」

 僕ら三人のボードには、それぞれ必要な情報が逐一モニターされている。僕のボードには、アアアの大聖堂地下にある「核室内部」の様子が写っているのだ。映像を見ると、核室の床中央に刻まれた小さな七角形から、様々な色の光がほとばしっている。そのあおりを受けて、周囲に組み上げられたソリッドが次々に破壊されている。

 教授の顔色が明らかに変わっている。

 こんなに狼狽している表情は初めてだ。

「何故だ。『核室』に『情報』が急速に流入している!」

 ホタルコちゃんが、彼女のボードに映っているエシャの部屋の様子を見て叫んだ。

「教授!」

 見ると、エシャの身体が布団の上に浮き上がっていた。

 首の周りを、ロープのような一筋の光がぐるりと一周している。まるで、今にもエシャの頭部を切断するかのように。

「まずい! こんな馬鹿な! 『法学装甲』に亀裂が入ってるのか?」

 教授が家の外へ駆け出す。僕とホタルコちゃんも後に続く。

 道路に出て、僕はさらなる驚愕に襲われた。

 地から這い上がるような轟音が町中にとどろき、道路を、建物を、空を揺るがしている。

 アパートの周囲に配置した、法学装甲が見る間に崩壊している。配置した無数のソリッド群が次々に宙に浮き上がり、ある「一点」を目指して、猛烈な速度で吸い寄せられているのだ。

 その「一点」とは、道路の中央に直立する、一つの「人体」。

 あの時に見た老婆と同じ服装、同じ背格好をした「人体」。

 しかし、それには「首から上が無かった」のだ。

「まずい!ソリッドを奪われる!」

 教授とホタルコちゃんは、イナゴの大群のように飛んでいくソリッドを、必死に手で捕まえようとした。しかし、それは遅すぎた。かろうじて二人が両手で掴めたのは数個の「岩窟王」と「くらやみ乙女」だけだった。

 もちろん、それも一大事だけれど、僕は自分にとっての死活問題を思い出す。

「エ……エシャが危ない!」

 脱兎のように駆け出し、そのままエシャがいる家の中に向かおうとした。

 しかし、いきなりホタルコちゃんに腕を掴まれて、僕は大きくバランスを崩した。

「駄目です!マサトさん!」

「離してくれ!エシャが、エシャが危ないんだ!」

「行っちゃ駄目です、危ないんです!お願いですから、落ち着いてこれを見て下さい!」

 ホタルコちゃんが見せたのは、ボードの表示だった。

 何だ? 何を言ってるんだ? これは……?

 僕はそんなものを見ている場合じゃないのに……!

「少年、残念ながら手遅れだ。ホタルコ嬢の言うとおり、心を落ち着けて『それ』を見たまえ」

 教授が、視線で指し示したのはホタルコちゃんのボードの表示だった。

「ええと……これは?……一体?……」

 そこには、「敵の支配領域」を示した光が表示されていた。人間の「支配領域」とは、通常は「肉体」と同義だ。つまり、その形もサイズも、人間本人の肉体と同一になる。

 しかし、その表示は異常だった。

 余りにもサイズが長すぎる。

 額面どおりに解釈すると、敵は「数十メートルもの長い肉体」を持っていることになるのだ。まるで「伝説の大蛇」のように。

「これは……?オロチ……っていうのは?」

「そうだ。それのことだ。『異常に長い支配領域』を持っている敵だから、『オロチ』なのだ」

 しかし、その表示は見る見るうちに短くなっていった。5メートル……4メートルと……。僕はそれが意味するところを、電撃的に悟り、空を見上げる。表示が示している位置に、その「答」が浮かんでいた。

 いつのまにか、エシャの頭部が宙に浮かんでいた。

 その真下の道路上には、無数のソリッドを全て吸い込み終わった、例の「首無しの肉体」が立っている。頭と胴体の切断面は淡い光で繋がっているのだ。やがて、頭部は徐々に降下して行き、二つの肉体の部位はぴたりと合体した。

 その瞬間、「敵の支配領域」の大きさは、ようやく「人間の身長と同一」になった。


 エシャ……エシャ……僕のエシャが……


 僕の頭の中は文字通り真っ白になった。精神は崩壊寸前だった。

 今すぐ頭を抱え、地面をのたうち回って、泣きわめきたかった。

 しかし、僕の喉元までせり上がって来た絶叫は、寸での所で、「奴」の言葉で遮られてしまった。

「あらためて、自己紹介をしておきましょうね。この『アアア』の設計者にして、真の教主、マドゥとは、あたしのことよ」

 奴は、エシャそのものに聞こえる声で、そんな事を言う。

 今度は、「奴」に対して、煮えたぎった怒りがマグマのように沸き起こって来た。

「この野郎! 何を言ってる! エシャを返せ! 今すぐ返せ! エシャは……エシャは……!」

「あら~? この期に及んでそんなことを言っているの? どこまで頭が悪いの? お前は。『そんな子は、初めからいなかった』ってことが、ま~だ分からないのかしら?」


(え……? 何を言ってる? こいつは何を言ってるんだ……?)


「いいわ。あんたみたいな虫けらに、気持悪い誤解をされたままでいるのも気に入らないわ。親切にも、教えてあげましょうか。あんた、ひょっとして『この私が、女の子達から肉体の一部をそれぞれ奪い取った』とでも思ってる?」


(え……?)


(そうじゃ……無いのか?……そうじゃなかったら、何だっていうんだ……?)


「それは根本的に間違ってるわね。あたしはね、のよ」


 僕は、にわかには奴の言っていることが理解できなかった。いや、理解したくなかったのだ。そんな僕の愚かな無理解を、優しく諭すような口調で、教授が横から口を出してきた。

「その通りだ、少年……それが真実だ……」

 いつも通りの冷徹な声。しかし、その内には、いつになく悲痛な決意が秘められている。

「つまり、のだ……」


(何……言ってる……? 何だよ、それ……教授まで……何訳分からないこと言ってるんだ……?)


「存在していたのは、全くの別人の肉体に取り付けられた、君をだまし、利用してきた、『マドゥの頭部』だったのだな……」

 ホタルコちゃんは必死の形相で、教授を制止しようとする。

「教授!止めて下さい。それ以上は言わないで……!」

「ホタルコ嬢……残念ながら、もう遅いな。こうなれば、全てを明かすしかない」

僕は混乱の極に叩き込まれた。

「え……?え……?そんな馬鹿な! だって、マドゥは当時『大人の女性』だったじゃ無いですか! それじゃあの老婆は? おかしいですよ。そんなはずは無い! そんなはずは無いんだ!」

「少年、良く聞いてくれ、教団幹部も含め、誰一人気づかなかった真実を。三百年前にクーデターで殺された『マドゥ・ウナ』は、表向き教主の役割を果たしているだけの『傀儡教主』に過ぎなかった。アアアを設計した、『真の教主』と呼ぶべき人物は、当時十歳だった『ウナ』の娘、『ウカ』だったのだ。そして、その『マドゥ・ウカ』は当時と同じ十歳の肉体を持って、そこにいるのだ。違うか?マドゥ嬢?」

「へ~、ママだけじゃなく、あたしの名まで知っているのね。だったら、『あのバアサン』がその辺で適当に捕まえた、操り人形だということも分かってる?」

「当然だ。お前が復活に向けて動いていることを、現『アアア』幹部に察知されても、当時三十歳だった教主が、徐々に老いたように見せかけられると考えたのだな。当の本人は、老いを遅らせるどころか、一切老いることの無い方法を考えた。クーデターで追放されたお前は、『しかるべき時』が来るまで、潜伏することを決意したのだな。その為に取った方法が、『自らの肉体を分割して、保管』することだった。そして、その『しかるべき時』が来たら、『肉体のパーツを全て回収して』復活しようと考えたのだ」

「分割して……って。肉体を分割なんて……そ、そんなことが出来るんですか?」

「そうだ。奴は自分と同じ年頃の少女達を犠牲者に選び、意志も身体の自由も奪って、身体の一部だけを自分の物とすげ替えたのだ。判るか?少女達の肉体をソリッドとして使うということだ」

「人の肉体を……?ソリッドに?」

「そうだ。少女達の身体が持つポテンシャルは、例えばマドゥの左腕なら左腕部分だけを、若いままに保管する為に、消費されていくのだ。一見それまでと同じような、社会生活を続けながらだ。しかし、そんな形で使われた肉体は、あっという間に使い物にならなくなる。恐らくは数年で肉体の硬直が始まってしまう。その後はどうするのか判るかな?少年……」

 僕は、答えなかった。答は想像がついたけれど、そんなことは口にしたくない。余りにもおぞまし過ぎる話だった。

「そうだ。生命ポテンシャルを搾り取られた、古い肉体を捨てて、『新たな保管先』として、ソリッドとしての肉体、新たな犠牲者を探すのだ。不老不死の夢に取り付かれた狂人だけが思いつく、外道の技術だ。そうやって、数百人もの少女達の身体を犠牲にして、こいつは今まで、十歳の肉体のパーツを保存したわけだ」

「でも……でも、教授……どうやって……僕はどうやって、そんなことを信じれば……」

「考えても見たまえ。人間の本体は頭部だ。少女の肉体のパーツを集めて出来たものがマドゥなのだとしたら、? 余りに簡単なことなのだ」

「確かに……確かにそうだ……そうなんだろうけど……」

「それから、君は『エシャは成長を止めてしまっている』と思っていた。ならば、その『エシャ』の幼い頃を君は見た事があるのか? 救貧院に預けられる前にどこにいて、どんな幼少時代を送ったのか、誰か一人でも知っているものがいたのか?」

「た……確かに!……確かにそうだけど……僕は『エシャ』の幼い頃を知らない!……知らないけれど……」

「初めに奴と戦ったときに、私が不思議に感じたのは、奴の『支配領域』が『異常に長かった』からだ。それこそ『数千キロ』もあったのだ。そして、その巨大な大蛇の頭の位置は、君の住所と同じだったのだ。それで首をかしげたのだよ」

「そうそう、マサト。あんたにはお礼を言わなくちゃね。あんたが作った法学装甲はなかなかの出来だったわ。あたしの存在を隠蔽してくれたし、あたしが法を使うことも助けてくれた」

 マドゥは不遜そのものといった表情で、駄目押しのように残酷な真実を語った。

 もう、「奴」から言われるまでも無く理解できる……理屈では判っている……

 一ヶ月前から、僕が「エシャ」の周りに作った「法学装甲」を何度と無く通過していたのは、マドゥが自分の身体のパーツを回収するために、「内側から外側に向けて行った『法』の形跡」だった。

 僕が作った装甲は、「ロケットの持ち主を守る」為に機能するものだ。「マドゥ自身が行った法」ならば、一切妨害することもなく通過してさせてしまうのは当たり前なのだ。

「でも、その女に外側から『装甲』を組まれた時はちょっと焦ったわね。そいつの能力を侮りすぎていたと反省したわ。あんたのお陰で中から出ることが出来たけどね」

 つまり、そういうことなのだ……それもようやく理解できた。教授が昨日組んだ法学装甲は、「エシャを守るための物」などでは無かったのだ。逆に、マドゥの「内側からの攻撃」を封じ、「奴が外に出られないように封じ込める」ためのものだったのだ。

 青いクルミのロケットを使ったんだ…… 僕が「エシャ」に握らせたロケットは、本体ももちろん、周辺につけられた補助ソリッドも、攻撃に使える。いくら教授が組んだ強力な法学装甲といえども、その構造を解析する時間は幾らでもあった。あれで「クラックホール」を破壊して装甲内部から脱出したのだ。

 畜生!僕のせいで……こんなことに! 

 教授には、装甲に手を加えるなと言われていたのに、あんなことをしてしまったから……

 僕は何も知らなかった。

 僕は本当に何も知らなかったのだ……だけど……だけど……

「教えて下さい。僕がやってきた事は、一体何だったんですか?」

僕は、誰に言うとも無しに叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

「ただの『道化』ね! キャハハハ……」

 マドゥがせせら笑う。

「エシャが僕にしてくれた事は、全て嘘だったとでも言うんですか?」

「そうよ! 全部お芝居よ! 何を言えばあんたが喜ぶか、計算で解析すれば全部判っちゃうもの。簡単よ!」

 僕を愚弄する。

「僕の、エシャへの気持は……何だったんですか?」

「ただの幻ね!」

 僕を嘲笑する。

 エシャと同じ顔をした魔女が……

「僕は、僕の存在は……」

「虫けらに過ぎないわ!でなければ、ただのゴミね! キャハハハ……」

 

 全てが、崩壊していく……

 只の名前しか持たず、何の力も無い、空っぽの僕ですら……


 いまだ何物にもなっていない、「ただのマサト」ですら、霧消していく……


 あの日に見えたと思った未来も……ヒマワリ畑の向こうに見た幸福な世界も……


 全てが……幻……だって……?


「違いますよぉ!」


 気が付けば、いつの間にか、ホタルコちゃんが、うなだれた僕の両肩を掴んでいた。僕の目を真っ芯から見つめて、必死に訴えかけている。

「違いますよ!マサトさんのしてきたことには嘘は無いです。あの人の存在は、偽りだったかもしれない。だけど、あなたは自分の心に嘘はつかなかったです。人を助けようとする優しさは、本当だったです。それは、誰にも否定できませんよぉ! あの人にも、誰にだって、否定なんてできないです! 少なくとも、私は知ってます。私は、あなたの優しさを知ってますよぉ!」

 ホタルコちゃんは涙声だった。ぼろぼろと大粒の涙を流している。

こんな僕のために……無力で愚かな僕のために泣いてくれるなんて……でも……

「でも……僕は……じゃあ僕は何をすればいいんだ……これから先……」

「戦いましょう!」

「戦う?……何と? 何のために?」

「戦うんです! あの人を倒すためじゃないです。あなたが費やしてきた、これまでの時間と戦うんです。マサトさんの、これからの時間とも戦うんですよぉ……」

「僕の……これから……?」

 と、僕は言いかけた。

 ホタルコちゃんは僕の鼻をつまんだ。

 そして、いきなり僕の口に唇を押し付けてきた。

 激しく、荒々しく、そして、限りない慈愛に満ちたキス……

 再び、立ちくらみのような、空間認識が消えていくあの感覚。

 僕らは縮小をかけられて、教授の「体内」に入り込んだ。同時に、教授の頭上斜め上の地点へ、僕の視点が移動した。

「マサトさん。ボードを『戦闘レイアウト』にして下さい。敵の攻撃が始まります」

 既に、ホタルコちゃんは、猛烈な勢いでボードを操作している。

 教授の方もボードを操作しているが、様子がおかしい。いつもの、不遜で自信たっぷりの教授とは違う。

「どうしたんですか?教授!」

「流石に、これはまずいな。最悪のシナリオだ」

 見ると、前方のマドゥの周囲に、巨大なマトリクスや文字群が浮かび上がり始めた。

 脳の芯まで響く轟音。

 そして地面から噴き出す振動。

 それは、際限なく都市全体に増幅して行き、遂に臨界点を超えた。

 雷鳴が至近距離に直撃したような爆音が耳をつんざいた。

 同時に、周囲に見える、ありとあらゆる建造物の表面が、粉塵を上げて炸裂した。

 正確には、建造物を何重にも覆っていた、「塗料の膜」が粉々になって弾けたのだ。

 もうもうたる砂塵の中から現れたのは、極彩色の町。

 屋根も壁も窓枠も階段も……見渡す限り、都市の全てが鮮やかな色彩に飾られている。あの絵に描かれていた、三百年前のアアアの姿が復活したのだ。

「まずいな…………」

「つまり、教授……これは……? マドゥが当初意図した通りの完全無欠のフォーマットが完成したって……」

「そのようだな。まず過ぎるぞホタルコ嬢。『あれ』を使うしかないか」

「分かりました。『ナクソクス』を稼働させます」

 教授はポケットから、アクセサリーのようなものを持ち出した。様々な鉱石が連なった、一見首飾りにしか見えないものだ。これは……?

「『ナクソクス』ってそれですか?何かのソリッド?」

「ホタルコ嬢、解説!」

「ええ、あれは教授が組んだ『法学装甲』で、護身用に肌身離さず持ってるものです。寝てる時に奇襲を受けても、瞬時に『起動』するように組まれてます。普段は休眠状態にしていて、連続稼働はできるだけしたくないんですけど……」

「なるほど、教授は、いつも無防備に見えてたけど、きちんと防御はしていたってことですね。そりゃそうだ。でも、『使いたくない』っていうのは何で?」

「教授がアクセサリーとして気に入ってるからです。凄くお金がかかってるんですよぉ。教授が持ってる唯一の宝飾品なんです。そういう意味でも教授の『切り札』なんです」

「しかも、これがいつまで持つか判らんな。見てみろ少年」

 対して、マドゥの方は余裕しゃくしゃくだ。既に勝ち誇った表情を浮かべて、身体の周囲に無数の光を生み出している。まるで巨大化したホタルの大群のように。

「そろそろ、来るぞ。手始めに、奴が奪ったこちら側のソリッドを、まとめてお見舞いして来るつもりらしい」

「そ……そう言えば、こっちの『手持ちのソリッド』はどれだけあるんですか?なんだか、随分あいつに吸い取られたみたいだけど……」

「そいつは、口にするのも嫌だが……」

「嫌でも教えて下さいよ。いくつあるんですか?」

……」

「そ、そんな!」

「だから、と言った!」

 僕のボードに、敵が発動したソリッドが、青い光点で表示され始めた。

 凄い数だ……どんどん増える!

 「岩窟王」は二百以上……「くらやみ乙女」は……一体何粒あるんだ? まるで、ボードの表示が、満天の星空みたいになってる。

 こんなに「同時発動」できるなんて、有り得ない。

 敵は、とんでもない奴だ!

 いや、本当に凄いのは、それを可能にする、「この都市のフォーマット」の方なんだ!

 しかも、これは敵の本命の高級ソリッドじゃない。「前菜」に過ぎない。でも、この状況でも、ホタルコちゃんは、冷静にボードの操作を続けている。何て子だ、教授よりもよほど腹が据わってる。

「セッティングは『ガクアジサイ』でいいですね。『ナクソクス』入ります!」

 教授が首から下げた首飾り「ナクソクス」が振動を始める。瞬時に周囲に『法学装甲』が形成される。表示の数値を一目見ただけで分かる。こいつは、恐ろしく強力だ! しかも基本階層フォーマット対応で、ここまで組めるのか。教授はこれまで、一切これを起動せずに戦ってきたけれど、やろうと思えばこんな防御を敷けるんだ!

「敵の『法』が来ます。マサトさんも『起爆』に備えて下さい!」

 次の瞬間、無数の「天秤ばかり」と「大豆」が空中に出現した。ついで、それが放つ閃光と爆炎で視界が埋め尽くされた。

 同時に身体がねじ切れそうな加速!

 何が起こった?

「少年、気を失うな。それから、少し振り回すから、乗り物酔いに気をつけろ!」

 周囲の風景が、物凄い勢いで流れている!

 教授は「アアア」の町を疾走している。

 と言っても、足で走っているのではない。教授の両足は、一枚の大理石の上に乗っかっている。これは、フローティングいかだの燃料につかう大理石「リトルハックル」を使った高速移動?

 何て原始的な! これは半分以上「体術」じゃないか!

「通称『岩石サーフィン』。こんなことをする学者は私だけだろうが『大道芸』の範疇だな。こうなると、『唯一の防御手段』は『物理移動』だけだということだ!」

 マドゥの姿は見当たらない。ボードの表示を見る限り、奴は停止したままだ。

 このスピードについてこれないのか? いや、違う。奴からすれば、遠隔照準で問題なくソリッドの雨あられを、こっちに射出できるのだ。

 爆炎に巻き込まれながら、教授が叫ぶ。

「ホタルコ嬢、少年、お宝の山だ。データ入力を急げ」

「マサトさん。周囲の状況をしっかり目に入れてください。『データの吸い上げ』と『入力』はこっちでやります」

「しっかりその目で見てくれ。こうなると君の目が頼りだ」

 「お宝」というのは、敵が攻撃をすることで判明する、『フォーマットの形状』『法の構造データ』だ。敵が大量の攻撃を仕掛けてくるのは、反面こちらにとって不利なことばかりでもないのだ。そうだ。僕には「動体視力」という特技があったんだ。敵の攻撃を目に入れることで、大量の「データ」をホタルコちゃんに送ることが出来るんだ。

 教授は、「石のサーフボード」に乗って、爆炎の中を疾走していく。しかし、時折、後方に過ぎ去っていく建物の中に、粉々に粉砕している物がある。

 あれは……? 何が起こってる?

「思った通りだ。この町のフォーマットは未だに完全無欠になっていない。そこだけが突け目だ! 一つはクーデター以後、マドゥの意図に反して改造を加えられてしまった部分……その見分け方は簡単だ。少年判るか?」

「ええと……改築された部分?……」

 僕は、周囲を見回したが、それは一目瞭然だった。

「そうか! 色ですね? !」

「ご名答! その部分は、フォーマットによる防御から外れているから、敵の攻撃で粉々に崩れてしまう。その瓦礫と噴煙で、こちらへの照準はつけづらくなってるわけだ。ホタルコ嬢!」

「何ですか?」

「目ぼしいソリッドが周囲にないか? 出来れば、一つでも拾いたい」

「ええと……そうですね。突き当たりのT字路を左に曲がった先に、『牛乳屋』があります。改築された家だから、敵の攻撃で壁は壊れるはずです」

「よし『シャイロットストーン』(牛乳)か。そいつはいい!」

 教授は、T字を左へ急旋回すると、道路の左側にある白い建物の付近で制動をかけた。

 教授の周囲で起爆する無数のソリッドの爆炎が、壁を吹き飛ばす。

 舞い散る瓦礫と噴煙。

 その奥に、建物の内部がちらりと見える。やはり、牛乳屋だ。

 無数の牛乳瓶の破片と白い液体が、宙に舞っている。

 その中に、割れずに残っている一本の牛乳瓶があった。教授は、それを手ですばやく空中でキャッチすると、再び加速して道路を疾走していった。

 やがて、嘘のように攻撃が止んだ。何とか僕らは無事だが……

 しかし、教授のナクソクスは相当に消耗している。個々の鉱石がかなり磨耗し、細かい亀裂も入っている。これがいつまで持ってくれるんだ……

「少年、敵の『本命』が来るぞ。気を抜くな!」

 気を抜くな、と言われても、僕は「見ること」しか出来ないのだけれど……

 ボードを見ると、今までに見たこともない強力な青い光が沢山現れている。

 なんだ、これは? 「高級ソリッド特有」のスペクトルだが……

 ひょっとして…

「これは、タングステンですか? 『過去へと満ちる月光』?」

「いいや、兵器として『単純起爆』させるのだから、この場合のソリッドネームは『泉光星』だ。言わずと知れた、最強力クラスの『コモンソリッド』の一つだ。いよいよ『上位階層のフォーマット』を使用してくるぞ」

 そんなものが……二十……三十……?

 信じられない! 四十五個も『同時発動』している!

 しかも、これは「第六階層」?……

 ホタルコちゃんが叫ぶ。

「あと五秒で初弾が着弾します!」

「少し、振り回すぞ! 覚悟しろ少年、ホタルコ嬢」

 鮮烈な赤色の爆光と共に、轟音がとどろく。

 胃が丸ごと引っくり返りそうな衝撃。

 何だこれは? まだ……生きている? どうやら僕らは無事らしい。

 周囲は、猛烈なスピードで流れる町並み。さっきよりもスピードが上がってる? おまけに教授の動きが直線じゃ無い。左右に激しく蛇行しているんだ。

 さっきも起爆の直前に、左右に動きを揺さぶったのか?

「これも思った通りだ。。後から増築した六角形の城壁も存在している。それで、今でも『直線が微妙に歪んでいる』のだ。こうして、左右に高速で揺さぶりをかけると、照準が定まらないのだな」

 ホタルコちゃんの動きに変化が出てきた。これまでの入力結果を教授に渡している。

「とりあえず、データを『3ブロック』送りました。それで、どうですか?」

「よし、良くやった。君は相変わらず優秀だ。これで突破口が開ける。教主に連絡をつけろ。至急だ」

 え? 教主に? こんな状況で、一体何の用があるんだ?

「教主殿、教主殿。聞こえますか? カノッサです。『書庫』の南側の窓を開けてくれませんか!至急お願いします!」

 「書庫」だって? こんな時に、一体何を……?

 ボードを見ると、僕らは都市中央の大聖堂に向かっているようだ。この建物の三階には、「書庫」があるのだ。教授が「最高教典がある」と断言した、あの「書庫」だ。

 教授が胸の前で両手の平をパンと音を立てて合わせる。

 それと同時に、初めての垂直方向への加速。

 僕らは斜め上に、鋭くハイジャンプをした。

 目指す場所は、もちろん聖堂三階の「書庫」。

 しかし眼前の空間に、待ち伏せしたように出現する、一本のタングステン「泉光星」。

 僕らが、ここに向かうことを読んでいたのだ!

 咄嗟に、教授は空中で左に急旋回する。

 耳をつんざく爆音と共に、真紅の巨大な光球が一点から放出される。

 都市の防御が不完全なため、書庫の壁の一部が破壊される。瓦礫やガラスの破片の嵐が巻き起こった。教授は派手に吹き飛ばされたが、照準がずらされたため、何とか無事らしい。

 しかし、その代償に、ナクソクスが派手に損傷を受けた。もうボロボロだ。

 もう、これじゃ一発の攻撃にも耐えられない!

 教授はどこにいる? それは僕の位置からは見えない。

っていうか……僕らは今「どこ」にいるんだ……?

 周囲にあるのは、なぎ倒された本棚、床に散らばった文献や書籍の数々……

 そう、僕とホタルコちゃんは、一時的に教授の「体内」からはじき出されたのだ。聖堂三階の「書庫」の床の上に、僕とホタルコちゃんは投げ出されている。

 ボードの表示を見ると、教授の方は聖堂の外を取り巻いている道路を疾走中だ。

 それを確認した直後、教授からの通信が「文章データ」でボードに届いた。

「私はこれから聖堂の周辺を一周して、敵の目をひきつける。これから送るデータに従って、その書庫から『最高教典』を探せ。時間の猶予は二十秒。それ以上はお前達にかけた『遮蔽幕』が持たない。そこにいることが丸分かりになるぞ」

 「遮蔽幕」……?と言われて、ようやく気がついた。僕にもホタルコちゃんにも、「糸を結び付けた生のイチゴ」が首から下がっている。これを咄嗟に使って、敵の攻撃が起爆する瞬間、爆炎に紛れ込ませながら、僕らをここに送りこんだ。教授の読みのほうが、一枚上だったということだ。

「マサトさん。急いで下さい。次の攻撃を受けたら、教授は……!」

 そうだ。もう、教授の防御は裸同然なんだ。僕らは『最高教典』とやらを探さないといけないらしい……この表示によると……Hの棚か?……Hと言うと……この列か?

 ん?……なんだ……? この列の三段目の右から八冊目……って? これが……? 嘘だろ? 間違ってる!

「ちょっと、ホタルコちゃん、これ違いますよ。『教典』じゃないですよ!」

「いいえ、それでいいんです。それの百五十六ページを引き破って下さい。急いで!」

 ボード上に再び敵のソリッド『泉光星』の反応が表示された。位置は、教授のすぐ背後だ。これが、とどめの一発のつもりか!

 それは瞬時に真紅の輝きを放ち、猛烈な爆炎で教授を焼き払う……

 そのはずだった。

 しかしその直前、僕は、問題の「最高教典」百五十六ページを引き破っていた。続いて、ホタルコちゃんがそれを即座に焼き払った。

 教授の背後で『泉光星』は起爆した。しかし、それは中途半端に赤紫の光を放っただけだった。

 光の流れも、妙な方向にそれていく。これならば、間一髪、教授は無傷ですんだはずだ。

 ほっと、胸を撫で下ろした直後、書庫にいる僕らを中心に、凄まじい衝撃波のようなものが、周囲へ広がって行った。一瞬、鼓膜に激痛が走り、脳味噌が揺さぶられた。

 な、なんだ、この衝撃は……?

「マサトさん、やりました! あれを見てください!」

ホタルコちゃんが窓の外に広がる風景を指差している。

 え?「あれ」って……?

 僕は、驚きの余り、危うく大声を上げる所だった。


 ……


 空だけじゃない。まるで、一枚の絵画を斜めに切断して、少しずらしたように、風景全体に断裂が走って見えているのだ。これは……?


 「 


 教授の通信が再び届いた。

「よし、良くやった。これで後三十秒は稼げる! あと八冊の『副教典』を探し出せ。その後でお前達を、そこから回収する!」

 え……? え……? あれで合ってたのか? あれが、「最高教典」? 他の「副教典」って……二段目の六冊目……これも「教典」? 三段目の十八冊め……これも?


 どうなってるんだ、これは……!


 指定された「教典」はあっという間に集め終わった。それらは、書庫に分散しているのではなく、一つの棚に集中して置かれていたからだ。

 やがて、「サーフィン」に乗った教授が、僕らのいる三階まで、フロア中央にある階段を滑るように昇ってきた。

 何故、階段を? フォーマットの損傷で、垂直方向にジャンプが出来なくなってるのか?

 教授は、散らばった瓦礫を蹴散らしながら、床を滑り、僕らの間近まで来ると、一瞬のうちに、僕ら二人を「教典」ごと自分の「体内」に再び納めてしまった。目にもとまらぬ早技だ。

 文書庫の外に飛び出て、再び地面に降り立つと、教授はそのまま町を疾走していく。一体、何が何だか判らず、教授の「体内」で僕は叫んだ。

「きょ……教授! 『これ』って、一体どういうことなんですか?」

「どういうことも、そういうことも無いな。見ての通りだ。ごちゃごちゃしゃべってる暇は無い。急いで、指定されたページを処分しろ!」

 指定されたページって言われても……集めた本のタイトルは……

「線型代数概論」

「複素関数論」

「多様体入門」

「位相空間論」

……

!」

「その通りだ。。その記述の中の『定理』や『数学理論』や『数式』が、パズルのように組み合わされて、『教典』を構成している。世にも珍しい、『純粋数学だけで構築されたフォーマット』なのだよ」

「数学書が『教典』って……! だって、『神様』は一体どんな名前の誰なんですか?」

「聞いて驚くな。

「い…いちぃ……? 『数が神様』って、意味わかんないですよ!」

「これは、信仰という本来の目的から逸脱した、『手段としての教典』が行き着く究極の姿だな。描かれている世界の定義に、一切『宗教的な意味』が無くとも、フォーマットを稼働させる事が出来るなら、それは『教典』なのだ」

 僕は「線型代数概論」の二百十ページを破った。

 同時に、物凄い地響きがして、視界が揺らいだ。

 またフォーマットにダメージを与えたのか。

 間違いなく、これは「教典」なのだ。訳が判らない!

 不老不死、つまり永遠の生をも実現させる、完全無欠の公理を追及して行った末に、辿りついた物が、高等数学? いかれてる!

 ボードに表示される敵が、移動を始めた。その挙動から察するに、明らかに、さっきまでの余裕が無くなっている。僕らを追っているのだ。これ以上フォーマットを破壊されたくないのだろう。肉眼で直接照準して、一刻も早く仕留めるつもりだ。小心者の僕は、動転した。

「て……敵に追われてますよ、教授!」

「分かってる。とにかく今は全速で逃げるしかない。こっちの防御は崩壊寸前だ。つかまったら終わりだ。それからホタルコ嬢!」

「あ、はい!」

「いまから、そっちのボードに『微分方程式』を送る。一分以内にそれを解け!」

「えええ?それ苦手なんですよぉ!」

「いいから、やってみろ。こっちはこっちでやることがある。それから少年、最後の一ページだけは、こちらで合図するまで破らないように、絶対だぞ。それから、くれぐれもページを間違えるな。それらの本は、人類の偉大な遺産だ。できればこんなことはしたくない」

「分かりました。最後の一ページは合図と共に処分するんですね。で……でも教授。こんなことって……教授はこれを……『数学書が教典』だなんて、一体いつから気がついていたんですか?」

「初めからって……?」

「奴が、前の戦いで使った『透明空間ドーム』の防御。あれは、明らかに『トポロジー』を応用した技術だ。君は知らなかったようだが」

 そういえば、あの時そんな事を言っていた。僕は物理学用語だと思ったのだけれど……

「トポロジーは高等数学の理論なのだな。それから、都市の名前だ」

「『アアア』のことですね?」

 僕は、また別の一ページを破いた。再び、衝撃が起こり、空間の歪みが大きくなっていく。

「『アアア』も別名の『ウウウ』も、恐らくは『アイン』『アイン』『アイン』と『ウノ』『ウノ』『ウノ』、つまりゲルマニ語とスパニ語で共に『1』『1』『1』、二進法で『7』のことだ。こんなことを考える奴が数学に長けていないはずがない」

 にしん……ほう?

「決定的なのが、都市の外形が七角形だということだな。君は、アアアのフォーマットでは、七角形の外角を『何度』として定義しているのか、分かったかね?」

「ええと、全然分かりませんでした。それは誰一人解けなかった、最大の謎ですよ」

「答えを教えよう。それは『七分の三百六十』だ」

「え?ななぶんの……?」

「ぶん……?」

「『三百六十を七等分した数』という意味の数だ」

「えええ?それじゃ『割ったことになってない』じゃ無いですか。『数になってない』ですよ。インチキですよ。詐欺ですよ! だって、割り切れない数だから、その数を正確に表せない事は変わってないじゃ無いですか!」

「いいや、そんなことを言っている時点で、君は全然判ってない。分数は『実生活における数』ではない。『七分の三百六十』という分数は、『』なのだ。アアアのフォーマット上では『』のだ。『数学における数』とは、そういうものだ。人間が『数』だと定義したものは『数』なのだ」

「はあ……」

「かつては、分数は小学校でも教えていて、誰でも知っていた。三大教団時代には、実生活で役には立たない、『知識のための知識』が溢れていたのだ。しかし現在では、この世界には、フォーマットで扱いやすい、1から9までの運命数しか存在しないかのように認識されて、数学は壊滅的に衰退してしまった。その発想では、この都市のフォーマットは絶対に理解できない。外形の定義が『分数』である時点で、ここのフォーマットが『有理数』上で稼働している事は判っていた。実際には、有理数どころか、全ての数字が『複素数』として扱われている。建物の形状も道路も、フラクタル関数を使用して作られている。今では絶滅寸前の高等数学を駆使している事は初めから確実だった」

 ゆうりすう?……ふくそ……?……もう、僕には何が何だか分からない。ともかく、僕は指示された、全てのページを処分し終わった。残るは、教授の指示を受けてから処分する、最期の一頁だけだ。

 もう、アアアの風景はフラフラと震え、揺らめいて見えている。僕の頭もくらくらしてきた。

「しかし、建設当初のアアアのフォーマットは、不完全なものだった。マドゥが無期限で潜伏することを決意したのは、フォーマット完成のためには、『数学理論に穴があった』からだ。それも『致命的な穴』が。時代が巡って、誰かがそれを埋めてくれるまで、実に三百年間も、じっと待っていたのだ」

「何ですか?その穴って?」

「リーマン……?」

「それに関わるものの精神を、崩壊させるとまで言われた『素数』に関する超難問だ。実は、先月の十六日に、これの『完全証明』が達成されたのだな。それで、マドゥは全ての『素数』を、つまりアアア教典における『神々』を自在にコントロールする目処が立ったのだ」

「それで、先月十六日以降の事件を調べたんですね。マドゥは、それをきっかけに復活に向けて動き出した……でも、教授はそんなことを良く知っていましたね」

「知っていて当たり前ですよぉ。

 ホタルコちゃんはこともなげに口を挟んだ。

「えええええ!!!!」

「うむ、暇つぶしに取り組んでみたら、たまたま証明できてしまったのだな」

「それじゃ、この騒動を起こしたきっかけは、ある意味で教授だったんですね?」

 僕は、呆れて物も言えなかった。まあ、教授に落ち度は無いのだけれど……

「まあ、そんな所だ。それはそうと、『完全無欠のフォーマット』という物を考える人間が、数学に目をつけるのは至極当然なのだな。

「それ、どういうことですか?」

「例えば、歴史上の事実が事実であるためには、史料が正しいと『信じる』必要がある。物理法則はいまや初めから正解が無い。しかし、数学理論だけは違う。正しいものはのだ」

「なるほど! その内容が、その内部では論理的に数学的に正しいことが保障されているから、アアアの『最高教典』は、他の信徒が『所有する必要』も『信じる必要』もないのですね?」

「そういうことだ。『教典が描きだす世界観』は、マドゥ一人が知っていて、信仰している事になっていれば、その『真実性は論理的に完璧』なのだ」

 しかし……と、僕は思った。「神様が数字」で、数学的にパズルのように組み上げた「教典」なんて「信じる」も何も無いだろうと。しかし、そういう問題じゃないのだ。「信仰している事になっていると言う事実」がフォーマットにとっては必要なのだ。ここまでくると、一体、信仰ってなんなんだろう……

「しかし、私に言わせれば、この発想には弱点がある。数学のみで、論理だけで構築されたフォーマットは、逆に論理と理論だけで解析できるのだ。それを行える能力さえ持っていれば」

「それで、教授は短時間で、ここの『基本フォーマットの概略』を解析できてしまったんですね。ん? 待ってください……ひょっとすると、マドゥは僕の口から教授の存在を知り、調べたことで、自分にとって、危険な人物だと知ったんじゃ……」

「恐らく、そうだろうな。だから、君を殺そうとした。私に会うのを阻止しようとしたんだ。それから、数学だけで構築したフォーマットの弱点は、論理的に厳密すぎて、ダメージに弱いことだ。丁度、全ての物質の中で最も硬いダイヤモンドが、反面非常にもろいように。私に言わせれば、きっと三百年前の、不完全だった『アアア』の方が、あいまいさを残しているぶん、余程強力だった。奴にとっては皮肉なことに、完全無欠になったことで、アアアは弱体化したのだ」

「教授! 方程式解けました。『解』を送ります!」

 ホタルコちゃんが嬉しそうに叫ぶ。そういえば、「方程式」とやらを解いていたんだっけ。

「よし、上出来だ。私の『解』と一緒だ」

「えええ? それじゃ、私が解かなくても良かったんじゃないですかぁ!」

「つべこべ言うな。検算をしてもらったんだ。これだけは間違えられないからな! それから、少年! 最期の一ページを処分してくれ」

「あ、はい! 分かりました!」

 僕は、手で持ったままになっていた、整数論の一ページを勢い良く引き破って焼却した。それと同時に、それまでで最大級の轟音が轟き、地面が大地震のようにドカンと揺れた。

 直後に、僕のボードがブラックアウトする。

「ちょ……教授。これじゃフォーマットを破壊し過ぎじゃありませんか? 敵の位置すら分からなくなりましたよ!」

「それが狙いだ! 奴がこっちを追えなくなる」

「でも、こっちも敵の位置が分からないんじゃ、元も子も……」

「マサトさん! それは想定済みですよぉ! 教授、そこで右に曲がって下さい!」

「分かった! 次は?」

「その先で左!」

 ホタルコちゃんの指示通りに、教授は大理石のサーフボードに乗って道路を疾走していく。

 一体何をやってるんだ? 今のこの状況で、どうやって行き先を指示できる?

 ホタルコちゃんのボードにも、敵の位置は表示されていない。

 だけど、彼女は目をつぶって、ボードの上で細かくガラスの振り子を振っている。

 そうか!「コックリ」だ!

 敵が移動した時に目に入れた、視覚の「記憶」を辿ってる?

ホタルコちゃんの手が空くのを待って、僕に最後のページを処分させたのは、これのためだったのだ。

 僕は、思わず大声を上げそうになった。教授が、音も無く急減速をかけて、道路上で停止したのだ。

 そして、地面にボードとソロバンを置いて、計算をし始めた。ホタルコちゃんが僕の横でボードの操作をしながら、声を潜めて教授に話しかけた。

「教授……敵は隣の道で停止しているようですけど……」

「分かってる。だから、こっちもここで停止した。恐らく、奴はこっちの居所に気がついていない。少年も大きな声を立てるな。気がつかれたら、全て台無しだ」

「マサトさん。見てください。敵と私達の位置はこことここです。」

 ホタルコちゃんは、指先で地図を示して教えてくれた。コックリは「法」ではないので、ボードには表示が出ないのだ。僕らがいる道路と平行に走っている隣の道路に、マドゥは停止しているらしい。つまり、僕らと敵の間に横たわるものは、建物一つだけしかないのだ。

「チャンスは一度きりだな。奇襲をかけて、勝負をかける」

 考えてみれば、こっちに残された攻撃ソリッドは、泣いても笑ってもこれしかないのだ。そして、防御の方は裸同然。これで敵を倒せなければ後は無い。

「もう、奴もこの状態では、高級ソリッドを新たには『発動』できまい。既に『起爆待機状態』になっている奴も、長くは持たないだろう。少年、『敵の弾』は幾つ残っている?」

 敵が「発動」させた「泉光星」は四十五個あった。そのうち、「起爆」させたのは三個。四十二個は残っているはずだったが。

「ええと……八個……?ですね」

 敵のソリッドは、巨大な光点で表示されているから、この状態でもさすがに数え間違いようが無い。

「なるほど、随分減ったな。『フォーマット』が損傷を受けたときのショックで、かなりの数の『起爆待機状態』が『リセット』されてしまったんだろう。それが全部消えたら、奴は迷い無く逃亡する。仕留めるなら今しかないな。逆に、それが生きている間は、奴も勝負は捨てないだろう」

「でも……こんな状態じゃ、こっちだってソリッドの『発動』が出来ないんじゃ……」

「それは違うな。君は岩窟王をなめているぞ。岩窟王とはそんな甘いソリッドではないのだ」

 教授は、自分のボードの上に「岩窟王」を出現させた。残された二つの「岩窟王」のうちの一つだ。

「『岩窟王』こと神秘学者ドレダによって発見されて以来、形状やサイズ、材質などを、千年にわたって、徹底的に熟成されてきた『岩窟王』は、恐ろしくタフなソリッドなのだな」

 と言いながら、いくつかの単語を入力していく。

 すると、「岩窟王」はブーンという音と共に、鈍い光を放ち始めた。

 凄い! 「フォーマット」がこんなにメタメタの状況でも「発動」するのか!  確かにこれは、ある意味で、最強のソリッドだ! なるほど、ってことなのか。

「よし、最終調整が終わった。行くぞ。ホタルコ嬢!『コンビネーション』上げろ!」

「変動値が三十もありますから気をつけて!『ユキヤナギ十五』で、ソリッドを『上程』します」

 教授の指先に、オリーブの実が出現する。言うまでもない、瞬間高速移動「マンザの朝は青い」だ。でも、今のコンディションで、どうやって、隣の道まで移動する? 屋根を越えるようなジャンプは出来ない。

 ボンッという音と共に、教授は僕らが背にしていた建物のドアの中に、一瞬のうちに飛び込んだ。

 僕の目には、教授が家の中をすり抜けていく様子が、克明に見える。

 玄関を抜け、リビングを抜け、その隣の寝室に飛び込んでから、窓に激突した。破壊された窓枠と無数のガラス片を撒き散らしながら、教授は隣の道路へ踊りでた。

 前方に、紛れも無い、マドゥの背中があった。

 周りに八個の『泉光星』が真紅の光を放って浮いている。

 マドゥが振り向く。

 しかし、教授を見据える目は、全く慌ててはいない。その距離は三メートル。

 お互いに肉眼での直接照準だ!

 マドゥは『泉光星』の一つをぶつけてくる!

「少年、来るぞ!良く見てくれ!」

 僕は『泉光星』を凝視する。

 動き、形、色、光の強さ。一つでも見逃すと、命取りだ。

 僕のこの目で、教授を、ホタルコちゃんを守るんだ。

 僕の目には、スローモーションのように、「泉光星』が「起爆」する様子が見える!

「ホタルコ嬢、微調整!」

「終わってます!そのまま行ってください!」

 敵の「泉光星」が起爆する。

 それと同時に教授が、指先からくらやみ乙女を射出して、敵の攻撃を迎撃する。

 ん……? 数が多い! 2、3、4……

 「直列6連鎖」だ!なんて事だ!

 手持ちの弾を全弾使ったのか! 六個に連なった、鮮やかな緑色の光がほとばしる。「泉光星」が同時に「起爆」し、真紅の爆光を発散させる。

 両者は、補色になって中和し合い、爆光は教授を避けて周囲に拡散して行った。

 敵の攻撃を、からくもしのぎ切った。

 その直後に、再び教授の瞬間高速移動。「マンザの朝は青い」の二段階目が「起爆」した。

 ベストタイミングだ。

 教授は、マドゥの側面に回りこむ。奴の装甲の急所は真正面にある。

 ホタルコちゃんが方程式を解いて特定した「クラックホール」だ!

 敵は、この動きに対応できていない。

 教授の手の平から、すかさず次のソリッドが出現する。

「クラックホール」に、「一発目の岩窟王」を叩き込んで装甲を砕く。そして、最後に残された「二発目の岩窟王」で、丸裸になった敵に止めを刺す……

 僕は、そうだとばかり思っていた……。


 しかし、違っていた。


 教授が出現させたのは、「螺旋構造で連結した、二つの岩窟王」だった! 何てことを!


 僕は思わず叫んだ!

「教授!駄目です!二発とも使っては!」

 そうだ、ここで二発使ったら、もうソリッドは何も残ってない。敵の法学装甲を砕いても、その後の攻撃手段が無くなってしまう……一体何を考えているんだ!

「いいや、これで無いと通用しない!」

 教授が叫んだと同時に「岩窟王の生還」が「起爆」した。

 様々な色に変化する、「多重螺旋」独特のうねるような爆光が、轟音と共に放出された。

 僕らも爆風で吹き飛ばされる。

「フォーマットによる防御」が機能していないため、周囲の建物はなぎ倒され、瓦礫の嵐を生み出した。

 まもなく爆風は止んだ。

 続いて、もうもうと立ち込める土煙が、風に流されていく。

僕らの前方に、七つの赤い光球が浮かび上がった。その中心には、勝ち誇ったように屹立するマドゥの姿があった。

 「岩窟王」は、確かに奴の「法学装甲」を跡形も無く粉砕した。

 これで、防御手段を失ったことでは五分と五分だ。

 しかし、こちらは攻撃手段を全て使い尽くした。

 そして、敵はいまだ七発もの超強力ソリッドを「起爆待機状態」に置いている。

 誰でも一目で判る構図だ。

 もう勝負あった……お終いだ……

 奴には、こちらのやり取りが聞こえたのだ。もう、手持ちの弾が尽きたことを知られてしまった。一体、教授ともあろう人が、何てミスを!

 ところが……

「さて、ここで最後の軌道調整をさせてもらおうかな……」

 いきなり、教授がそんな、謎めいた事を口にした。

 そして、右手で星座盤を出現させる。続いて、中心に盛るのは、青い粉末。この数日、頻繁に行ってきた、「例の作業」だ。

 何だ? 何で「今」、こんなことを始める……?

 教授の顔は全く焦っていない。むしろ余裕しゃくしゃくだ。

 青い粉末がボンッと燃えた。そして、教授の前方に淡い光球が出現する。

 その中心に現出するのは、一つの小さな物体。

 それはやがて、一つの輪郭を明確に描きながら拡大していき、最後には、疑いようも無く一つの物体に完成して行った。


 青銅の天秤ばかり……「岩窟王」だ!


 僕は再び叫ぶ!

「な……何で!」

「君と最初に出会った時の戦いで、私は最後に「三重螺旋の岩窟王」を使ったはずだ。覚えているか?」

「あ……はい……確か……」

 !」

「そ、そんな!」

「あの時、奴に逃げられるのが必至だったから、咄嗟に一つを残したのだ。そして、奴が作った細く長大な『空間トンネル』の形状に合わせて誘導しながら、この三つ目を『隠蔽状態』で運搬して行ったのだよ。あの『トンネル』が、作った本人ですら壊せない事を逆手に取ったのだな」

 だから、あれだけ頻繁に星座盤を使った「軌道修正」が必要だったのだ。

 空間トンネルを正確に辿れるように……

 マドゥの顔色が、見る見るうちに変化した。流石にこれは予測できなかったのだろう。

「あの、空間トンネルの『出口』は、我々の住む都市から何千キロも隔てて、奴が寝ていた寝床の間近に空いていたということだ。初めの予定では、奴の寝床の周りを法学装甲でガチガチに固め、身動きを取れなくしておいて、この『岩窟王』を装甲の内側にトンネル出口から送り込んで、内部から奴の頭部を破壊するつもりだった。大分予定が狂ったが、この一つは、ずっと計算に入っていたのだよ」

 だけど……それでも、ソリッドはたった一発に過ぎない。敵は超高級ソリッドを7発も残しているのだ。

 マドゥは明らかに冷静さを失っていた。

 手持ちの七つの『泉光星』を全て、こちらに向けて射出してきた。こうなると、先手必勝だ。お互い防御は無いのだから、最初に攻撃したほうが勝つのだ。

 ナクソクスの防御が崩壊寸前の教授に向かって、起爆寸前の七つの『泉光星』が襲い掛かった!

「ホタルコ嬢、ここだ! 出せ!」

「はい!」

 教授の手の平の上に、なにやら大きなキラキラした物体が出現した。

 様々な大きさのガラス棒やガラス玉が、複雑に組み合わされたオブジェ……ホタルコちゃんが延々と制作していた、あの自作ソリッドだ!

 空間を切り裂くような鋭い爆音。

 真っ白な光の破片をまき散らせて、オブジェが粉々に砕けた。

 続いて、七つの「泉光星」が、同時に巨大な「起爆」を起こす。

 周囲が真紅の光に包まれた。

 しかし、僕の耳には爆音が一切聞こえてこない。

 音という音が一切消えてしまった。教授の周りも無風だ。

 その代わり、直前に奇妙な衝撃が僕らを襲った。

 鼓膜を叩かれるような痛みが脳内に響いたのだ。

 そして、マドゥだ。奴の方にも異変が起こっているらしい。冷静さを失って、周囲を見回している。

 何が起こった?……何が起こったんだ?

「少年、君のボードにもデータを転送したぞ。それで判るな?」

 教授は勝ち誇ったような表情で、僕に語りかけた。

 手元のボード上の表示を確認してみた。

 僕らを「丸い見えないドーム」がすっぽりと覆っている……空間のない空間、空間の断裂で作られた、法学装甲が形成されている……?

 これが、敵の攻撃を全てシャットアウトした?

「教授……! 『これ』って……まさか……!」

「そうだ、名づけて、『麗しき八月のアルベドンナ』 使使。しかも、さらに私なりの改良を加えて、な……」

凄い! 敵と同じものをあっと言う間に実現してしまうなんて!

 しかも、全く同じじゃない。表示を見ると、僕らだけでなく、マドゥの方も、もう一つのドームで同時に閉じ込めてしまったんだ。

 そして、「防御ドーム内部」と「外の空間」とをつなぐ「トンネル」が、恐ろしく細い。直径が1ミリも無いのだ。これじゃ、敵も味方もソリッドは通せない。

「こいつは2分しかもたない。しかし、逆にその時間で、こっちは『最後の岩窟王』の『チューン』をゆっくり行えると言う事だな」

 そう言いながら、教授は手の平に「岩窟王」を載せた右腕を、マドゥに向けて真っ直ぐに突き出した。「岩窟王」の周りには、「チューン」で「入力」された単語が浮かび上がっている。

 そうか。この状態が時間切れになって、お互いのドームが消滅した時には、こっちの攻撃準備が終わってる。それに対して、あっちは攻撃手段も防御手段も一切無い。

 つまり、これで「詰み」だ。奴は、完全に終わりだ!

 透明なドームに閉じ込められて、マドゥは青ざめている!

 そう……僕が好きだった、エシャと同じ顔のままで……

 再び、僕の胸が激しくうずいた。

 その時、一瞬だけど思ってしまった。

 教授……あなたのその力で僕の記憶を消して下さい……と。

 騙されていた頃の僕に、何も知らなかった頃の僕に戻して下さい……と。

 あの人が虐殺者でも、狂人でも、僕を利用しているだけでも何でもいい。エシャがいた頃の僕に戻って、死んだように生き続けて行きたいと……だから、その人を殺さないでくださいと……

 そんなことを一瞬だけど思ってしまったのだ。


(少年……聞いてるか?)


 え……?

 身体の中から、教授の言葉が響いてきた。何だ……これは……?

(今は、接触通信で電気的に君の脳に言葉を送ってる。君も、頭の中で声を出せ。この状態だと、ちょっとやそっとじゃ、奴に声は届かないだろうが、念には念を押そう)

(な……なんですか……?一体)

(悪い知らせがある……)

(え?)

(完全に一本取られた。奴に「ソリッド」を一つ、こっち側に送り込まれた……)

(え? どこにですか? そんな表示、ボードのどこにも……敵の弾は全部起爆しましたけど……)

(派手に大型ソリッドを起爆させたのは、ダミーだ。本命は、「超極小ソリッド」だった。それを防御ドームが閉じる直前に撃ち込まれた。局所的に「法学装甲」を針のように突き破って、私の「体内」にだ)

(体内?)

(膝のすり傷から、毛細血管の中に侵入させられたのだな)

(そんな! ソリッドって……?……「物」は何ですか?)

(君も良く知っている奴だ。暗殺に良く使われる、質量辺りのポテンシャルが最強の高級ソリッドと言えば判るか?)

(「ラントよ故郷に帰れ」(ダイヤモンドの原石)?……そんな!)

(それから、嫌なニュースがもう一つある)

(な……なんなんですか? 勘弁して下さいよ、これ以上!)

(さっき、そのソリッドが「君達の近く」を通過した。奴は君達の「居場所」に気がついたらしい。恐らく、君達のそばで起爆させて、私と共に殺すつもりだ)

(ちょっと……冗談じゃないですよ。……って、前から疑問に思ってたんですけど、僕達って「どこ」にいるんですか? 「教授の体内だけど、体内じゃない」って……)

(マサトさん、教授の「肺の中」ですよ。「肺胞の一つ」に入ってるんです。言ってませんでしたっけ?)

ホタルコちゃんの声も響いてきた。

(肺……胞……?)

(しかし、これは「嫌な」ニュースだが、まんざら「悪い」ニュースでもない。言い方を換えれば、敵のソリッドが血管内を丸一周移動して、再び君達に接近するまでは、奴はこれを「起爆」しないということだ。それまでには対抗策を打てる。今、ホタルコ嬢にやってもらってる。彼女の能力に賭けるしかないな)

(対抗策……って……「体内に送り込まれたソリッド」を、どうしろって……?)

 教授は相変わらず、見た目では勝ち誇ったような表情をしている。ソリッドに侵入された事に、気がついていない振りをしているのだ。それに対して、マドゥの方は、逆に恐怖に歪んだ顔をしている。これもポーカーフェイスなのだ。きっと奴は今、心の中では勝ち誇っているに違いない。


(マサト君、聞いて。お願いがあるの……)


 一瞬、その声が誰のものか、僕には分からなかった。口調が「誰のものでもなかった」からだ。


(もしも、ホタルコちゃんの対策が失敗したら、もう私は終わりね。そうしたら、あなた達を身体の外に出すわ。その後は、あなたがホタルコちゃんを守ってね。いいわね)


(え?……教授……? 教授がしゃべってんですか?)


(おまんじゅう美味しかった?)


(は……?)


(おまんじゅう美味しかったって、聞いてるのよ)


(え? え? 何言ってんですか、教授? こんな時に!)


(こんな時だからでしょ。確かに、前回聞いたときから、丸一日は経ってないわね)


(そ、そういう問題じゃなくて……!)


(でも、もう次の機会は無いかもしれない。だから、今しか聞くしかないじゃない)


(教授……?)


(あなたは、私達が何故今回の仕事を請け負っているか、判ってる? 殆ど報酬も期待できない、割の合わない仕事を。何で私達は、こうやって戦っていると思ってる?)


(判りません……僕には何も分かっちゃいなかった……今でも何も判ってない。何が判ってないかも判ってないんです……)


(じゃあ、教えてあげましょう。「あなたを気に入った」からよ)


(僕を……? 何で……?)


(君と初めて会った日、店の中で「長い長いアンケート」をやったでしょ。あの結果で「あなたを気に入った」のよ。只でさえ、今時一人の女の子の為に、全力を尽くして頑張ろうなんて考える男の子がいるなんて、素敵な話じゃない。その上、あのアンケートをやってもらって、仕事を請け負うことを決めたのよ。確かに、マドゥは危険よ。間違いなく、生かしておいてはいけない人間だわ。でも、この殺戮と争いだらけの世界では、それだけの理由でいちいち関わりを持っていたら、身が持たないわよ。まして、「アアア」がどうなろうと、私は知った事じゃない。私が、こうやって戦っているのは、純粋に個人的な義憤なの。君みたいな人の心を弄んだ、あいつを許せないからよ)


(何言ってんですか……教授。そんなこと言わないでくださいよ……いつもの尊大で、不遜な態度でいてくださいよ……そんなこと言われると……僕は、また人の心が分からなくなる……何を信じていいのか判らなくなる……)


(私は思うのよ。今やこの世界は、信仰も、哲学も、伝統も、文化も……あらゆる価値を、人の都合で、勝手気ままにアレンジして、変更できるようになってしまったわ。こんな世の中で、かけがいのないものが残っているとすれば、人と人との出会いだけなのよ。だから、出会った人が一体何者なのか、自分にとってどういう存在なのか。それを、限られた時間の中で見極める、理解するべきなんだと、私は思ってる。どんなお茶が好みなのか、どんなお菓子が好きなのか、それらを一つ一つ知ることによってしか、それは行えないのよ。そして今、私達は全てをホタルコちゃんに委ねているわ。何も他にする事が無い……だったら、答は一つだわ。もしかしたら、最初で最後の機会になるかもしれないのだから、今こそ、一つでも多く言葉を交わすべきじゃない?)


 僕はもう、何も話せない。頭と胸が一杯になって、何を言うべきなのかが判らない。謝罪の言葉……感謝の言葉……余りに多すぎて、この人に、何から最初に言えばいいのか、判らなくなってしまった。


(それが、論理ってものでしょ? マサト君?)


 そう言って、教授は僕の「視中心」へちらりと目を合わせると、いたずらっぽく微笑んで見せた。


(ホタルコ嬢、そろそろだな!)


(痛いですよ! 教授、覚悟して下さい!)


 異様な振動が、突然発生した。

 教授の体内の「どこか」で、「何かのソリッド」が発動したのだ!

 教授がマドゥに向けて突き出した、岩窟王を手の平に乗せた右前腕部の皮膚上に、光点がポツリと発生する。

 次の瞬間、そこに「小さな小さな爆発」が起こり、血しぶきが噴き出した。

 ホタルコちゃんは、教授の毛細血管に、シソの葉の粉末「三脚塔」を送り込んで、敵のソリッド「ラントよ故郷に帰れ」を「追跡」させていた。二つのソリッドを巧みに血管内で誘導し、皮膚近くの毛細血管で「位置が一致した瞬間」に、ホタルコちゃんは「三脚塔」を起爆させた。

 暗殺用には暗殺用。

 「局所的に血圧を急上昇」させて、血管を破裂させたのだ。

 無数の赤血球と共に、「ラントよ故郷に帰れ」は教授の体外に排出された。

 マドゥはそれを、直前に察知し、反射的にソリッドを起爆させたが、遅かった。「ラントよ故郷に帰れ」は皮膚の至近距離で水色の爆光を発したに過ぎなかった。


 やった!これで勝ちだ!


 と、僕は一瞬思った。

 しかし、次の瞬間、僕のズボンのポケットが、にわかに強い輝きを放つ。

 マドゥに残された「最後のカード」が「起動」したのだ!

 5年前「エシャ」が僕を守る為に送った事になっていた、赤いクルミのロケット。それが、突然破裂し、中から「小さなソリッド」が出現した。

 ソリッドは二重になっていたのだ!

 いざとなったら、いつでも僕を「処分」できるようにと、マドゥが仕込んだ物だ。

 トパーズの原石、ソリッドネーム「天井桟敷」。

 外気に触れなければ、「起爆待機状態」を何十年でも持続できる、暗殺用ソリッド……

 威力自体はごくごく小さい。僕が独学で組んだ装甲ですら破れない程度の物だから、マドゥはずっと使えないでいた。

 しかし、これを「起爆」させる、最初で最後の機会が訪れた。

 出血とソリッドの「起爆」の激痛で、崩壊寸前の教授の装甲に、一瞬だけ「穴」が開いた場所があった。

 「天井桟敷」は僕のポケットを飛び出し、教授の「肺」を抜け、「鼻腔」を抜けると、右腕の「傷口」めがけて飛んでいった。

 完全な「ノーガード」だった。

 閉鎖された透明ドームの中で、爆音が異常な反響を起こす。

 紫色の火球が教授の「右前腕部」を粉砕した。

 飛び散る肉と骨。そして鮮血。

 手の平の上の「岩窟王」と、教授の身体は「分断」された!


 終わった……!全て終わった……!


 これで「岩窟王」の「起爆」は出来ない。シュルシュルと「岩窟王」の光はしぼんでいく……


 ……のだとばかり、僕は思った。


 しかし、信じられない光景が目の前に起こっていた。

 完全に粉砕されて、「分断」されたと思われた、「右前腕部があった空間」が、小さな無数の光点で繋がっていたのだ。

 激痛に顔を歪ませながら、教授は自由になっていたもう片方の左手で大きな白い物体を握っていた。


 


 さっき、町中で拾った牛乳瓶の中身を、教授は空中に全てぶちまけたのだ。

 白い液体が大量に右腕の周りで舞い踊る。

 骨折には煮干。擦り傷にはカワ。

 そして、教授の腕の神経組織が、筋肉が、骨格が……「

 教授の技術の中でも、裏技中の裏技だ!

 手の平の上の「岩窟王」は輝いたままだ。「起爆」寸前の状態となっている。

「牛乳……すなわち『シャイロットストーン』……医療用のソリッドだな。こんなこともあろうかと、ホタルコ嬢に、こっちも仕込んでもらっていたのだよ。人を殺す事しか能の無いお前は、こんなソリッドを知らなかったかもしれんが、こっちの方が『カードが一枚多かった』ということだ」

 マドゥの顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。

 今度こそ、ポーカーフェイスでは無い、死への恐怖で歪んだ表情だ。

 丁度その瞬間、教授とマドゥを封じ込んでいた、二つの透明ドームが同時に消滅した。

 二人の間を隔てるものは何も無い。

 そして、マドゥは正真正銘丸腰だ。

 マドゥは血相を変えて背を向けた。廃墟の中を、二つの足を使って逃げ出した。もはや、フォーマットがガタガタに崩壊したこの町では、奴に残された防御手段はそれしか無い。

 それを追って、「岩窟王」が鋭くリリースされた。


 再び、僕は一瞬だけど、思ってしまった。

 教授……お願いだから、愚かで、何も知らなかった僕に戻してください……その人を助けて下さい……と。


 それでも僕は、あの日にとどまっていたい……

 ヒマワリ畑で永久に遊び続けていたいと……

 そこには、幸福な未来が待っているのだから……

 「エシャ」と共に生きられる、素晴らしい世界が存在するのだと……

 それでも「エシャ」は本当にいるのだと。僕の傍にいるのだと騙されていたいと……


(お願いです、教授! 僕に美しい嘘を、愚かな幻想を信じさせて下さい!)


 しかし「岩窟王」は、真っ直ぐに、冷徹にマドゥを捉える!

 教授はマドゥの背中に向かって叫んだ。

「マドゥ嬢! 聞いているか? 色々とすったもんだあったが、こういう結末だな!」

 マドゥは、その瞬間、こちらを振り向いた。


 恐怖におびえる「エシャ」と同じ顔……


「私の仕事は、かくも美しいということだ!」


 巻き起こる爆光がマドゥを包みこみ、肉体を粉砕した。

 やがて、もうもうたる土煙が消えていくと、その中心に、「一つの物体」が転がっていた。

 上半身だけになったマドゥだった。

 絶望と激痛に表情を歪ませている。身体の切り口に、殆ど出血は無い。「起爆」の瞬間に下半身を切り外して、逃れようとしたのだ。しかし、この状態では当然だけど、長くは生きられない。

 僕とホタルコちゃんは、既に教授の「肺胞」の外に出されて、地面に立っていた。教授は腕のダメージが大きいのか、膝をついてうなだれている。

「仕事は終わったわね。マサト君」

 教授が、しっとりとしたプライベート口調で、僕に話しかけた。

「丁度いい。締めくくりは、あなたの仕事よ。そこに転がってるわ」

 教授の視線の先を追うと、瓦礫に混ざって、マドゥが持っていた各種の器材が転がっていた。その中には、あの青いクルミのロケットもあった。かなり消耗して、黒ずんでいる。マドゥに残された、「最後の法学装甲」はこれだったのか。

 皮肉だ……あまりにも皮肉だ。

 最後まで、奴を守っていたのが、「あれ」だったなんて……

ロケットの落ちている場所まで歩いていって、しゃがみこむと、マドゥと僕の目が合った。

「寄るな……虫けらめ……何だ、その目は……おまえなんかに……おまえなんかに哀れみなんて……あたしは……永遠の真理に……永遠の時に……君臨する……世界の王……おまえ……なんかに……」

 教授が憐憫を帯びた声で、断末魔のマドゥに語りかける。

「恥じる事は無いわ。あなたは、勇敢に戦った。私にとって、間違いなくこれまででも十指に入るほどの強敵だったわ。そして、人としてはともかく、『学者』としては偉大だった……」

「き……貴様……覚えてろ……殺してやる……次は……殺してやる……あたしは……死なない……死ぬものか……あたしは……」

「もういいのよ、ゆっくりお休みなさい……」

「あたしは……死なない……死ぬものか……あたしは……」


 僕は、空っぽになった心で、マドゥの滅びゆく肉体を見つめていた。

 これは……「これ」が……僕のこれまでの人生……「これ」が……


 「エシャ」はどこにもいなかったという現実。それが、改めて僕の前に突きつけられる。実在していたのは、三百年の時の中で、不老不死の悪夢に「人の心」を食い尽くされた、醜悪な魔物に過ぎなかったのだ。

 「マサト君。それの『素材反転』を出来る? 『持ち主の命を守るソリッド』から、『命を奪うソリッド』へと。あなたの手で、もう楽にさせてあげなさい。そんな人だったけど……それでもその人は、あなたの心の中にいて、あなたが愛して止まなかった『エシャ』と、同じ顔をしていたのだから……」

 前に、教授は言っていた。「恋などというものは、全くの幻かもしれない」と。救貧院という辛い環境の中で、僕は「つり橋の上での誤解」をしていたのかもしれない。とにかく、何でもいいから、生きがいが欲しかっただけなのかもしれない。

 実際に、このロケットの「素材反転」を行う時が来るとは、教授は必ずしも思っていなかったかもしれない。しかし、教授は僕に伝えたかったのだ。「これまでの人生を反転させろ」「勇気を持って切り捨てろ」と。きっと、「素材反転が僕に必要な技術」だというのは、そういう意味だったのだ。

 ホタルコちゃんも言ってくれた。

「これまでの時間と戦え」と、「これからの時間のためにも戦え」と。

 僕は、地面に方陣を敷き、その中心にロケットを置いた。

 ふと、後ろを振り返ると、教授が、僕を包み込むような、優しいまなざしを向けてくれている。

 ホタルコちゃんも、目に一杯涙を溜めている。

 昨晩、彼女は言ってくれた。「僕は一人ではない」のだと。今になって、その言葉が、たまらなく心に沁みる。

 気がついたら、何故だが僕の目からは、涙が止め処も無く流れていた。

 哀しいのか、悔しいのか、嬉しいのか……様々な感情がない交ぜになって、とにかく訳も判らなくて、泣けて泣けて仕方が無かった。

 何一つ知らなかった、何一つ分かっていなかった僕だけれど、今はもう、これまでの僕では無いのだ。

 少なくとも、人と人との出会いが何故に尊いのか、少しは判った気がする。

 せめて、そう信じたい。

 そんな、いまだ模糊とした想いを胸に抱きながら、僕はロケットの「反転」を開始した。


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