act1:排出者-insert-[後編]



 サイロの中に設置されていたハシゴを下ると、そこは下水道のように細長い通路になっていた。



 延々と通路は続いていて、先は少しも見えない。申し訳ばかりの青白い光が、暗い通路を陰影いんえい濃く照らしている。



 背筋を得体のしれない悪寒おかんが走った。

 本能が恐怖を告げていた。

 底の知れない洞穴へ落ちていくような、足下のおぼつかない不安感。

 とてもここを歩く気にはなれなかった。この先に一体何が待ち受けているのか、まるで見当がつかない。


 だが、祖父が何を隠していたのか、知りたかった。

 想像を遙かに超えた嘘が、今一つ一つ目の前でほどかれている。


 ここでやめるわけにはいかない。怖じ気づきそうになる心を、胸を一つたたいて奮い立たせると、通路を歩き出した。

 ブーツが通路を踏みしめると、砂利が音を立てる。その音が、遙か彼方の通路の先にまで木霊する。




 一時間は歩いただろうか。



 途中から時間の感覚は無くなっていた。通路はとぐろを巻くように極めて緩い弧を描いていて、次第に地下に潜る設計らしかった。

 だが、いつまで経っても同じ景色が続き、次第に気が狂いそうになってきていた。


 一体、いつまで、ここをさまよえばいいんだ?


 これまで来た道中を考えれば、とても引き返す気になれず、蟻地獄に飲み込まれるように、ひたすら歩を進めるしかなかった。



 そして、それは唐突にあらわれた。



 通路の先に、暗闇におおわれた四角い枠が現れたのである。

 始めは夢中を漂うようにぼぅっと見ていてわからなかったが、よく目をこらすと、わかった。

 それは入り口だったのだ。

 あふれんばかりの暗闇を抱え込んだ、四角く切り取られた入り口。


 駆け寄った。

 暗闇の中に目をこらしたが、何も見えない。

 入るしかないようだった。


 通路からの頼りない明かりに、かすかに照らされる部屋の中を観察する。

 奇妙なつくりの部屋だった。得体の知れない大量のコードが床に散らばり、その根本を探ると、図書館のように整然と並んだ無数の金属棚につながっていた。


 灰色の、飾りっ気のない棚の中には、録画デッキのような機械がびっしりと詰まっている。そこから出たコードが、ひたすら部屋の中央に向かって伸びている。


 一歩足を踏み入れた時だった。


 唐突に、まばゆい光が天井から振り下ろされた。

 巨大な空間が、はるか彼方かなたの天井で次々とともる真っ白な光と共に、波のように押し寄せてくる。


 半秒間隔で順々にともる明かりが、部屋全体を照らすまでに一分はかかった。

 一目見ただけでは把握できないような、膨大なドーム状の空間が、眼前に広がる。圧倒されて、息をするのも忘れた。


 野球でもサッカーでも、下手すれば軍事演習だってできそうな広大な敷地の中に、ずらりと無数の棚が並んでいる。数十台ではないだろう。数百台、下手したら数千台はあるだろうか。


 見上げるようなような高さの棚が、ドームの中央を取り囲むように等間隔で、精確に、敷き詰められている。

 中央へ整然と正対するその様は、どこか宗教じみた狂気すら感じられた。


 棚から束になって垂れているコードは、他の棚から這い出してきたコードと絡み合って、部屋の中央にぽっかりと空いた円形の広場に続いている。


 そこにはまるで天に続く御柱のように巨大な円柱の機械の固まりがあって、至る所で緑や青の小さなランプを点滅させていた。



 その柱まで歩いた黒瀬は、辺りを見渡して唖然として嘆息した。

 この御柱を神に見立てて、機械の詰め込まれた棚が正対して祈っているようだった。



「なんなんだよ、これ……」



 これが祖父の秘密だろうか。

 しかしこれでは何が何だかわからない。

 この施設は、一体――――そこまで考えて、ふと胸元に何か熱を感じた。

 手を突っ込んで取り出したのは、ピルケース。


 それは麻戸が見せてよこした、祖父から『摘出した』というあのPlay fun!12だ。


 あ、と声が出た。ピルケースに入った小さなイトミミズの先端が、かすかに赤く明滅している。まるで、呼吸するみたいに。



「反応、してる……?」



 この道の先は、Play fun!12を導入した先にあるという事か。

 引きこもって暇を持てあましていたというのに、黒瀬は一度もこの世界最高の娯楽を脳に導入しようなどとは思わなかった。

 父への反発もある。だが本当のところそれは、何か、自分の奥底で言葉を持たない命が叫ぶ拒絶の悲鳴のような、そんな恐れを無意識に感じ取っていたからだった。


 今、Play fun!12を導入するという可能性と対峙して、ようやくその感覚に気がついた。

 その恐怖は全身にとりついて、身動きが出来なくなる。

 だが、同時にそれを飲み込むような衝動が黒瀬の中でわき起こっている。


 知りたい――――祖父は一体、何者だったのか。


 何をしていたのか、何をしようとしたのか、それはつまり、この屋敷の中、日陰の世界しか知らない黒瀬にとって、これからどうすればいいのかという疑問の答えにもなり得るのではないかと思う。


 ピルケースの蓋を開ける。


 手が震えていた。

 だが蓋は問題なく開いた。ケースの口を鼻に押し込むには、強烈な拒否反応と戦わなくてはならなかった。胸の内から吹き出す吐き気を飲み込んで、一息はく。



 覚悟は決まった。

 一気にマイクロマシンを吸い込んだ。



 すぐに変化が始まると思った。

 だが、何も起こらなかった。呆然と辺りを見渡し、代わり映えのしない様子に首をかしげたその瞬間、すさまじい頭痛が頭蓋の中ではじけた。


 ずくずくと、まるで生き物が這い回るみたいに頭蓋骨の皮膚がうごめく。


 両手で頭を覆って、頭蓋の内側で爆発しているような頭痛と這い回るミミズの感覚を押しつぶそうとするが、それらは激しくなるばかりだった。硬い床に倒れ込む。気づくと、喉が激しく震えていて、自分がまるで獣みたいな咆吼ほうこうを上げているのに気づいた。それを宙から眺めているような感覚に包まれた直後、電池が切れるみたいに意識が途切rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
































<..................>



<..........................>



<....................................>





<ロードが完了しました>




<適用を開始します.....................>

<初期アクセスポイントを設定中です.......完了>

<知覚統合のフォーマット.........................CPへのアクセスを確立中...............受容体にパッケージを適用中............pk3解析中...........Mary's roomはクオリアを解析しています...................................クオリアを初期化・並列化しています.................解凍・適用完了しました>


< playfun!12が生体情報を取得しています..........適正値に修正しています..........感覚器官のフィードバックを再構築中(※激しい感覚受容を行わないでください).........フィードバックルート構築.......RCS(MMM)が設定されました.........>


<IFコントロール(CS)を適用中.......Playfun!12の取得した生体情報を適用しています............※左腕と左足の構築情報がありません! スキップされました。※バックアップログを参照して問題を解決してください..........構築情報にMary's senseを上書きしています...........四肢の統合知覚は正常に上書きされました>



 ※警告※

 ハードウェアに重大な問題発生!(Px345521-22-735-4)ハードウェアの認識が重複しています。重大なシステム衝突が起こる可能性があります。ハードウェアの二重登録は絶対に行わないでください。生体機能が損傷する恐れがあります。



 続行しますか?



>>>>>中止する(L)

>>>>>続行する(R or 10)..........(9).....(8)....(7)....(6).......


......................................................................適用を続行します



<以前構築したシステムに不具を発見しました>


<修正中..................................重大な生体干渉を発見しました>


<修正には医師と技術者の認証を受けてください(code:97721).......重大な生体干渉はスキップされました...........ルート障害は回避されました.......干渉システムは凍結・更新・隔離の処理が適用されました(デバックログを参照してください)>




※緊急※

 重大なシステム衝突が発生しました

 重複したハードウェアが相互干渉しています>>>>>>>管理権限が無いため修正できません


 <詳細>ハードウェアが相互に機能し合っています。突発的な起動で身体・意識に重大な疾患を残す可能性があります。

 現在までに27の箇所で脳の損傷が確認されました。

 管理者権限を有したアカウントでハードウェアを凍結してください。


 

 システムはセットアップを完了しました!



※バージョン情報を更新※

<V-tec Life ver7.2.5.11>

システム製造:東京サンライズ社

モデル:Play fun!12




 起動の準備が完了しました。(5)....(4)....(3)....(2)....(1)........................




<起動中........>


<起動中..........>


<起動中..................................> 


















 意識が突然急浮上した。



 光の届かない深海から、一気に引き上げられたかのようだった。

 何が何だかわからず、あたりを見渡しているうちに、自分が今までずっと息をしていなかった事にようやく気づいて、慌てて空気を吸い込んだ。


 だが、思うように空気は喉を通らない。


 まるで、口と鼻に綿でも詰められたかのように息苦しい。

 その上、呼吸する音がくぐもって頭に響く。むせながら、ずいぶんな時間をかけて、なんとか体に酸素を行き渡らせた。


 身を起こすと、そこは見た事もない、巨大なドーム状の中心部だった――――いや……頭を振って、意識をはっきりさせる。いや、見た事がある、この光景――――はっと思い出す。

 何を言っているんだ、祖父の部屋から続いていた、得体の知れない巨大な地下施設じゃないか。

 辺りを見渡し、寝ぼけていた自分の感覚を呼び起こす。



「…………」

 何かが、違う。




 違和感があった。

 記憶の中のあのドームと、今目の前に広がるこの光景は、どこか一致しない。

 なんだ、なにが……違う。

 そう、例えるなら、息づかいだ。

 この空間には、息づかいを感じる。自分だけの物じゃない。まるで、この空間全体が生きていて、じっと息を殺してこちらを見つめているような――――



 背後で音がした。


 硬質こうしつのブーツのかかとが、硬い床を踏みしめる音。


 人の気配なんてまるで感じていなかった。

 思わずはじかれるように振り返り、そして、身動きできなくなった。

 手がかかるような距離に、人の丈ほどの巨大な黒い滴りがたたずんでいたのだ。


 まるで墨汁を垂らしたような人影だった。


 薄暗いドームの陰に滲んでいる。息もできない黒瀬に、影はにじり寄ってくる。水の底から浮かび上がってくるように、顔面と思われる部位がせり上がってきた。思わず一歩、下がった。その顔は、祖父の部屋で見つけたあの、髑髏ドクロだったのだ。


 髑髏ドクロは黙って黒瀬を見つめていた。死神だ。そう思った。黄色やどす黒い染みのついた髑髏はとうてい作り物には出し得ない現実リアルさがむき出しだった。黒いフードで顔を隠すのも、昔本の挿絵で見たものとそっくりだ。ぽっかりと開いた目が、見透かすような目を向けている。息が詰まった。



排出者イジェクター



 死神は低く、しわがれた声で――――いや、違った。

 低くもなければしわがれてもなかった。

 ソプラノの、綺麗な声だった。

 外見とはえらくギャップのある声だ。なんだ、こいつ。パニックを起こしかけていた黒瀬はすんでの所で立ち止まって、困惑した。



「――――だ、誰だ、お前」



 かすれた声で、やっとそれだけの声が出た。

 髑髏ドクロはじっと黒瀬を見つめていた。乾いた骨に覆われていて、表情は読み取れない。だが、向こうも困惑している雰囲気だけは伝わってきた。


 無言で黒瀬に歩み寄ってくる。思わず後ずさるが、向こうの方が歩くのは速かった。


 その姿は、真っ黒なローブを身にまとった死神の姿そのものだったが、近づいてくる毎にそうではないとわかった。

 ローブだと思っていた物は旧世紀のミリタリーコートで、それが小柄な体をすっぽりとおおっていたのだ。

 首にはなぜかえらくごつごつしたヘッドフォンをかけている。戦闘機を運ぶ船……たしか空母とか言う名前だったと思うが、あの搭乗員がかけているアナログな通信機器に似ている。無骨な型だったが、耳にかかる所が天井の光にきらきら輝くワインレッドに塗られていた。


 黒瀬の見ている前で、そのコートのすそが、まるで生き物のようにするすると縮んでいく。ぎょっとして目を見張る。

 裾はどんどん短くなって、髑髏ドクロの膝上くらいまでになった。裾の下からはむき出しの華奢きゃしゃな足が現れる。


 すらりとしたそれは、ファッション製皆無かいむの軍用ブーツに締め付けられている。コートの下には、なぜかスカート――――ではなくキュロットスカートを履いているようだった。


 ひらひらしたヒダの間から、ぴったりと肌にフィットしたショートパンツが見え隠れしている。それは最近流行のプリなんとかというタンパク質の素材で出来ていて、なめらかな光沢を放っていた。


 彼――彼女?――は本当に、鼻と鼻が触れあうような間近まで迫った。思わず身をそらそうとしたが、がっしりと双肩を捕まれて動けなくなる。



「動かないで」



 彼女はそう言って、髑髏ドクロに手をかけた。

 仮面をはぐように、髑髏がその手に落ちる。


 目を見開いた黒瀬の前で、彼女が頭を振って、フードを取り払った。

 まるで生き物のような長く艶やかな髪があふれ出てきた。


 髪は重力に従って地面に落ちる。――――長い。一体何年延ばしたらこんな髪になるのだろうか。無秩序に伸びた髪は、地面に触れる程だった。



「こっちを、向いて」



 呼び声に目を向けると、女がこちらを見つめていた。

 声からして女だろうと思っていたが、思った以上に若い。


 同年代か、少し上くらいだろうか。丸顔で童顔だったが、顎のラインが綺麗であまりガキっぽくは見えない。


 すらりとした肌は健康的な明るい乳白色。すっきりとした鼻筋に、ほんのり桜色に染まった唇。異様に長い髪と奇妙な格好がなければ、卒業アルバムに一人はいる目立たないかわいい娘といった感じだった。


 何より、目が印象的だった。ぱっちりと開かれた二重の目は、ゆらぐように瞳がきらめいていて、どこか精悍せいかんな少年のようだった。


 真正面から、自分と同世代くらいの女に、こんなにまじまじと見つめられたのは初めてだった。なんだかいたたまれない気持ちなりながら、黒瀬は彼女の目を見つめ返した。


 ふと、奇妙な事に気がついた。黒瀬の顔を反射しているその目が、小さな駆動音と共に微妙に色を変え、瞳孔どうこうが閉じたり開いたりしている。


 思わず、じっと吸い込まれるように彼女の目を見つめてしまった。

 これは錯覚だろうか?

 まばたきを何度かくりかえしたが、彼女が非難するように目を細めたのでやめた。

 その目は暖炉を背にした水晶のように、気まぐれに色を変え、またたいた。


 不意に顔を離した彼女は、黒瀬の顔をまじまじと見つめた。


 そして両肩にかけていた手を黒瀬の頭の後ろに回した。まさか抱きついてくるのかと思った黒瀬はあたふたしたが、彼女にその気はないようで、後頭部で何かをいじっているようだった。


 がぽ、と空気が抜ける音がした。


 唐突に視界が開ける。なんだ? と思っていると、自分でも今の今まで気づいていなかった圧迫感が顔から離れた。ゴム質の、仮面のような何かが、顔からはがされるのが見えた。


 鼻と口、それに耳のおおいが取れ、清涼せいりょうな空気がのどの奥へ流れ込んできた。音もクリアになる。


 地下室の匂いは仮面ごしにかぐよりも何倍も濃密で、思わずむせそうになった。汗ばんでいた顔の皮膚を、冷たい空気がぬぐっていく。寒気を感じた。レンズ一枚をへだてて見ていたらしい景色に、あざやかなコントラストがついた。大人のままこの世に生まれくると、こんな気分なのかもしれない。


 死神が黒瀬の前に体をもどした。その手には、ガスマスクが握られていた。

 ガスマスク?

 まさか、かぶっていたのはこれなのだろうか。


 どうしてこんなものを――――そう思っていると、女の顔がすっと視界に現われた。彼女は厳しい疑いの目をこちらに向けていた。あらわになった黒瀬の顔を見つめて、さっと瞳を震わせる。



「どうして、ここに――――」



 それっきり、彼女はじっと、黒瀬を見つめ続ける。

 






 おぼれる者はわらをつかむ。

 黒瀬はこの得体の知れない人物に必死になってここに至るまでの経緯を語った。


 女はそれを、能面みたいな無表情で聞いていた。

 そう、まるで"表情"は変わらなかったが、不可思議なことに、彼女の"目"は話の所々でくるくると色が変わった。


 最初は透けるような茶色だった瞳は、次第に深い青色になり、次は紫、麻戸刑事の辺りで黄色にぱっと変わり、祖父のPlay fun!12を導入した辺りで、まるでパトランプみたいにぺかぺかと点滅する緋色に変わった。



「……これが、偶然……?」



 彼女はそう言ったが、それが何を意味しているかはわからない。彼女は困惑しているようで、しばらく何事か考える仕草をしてから、言った。



「……いずれにせよ、あなたには全てを話すべきなんだと思います。きっと、イジェクターの遺志ですから」



 なんだか奇妙な話し方だった。

 どことはわからないが、外国の文学を古い翻訳機でかけたみたいな違和感があった。抑揚もあまりなくて、平坦だ。

 彼女は辺りを見渡す。



「ここはアウターワールド。夢みたいな現実の、もう一つの世界」



 彼女はうたうように語り始めた。

 その内容は黒瀬にとっては奇妙奇天烈で難解を極めた。「Play fun!12を利用した仮想世界をつなぐセントラルポイント、仮想世界の総称でもある」――こんな説明では何もわかるはずがない。


 黒瀬は起きている事態の異様さに駆られ、他人――いや、ただの他人ならまだしも、自分の屋敷の地下に知らぬ間にいた異様な女だ――への恐れを忘れ、小さなぼそぼそとした声で、延々と押し問答みたいな質疑応答を続けた。

 そして、ようやく答えに近いらしい物にたどり着く。



「つまり……仮想世界なのか、ここ。ゲームの世界だっていうのか、現実の世界じゃない?」


 彼女はうなずくように、ゆっくりと瞳をまたたかせた。「正解」。


「あなたがいる現実世界を模して作られた仮想世界です。自動的に私のホストに送られてきたので、あなたの記憶をもとに受け皿として私が作りました」


 くるっと目の色が変わった。オレンジだ。少し胸を張るような仕草をした(……薄い胸だな)。その瞳がきらきらと輝いている。何か伝えたいのだろうか?


 黒瀬は辺りを見渡した。確かに、Play fun!12は現実そのものみたいな空間を、感覚器官に仕込んだナノマシンででっち上げる事が出来るという触れ込みだった。

 実際に目にしたのは初めてだ。

 手近にあったコンパネらしき機械を軽く叩いてみる。硬い、金属の感触がはっきりと返ってきた。

 息をすると冷たく、ほこりっぽい匂いがする。目の前の彼女だって、身なりはいざ知らず姿形だけは生身の人間そのものだ。とても作り物とは思えない。



「これが、ゲーム……?」



 引きこもっている自分をかついで喜ぶようなひまな人間がいるとも思えないが、こんな出会い方をした女の言動を信じる気にもなれない。



「アウターワールドをプレイした事がないんですか」



 彼女が平坦な声でそうたずねた。

 たぶん、普通の人間なら意外そうな声色と表情をしているのだろう。黒瀬がうなずと、彼女はまた目の色を変えて、黄色い瞳をぺかぺかと点滅させた。



「そう――――アウターワールドは、脳を利用した仮想現実空間バーチャルスペースの総称です。脳の中で、自分の好きな世界を、想像するままに創造できる。量子通信ネツトワークかいせば、その世界をゲームとしてネットワーク上に公開する事も出来るんです。もちろん、他人の作った世界にアクセスする事も可能です」



 そう言う彼女の髪がうごめいた。


 何かの見間違いかと思って目を凝らすと、地面までしたたっていた髪は植物の成長を早回しで逆再生したみたいにしゅるしゅると縮んでいく。


 彼女がピンと人差し指を立てると、髪はその指に甘えるように絡みついてから、また縮んでいった。

 そして後頭部で複雑に絡まると、まるで花が咲いているみたいなアップロールに変わる。



「これですか? プログラムが通してあるので、自由自在なんです。お邪魔ならもっと短くも出来ますが」



 黒瀬の視線に気づいた彼女が何でもない事のようにそう言ったのを見て、ここが現実とは違うルールにのっとった世界なのだとようやく悟った。目の色がくるくる変わったり、服の裾や髪が伸び縮みしたり、いくら技術が発展したと言っても、現実では見た事も聞いた事もない。



「お前、誰なんだよ……爺ちゃんの知り合いか」



 なんだか気味が悪くなって、今更ながらそう尋ねた。彼女の瞳がまたくるくる変わる。



「私はイジェクターのオペレーションソフトOSです。呼称は便宜上『コーディ』」


「イジェクター? コーディって……外国人か?」


「いいえ。所在地は日本で、私は『人』ではありません」



 は、と呆れ笑いみたいな声が出た。

 コーディはそれにまた目をくりくりと光らせた。赤い。なんなんだろう、この目の変化は。

 もしかしたら、笑った事に腹を立てているのだろうか。



「この施設がなんなのかわかりませんか? これが、私。ここが、私です」



 黒瀬の頭に疑問符が浮かぶ。散文詩さんぶんしのような事を言い出した。



「ここがなんだっていうんだ」


「ここにある機械は前世代スーパーコンピューター『テラ』です。これが私を内包する外部装置ハードで、私はその内にプログラムされたソフトです」


 突拍子もない話に半笑いになって言葉を失った黒瀬に、コーディは淡々と続けた。



「ここにある演算装置は総機能の三分の一の稼働で1秒間に約6.4×1018回の命令実行が可能です。これは、人間の脳が1秒間に発生させられる神経インパルスの最大数とおよそ同じ。私はこれらの演算機能を利用してイジェクターをオペレーションするためのプログラムです。ニュートラル状態ではほぼ人間と同じ意志、思考を有しますが、実体は持ちません。私はデータ状にしか存在しない仮想的な人格であり、見ようによっては生命です」



 たたみかけられて、唖然とした。

 目隠しされて食べさせられた料理を、コックに解説されてるみたいな気分だ。何が何だかわからない。かすかに頭に浮かんだ言葉を、呆然と口にした。



「えぇっと……つまりお前は、人間じゃなくて、ここにある機械だってのか? その……」


人工知能A.I.です」



 コーディはぴしゃりと言った。

 いよいよ無茶苦茶になってきた。

 今まで自分の正気を疑ってきたが、こいつの正気も疑うべきなようだ。もっとも、祖父について知る手がかりは、この不思議の国のアリスに出てくる気の触れた住人みたいな少女しかないようなのだが。

 コーディがくりくりと深海みたいな色の目を輝かせている。



「……なぁ、あんたが何者なのかはもういい」


「私はコーディです」


「それはもういいから。親切にしてくれてありがとう。それで、とにかく……俺が聞きたいのは、そうだよ、爺ちゃんだ。俺の爺ちゃん、黒瀬達吉って言うんだけど、知らないか?」



 コーディは目をくりくりさせた。目は口ほどにものを言うというが、彼女は無表情な代わりに瞳に感情が表れるのかも知れない。



「イジェクターのアカウントの持ち主です」


「イジェクター? イジェクターってなんだ?」


「イジェクターは一般的にはヒーローです。アウターワールドで、アウターホリッカーを現実に排出はいしゅつして救出する。救済者の任を担っています」


 黒瀬は目を細めた。

 聞き覚えのあるキーワードだ。

 ようやく本題に入れたらしい。アウター、ホリッカー。イジェクト……排出するイジェクト? ゲームの世界から、排出する、という意味だろうか。



「アウターホリッカーって、中毒起こして死ぬ連中だよな? 救済者って事は……爺さんはアウターホリッカーとかいう連中を助けてたのか? 殺したんじゃなくて?」


「殺してはいません。三日間の連続プレイで死亡するアウターホリッカーをゲーム上から排出するEject事によって彼らを救っていました。私は彼をサポートするオペレーションソフト。そばで見ていました」


 その後に続いた彼女の平坦な説明を総合するに――――どうやら、ゲーム中毒で死にかかった連中を、無理矢理ゲームから追い出すイジェクト事で、助けて回っていたらしい。


 自分でもおどろく程、彼女の言葉に安堵あんどした。

 思わず息を吐き、肩を降ろしたくらいだ。どうやら得体の知れない奴からとはいえ、「大丈夫」と言ってもらえたのが余程効いたらしい。


 思えば、家に引きこもっている内は、誰にも干渉されない代わりに誰かに相談する事も出来ない。

 唯一の相談相手であったはずの祖父は死に、今度は悩みの種になってしまった。

 その悩みを、得体が知れない奴だし、証拠もないとはいえ、誰かに「大丈夫」と言ってもらえたのが、孤独な身にしみた。



「そうか、よかった……。でもなんで、爺ちゃんはゲームで人助けなんてしてたんだ」


「……私は命令を実行するだけで、その目的までは問いません」



 黒瀬は唇をへの字にし、視線を斜め下に落とした。

 もう少し何か訊きたい気がするが、質問が思い浮かばない。

 自分を機械と名乗る少女になんとたずねた物か。まず、正気かどうかを尋ねるべきだろうが……まぁ、重要な事はだいたい訊き出せたと思う。



「わかった。ありがとうコーディ……だよな? えーと、それで、ここがアウターワールドっていうなら、現実の世界じゃないんだよな? そろそろここを出たいんだけど」


「あなたの脳は私がモニターし、支配しています。私の許可がなければ出られません」


 脳、モニター、支配、許可


 何か不穏な言葉の羅列だ。気味が悪くなる。



「なんだそれ、よくわからないけど……じゃぁ、許可してくれよ」


 コーディの目が、深い青色から、鈍い金色に変わった。輝きのない金色。


「できません。優先事項に反します」


「ゆ……え? 何?」


「私はPlay fun!12にインストールされたソフトです。この施設で演算された私は、Play fun!12を通してあなたの脳に顕現けんげんします」


「いや、だから」



「つまり」



 コーディが先んじていった。


「私はあなたの脳に存在しています」


 彼女の瞳の鈍い金色が、次第に熱を帯びるように輝きだした。


「そして私の製造理由レゾナンスビリティはイジェクターの補佐アシスト。そして維持キープ



 とりつかれたように話す彼女に底の知れない恐怖感を抱いて、彼女から身を離そうとしたが、その途端ぐぃと体が後ろに傾いだ。見ると、コーディが袖を引っ張っている。



「あなたにはイジェクターの役目を引き継いでもらいます」



 は、と疑問のかすれた声を出した黒瀬に、コーディは次第に金色に輝く眼を向けた。



「前任のイジェクターが任務を放棄した場合、後任者は私が選定します。私はあなたを選びます。現在の私が認識できるのは、前任者おじいさまのPlay fun!12を引き継いだあなたしかいませんから」



 彼女の周囲に黄金色の無数の文字列が唐突に現れた。思わず身を引いた黒瀬の手をコーディは再度強く引いた。彼女は文字列を睥睨する。まるでパズルみたいに、文字列は上へ下へとかしゃかしゃ音を立ててうごめいて、黒瀬の周りを旋回し始めた。黄金色の鳥かごのように文字列は彼を取り囲む。



「マスターキーがあなたの名前で書き換えられます。あなたはこれより管理者権限を部分的に委譲いじょうされ同時に義務を負います」


 何をしているのかは全くわからない。

 が、言いがかりに近い理由で自分が何かとんでもない事に巻き込まれようとしているのは分かった。役目を引き継ぐ? 選んだって……俺を!?



「な、なんなんだよお前!」


 黒瀬は一気に手を引いてコーディの手を振り払った。


「何してんだよ、お前、頭おかしいんじゃないか!?」


 コーディはすぐさま手をつかみ返した。


「あなたを新たなイジェクターに任命します。あなたはアウターワールド上でアウターホリッカー達を救出する任を負います」


「なんだそれ……おい、手を離せ!」


「拒否すれば私は消滅し、あなたは死にます」


「死ぬって、なんでだよ、手離せって!」


「あなたの脳には現在二つのPlay fun!12が存在し、互いに干渉かんしょうし合って機能衝突を起こしています。それにより、脳の一部に重大な損傷を負っているのです。現在は私の管理下で安定していますが、私が製造理由レゾナンスビリティを失って凍結されるとその効力は失われ、あなたは脳の機能分裂によって死にます」


 また反論を一切認めない調子でたたみかけられて、一瞬黒瀬は絶句した。それからふつふつと怒りがわき上がり、


「――――適当な事言うな!」


すでにあなたの脳には記憶障害が起きています。あなたの記憶は、欠落を都合良く補った偽物の記憶でできているんです」


「うるさい!!」



 今度こそ、勢いよく彼女の手を振り払った。彼女の冷淡な無表情を叩くように振り払う。だが、その手が離れた瞬間、まるでその動きを最初から知っていたかのような素早い反応で、彼女は即座に黒瀬の動かない左腕を掴んだ。



「この腕と足が動かないのも、以前導入したPlay fun!12のバグが原因です。あなたはそれに、心当たりがあるのではないですか」



 あるわけないだろ!

 そう叫ぼうとして、息が詰まった。

最初はなぜかわからなかった。思わず声のでない喉に手を伸ばしたくらいだった。


 それは、拒否反応だったのだ。無意識に嘘をつこうとする理性への、本能の制止。


 まるで深い泥沼のそこから浮かび上がるみたいに、記憶はふつふつと浮かび上がってきた。それは黒瀬がまだ文字も読めないような幼い頃。まだ家族が"正常"だった頃。


 父が優しく手を伸ばしてきた記憶があった。

 その手には、糸のような黒い固まりの入った、ボールペン容器状のケースが握られている。


 口の開いたそれが黒瀬の鼻腔へ差し込まれる。

 その不快感に、思わず泣き声を上げて抵抗するが、抗いがたい力で鼻の奥まで突き込まれる。

 そして何かが入りこんで来る感触。

 全身を襲う衝撃、恐怖に飲み込まれ、だが痙攣する喉は悲鳴もあげられない――――


『新たな世界が、お前を待ってる』


 父が自分を睥睨へいげいしている。

 死に行く虫を見るような、冷淡れいたん平坦へいたんな目。

 身動きできない自分を置いて、父が行ってしまう。何かが壊れ始めたのを感じた。自分が信じてうたがわなかった、何かが、その時、音を立てて崩れたのだ――――





「起きてください」

 気がつくと、コーディがへたり込んだ自分の横で、膝をついてのぞき込んでいた。彼女の長いびんが、自分の頬に垂れている。見開いた目で彼女を見つめる。不思議な事に、彼女の姿はまるでタスクウィンドウのように透けていて、ほのかにコバルトブルーに染まっていた。



「身体的損傷はないはずですが、復元した記憶に激しい反応を見せたので、一度現実の世界へ戻って――――」



 黒瀬はその言葉を最後まで聞かず、彼女を突き飛ばすと、ドームの入り口へ向かって駆けだした。恐ろしかったのだ。彼女が、ではない。自分の中に埋没していた記憶が、幼い頃に感じた現実の薄っぺらさが、叫び出したい程、恐ろしかった。







 息を荒くして、祖父の部屋を出て、その鍵を閉めた。とりつかれたように、地下室へ続くサイロへ不要な家具を投げ込んでいく。そうして完全に封印すると、黒瀬はその場にへたり込んだ。逃れられない悪夢が続いているみたいだった。つり下げた、動かない左腕と、義足を見つめる。


『新たな世界が、お前を待ってる』


 間違いない。父だ。父が幼い自分に、Play fun!12を導入したのだ。


 でも、どうして――――思い出したくもない記憶が脳裏を駆け巡って、頭を抱えた。喉の奥から、こし出すようにやめろと叫ぶ。


 実際に出たのは、まるで言葉になっていない、押しつぶれた声だった。自分の中に、自分では理解できない何かが生まれた。昼の世界から追い出され、陰の世界でようやく自分の世界をつかみ取ろうとしたのに、わけのわからない理由で記憶までが自分を追い出そうとする。これ以上、どこに行けっていうんだ――――


 言うまでもなく、彼はすっかり混乱していた。そしてそんな彼の意識を現実に引き戻したのは、廊下の奥で聞こえた重い何かが床に転がる音だった。


 ゆっくりと頭をもたげた黒瀬は、その音の方へ、おそるおそる近寄った。何度目かの角を曲がった時、思わず声を上げた。そこにあったのは、力なく横たわった少女の姿だった。それも、見覚えがある。数瞬、空白の時が過ぎ、それから、本能が声を上げた。



「眞子!」



 滑り込むように彼女の体にとりつくと、その体を持ち上げた。華奢で色白な体が、柔らかな鉛のようにずっしりと両手にのしかかる。だらりと下がった首を抱えると、彼女は目を見開いたまま、死んだように弛緩していた。彼女の瞳は、まるで見えない何かに焦点を合わせるように、せわしなく瞳孔を開閉していた。


外側中毒アウターホリツク


 耳元で囁かれた。

 飛び上がらん程驚いて声の方を見ると、宙に浮いた彼女が――――コーディが、こちらを睥睨していた。かすれた声で、思わずつぶやく。



「お前、どうやって――――」


『私はあなたの脳に存在しています。物理的な障害は意味をなしえない』



 彼女は眞子へと目を遣る。



『……彼女、連続プレイ時間が71時間を既に超えています。あと28分で中毒症状を発症するでしょう』



 黒瀬は慌てて眞子に眼を向ける。彼女の体は、まるで抜け殻みたいだった。ただ、瞳だけがうごめいている。



「アウターホリックって……眞子がか? こいつが、アウターホリック? そんなわけ、そんなわけあるかよ。さっきだって、ゲームしてる様子なんて、全然……」


『仮想空間をプレイしながら現実を生きる事は可能ですし、一般的です。本を読みながら食事をしたり、音楽を聴きながら運転するのと同じ』



 不意に思い返す。

 今朝会った眞子は少し様子がおかしかった。


 呂律ろれつが回っていなかったし、視線も定まっていなかった。熱でもあるのかと思ったが、まさか、アウターホリックにおちいっていたとでもいうのか。



「お前が……お前がやったのか!?」



 コーディをにらみつける。こいつと出会って一時間もしない内に眞子が倒れた。理由も原因もわからないが、そんな都合のいい話があるか。コーディは何も言わなかった。



「何とか言えよッ!!」



 その胸ぐらにつかみかかる。コーディは眉一つ動かさず、その瞬間を冷然と見つめていた。その目は冷ややかな黒真珠のような色をしている。そして黒瀬の手がもうその体にかかるという、その瞬間。



排出者イジェクター



 彼女がつきだした人差し指が、黒瀬の額に触れた。

 その時、突然世界は暗転した。

 今の今までそこにあった廊下の床も、壁も、畳張りの居間も、柱も、縁側から差し込む光も、あっという間に暗闇にのみまれ、何もない空間に飲み込まれた。


 彼女の目の色が変わる。


 どす黒かった瞳は極めて薄いコバルトブルーに染まった。それはユビキタス機能で表示されるタスクウィンドウと同じ色だった。

 彼女を包んでいた真っ黒なコートがたなびき、その下から、ぴったりと体にフィットしたゴム質のスーツが見えた。

 桜色の口元がうごめく。



『インサート』




 意識が吹き飛んだ。










 突然、足裏の床の感覚が消え失せ、硬い地面にたたきつけられた。

 腰を強打して、うめく。

 コンサート会場のような、すさまじい騒音が当たりを取り囲んでいた。呻きながら身を起こすと、無数の足が見えた。


 スニーカーやブーツ、ハイヒールと種々様々な靴が飛び跳ねている。どこからか照らされるオレンジの光が狂ったように足と足の間を泳いでいき、巨大なスピーカーから打ち出されたと思しきビートの音が延々と辺りにとどろく。


 人々はトリップ状態で跳びはね、歓声を上げていた。滑らかな打ちっぱなしの地面がまるで脈打っているかのように揺れる。



「起きてください」



 立ち上がろうと膝をついたところで、手がさしのべられた。いつの間にか、コーディが眼前に立っていた。黒瀬は乱暴にその手を振り払って立ち上がる。



「お前、何やったんだ!?」



 辺りが騒然としていて自分の声も聞こえない。怒鳴る黒瀬に、彼女は平坦な声で



「アウターワールドへお連れしました。あちらを」



 さっと明後日の方向を指さした。

 どうやら、ドーム状の会場にいるようだった。天井に設置された無数のライトがオレンジの光を走らせていて、その光に照らされた観客達が、歓声と共に飛び跳ねている。


 まるでロックコンサートだ。観客席はドームの中心に向かって逆円錐状になっていて、その中央にあるのはボクシングでみるようなリングだった。もっとも、土を盛りつけて踏み固め、その周りをコースロープで囲っただけの、随分と粗野なリングだ。そこで二人が殴り合いの対戦をしていた。


 一人は長い赤髪でボンデージみたいな衣装を着て、背中にコウモリの羽をはやした女。

 もう一人は上半身裸でボクサーパンツ一丁の黒人。


 その戦いは一見ボクシングに見えるが、どうも違う。

 ボクサーパンツの黒人が拳を振るうと、手元で何かが爆発したかのように炎が炸裂する。女の方は羽を使って時折重力を無視したように宙を舞い、とんでもないサマーソルトキックをかましたりしている。

 総合格闘技、としてくくるにはには無理があるだろう。

 一体、あれは何だ?



『ワールドファイトクラブへようこそ』



 突然、黒瀬の眼前にタスクウィンドウが起動した。

 Warld Fight Clubという文字がおどろおどろしく描かれ、拳が打ち合っている映像が流れた。女性の音声案内が映像に合わせて解説を始める。



『全世界、三二〇〇万人を熱狂の渦に巻き込んだ格闘ゲーム、ワールドファイトクラブ。ここでは日々腕に覚えのある挑戦者たちがリングに上がり、血湧き肉躍る闘いを繰り広げています。参加は簡単。ワールドファイトクラブ付属のクリエイトソフトを起動して、四万八千のパーツから自由にキャラクターを作成してください。あなただけのファイティングスタイルができあがったら、後は挑戦者に名を連ねるだけ。三千二百万人のプレイヤー、そして最強の世界ランカー達があなたの挑戦を待っています!』


 世界ランカーと思しき人物達がテーマミュージックと共にタスクウィンドウに現れる。『エンパイア・プラム』、『マスター・チャン』『スカウト・ジョー』『不死鳥・アウレリウス』――――次々と現れる世界ランカーの中に、今リングで戦っている男の姿があった。


 『ブラスト・トム』……ボクサースタイルのファイター、必殺のブラストパンチが敵を粉砕! とある。



「挑戦者を」

 非現実的な事ばかりでくらくらしていると、不意に耳元でコーディの声がした。ぎょっとしてそちらに目を向けると、薄いスカイブルーの半透明になった彼女が、まるで幽霊みたいに宙に浮いていた。



「お前……眞子の所に戻せよ!!」


「戻っても無駄です」


「無駄って――」


「あの世界にはアウターホリッカーを救出する手段は何もありません。救急車を呼んだ所で、柔らかいベッドが用意されるだけで、30分もしない内に彼女は死にます」


「そんなの……そんなの信じられるかよ! ここから出せ!!」


「あれを」


 コーディが指さすと、まるでそこに巨大なレンズが現れたみたいに黒瀬の前の空間が歪んだ。うぉんうぉんとわけのわからない歓声を上げて飛び上がる客達の姿はレンズ越しに消え、リングがズームアップされた。


 『ブラスト・トム』が蹴り上げられるのが見えた。自慢のブラストパンチも挑戦者の女にことごとくガードされ、たたき落とされている。

 黒瀬の位置からでは女は背中しか見えないが、体の細さの割にすさまじいパンチを放っているのはわかる。どうやらこれはあくまでもゲームであって、体格そのほかの要素は実際の攻撃とはまったく関係ないようだった。


 女の肘打ちが、ブラスト・トムの顎をとらえた。


 トムが大きく体勢を崩し、ふらついた。

 大歓声がわき起こる。女は極めて冷静にブラスト・トムに接近して、その喉をひっつかむと、そのまま宙に持ち上げた。自分の体重で首が絞まり、ブラスト・トムが目玉を飛び出させんばかりに目をかっぴらく。

 女はその頬にキスをすると、突然鋭い歯をむき出しにして首筋に食らいついた。その白く細い喉をごくごくとうごめかせる――――血をすすっているのか……?


 ビクビクと震えるブラスト・トムの体。

 その顔から生気が失われ、目がぐるりと白目を剥く。


 干涸らびたその体が床にたたきつけられると、挑戦者をたたえる歓声が会場にわっとひろがった。女は歓声に舞うように応え、コーナーに戻ろうと振り返った。



 黒瀬の目が見開かれた。



 最初、黒瀬は目をしばたかせて、目にした物がよくわからずにきょとんとした。

 あいつ、なにやってるんだ……? かすかにそんな事をつぶやいた。


「おい……これ……」


 唖然として、思わずかすれた声が漏れた。

 言葉の続きが出てこない。

 目の前の現実を――信じられないが、『現実』をみつめつづけるしかない。



「既に彼女は生体データで脳の17パーセントが機能不全に陥っています。それに――――」



 見間違いかも知れない。

 黒瀬は人混みをかき分け、体をすべり込ませ、必死にリングに駆け寄った。

 リングに飛びついて、挑戦者の女の顔を見あげる。女はただ静かにコーナーにもたれかかっていた。

 燃えるような赤髪がたたかいで乱れ、それが後光のように彼女の背後でうごめいている。体のラインが出るようにぴったりと張り付いたワンピーススーツ。真っ赤な髪に合わせた紫のルージュもひいていて――――姿



「何やってんだよ――――眞子ッ!?」



 新たに現れたチャレンジャーに殺伐さつばつとした目を向ける彼女の顔は、紛れもなく、義妹の、眞子のものだった。


 真っ赤な髪や、目、唇、表情、どれも彼女のものではなかったが、あの骨格や、肌や、かもし出される雰囲気が、どこか弱々しい独特のそれとまったく同じだった。



「叫んでも無駄です」



 眞子の名を何度も呼ぶ黒瀬にコーディがそう言った。



「アウターホリック状態ではゲームのプレイが全てで、他には何も反応しません」



 冷静な彼女の口調が気に障った。目の前の現実も――現実?――理解できない、信じられない。黒瀬はただ、彼女に怒鳴るしかなかった。



「お前がやったんじゃないのか!?」


 コーディは、まるであわれむような目で、黒瀬を睥睨へいげいした。


「アウターホリックにおちいる原因は一つだけ。現実世界の、仮想世界に対する優位性が失われた時です。現実の苦痛が、現実と空想の逆転を呼び起こす」


 黒瀬が何か言いつのろうとすると、彼女は「つまり」とそれを先んじて言った。


「これは無意識の自殺です。現実の苦痛が、彼女をアウターワールドへ追い込んだ」


 現実の、苦痛

 彼女は、家族を欲していた。

 

 今朝の記憶がよみがえる。これまでに何度かあったのと同じような彼女の食事の誘いを、もう二度と来ないよう、手ひどい言葉で拒絶した。

 たしかにそうした――だが、それが、彼女を自殺に追い込んだ? そんな簡単な事で? 彼女が死ぬ?

 恐ろしい予感で冷たい汗が額をしたたる。


 自分が見ている現実の向こう側には、生きている人間がいて、そこには、自分ではどうしても見えない陰があったのではないか。


 眞子は少々落ち込んだだけのように見えた――――だがもしかしたら、彼女はその陰で苦痛にもだえていたのかも知れない。突然家族を失った悲しみを抱えきれずに、一人で泣き崩れていたのかもしれない。


 その彼女が幼子みたいに差しだした手を、自分は――――


 コーディは真っ赤なタスクウィンドウを空中から取り出して、黒瀬に見せる。14:56と表示されていた。



「時間がありません。もし――――彼女を助けるのなら」



 彼女を助ける?

 俺が?


 途端とたん、その事実が突然と実体をともなって黒瀬に襲いかかってきた。残り十五分で彼女は死ぬ。それを止めるには、自分がわけのわからないヒーローになって彼女を救わなくてはならない。このリングの上に立って、彼女を打ち倒さなくてはいけないという事か? そうしないと、死ぬ? 彼女が? そんな事、できるわけない。 片手も、片腕も動かないのに、そんな事、できるわけ――――



「俺は……」



 コーディが黒瀬に目を向ける。

 彼はうつむいたまま、恥辱ちじょくにまみれて身動きできないみたいに、じっと立ちすくんでいる。


「俺は、日の下にいちゃ、いけない人間、なんだ。昼の世界の人間じゃない。日陰者の、陰の世界の住人なんだ。俺みたいな奴が、昼の世界に手を出す権利ない。俺はただ、陰にこもって、じっとしているべきなんだ。あの屋敷で、一人で――――」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。

 全身が無力感に飲み込まれる。


 できるものか、誰かを助ける事なんて――――胸の内で、誰かが囁く声がする。


 今までお前が誰かを救った事なんてあるか?

 お前は自分一人で生きる事すら出来なかった。


 助けられる側だったんだよ、お前は。そんな人間が、眞子を救う? 自分の事すら満足に出来なかったお前が? 無理だ。あきらめろ。今までだってそうしてきたんだ。腕も足も動かない自分を哀れんで、昼の世界を拒否しただろ? 未練たらしく誰もいない明け方にランニングなんかして、昼の世界にあこがれていたくせに、義妹がさしのべた優しい手を、つまらないプライドのために振り払っただろう? お前は逃れられないオリの中に自分から入ったんだ。誰の救いの手も期待できず、誰かに手をさしのべる必要もない、自分勝手で、一人っきりの檻の中に。


 お前は、陰の世界の住人なんだ。

 お前は誰も助ける事なんて出来ない。



「ここは外側の世界アウターワールド



 コーディの声が凛として響いた。



「昼でも陰でもない。あなたが何者であったかなんて関係ない――――ここは現実の外側にある世界アウターワールドなんです」



 みちびかれるかのように、黒瀬が顔を上げると、コーディは黄金色の瞳を静かに輝かせていた。


「ここにあるのはたった一つの事実だけ。この世界にも、現実の世界にも、どこにも、アウターホリッカーを救える者はない。救急車を呼んだって彼女は助からないし、警察を呼んでも、軍隊を呼んでも、彼女は救えない」


 コーディは言った。



「あなたです、排出者イジェクター。あなたにしか救えない」



 彼女の後ろで、新たなチャレンジャーが地面に叩きつけられた。

 悪魔のような姿の眞子は、それを冷たい視線で見つめていた。

 会場を大歓声が包み込む。その瞬間、黒瀬の聴覚はまるで機能しなくなった。

 空っぽの空間に放り出されたみたいだった。無音。静寂。沈黙の世界。


 やれるのは、自分おまえだけ。


 何か根源的なものに突き動かされて、体が震え上がった。恐ろしくもあったし、浮き足立つような感覚にも似ていた。

 ――――きっと、イジェクターの遺志でしょうから

 コーディの言葉がよみがえる。

 祖父の遺志。

 一度途切れたそのの先に、自分は立っているのか?


 足が震え出す。緊張感で体は言う事を聞かない。

 だが、それは今や恐怖によるものだけでないと思った。

 拳を握りしめた。

 今、始まろうとしているんだ。理由も目的もわからない祖父の意志が終わりを告げ、その道は自分にゆずられた。一歩踏み出す勇気があれば、その道を――――あの屋敷の外へと続く世界に、足を踏み入れる事が出来る。



 コーディ

 かすれた声が出た。



「どうすればいい」



 彼女はじっと黒瀬を見つめると、かすかに口元をもたげた。


外側の世界アウターワールドへようこそ。排出者イジェクター


 彼女は勢いよく、ばっと腕を振るった。

 トレンチコートのすそがばたばたと音を立てた。右から、左へ、まるでカーテンが開かれたかのように、辺りの風景が暗闇一色に塗り替えられる。

 喧噪けんそうもけばけばしい光も観衆も消え去り、闇の中に漂うのは、黒瀬とコーディだけになった。



「ゲームオーバー条件は『体力が0になること』」



 彼女は両手を開いた。するとその両手の間に、いくつもタスクウィンドウが連なった帯が現われた。

 ウィンドウに向けた彼女の目は一気に瞳孔が開き、瞳の最奥に黄金色の輝きが現われた。その輝きがちらちらと輝くたび、帯に並べられたウィンドウは素早くスライドしていく。すさまじい早さだ。まるで印刷機械が無数の用紙を刷っているみたいだった。


彼女を救うイジェクトするにはこのゲームオーバー条件に彼女を追い込まなくてはいけません」


 彼女は濁流だくりゅうのようにスライドしていくウィンドウからいくつもの黄金色に輝くウィンドウをすくい出し、それを丸める。そして彼女が黒瀬に指を向けると、その光の球体が一筋の光線となって黒瀬の頭に飛び込んできた。思わず目をつむりそうになるが、体の自由がきかなかった。



「本ゲームに使用するキャラクター及び格闘スタイルを設定中……前イジェクターの経験を元にして、参考になりそうな経験をインストールしています」



 突然、体の感覚が鋭敏えいびんになった。体が軽くなるような感覚が、頭に刷り込まれる。奇妙な充足感が、黒瀬の脳を揺さぶった。



「プレイ中、任意のタイミングで『テラ』を使用し、約三秒間データの高速処理を行う事が出来ます。ただし一度使用すると再稼働に24時間が必要になるため、実質ゲーム一回につき一度の使用が限度になります」



 テラ? そう思うだけで、なぜか彼女にその意思は通じたようだった。瞳を紫色にぺかぺかと輝かせて、わずかに口元をもたげる。



「つまり困った時はこう叫んでください『オーバークロック!』――できるだけ、大きな声で」



 なんだ、それ。そんな恥ずかしい真似できるか。

憮然とする黒瀬の頬を、コーディはかすめるみたいに撫でた。


祖曰そいわく、兵は拙速せっそくなるを聞くも、いまだたくみの久しきをざるなり」


彼女は薄い唇をわずかにもたげてささやいた。小さな秘密を告白するように。耳にかすかな温もりが触れて、吐息が頬をなぜた。クロセはぎょっとした顔で


「……じいちゃんの言葉だ」


祖父が時々口にしていた、呪文のような文句。昔の戦術家の言葉だった気がする。なんで彼女が知ってるんだ?


「戦いは速さです。前任者のやり方を教えてあげますねオペレーションします


二の句を継げないでいる黒瀬を尻目に、彼女はふわりと宙を舞い踊った。



「インストール完了です」



 そう言いながら、空中でハイタッチするみたいに手を動かすと、帯はさっと彼女の前から姿を消。

 それから、彼女は両手を、壊れやすい何かをそっと受け取るように胸の前で合わせた。彼女の手の中に、黄金色の粒子がきらめいた。



「最後に確認します。一度なったら死ぬまでやめられません。また、ゲームオーバー条件を達成できなかった場合には、あなたも彼女の中毒症状アウターホリックに取り込まれ、死亡します。それでも構いませんね?」



 彼女の手の内に現われたのは、あの傷だらけのガスマスクだった。

 無骨なゴム質の外装に、無機質なレンズ、口元を覆うリブリーザー。これをかぶるのが、最終承諾という事か。



 祖父がどういうつもりでこんな真似をしていたのかは、わからない。



 ヒーローごっこがしたかったのか、強い使命感があったのか、妄想の果ての奇行だったのか。祖父を知ろうとすれば知ろうとする程、祖父の姿は遠のいていって、今になってもその本意は知るよしもない。


 イジェクターが、祖父にとってどういう存在だったのか、アウターホリッカーを、なぜ救わなくてはいけなかったのか、そして、本当に殺人の構造を仕組んだのは、彼なのか――――麻戸刑事が来てから生まれた疑念は、いまだ何一つ解明されていないのだ。


 だが、今ガスマスクを手に取ったこの瞬間、その答えが一つ解けた気がした。


 コーディは、今や芸術細工げいじゅつざいくみたいな不可思議な均衡きんこうを保った笑みを浮かべている。人形が浮かべる笑みというのは見た事はないが、コーディの表情を見ていると、ショッピングモールのマネキンはみんなそろって笑みを浮かべるべきだろうと思う。

 つくづく、奇妙な機械だ……おかしな祖父の忘れ形見。

 いずれにせよ、これ以上祖父の謎を解く手がかりは、こいつだけのようだ。飛び込んで、みるか。そう思う。



「やってやる」



 大きく息を吸い込んで、手にしたマスクを顔に押しつけた。

 世界が反転し、意識が吹き飛んだ。








 リングに次のプレイヤーが現われた。

 世界ランカーのことごとくを倒した挑戦者にあてがわれたのは、世界最強のプレイヤー、エンパイア・プラム。


 196センチの巨体に引き締まったむき出しの肉体、軍用のカーゴパンツとブーツを履き、顔には無数の傷、禿頭とくとう、体にはチャンピオンの証であるベルトを肩がけにかけていた。


 落ちくぼんだ目の奥で、鋭い眼光が挑戦者をとらえる。


 眞子は、二、三人殺してきたかのようなすさんだ目でそれをうけとめた。いよいよベルトを掛けた闘いが始めるのだ。


 おあつらえ向けに挑戦者の死へのタイムリミットは残り五分を切った。

 おそらくはこれが最の闘いになるだろう。


 それをさとった観衆は、いよいよ最高潮さいこうちょうに達して雄叫おたけびに近い歓声を上げた。

 マイクコールが高らかにプラムの名を叫ぶ。

 ワールドファイトクラブ史上最も強い男が、命をして現われた挑戦者にいよいよこたえ姿を現した! 知らぬ者のいない歩く核兵器! ご存知、エンパイァァァァァァァァァ――――


 しかしそこまでコールがかかった所で、プラムの姿は突然歪んだ。


 観衆がざわつく。

 リングの中央に歩み出て、肩を回していたプラムの姿は、まるで四角く切り取られたかのように歪み、左右にぶれる。プラムを取り囲む四角い空間が灰色の砂嵐に染まり、点滅を繰り返してから、突然電源が落ちるように彼の姿は消え去った。



 代わりに一人の男が立っていた。



 全身、真っ黒だった。

 真っ黒なゴム質のスーツがゆるく彼の全身を包み、真っ黒なハーネスがそれをきつく締め上げている。足下にはわずかにだぼついたすそしばり上げる編上げブーツ。肘当て、ひざ当て、グローブに、弾倉やグレネードがいっぱいに詰まったベスト、それら全ての装備を、真っ黒なレインコートがしたたるように包み込んでいる。



 顔にはガスマスク。



 彼はゆっくりと呼吸していた。

 まるで、自分がそこにいる事を、確かめようとしているかのように。

 会場は静まりかえり、静かに肩を上下させる彼を凍り付いたように凝視ぎょうししていた。呼吸をしていなければ、彼はまるで彫像ちょうぞうだった。

 ポケットに手を突っ込んで、顔をうつむかせて立つ彼は、ファッション誌の表紙か、スタイリッシュなモノクロームの絵画のようにも見えた。



「…………イジェクター?」



 どこかで誰かがささやいた。

 その小さなささやきは、枯れ果てた草原に投げ入れた火種となって、観衆に火をつける。


 イジェクター? イジェクターなの? 疑問の声はすぐに確信の唱和に変わった。イジェクター、イジェクターだ! 唱和はすぐに歓声に取り込まれた。

 いつの間にか止まっていたビートのBGMが高らかに響くと共に、その唱和は会場を席巻した。






 自分を取り囲む歓声に、イジェクター――黒瀬は圧倒されていた。

 引きこもりから一転、待ち受けていたのは大歓声だ。

 眠っていた感覚が雷に打たれたみたいに呼び覚まされる。久しく味わった事のない、みなぎるような感覚が全身にふつふつとわき起こった。


 コーディは「イジェクターはアウターワールドの救世主」と言っていた。もしかしたら、観客は皆イジェクターの存在を既に知っているのだろうか。だとしたら、責任重大だな、そう思う。


『ゲーム、始まります』


 緊張した声がした。再び宙に浮かぶ半透明の妖精になったコーディが、黒瀬の視界に滑り込んできた。


『時間は五分間、その間に相手の体力を0にして、彼女をゲームオーバーにしてください。これが唯一の勝利条件です。ただし、逆にこちらが体力を0にされたり、タイムオーバーした場合は、彼女の中毒症状アウターホリックに取り込まれて』


 心中か。


 言葉にせず、そう思っただけだったが、コーディにはそれが伝わったようだった。彼女は急速冷凍したみたいな表情をこくりと動かした。  


 向かいのコーナーを見ると、もたれ掛かっていた眞子が、身を起こした所だった。一瞬だけ、凄惨せいさんな笑みを浮かべていた気がする。


 右半身を前にして、半身の体勢を取る。

 麻痺の残る左半身は動かない。この不利な条件をくつがえすために、一気呵成いっきかせいに襲いかかって終らせるつもりだった。

 対する眞子はモデルみたいに腰をなまめかしくらしながらリング中央に歩み寄った。ゆたかな胸を強調するように背伸びする。いかがわしい歓声が上がった。馬鹿な事はやめろと叫びたかったが、彼女の目はあの瞳孔どうこうが開閉するとりつかれたような瞳をしていて、言葉は届きそうもなかった。

 黒瀬は祈るように心に誓った。助けてやるぞ……本当に。



「お前を、排出イジェクトする」



 小さくつぶやく。マスクに押しつぶされてくぐもったその声が、耳に届いた。

 コングが鳴った。






 次の瞬間には、人間離れした動きで眞子の体が視界の内から消えた。

『下がって!』

 コーディの声にとっさに反応し、慌ててバックステップを踏む。すると砲弾のような速さで黒い影が下から上へ消えていった。眞子の体は、瞬きの間もなく黒瀬に肉薄していて、今の砲弾は彼女の放ったアッパーだと気づいた時には左のフックが迫っている。


後退してバックステップ!』


 コーディの指示にも、しかし態勢を立て直す暇はない。

 バランスを崩すのを承知しょうちで右腕の肘を迫る拳に叩きつけて防御。何とかふせぐが眞子の連打は止まらずに右の肘打ちが迫ってきていた。左足を上げてわざとバランスを後方に倒す事でなんとかリーチの短いその攻撃はよける事ができたが、背中はもうコーナーロープに当たってしまった。


 それに気をとられたのが命取りだった。

 眞子はからぶった右の肘打ちを返しざま、腕を振って黒瀬の頭をなぎ払う。


 格闘術でも何でもない粗雑な一撃だったが、頭にハンマーでも叩きつけられたような衝撃が走った。意識に空白ができる。目は見開かれ、呼吸が止まった。


「フフフ……」


 たたらを踏んだ黒瀬に、笑みを浮かべて眞子が歩み寄った。駆け寄るわけではなく、歩み寄る。なめられているが、黒瀬に反発する力はなかった。彼女の蹴りが見えたが、よける事はできず、もろに鳩尾につま先が入った。

 胃液をはき出しそうになったが、理由のわからない力で腹の底に押し戻された。

 不快感に何度もえずく。くらった衝撃は、とても女のものとは思えず、大の大人とて余程訓練を積んでいなければこんな重い一撃は与えられまい。


『こちらのライフが20%減少、位相電位を抑制中――――彼女は現実の彼女ではありません、私の指示をよく聞いて!』


 黒瀬は致命的な思い違いをしていたのを思い知った。

 ここはアウターワールドであって、現実の世界の法則は何一つ通用しない。

 現実と同じようなリーチの取り方や、攻撃の重さの予測は、何の意味もない。


 目の前にいるのは、二日と二十三時間五〇分以上勝ち続けてきた化け物じみた歴戦の強者であって、義理の妹でもなければ、気弱なウサギでもないのだ。


 え、弱いじゃん……。

 そんな困惑の声が観衆から漏れた。返す言葉も、余裕もない。


『痛みに反応してると負けます、立って!』


コーディがソプラノの声音に似つかわしくない鋭さで叫ぶ。


「うる、せぇ……!」


憎まれ口を叩くのが精一杯だった。

眞子は黒瀬の首をつかむと、軽々と持ち上げた。自分の体重が喉にかかる苦痛は想像以上で、まるで顔面に肉を注入されているかのように顔がぱんぱんに腫れ上げるのが分かった。眞子は目玉が飛び出しそうになっている黒瀬の喉に唇を寄せると、次の瞬間突然かぶりついた。

 視界が真っ白に染まった。


『急速にライフ減少中! 感覚受容体pk3の振動異常値! 敵のコード属性で三秒間動けません!』


 刺激過多な真っ白な世界の中で、自分がおもちゃみたいにぶるぶる震えている感覚があった。


『残りライフ25%を切りました! 一時的に感覚受容を全て制限して麻痺の解除を試みます……統合知覚体を再構成、随意神経ルートを確保したまま三者視点へ。3、2、1…今ッ!』


 不意に体から感覚が失われ、意識が宙に浮いた。気がつくと黒瀬は自分の体を天井から眺めていた。

 幽体離脱……?

 世迷い言は信じない口だったが、どうもそのようにしか思えない。抜け殻の体が悪魔の姿の眞子に首筋をかみつかれビクビクと痙攣している。

 その体に戻ろうと右手を伸ばすと、眞子につり上げられている体が動くのが見えた。

 右手を伸ばしている。

 もしかして宙に浮いているのは意識だけで、体は自分の意志で動かせるのか?



「(――――反撃してやる)」



 次の瞬間、黒瀬は首筋にむしゃぶりつく眞子の頭に右足を絡めた。

 その感覚はまるでラジコン操作だ。重心移動を利用して彼女に全体重をかけ、体をひねる。彼女は声なき悲鳴を上げて、二人分の体重を支えきれずにバランスを崩して倒れた。


 マウントをとった。


 その瞬間、急ブレーキを駆けられたような衝撃と共に、意識が体に戻る。

 眞子が獣のような表情でこちらを見上げている。その息づかい、組み敷いた体が抵抗するのを感じる。


 拳を振り上げた。


 黒瀬は馬乗りの体制から、闇雲に顔面に向けて拳を振るった。

 容赦をする必要はないと思った。

 血しぶきが舞い鼻の骨が折れる音がしたが、そんなものにはかまってられなかった。目がつぶれ、咽喉をつぶし、喉に血が詰まって死ぬまで繰り返す。


 が、片足だけの拘束ではやはり無理があったのか、彼女は十発も食らう前に黒瀬の足の下から抜け出して、曲芸師のようにバク宙で体を起こすと、獣のようなバックステップで距離をとった。

 黒瀬ものろのろと立ち上がり構える。眞子の顔はまったく崩れていなかった。きっと血みどろで見るも無惨だろうと思ったが、彼女はまるで痛みも感じてない風に額から垂れた血を舌でなめとっていた。右の眼窩がんかからも血が垂れ、まるで血の涙を流しているようでもある。後は少し、青痣あおたんがついている程度か。おそらくは、ゲームの仕様として、あまり顔は崩れないようにしてあるのだろう。それがわかる位には、黒瀬はアウターワールドに順応していた。


『今のは良いセンス』


 コーディが現われて、瞳をエメラルド色にきらきら輝かせて言った。すぐに表情をただし、


『ですが前任者おじい様の動きには及んでいません。片腕片足では限界があります。以前導入されたPlay fun!12に干渉して脳の四肢運動野の麻痺を取り除きます』


「ッほ、げは……」


 黒瀬は荒い息をしている。声はかすれ、冷静さからはほど遠かった。眞子と比べても、いまだ劣勢なのは明らかだった。


「――――余計な、事すんな」


『既に修正を始めています。時間を稼いでください』


 何か反論しようと思ったが、口から出たのは血のかたまりだけだった。どうせ左手と脚が動いた所で、今までろくに動かした事がない手足をまともに動かせるとは思えない。もっとも、このままではじり貧なのは分かっている。

 コーディが、はっと顔を上げた。


『来ます!』


 クロセがもうろうとする意識をつなぎ止めて眞子に眼を向けると、眞子は腰にかけていた鞭を手にしていた。彼女の手の中でそれが輝き出す。


『正面! スライドステップしてッ!!』


 コーディが叫ぶ声が聞こえたが、体は動かなかった。鞭は獲物に襲いかかる蛇のようにのたくって瞬きする間もなくクロセの喉に絡みついた。


 次の瞬間一気に首が絞まり、わけもわからぬうちに足が地面を離れた。冗談のような光景だった。頭に一気に血が上り、真っ赤になった視界レツドアウトの中で見たのは、はるか彼方かなた地上に見えるむちを振り回す眞子の姿であり、つまり自分の体は彼女に軽々と振り回されていたのだった。右へ左へ振り回され、地面に叩きつけられ、その度に体に鋭く重い衝撃が走った。肺から空気が何度も押し出され、体からはすっかり酸素が無くなった。何度も血を吐き、胸骨が何本か折れた音がした。

 最後に放り出された黒瀬は、リングサイドに叩きつけられた。

 すさまじい砂埃すなぼこりが彼を包み込み、観客達が悲鳴を上げてその煙から逃げ出した。

 ジャッジがカウントをとろうとすると、眞子はむちを振り回し始めた。悲鳴にも似た、イジェクターを呼ぶ声が観客の間かられ聞こえたが、彼が立ち上がる様子はなかった。

 ジャッジが8カウントまで数えた時、眞子はむちを土煙の中へ叩きつけた。とどめを刺したのだ。誰しもが思った。手応えを感じたらしい彼女は、引き寄せようと一気にむちを引っ張った。

 しかし、むちがイジェクターを引き連れてくる事はなかった。何かが引っかかったように、むちはぴんと伸びたまま戻ってこない。眞子はいぶかしげに、何度も引っ張った。土煙が晴れる。人影が現れ、眞子の目が見開かれた。



 イジェクターがむち



 眞子はぎょっとする。その一瞬の隙を突いて、黒瀬は一気にすさまじい力でそれを引き寄せた。眞子は悲鳴も上げられずにイジェクターへ吹き飛ぶ。黒瀬はもはや物理運動など無視してロケットのように飛んできた彼女に合わせて、限界まで引いた右腕を渾身の力を込めて顔面に叩きつけた。その小さな顔をわしづかみにすると、突進してきた力をそのまま直角に曲げて、曲芸のように地面に叩きつけた。


 ぶしッ――と、口をふさいだ蛇口のように血が宙に舞った。


 硬く踏み固められた地面は打ち付けられた彼女の衝撃を受け止めることなく、ダイレクトにその顔面に返した。鼻がへし折れ、皮膚が裂け、目がつぶれ、頭蓋が割れて頭血した。赤や、照明の色に染まった様々な液体がまき散らされ、くぐもった悲鳴が一瞬だけ会場に響いた。


 歓声はかき消えていた。

 誰もが息を詰まらせたみたいに押し黙っていた。


 その静寂を裂くように、イジェクターは歩き出した。倒れした眞子の体を背にして、リングの外へと向かう。



『動く手足の感覚はどうです』


 彼の視界でコーディが舞い踊りながら、目をエメラルド色にきらきら輝かせて言った。


『悪くないでしょう?』



 黒瀬は答えなかった。ピタリと立ち止まる。

脳裏に、祖父の言葉がふっと浮かんだのだ。


おもんばかり無くして敵をあなどる者は、必ず人にとりこせらる……」

『え?』


 観客席から悲鳴が上がった。

 まるでゾンビのように、眞子がふらつきながら立ち上がったのだ。その瞳を真っ赤に輝かせ、鋭い歯をむき出しにする。両腕を突き出して黒瀬の背に襲いかかる。

 ガスマスクの下、口を開く。

「オーバークロック」


 


× × ×


 黒瀬家の屋敷地下、すり鉢状のドームの中で演算装置が立ち並ぶその場所に、再び光が宿った。

 無数の機械群が静かに駆動音をあげ、チカチカとステータスランプを点灯させる。

 演算装置の群れがはき出す駆動音とランプの明滅は、まるで銀河が地上へ落ちてくる前触れのようだった。そしてドームの中央、一際大きな柱状の演算装置に光が収束すると、柱に稲妻のように光が走った。


 × × ×


 その瞬間、黒瀬は世界が酷く無力なものに成り代わったように感じた。

 いつも絶対的だった世界は、今や手中にあった。


 自分が思うように――例えば、自分以外の時間をはるかに鈍化させて、全てをスローモーションのように進ませる事すら出来た。背中から襲いかかる眞子の姿を振り返りざま片目で確認する。常人では反応できない速度で襲ってくる眞子だったが、今や黒瀬は常人ではなかった。彼は、今、この瞬間、この世界のあらゆるルールを超越していた。誰よりも早く動く事が出来たし、誰よりも早く感じる事が出来たし、誰よりも早く、敵を打ち倒す事が出来た。

 体をヘアピンみたいに曲げた黒瀬が振り返りざま放ったハイキックは、眞子のつきだした両腕の間をすり抜けて、すさまじい力で彼女の側頭部に叩きつけられた。頭蓋は今度こそ、内容物を破裂させながらへし折れて、血をまき散らした。インパクトの瞬間、黒瀬が知覚する現実の時間が元に戻る。クリアになった感覚が、激しく打ち鳴らされるコングの音を拾う。リングの上に、巨大な文字が浮かび上がった。




!!! K .O. !!!



 限界までふくらませた風船が炸裂したみたいに、観客達が立ち上がって大歓声を上げた。

 リングの上に立って、じっと挑戦者を見つめていたイジェクターは、自分をめたたえるその歓声に応える事もなく、むしろ、まるで自分の身を切り裂いたみたいに呆然と、倒れたアウターホリッカーを見つめていた。宙から突然現れた真っ黒なレインコートが――まるで誰かがその肩を抱いたように――彼の肩にかかると、彼は身をひるがえし、リングの外に姿を消した。

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