act2:裸の女王―spring has come―[前編]




 全てが一変したのに、何も変わらなかった一週間が過ぎた。



 あの後――――外側の世界アウターワールドでのあの電気ショックみたいな体験を終えて目を覚ますと、黒瀬は眞子と折り重なるように倒れていた。


彼女がぼんやりと意識を取り戻したのを確認すると、慌てて病院に運んだ。極度の脱水症状に飢餓状態、睡眠不足や便秘と重軽さまざまな症状が同時に彼女を襲っていたが、Play fun!12量子通信ネットワーク、しばらく入院するだけで回復するだろうと医者は言っていた。


実際、彼女が安らかに寝息を立てているのを病室で見つめていると、全ては夢のような出来事のように思えた。



 一週間たった今も、その思いは消えていない。強烈な夢を見ていただけのような気がする。あの時の事を思い出そうとすると、蘇る記憶は現実よりあまりに強烈で、だけどまるで現実感がない。


大歓声にビートを刻むBGM、冗談みたいになまめかしくて強靱きょうじんで、悪魔みたいな姿の眞子に――――よみがえる、動かないはずの手足の感覚。ぎゅっと手を握ると、今でもその感覚が鮮明に思い出せる。今にも左手は動き出しそうで、 左足は感覚がみなぎってきそうで、……だが、いざ動かそうとすると、感覚はないし、動かし方もわからないのだ。


 握りしめた手を、ゆっくりとほどく。

 視線を、遠い町並みに投げやった。


 一週間前、世界が一変するみたいな経験をしたというのに、二階の自室から見えるこの街の風景は何も変わらない。結局、現実は何一つ、変わっていない。

「……いつも見てるんですか、この景色。こんなに」

 ただ一つ、彼女をのぞいて。






「ご家族、いないんですね」

 一階に下りて、台所に向かうと、コーディはとんとんと階段を鳴らしながらついてきた。彼女はなぜか着物に身を包んでいる。ほとんど黒に近い濃紺の振り袖に、真っ赤な花びらがあしらってあって、その振りそでを白い帯でしめている。帯は色とりどりの花が刺繍ししゅうされ、どこか楽しげだ。髪は朱色の紐で団子に結っている。眞子を連れて行った先の病室で再会した時は白衣に身を包んでいたので、どうやら彼女はちょっとズレたファッションセンスの持ち主なのか、コスプレが好きなのか、あるいはその両方なのか……とにかく、そういう趣味か"機能"があるようだった。

「いたけど死んだよ」

 別に嫌味としていったわけではなかったので、言葉はとげとげしくなかったはずだ。彼女は返事をしなかった。キッチンで足を止めた黒瀬の前で立ち止まる。

「ずっとこの家から出ないんですか」

彼女を押しのけて、クロセはその背後にあった冷蔵庫に「卵、ボイル。スティックパック、解凍」と伝えた。冷蔵庫はうなるような駆動音を上げてそれに応える。扉を開けて手を突っ込むと、すっかりゆであがった卵と100個で一パック450円のスティックパック――棒食と揶揄される素食だ――を引っ張り出した。わしづかみにすると、がつがつと座りもせずに腹に収める。コーディが何か言いたげにしている傍らを抜けて、玄関まで出て行き、扉脇に置かれていた牛乳瓶をひっつかんでそれをあおった。

「いつもそんな食事を?」

 非難するような調子で彼女がそう言った。


「そうだけど」

前任者おじいさまはいつもバランスの良い食事を心がけていました」

「ジジイだったからだろ」


にべもなく言うと、コーディは目の色をまたくるくると目まぐるしく変えてから


「”三世の長者は衣服を知り、五世の長者は飲食を知るーー」

「”これ被服飲食の暁難あかつきがたきを言う”だろ。またじいちゃんの言葉かよ……」


黒瀬はちっと舌打ちする。彼女の表情は変わらないが、少し唇の形が歪んでいる。それに、目の色が灰色と赤にじわじわと点滅している。何か言いたげだ。この得体の知れない奇妙な同居人を、黒瀬は扱いかねていた。

 いつもなら、他人が自分の家に足を踏み入れるだけで、服の中に毒針を持った虫が入っているような嫌悪感を感じて、体が悪寒で震え上がる位なのに、彼女にはそういう悪感情があまり湧かない。

 ――理由ははっきりとはわからないが、たぶん、彼女の言葉があまりに抑揚もなく平坦で、無機質だからだと思う。まさに、彼女が自分自身で言うように、彼女はOSであり、機械なのだ。こうして間近で見る彼女は、見た目は確かになめらかな肌を持つ人間の姿をしているが、自分の脳は、彼女をただの機械として認識しているらしい。おかげで対人アレルギーも発症しないですんでいる。でなければ大変だった。なにせ彼女は、自分の脳に住んでいるのだ――切り離すには、インターフォンを切るよりずっと難儀するはずだ。

 もっとも、だからといって彼女が全くの無害なのかというと、やっぱりそうではない。

「あの」

「なんだよ」

 今度の言葉は、棘はなかったが、うんざりした気分が上乗せされていた。彼女と過ごす一週間。ほぼこうして毎日質問攻めだった。返事をすると『おじいさまはこうでした』『おじいさま曰く』『”*◆♤☆@◐♢(具体的には思い出せないが、なんだからよくわからない中国の名言)”』——まったくノイローゼになりそうだった。家庭教師でもしてる気分か? 中学生みたいに貧相な"なり"をしてるくせに……。

最初は律儀に答えていたが、彼女の質問ときたらまるでアンケートに答えてるみたいに平坦で無機質なのだ。とにかく、一方的で、まさに機械と話している気分だった。

「……その、足」

 瞳をかしゃかしゃと色濃い群青に変えた彼女は、わずかにためらったようだった。(おそらく)おずおずと、黒瀬の義足を指す。

「義足に、したんですか」

 少し考えてから、黒瀬はなんだか奇妙な言葉だと思った。彼女の物言いに、何か違和感を感じたのだ。なんだ? 何が変だったんだろう? 違和感の答えにたどり着く前に、彼女が口を開く。「いつ?」

「……たしか、十三くらいの頃。治る見込みないし、歩くのに邪魔だったから」

 コーディは黒瀬の足をしばし見つめてから、そう、と短く応じた。彼女の視線があまりにじっと――思い詰めたように注がれていたので、動きづらくなってしまう。人工筋肉の義足がそんなに珍しいのだろうか。このバイオテクノロジーが駆使された義足は、現代においてはわりと一般的な品だと思う。人工筋肉が随意神経の電気信号に反応して動くので、自由自在に健常者と同じように動かせるという触れ込みで世間に溢れているのだが、いざ装着してみると何の事はない、動かそうと思ってから実際に動くまで、まるでしゃっくりみたいにタイムラグが生じるので、町中を歩くと、すぐに義足である事が知れてしまう。

「痛く、なかったですか」

 コーディが、視線をじっと義足に注いだままつぶやいた。瞳の色は冷たそうな青色だった。また『おじいさま曰く』か? 黒瀬が首を振って否定すると、彼女は短く、つぶやいた。

「そう」

 瞳の色が、微かにきらめいていた。




「出かけるんですか」

 午前九時――普段だったら量子ネットを介した通信教育でも受けている時間だ。コーディがいぶかしげに尋ねるのも無理はない。こんな時間に玄関に黒瀬が立つなんてこと、祖父が亡くなる以前からもなかった。

 黒瀬はじっと、外へと続く扉を見つめていた。その傍らで、コーディが不思議そうな顔をして、身じろぎもせず立ち尽くしている。玄関の扉はすりガラスになっていて、外の陽光の日射しが、にじんだ乳白色になって、光を降ろしていた。音もなく舞う埃が、きらめいている。

 その光を見つめていると、黒瀬は自分の体から違和感がわき起こるのを感じた。その正体はすぐにわかった。震えているのだ。外の世界の光を、恐れている。まるで吸血鬼だ。陰の世界に潜む、醜い化け物――――ぎゅっと、拳を握りしめた。

 パーカーのフードを深くかぶった。それから一歩脚を踏み出そうと思ったが、体が緊張して、うごかない。こわばった筋肉が震え出す。首から上からさっと熱の気が引いて、冷や汗がにじみ出す。喉の奥で、小さく毒づいた。

 玄関脇にあった灰色の煙草入れシガーケースを手にした。震える手でわしづかみにすると、乱暴に中身を取り出す。細巻きの白い包みが、ばらばらと床に転がる。なんとか一つを手のひらの上に落とすと、それを唇ではんだ。

「――待ってください」

 ライターに点した火を、口にくわえた包みに近づけようとした時だった。、急に、手を捕まれる。春先の陽光の温もりとは正反対の、朝霜みたいに冷たい手の感触。見ると、コーディが細い指をライターを持つ手首に絡みつけていた。相変わらずの無表情顔に平坦な声色だったが、目を見ると、ぎゅっと瞳が引き絞られていて、非難の色が微かににじんでいるのが分かった。

「それ、何か分かっているんですか」

 「スウィートスモークだよ」と、黒瀬は短く答えた。コーディはその大きな目でじっと黒瀬を見据えると、ゆっくりと、桜色の薄い唇を動かす。 

「それは、麻薬ですよ」

 そんなことは分かっていた。

 21世紀初頭まで、この国では大麻と呼ばれていた麻薬が、このスウィートスモークの出自であるのは、今時小学生でも知っている事だ。深い鎮静効果、多幸感、ゆるい無気力感をもたらすこの"甘い煙草スウィートスモーク"が解禁されたのは、黒瀬が生まれる前、戦争後に大量に外国人が流入してきた時代だった。政府の機能が見直され、規制が緩和かんわされた結果、大麻は16歳以上なら誰でも吸える嗜好品しこうひんになった。昔ながらの愛煙家オールド・スモーカー無煙煙草モスレムやこの甘い煙草スウィートスモークを子供の吸う物と敬遠するが、精神に作用する効果は煙草よりずっと強いので、愛煙あいえんするというよりは依存するように好んで吸う人間は多かった。

「合法だろ」

 黒瀬はコーディのひんやりとした手を振り払い、包みに火をつけた。ゆっくりと、深く、煙を吸い込む――――コーディが目を押し開いてそれを見つめていた。次第に体の緊張が解け、震えが収まった。右手をかざしてみると、痙攣しているかのようだった手の震えが、だんだんと小さくなるのがはっきりとわかった。

「いつも吸ってるんですか」

 背後でコーディがそう尋ねた。黒瀬はゆっくりと息を吐いて落ち着くと、玄関に脚を踏み出した。今度は動いた。ランニングスニーカーに足を突っ込み、靴紐を結びながら

「昼間に、外に出る時とか、震えがきつい時とか、そういう時だけ」

「外に出るのに、薬に頼っているんですか」

 矢継ぎ早に質問。またこれか――彼女の声色には棘もないし、咎めるような調子でもなかったが、うんざりした。ただの質問なら、いい。だけど自分のしている事に、口を出されるのには我慢できなかった。一々誰かに指図されるのが嫌で、この屋敷に籠もっていたのだから。

「おじいさま曰く、"りんやまいくすり するに--」

「うるさいんだよ、お前」

 言葉を選ぶのが面倒で、一番短くて棘の鋭い言葉を投げつけた。フードを深くかぶり直し、陰の世界の空気を吸い納めるように大きく深呼吸して、玄関を出た。

 背後から、彼女がついてくる気配がした。



    

 

 無軌道バスレスレーン、というのはここ二十年くらいで普及した新しい交通手段だ。携帯端末や個人認証装置で現在位置情報GPSを無軌道バスのサーバーに送ると、そのほかの乗客や乗せている客の目的地との兼ね合いを計算して、もっとも効率の良い経路を自動的に巡回するという――――いわば脳みそのついたバスだ。どこまで迎えに来るか、どこまで目的地に近い場所で降ろされるかは利用する度に多少ばらつきがあるが、それでも従来のバスよりははるかに交通の便がいいので、今ではこれが地上での主流な交通手段だ。


 流線型が強調されたフォルムの一般車に紛れて、見上げた空の形を変えてしまう巨大なビル群の間を、バスは行く。黒瀬が住む郊外から少し離れた、騒々しいオフィス街だ。


窓の外に立ち並ぶビルの側面はディスプレイになっていて、それを一面使った巨大な映像広告が華やかに踊っている。新しい電子端末をスマートに操作する白人男性や、風味豊かな炭酸飲料が水滴の光るコップに注がれる様子、ハリウッド製の新作 共感映画トレイサーが壮大な音と共に衝撃的な映像をフラッシュバックする。 



『一週間前、ついに再び姿を現したイジェクターについて真偽しんぎが論じられる一方、その復活に、全世界がいています』



 バスの窓からぼんやりとディスプレイを見つめていた黒瀬は、一際高い位置にある看板でニュースキャスターがそう言ったのに思わず反応した。席に沈み込ませていた腰をただし、目を凝らす。

 キャスターの映像はすぐに切り替わり、どこかわからない外国のおもむきがある街の映像に変わる。通りを、老若男女、無数の人々が戦争に勝ったみたいに狂喜乱舞しながら行進している。皆一様に灰色で無機質なフィルターに覆われたガスマスクをかぶっていて、それが彼らを無表情な一群に見せている。不気味だ。


特派員らしきマイクを持った男が、ガスマスクの一群が飛び跳ねたりビールを振りまいたりする最中に飲み込まれそうになりながら、必死にレポートしている。


『一週間前から始まったこのうたげは、当局による規制を受けてもまだ止みません。アウターワールドから『彼』がいなくなって半年。たった一人の人間の復活がこれ程願われ、そして祝われたのは、イエスが処刑されて以来ではないでしょうか』


 気のいたコメントを吐いたレポーターはあっという間に一群に引き込まれていった。映像はもとのスタジオに戻り、キャスターは平坦な声で続ける。アウターワールドの救世主復活を祝う声は全世界から聞こえてきます。そして映像はその他の都市の映像に切り替わる。いくつもの街と人の群れが映し出された。そこで驚喜する人々の顔には、例外なくガスマスクが被さっている。


「……なんなんだよ」


 イジェクターの復活を祝っている……そうキャスターは言っていた。ひとしきり唖然としてから、黒瀬は視線をそらした。わからない事だらけだ。イジェクターっていうのはそんなに人気があったのか? 全世界から?


 自分はいったい、何に巻き込まれているのだろう。


 無軌道バスレスレーンが信号で止まる。

向かいのビルの一面が真っ青に染まり、そこに黒のスプレーで塗りつぶしたみたいに、ガスマスクと中指を突き立てたシルエットが現れる。その下に"Respirator"と文字が現れ、イジェクターの復活を祝い、2ndアルバムが発売されるとある。


『どこに向かっているか、そろそろ教えてくれませんか』


 隣の席にいつの間にか座っていたコーディ――とはいえ、彼女は黒瀬にしか見えないので実際には空席なのだが――が、そう尋ねた。彼女はフリルのついた黒いワンピースに、白い麦藁帽子をかぶっている。

 質問には答えず、黒瀬は声に出さずに『言った』。


「イジェクターって、なんなんだ……」


 大脳皮質にたっぷりしみこんだナノマシンとマイクロマシンが、彼の頭に浮かんだ言葉を読み取り、コーディにそれが伝わった。彼女は黒瀬の体に起こっている全ての変化を敏感に察知できるようで、その言葉を額面通りに受け取らず、世間がこうしてイジェクターを祭り上げて大騒ぎしているのに戸惑っている彼の心情を素早くくみ取って言う。


「あなたが世界で一番大事なモノを想像してみてください」


 黒瀬が彼女に眼を向ける。彼女はエメラルド色のきらきらした目で言った。


「それを守ってくれる人がいたとしたら、その人をヒーローと呼びませんか」


 黒瀬はそれに、納得しているのかそうでないのか、はたまた更に困惑したのか、複雑な表情をしてから、また窓の外に眼を向けた。コーディは、彼の横顔をじっと見つめながら、椅子から垂れ下げた足をぶらぶらと揺らした。







 さすがに顔パスというわけにはいかなかった。

 黒瀬が住む指定第9地区で最大のビルを有する企業"V-tecLife"社は、Play fun!12の開発元であり、今や世界に名だたる一流企業だ。その本社は地区最大の繁華街の中心部にあって、全ての道がローマに通ずるのと同じように、第9地区の主要道路は全てこの企業に続いている。四十年前の戦争以来、一定以上の高さを有するビルの屋上には、対空砲AAG地対空ミサイルSAMの設置が義務づけられており、この空をおおう程巨大な本社ビルにも針山のようにそれらがいくつも設置されている。高層ビルと言うよりは、巨大な対空攻撃陣地SAMサイトのようだ。七棟ものビルが一群となったそのうち、頭一つ分飛び抜けて大きなビルに、黒瀬は入っていく。

 スマートなスーツ姿の役員や社員が、パーカーにトレーニングパンツ姿でロビーを行く黒瀬に奇異の目を送る。

「黒瀬才助と会いたい」

 受付嬢はあっけにとられて彼を見つめた。

「会長に、ですか……? アポイントメントはございますでしょうか」

 彼女は警備員に軽く目配せした。いいからとにかく連絡をつけろと黒瀬は頑なに主張し、少々のごたごたの末、受付嬢はとまどいながらも宙に指を這わせる。ユビキタス機能を利用して通信しているのだろう。黒瀬には何をしているのかは見えない。

 数分後、受付嬢はいよいよわけがわからないという顔をして言った。

「お会いになるそうです……三分だけ。最上階へどうぞ」




 案内された両開きの扉を勢いよく押し開くと、空っぽの空間が眼前に広がった。体育館程度の広大な空間は、灰色一色に染まっている。硬い床をスニーカーを鳴らしながら歩く。その後を――いつの間に着替えたのか――スーツ姿にポニーテールのコーディが眼鏡ごしの目をきょろきょろさせながら続く。

「この空間、偏在情報ユビキタスでいっぱいです」

 彼女はそう言うと、何かを操作するみたいに軽く手を振った。途端、空っぽで無機質な空間が無数の色とりどりのウィンドウに染まった。どうやら、黒瀬の視覚野をいじくって偏在情報ユビキタスを視覚化したらしい。ウィンドウに彩られた部屋は、イルミネーションでいっぱいに飾り付けられたファンシーなお城のエントランスみたいだったが、ウィンドウに目を凝らすと、それは刻々と並ぶ数式の群れだったり、文字が羅列されただけの経済ニュースだったり、単調に上がったり下がったりを繰り返すグラフだったりして、堅苦しい経済情報がほとんどだった。

 最奥部にたどり着く。灰色の空っぽな空間を睥睨するように、国家元首か、あるいは裁判官が座るような居丈高な壇があって、そこに一人の男が座って、部屋中のウィンドウに目をこらしていた。

「父さん」

 つぶやくように言うと、父――――V-tec Life社最大の権力者は目も向けずに言った。

「何の用だ。仕事場には二度と来るな」

 黒瀬はわずかに口ごもる。言いよどみ、視線を逸らす。

「……眞子は元気にしてる?」

 良好だ。と短く父は答えた。

「イジェクターに救出された事が余程うれしいようだ。お前にも礼を言っていた――――時間がないぞ。本題から入ったらどうだ」

 平坦な声でそう続けた父に、黒瀬は不満げに鼻を鳴らした。つばを嚥下えんげして、乾いた喉をうるおし、言った。

「俺の脳にはPlay fun!12が導入されてる」

 父はぴたりと動きを止めた。

 視線を、黒瀬へと落とす。

「俺が導入したんじゃない。もっとずっと小さい頃、記憶もないようなずっと昔に、無理矢理突っ込まれたんだ」

 父は機械じみたレンズのような目を、じっと黒瀬に向けている。

「あんたがやったんだろ」

 黒瀬はどんな言葉が返ってくるか、わずかに緊張しながら待った。だが、父が次に発した言葉は「用はそれだけか」だった。子供のわがままにつきあっているような調子のその言葉に、かっと腹の底が熱くなる。

「俺の腕と足が動かなくなったのはそれが原因だろ、あんたが俺の手足を奪ったんだ! よくも今までしらばっくれやがって――――」

「お前の四肢麻痺は、医師が脊髄の先天奇形が原因だと断定した。当時の弁護士もそれを認定している」

「弁護士って……なんだよそれ! なんでんなもん用意してんだよ!」

 わざわざ弁護士という言葉を出すという事は、訴訟に備えていたという事ではないのか。つまり、父には責められる原因に心当たりがあるという事だ。

「三分だ」

 父は手首に巻かれた時計を見て言った。冷静ぶった、眉一つ動かさない態度がかっと黒瀬の体を熱くした。

「まだだ! 爺ちゃんの話が残ってる」

「時間が来たと言っているんだ」

「爺ちゃんは死ぬ直前、アウターワールドにいた。父さんの会社の商品だろ! それだけじゃない、今から三十年以上も前――――Play fun!12が発売されるずっと前から、爺ちゃんはアウターワールドにログインしてた」

 父はじっと黒瀬を睥睨へいげいし、それからふっと息を吐いた。

「……妄想か?」

「違うッ! うちに来た刑事がログイン記録を調べたんだ、爺ちゃんの記録がはっきりってた!」

「第一に、我が社は脳内に導入するという関係上、プライバシーには特別な配慮がなされてプレイヤーのログイン記録など一々記録していないし、第二に刑事が自分の捜査資料をひけらかしたりなどするはずがない。第三に、お前の祖父がアウターワールドをプレイしていたとしても、何の不思議もない。最近はたなくなった高齢者が仮想交配アダルトプレイするのが、流行っているらしいしな」

 目の奥でちりちりと火花を散らしていた何かが、父の抑揚よくようを押さえたのあざけりの言葉で、一気に炸裂した。激情が理性を焼き払い、焼けるような言葉が喉から吹き出る。

「ふざけんなッ! お前の父親だろ!?」

 さらに言いつのろうとする黒瀬に、父はだんに拳を叩きつけて応えた。

 いいか、よく聞け。

「次に言いがかりをつけに来る時は証拠を持ってこい。お前の脳からPlay fun!12を引きずり出して持ってくるといい。

 警備員! と彼が部屋の外へ声をかけると、体格の良い二人の男がつかつかと歩み寄ってきた。拳銃を持っている事を示すように腰の裏に手を当てている。それを背に感じながら、黒瀬はぎゅっと奥歯をかみしめて、自分を見下ろす父をにらみつけていた。

「何か知ってるんだな、爺ちゃんが死んだ原因――――」

 父は何も語らず、なんの感情も浮かべず、ただじっと、凍えるような眼をしていた。





 ビルを出て、整然と整理されたロータリーを抜けて繁華街を歩いていると、酷い無気力感に襲われた。ぐずぐずになった怒りの熱が、黒瀬の肩をいからせ、くすぶった熱を込めて声を吐く。

「あいつ、絶対何か知ってるんだ。知ってるのに隠してるんだ、何を隠してる……!?」

「……よかったですね」

 再びワンピース姿になって後ろを歩いていたコーディが、横に歩み出ながら言った。黒瀬は低い声で言う。

「何が良いんだよ」

「妹さんです。元気になったみたいで」

 言われて、初めて思い出した。眞子の経過は良好だと父は言っていた。気持ちは沈んでいるが、その朗報は素直に喜べると思う。黒瀬はコーディに目を向ける。隣を歩く彼女は、ポニーテールにしてこめかみに垂らした髪を揺らしながら、前を見据みすえて歩いている。まさか、と思った。まさか、こいつ、俺をはげまそうとした……?

「…………」

 まさかな。

 一息はいて、怒りの熱をなんとか押さえ込んだ。

 まぁ、そうかな……そう応えると、コーディはぱっと金色に輝く瞳を向けて言った。

「イジェクターに助けられたの、喜んでくれたんですね」

 なんと応えたものかわからず、黒瀬は黙り込んだ。返事は必要とされていないみたいだった。毒気を抜かれてしまった。ぼんやりと、空に眼を向けて思う。

「(そういえば、誰かを助けて感謝されたのなんて初めてだ……)」


黒瀬くろせ完爾かんじ君!!」


 不意にそんな声がかけられた。立ち止まって声の方を見ると、妙に体格の厳つい、ひげ面の男が立っていた。うさんくさい笑みを浮かべて、これ見よがしに手にした手のひら大のカメラで突然フラッシュをたく。それに目を細めて顔を覆った黒瀬は、思わず「おい!」怒鳴った。

「おや? 失礼失礼。最近の子はこんな旧式のカメラを見ると喜んで『撮って撮って』とせがむものだから、ついそういう気分でシャッターを切ってしまった」

 黒瀬がじっとにらみつけると、ぼりぼりと頭をかきながら、しかし悪びれる風もなく男は歩み寄ってきた。ネクタイもせずによれよれのスーツに身を包み、シャツのボタンもまともに閉めていない。太い顎には無精髭ぶしょうひげがびっしり生えていて、まるで文明人ぶってる野人だ。これ見よがしにいかついレトロカメラを手にしている。

「誰だよお前」

「フリーライターっていう不安定職業をやっていてね。友人は俺をアーヴィングと呼ぶ。俺はいつもジョー・ブラッドレーと呼んでくれと言ってるんだがね。是非、ジョーと呼んで欲しい」

 突然まくし立てる男に、黒瀬は鼻白はなじろむ。何言ってるんだ、こいつ……

「あぁ、そんな顔をせずに。いやぁ、知らないかな、ジョー・ブラッドレー。これでも昔はワールドファイトクラブってゲームでチャンピオンやってたんだ。ま、結局アウターホリックにかかってやめてしまったがね。この間の彼女みたいに、『彼』にイジェクトされたのさ」

 イジェクト、と言われて黒瀬は目を細めた。警戒心が芽生え、無視してさっさと歩き出す。コーディは黒瀬と記者――ジョー? 馬鹿らしい名前だ――を見比べてから、黒瀬の背にさっとついた。

「まぁまぁそう急がずに!」

 ジョーはコーディのいる位置に割り込んできて、彼女はむっと目をぎらつかせた。

「なんだよ、お前。どっかにいけ」

「なに、少し時間をいただくだけだから。こう見えてもセルネットで連載記事書いてるんだ。『ネットの闇、アウターワールドのサーバーを追え!』ってこういう具合でね、知ってるだろ、この噂」

 セルネット。以前はネットと呼ばれていた存在は、今や小さなコミューンが無数に点在する細胞網セルネットという認識へ変わった。もっとも、ネットは黒瀬には縁遠い存在で、情報社会の授業で見聞きした程度の知識しかない。

「サーバー? 知らない。どっかにいけ」

「知らない? それって、全く知らないって事? 驚いたな、今時そんな子がいるなんて」

 馬鹿にされたのだろうか、黒瀬は閉口する。ジョーは人差し指を立ててみせる。

「アウターワールドの創成期からある都市伝説の一つだよ。アウターワールドの中枢に当たる、全世界二十四億人のプレイヤーデータを処理する情報処理機器サーバー。その膨大な情報量を維持するためには、試算するに、広大な敷地と施設が必要になるはずなんだ。それこそ、この国の国土全てをおおってしまうくらいの」

 無視して歩き出した黒瀬に、ジョーは食い下がる。

「だが君も知っての通り、そんな施設はどこにも存在しない。でも現にアウターワールドは運営されている。なぜだ? どうやってこれだけの情報を納め、処理している? 一体誰が、それだけの施設を管理し、維持できるって言うんだ?」

「そういう質問なら」黒瀬は不機嫌につぶやいた。「あそこに行って聞けよ」彼が指さしたのは、V-tecLife社だった。そびえ立つの尖塔をまぶしそうに見つめて、ジョーは笑う。

「無理さ。V-tecLife社は40年前のアジア大戦で活躍した民間軍事会社PMC――――『ミコト・セキュリティサービス』社に出自があってね、軍関係だけあって超秘密主義で有名なのさ。あまり探りすぎると命をなくすとか……ま、半分冗談だと思うがね」

 唐突に、コーディが黒瀬の手を取った。ぐいと脇道に引き寄せられ、何事かと目を向ける。

「アウターホリックです」

 思わず聞き返した。何?

「アウターホリックの発症を関知しました。死亡まで残り52分。無軌道バスを呼んだので、すぐにこの場を離れてください」

 「なんで俺が」と言いかけて、ふとコーディの言葉を思い出した。祖父はイジェクターとして、アウターホリッカーを助けて回っていた、と――――まさか、この間の眞子にしたみたいな事を、またやらなきゃいけないのか? 冗談じゃない。あんな事、そうそう何度もできるものか。だいたい、一応は家族である眞子ならまだしも、なぜまったく見ず知らずの人間を助けてやらなくてはいけないのか。

「義務を果たさないと、あなたは排出者イジェクターを解任されますよ」

 ぐい、と見た目の女の子らしからぬ力で、彼女はいきなり黒瀬を脇道へ引きずり込んだ。素っ転びそうになりながら彼女の後に続く。

「うわっ――ちょっと待てってば!」

「そうなれば私は存在意義レゾナンスヴィリティを失って消失し、私のコントロールを失ったあなたの脳は機能分裂を起こすんです。――

 最後の一言は振り返った彼女のじろりとした目つきがおまけでついてきていた。そんな事言ったって、と黒瀬は一瞬たじろぐ。彼女は有無を言わさずぐいぐい手を引っ張り、結局黒瀬は、舌打ちをして彼女の後を駆けだした。進む先に、無軌道バスがのっそりと姿を現す。

「あぁ、逃げないでくれよ、ほんの少し聞きたいだけなんだから」

 黒瀬の後を追っていたジョーが、野太い声をあげる。

「俺に聞いたって何も知るはずがないだろ、どっかに失せろ」

うっとうしいことが何回も……クロセはぎっとジョーをにらみ捨てた。

「それはどうかな」

 しつこく食い下がってくるジョーに、黒瀬はいらだちを隠さずにうなるように息を吐いた。その頃には無軌道バスレスレーンがもう視界に入っている。

 ジョーが、不意に立ち止まった。

「君が排出者イジェクターだってタレコミがあったんだ」

 バスの乗車口にとりついた黒瀬が振り返る。

 ジョーはうさんくさい笑みを顔に貼り付けたままだ。

「――――今日は挨拶に来たんだ。何か思い出したら、教えてくれ。何か、思い出したらね」

 運転手が迷惑そうにクラクションをならした。黒瀬は視線を外さない。ジョーはさっきまでの胡散うさん臭い笑みではなく、本心から出たらしい、皮肉っぽい、乾いた笑みを浮かべていた。

「……そのデマ、どこで聞いたんだ」

「デマ?」

「俺がイジェクターとかいう」

「W.makerって奴だよ。メールを一本よこしたんだ。知り合いかな」

 黒瀬は返事をせず、彼から視線をそらして無軌道バスに乗り込んだ。ジョーはスーツのポケットに手を突っ込むと背を向けて去っていく。若い女に譲られた障害者用の優先席に座りながら、黒瀬はその背を見送った。


 W.maker……?

 そいつはどうして、自分がイジェクターになったのを知っているんだ?


 ジョーが口から出任でまかせを言った可能性も否定できないが、いずれにせよ誰かが自分の秘密をかぎつけた事になる。麻戸刑事の件があるので、自分の身に降りかかったイジェクターという事態について口外するべきじゃないと思っていたが……誰が、どうやって、この秘密を知ったんだ?

『イジェクター』

 正面からの声に顔を上げると、初めて会った時と同じ、トレンチコートにプリーツスカート、でかいヘッドホンを首にかけて、髑髏を胸の前に垂らしたコーディが、半透明で宙に浮かんでいた。彼女はすっと黒瀬に指を向けた。

「あ、ちょっと待てよ! 俺は――――」

 問答無用だった。

 コーディは目の色を煌<<きら>>めくエメラルド色に変えて、人差し指を黒瀬の額に差し出した。

『インサート』

 意識が吹き飛ぶ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る