act1:排出者-insert- [前編]



 それは左手が覚えている、最後の記憶だ。




 かすかな記憶の奥底に、あの時の思い出はうずまっている。たしか、六歳くらいだったと思う。


 あの頃、家の雰囲気はほんとうに最悪だった。


 だから、よく覚えている、あの頃の自分が、何を見て、何を感じていたか――――嫌な思い出ほど、よく覚えているたちなのだ、自分は。


 あの頃は、母親が優しく寝かしつけてくれた後、いつも、夜中に唐突に目が覚めていた。


 どうしてかはわからない。

 誰かに揺り動かされたわけでも、騒音が聞こえたわけでもない。


 ただ、すすり泣きがするのだ。

 部屋の扉の向こうから、忍び寄るような、すすり泣きが。


 お化けか、幽霊か、その類だったらどんなに良かっただろうと思う。

 その湿った嗚咽には、聞き覚えがあるのだ。

 いつも、ベッドに横たわった自分を撫でながら、優しく語りかけてくれる母親の声――――それに、よく似ていた。



 その頃、母は毎晩、父の書斎の前で泣いていたのだ。







 父は全身の血を鉄と入れ替えたような、冷たい人間だった。


 もともとそういう人間だったのか、それとも自分の左手と左足に小児性の麻痺が発症してからそうなったのかは、わからない。


 ただ、記憶の中にある、父から向けられる視線は、いつも死にかけの虫を見るような目で、それは母に対しても同じだった。


 母は優しい人だったけれど、強い人ではなかった。

 自分の動かない左手と左足を見つめては、いつも悲しげに目を伏せていた。


 母が悲しい顔をするのは、嫌だった。

 母はその苦しみを父と分かち合おうとしたようだが、機械より冷たい父にはそんな優しさなどまるでなかった。



 開かない書斎の扉の前で母がひたすら泣き、父がそれの一切を無視するという、その一方的な夫婦喧嘩のみなもとが、自分の動かない左腕と左足だという事は、幼い自分でも――いや、幼かったからこそすぐに分かった。



 母のすすり泣きを聞くと、自分が責められているような、いたたまれなくて、今にも泣き出してしまいたいような、激しい苦しみに襲われた



 だから母がすすり泣く晩は、自分もいつも泣いていた。布団の中で胎児のようにくるまって、朝が早く来てくれる事を祈り、夜が明けるまで動かない左腕と左足を呪った。


 どうしてこんな体に生まれてきたのか、どうして学校の友達のように健常者あたりまえに生まれなかったのか、そればかり思って奥歯を食いしばり、そして延々と泣いた。自分の嗚咽が聞こえる内は、母のすすり泣きを聞かなくて良かったから。




 あの夜も、そうだった。




 夜、理由もなく目が覚めると、それは母がすすり泣きを始める前兆だ。あの夜も、そうだった。


 真夜中、ベッドで仰向けに天井を見上げた時、もう限界だな、と思った。

 毎日毎日、積み重なっていた黒々と渦巻く感情が、小さな胸の内で一杯になっていて、今夜一晩も持たずにはち切れてしまいそうだった。


 そうなったら、自分はどうなるのだろう。


 揺れるレースのカーテンの向こうに、身を投げてしまうのだろうか。

 自然とまた、涙がこぼれて、噛みしめた歯の奥から嗚咽おえつらす。

 いっそその方が、母と父のためかも知れない。

 自分のこの忌々いまいましい動かない手と足が、自分の命と共になくなってしまえば、きっと、母がこれ以上悲しんだりする事もなくなる――――



 

 そこからの記憶は、酷く曖昧だ。



 

 ただ、気がつくと自分は真夜中の街を、裸足で駆けていた。

 息を切らせ、苦しい胸を押さえながら、ただ、導かれるように走った。



 それは決して自分の意思ではなかった。

 かすかな――――本当に微かな記憶では、動かないはずの左手が、あの時はなぜか動いていた気がするのだ。進む道を指し示すように、左手は体の前に伸びていた。



 まるで、誰かに手を引かれるように。



 郊外にぽっかりと空いている、昔の戦争で出来たというミサイル着弾痕クレーターの中で、その夜を過ごした。

 色濃い群青ぐんじょうの夜空は高く、広く、星がまたたき、風に撫でられた周囲の草原が静かなさざ波の音を立てる。街の明かりが届かない暗闇は、ゆりかごのように心地よかった。


 そうして朝を迎えると、朝日と共に祖父が現れた。

 あの時の祖父の手もまた、誰かに導かれているように、差し出されていたと思う。



「――――苦しいか」



 祖父はながい沈黙と、戸惑ったような表情の果てに、それだけたずねた。

 自分は首をふったと思う。

 がたいが良かった祖父は、しゃがみ込むとその大きな体で自分を抱きしめてくれた。その温もりは、一晩過ごしたその夜の心地よい暗闇と、よく似ていた。



 あの瞬間、動かなかった左手に、何も感じないはずの左手に、なぜか温もりを感じていたのを覚えている。陽光の温もりか、祖父の体温とも違う。ひんやりとした




――――でも、人の温もりだった。



 それは左手に残された最後の記憶だ。


 あれ以来、左手は温もりを感じる事もなくなった。






























 コール音がした。


 電気ショックでも加えられたみたいに目が覚める。

 体育館みたいに高くて広い天井

 ワックスの引かれた木床の冷たい感触

 四方の壁に並ぶ採光窓から射す朝の柔らかな日射し


 ――――窓枠に止まったスズメが、ちゅんちゅんと井戸端会議をしながら、飛び跳ねている




 彼――黒瀬完爾かんじが身を起こし、辺りを見渡すと、そこは武道場だった。


 ただっぴろい空間は静謐せいひつで冷涼な空気と、かすかな木の匂いに満たされている。

 黒瀬の所作しょさに合わせて床が音を立て、その音が張り詰めた空気に反響する。ぼんやりとした頭で「ここは……」と考えて、思い出す。

 祖父の屋敷の、離れにある武道場だ。


 天井際にずらりと並んだ採光窓から、陽光が目に突き刺さっていた。

 その光を手でさえぎりながら、腕時計を確認した。

 デジタル表示のそれが音もなく針を進めている。眼前にかざすと、薄いブルーの立体映像ホログラムが宙に文字を描き出した。




 <A.C.2078 April 08:32........ >




 何をしていたんだっけ。寝ぼけてそう考えた。頭にかぶっていたフードを払った時に記憶がよみがえる。

 そうだ、夜が明ける前、外にランニングに行ったんだった。

 ここに帰ってきてから、倒れ込んで横になっている内に眠ってしまったみたいだった。


 汗びっしょりになったウィンドブレーカーが、春先の風にあおられてかすかにれる。少し、肌寒い。立ち上がりざま、武道場の片隅にある鏡に映った、自分の姿を見る。


 硬い床での睡眠は、酷い寝不足と体力消耗を引き起こしたらしい。憔悴しょうすいしきって、クマが目立つ顔。都会の路地裏で生ゴミをあさる野良猫みたいな顔つきをしている。


 長い間はさみを通していない髪は乱れきってまさに汚れた黒猫そのもの。

 右手で顔をぬぐう。左手は体の前で吊っていて、灰色の吊り紐がぶらぶらとゆれていた。

 動かないのだ。幼少時に麻痺して以来、ぴくりとも動いた事はない。




 コール音。




 けたたましいその音が、かすかに屋敷の居間の方から聞こえる。

 黒瀬はうっとうしそうにその音源に目をやって、それから、胸元に手を伸ばした。


 そこには透明のプラスチックで出来たアイウェアが入っている。研究者や技術者がつけるようなしゃれっ気のない無骨なそれを、耳にかけた。



 途端とたん、黒瀬の周囲にコバルトブルーで半透明のタスクウィンドウが浮かび上がった。


子供がはしゃぐような電子音がする。

ウィンドウは彼の周囲をビーナスの誕生を祝う天使達のようにくるくると舞い踊る。


 それぞれのウィンドウには透き通るような声で歌う歌姫が立体化されていたり、降水確率とナノマシンNMエーテル濃度をグラフにして解説している気象予報士が動いていたり、飛び出すアニメーションが新商品の名を叫びながらうるさくぴょんぴょん跳び回っていたりする。



「オールカット。コール」



 黒瀬は横に手を振って、そうつぶやく。

 するとやかましく騒ぎ立てていたウィンドウの群は次々と消えていき、代わりに屋敷の奥からデフォルメされたヘッドフォンマイクの立体映像ホログラムが滑りこんできた。黒瀬の首にからみつく。


 眼前に音を立てて起動したウィンドウを、黒瀬は右手の指で叩いた。受信、というグリーンの枠で囲まれた文字がぺかぺかと点滅する。




『コールは五回以内でとれ』




 ぶしつけにそう言う電話の相手に、黒瀬は小さく舌打ちした。


 タスクウィンドウには壮年の男が浮かび上がっている。

 枯れ木のようにやせて、とがった顎。落ちくぼんだ目に小さく、だが頑なな意志を据えた眼がぎらついている。短髪をオールバックにした黒髪。スーツを折り目が見える程きっちり着こなす。


 その映像の下には、通信相手の名前が表示されている。



 "父"



『眞子がそっちに向かった』


 黒瀬は屋敷に続く渡り廊下へ向かいながら、その凶報に嫌そうに視線を明後日へ飛ばした。

 彼が一歩歩く毎に、ぎしぎしと左足の関節が音を立てた。

 足を上げる度、パンツの裾があがってくるぶしがあらわになる。焦げ茶色をした、合成樹脂の義足。



「なんで。呼んでないのに」


『本人に聞け』



 たずねたって答える物かと黒瀬はイラ立った。


 ろくに顔も覚えていない父が再婚すると聞いたのは去年の暮れ。知った事かと思っていたが、祖父が死んで以来、父の新しい家族は黒瀬にちょっかいを出すようになった。


 再婚相手の家族と円満な関係を築きたいのだろうが、血でつながっているはずの父と息子がうまくいっていないのに、そんな事が出来ようはずもない。

 

 特に義妹いもうとは――義妹いもうとといっても同い年だ。黒瀬の方が三ヶ月生まれるのが早かっただけ――それがどうもわからないようで、ことある毎に黒瀬が住むこの屋敷にやってくる。


 その上口べたなのか気が弱いのか知らないが、おどおどしてまともに口を利かない。

 黒瀬だってよく喋る方じゃない。

 結局お互い無言でお見合いになり、気まずい思いをするのは黒瀬の方だ。



「わかってるんだぞ。あいつを使って、俺をたらしこもうって腹づもりなんだろ。なにやったって、そっちの家には死んでも行かないからな」


『相変わらずだな』



 久しぶりにあった息子の変わらぬ姿に喜ぶ声ではない。抑揚よくようもなく、低く抑えられた声音。



妄想病パラノイアだな。屋敷の中に閉じこもって、自分以外は全部敵だと思い込んでいるが、その実は弱くて脆くて、ただのわがままなガキだ。いまのお前に必要なのは"首輪"だ』



 腹の内がかっと熱くなった。黒瀬の腹の中いっぱいに詰まっていた炸薬が、父の言葉で一気に燃え上がる。



「何が首輪だこの野郎……! 好き勝手して俺を捨てたのは、お前だろ!」


 受話器のホログラムの向こうで、父が鼻で笑う気配がした。


『だから迎えに来てやってるのに、お前が意地を張っている』



 わき起こる怒りが押さえつけられない。拳をぶるぶると震える程握りしめ、噛みしめた奥歯の奥からこし出すように言葉をはき出す。



「俺に"首輪"をかけようとしたら、そいつでお前を絞め殺してやる――!」


。用はそれだけだ』


 早々に切り上げようとする雰囲気をさっして、黒瀬は「待てよ」と声を荒げた。



「爺ちゃんの葬式も顔出してないのに、こんな事で電話してくんなよ。線香くらい上げに来たらどうなんだよ。お前の親だろ!」



 返事を待ったが、いっこうにそれはなく、気がつくとコールは切れていた。

 黒瀬は小さく、口汚く毒づくとウィンドウを乱暴に操作してこちらからの通信も切った。







 祖父が死んだのは、一ヶ月と少し前の事だった。

 不仲の両親に代わって自分をずっと見守っていてくれたのは、祖父だった。


 ただっ広いこの屋敷に一人で住んでいた祖父は、幼い黒瀬を何も言わずに迎え入れ、以来十年以上の歳月を、二人はこの屋敷で共有した。

 二人でも持てあますくらい広いこの屋敷では、それほど親密な交流があったとは言えないが、それは二人にとって最適な距離感だった。


 左手と左足の麻痺が原因で他人の奇異の目に晒され続けた黒瀬には、祖父の空気のような存在感と、時折投げかけられる、どこか寂しげな優しい瞳が心地よかった。


 祖父もまた、自分をとても大切な存在として想ってくれていたと思う。


 父も母も、自分の事で手一杯で、自分に本当の意味で向き合ってくれた人はいなかった。だが祖父はそうじゃなかった。祖父は生まれて初めてできた本物の『家族』のようだった。


 祖父の屋敷に来た十年前以来、黒瀬はほとんど家を出ていない。

 日も昇らない明け方にふらっとランニングに出かけ、朝日が眩しくなる前に戻るくらいだ。


 黒瀬にとって、屋敷の外の世界というのは――――『昼の世界』というのは、酷く縁遠いものに感じられた。


 友達も、先生も、すれ違う人も皆、自分と会うと変な顔をして、言葉に詰まる。黒瀬の左手と、左足に宿った不幸を哀れみながら、どう言葉を投げかけたものか思案するのだ。そういう表情が、一番嫌だった。母親の沈鬱な瞳を思い出すのだ。



 いつしか、思うようになった。

 ああいう表情をする人々と、自分は、全く違う世界の住人なのだ、と。



 彼らは日の光を燦々と浴びる昼の世界の住人。

 自分は陰に身を潜めて息を殺す、陰の世界の住人。



 二つの世界の住人は、たがいに相容あいいれない存在なのだ。

 昼の世界の住人は昼の世界で生きればいい。

 陰に身を潜めている、五体不満足な男の事など、知りもしないでいればいい。


 そうしてくれれば、自分だって奇異の目に晒されなくてすむ。


 そしてそれは、自分が昼の世界に求める唯一のものだった。

 だから黒瀬は屋敷にこもった。屋敷の中は安全で、安寧で、安心できた。祖父は自分とどこか同じ匂いがして、側にいたとしても苦痛ではなかった。


 それに祖父は、昼の世界を拒否した自分を、責め立てたりしなかった。

 もちろん間違った事をすれば叱ってくれる。むしろそれしかしてくれないが、それで十分だ。

 それで、両親よりはるかに自分の事を思ってくれているとわかるから。



 幸いにも今は学校を通わなくても、量子通信(ネットワークを介して良質な通信教育が受けられる。

 運動をしたければ広大な屋敷の一角にある武道場で、祖父がなんだかよくわからない格闘技の稽古をつけてくれる。

 夜から朝にかけて、人工筋肉付きの義足でランニングもする。


 学校みたいに休日なんてないから毎日それをやっていたら、通学するよりもずっと早いペースで高卒単位を取得できている。


 そういう、最低限やるべき事を教えてくれた(勉強とか、運動とか)のは、全て祖父だった。


 黒瀬の世界は、真夜中のマラソンで見る誰もいない朝靄のかかった街と、祖父の言葉少ない教えだけだった。


 それでよかった。そうして過ごす時間は、自分が普通の人でない事をいちいち囁かないし、祖父から学べば学ぶ程、鍛えられれば鍛えられる程、自分はいつか、外の世界の誰にも頼らずに、一人で生きられるかもしれないと、希望と自信を持つ事が出来た。




 その祖父は今、仏壇の額縁がくぶちで永遠に微笑ほほえんでいる。




 ついこの間の朝、目を覚まさなかった祖父はそのまま棺に納められた。

 悲しいとは思わなかった。

 ただ呆然とした。


 これまで自分に血肉を分けてくれたのは祖父だった。

 単純に勉強や運動を教えてもらったのではない、ここで暮らしながら、生き方そのものを教わっていたのだ。

 そして何より、祖父は家族だった。

 黒瀬にとって、唯一心許せる家族。

 それが、失われた。



 人生という台本は今やあっさり失われて、手元に残ったは広大な屋敷と不完全でポンコツな自分の体だけ。

 これからどうやって生きればいいのか、さっぱりわからない。考える気にもなれない。それでも――



 ――――それでも、現実は変わっていく。



 時間は笑えるくらい残酷ざんこくだ。

 祖父が死んで以来、ずっと足を止めたままの自分を、過ぎゆく時はあっという間に追い抜いていってしまった。


 世界は一変した。


 安寧あんねいとした時は周りの大人達が廃墟を整理する重機みたいにひっぺがしていく。

 自分を誰が引き取るのかが自分の頭越しで相談されていて、屋敷を始めとした祖父の遺産――――"遺"産を、誰が手中に収めるか、親戚達が静かに奪い合いを始めている。


 そうして過ぎていった時間で、あれから世界は一ヶ月も経ったらしい。

 とても信じられない。

 


 自分はまだ、祖父が死んだあの日から、一歩だって動いていないのに。





 二階の自室で、気分転換に窓を開けると、無数のタスクウィンドウや宙に浮く半透明の有名人、ホログラムの通販商品が、部屋の中になだれ込んできた。



 都会のど真ん中に立っているかのように、老若男女の声に辺りを取り囲まれる。

 昨日のサッカーの結果だとか、天気だとか、悲しいニュースだとか、政治家の汚職だとか、芸能人のスキャンダルだとか……


 代わり映えしない情報がキャスターの映像やワイドショーの映像だとかにのってただよってくる。


 高らかに歌う歌姫――springだとかいう――がほとんど裸みたいなドレスを揺らして新曲を歌っている。

 近くにある全国チェーンのカレー屋が春期限定桃カレーの旨さを調理風景を交えて道行く人に教えて回る。

 この地域に多大な社会貢献をしているとV-tec Life社がさりげなく美しい音楽と共に空に虹色のロゴを打つ。




 アイウェアを外した。



 全て消え去り、水を打ったような静寂に包まれる。




 見上げた空は染み一つ無いまっさらなコバルトブルー。

 まどろむような春の匂いがした。


 肌の下にしみこむような、陽光の温もりを感じる。見下ろす街はいつもの静かな朝を迎えていて、ぽつぽつと起こる喧噪以外には、やかましい音も、空飛ぶ人のホログラフもない。



 情報偏在社会ユビキタス――――

 ――――受信装置を身につけていれば、目に入る空間全てから情報を知覚できる社会は、およそ二十年前、黒瀬が生まれる四年程前に生まれた。


 以来膨大ぼうだいな情報が世界を席巻せっけんし、所かまわずがなり立てるCM や空いっぱいに広がる広告が世界にあふれかえった。

 まったく、迷惑な話だ。

 人生という道に頼んでもないのに看板が次々に立てられている気分だ。


こうしてグラスウェアを外して感じる空っぽな静寂の方が、黒瀬は好きだった。



 ふと、屋敷の中庭の向こう、家の敷地と外の世界を隔てる白壁の向こうに、スカートがはためいた。



 桜並木が薄桃色うすももいろ吹雪ふぶいていて、その合間から、おどりたつような笑みを浮かべた女子高生の姿が見えた。

 彼女たちのはしゃぎようからすれば、きっと入学した高校に初登校といった所なのだろう。


 桜吹雪にまぶしそうに目を細めている。



 楽しそうなその姿を目に入れてしまった黒瀬の胸の内に、じわりと嫌な感覚が広がった。

 不安と、劣等感、ほんの少しのねたみ、そういうのが入り交じった、ドブ水みたいな感情。

 陰った部屋の中から、明るい日射しの下で跳ねる笑顔をのぞき見る自分。

 黒瀬は十七歳、本当ならあの輪の中に入ってもいいはずだった。


 でも、そうしないことを、自分は選択したのだ。


 ひどいコントラストがある気がした。どこにも所属していない宙ぶらりんな気分。なるようになれ、そんな投げやりな気分。


 ふと、屋敷の入り口に人影がたった。



「(……来た)」



 黒瀬はウンザリしながら、その人影が押したチャイムの音を聞いた。うなだれたままアイウェアをかけた。








 「ドアフォン」とユビキタス機能を呼び出す。

 クロセの前に、薄いコバルトブルーのウィンドウが現れ、そこに立体表示された人影の姿が浮かび上がる。

 セーラー服姿の女の子が立っている。正門に設置した感知器が撮影した、訪問者の映像だ。



「眞子?」


『あ……うん』



 常に下がった眉尻、白玉みたいにまん丸な目、病弱そうな色白の肌、ハーフみたいな栗色のショートの髪は少し癖がついている。


 彼女を見るといつも、あの耳が垂れ下がったウサギを思い出す。

 性格だってウサギそのものだ。


 かわいそうなウサギだ。思う。なまじ善良だから、再婚した家族全員が仲良く暮らせるようにと、献身的にもろくに姿も見た事ない兄とコミュニケーションを取ろうとしているのだ。


 彼女は黒瀬の父新しいパパに利用されているに過ぎない。


 父は彼女を使って手のかかる息子黒瀬を家に迎え入れる気なのだ。

 もっとも、それは世間体という奴を考慮こうりょしたからであって、再婚を機に関係をやり直そうとかいう気はさらさらない。

 実の父の葬式にも来ない人間なのだから、そう思ってまちがいないだろう。



『あ――』



 何か用。かすれた声で尋ねると、義妹、眞子はそうやって言葉に詰まった。

 その顔は少し上気しているように見える。

 ……熱でもあるのか? 五秒くらい経ってから、言う。



『――――黒瀬さん』



 またこれだ。


 黒瀬は頭をかきむしりたくなった。

 彼女と会うと第一声はいつもこうだ。「あ――――黒瀬さん」その『――――』の中にどんな逡巡があるのか知らない。お兄さんと呼ぶべきかお兄ちゃんと呼ぶべきかあるいは完爾かんじくんと呼ぶべきか。距離感をはかりかねているのだろうか。


 そういう腹の探り合いみたいな人間関係が一番苦手だった。

 障害について触れて良い物か迷う「昼の世界の住人」の反応と同じからだ。



『今、大丈夫……ですか』



 言葉を慎重に選んで彼女が言う。短く、「いや」と答える。

 彼女に悪いが、父の思惑通りほだされる気はさらさらないし、彼女だって、『陰の世界の住人』と話したりするべきじゃないと思う。


 返事を聞いた立体表示の眞子が、『え?』とその小さな口を開けてぱくぱくと開閉した。それから急かされるみたいに



『あ、あの、昨日ね。家での話なんだけど……あの、家だと、いつもお母さんが帰るの遅いの――遅いんですけど、だから私とお姉ちゃんでいつも交代でご飯作るの。それで』



 …………何の話だよ。


 道中、何を話そうか話の種を考えていたのかもしれない。

 思わぬ拒否反応に動揺して思わずドアフォン越しにその雑談を始めてしまったのか。


 ……ため息が出る程お人よしな奴だ。


 彼女は夢中になって話し続ける。

 それにしても、今日はとりわけ変だ……呂律が回っていない気がするし、少しふらついているように見える。まるで、夢見心地だ。



『お姉ちゃんのご飯、ホントはあんまりおいしくなんだけどね。……あ、それで、ホントは昨日が私の当番だったんだけど、私、部活で疲れちゃって、気づいたら寝ちゃってて、代わりにお姉ちゃんが』



「何しに来たのか言えよ」



 ぴしゃりと黒瀬が言うと、まるで怒鳴りつけられたみたいに彼女は息を詰まらせた。

 それから酷く落ち込んだように肩を落としそうになって、しかし思い直したのか肩にかけていたバッグを右手でぎゅっと握りしめた。

 意を決したように、顔を上げる。



『今日、あの――今日のご飯、私が作るんだ。お兄さん、食べに来ない? おでんが好きなんだよね? あの、もう材料も買ってあるから』



「お前、もう来ない方が良いって」



 苦々しく、はき出すように言った。

 ずっと言おうと思っていた言葉を、ようやく言えた。


 これまでにも何度も食事に誘われたが、一度も応じた事はない。なのに彼女はめげずに来る。もう二度と来ないで欲しいと、今日こそ言わなくてはと思いながら、彼女の弱々しい姿に、いつも飲み込んできた言葉だった。


 眞子ははっと顔を上げると、突然身内の死をささやかれたかのように目を見開き、薄い唇を振るわせ、『え……』とかすれる声をあげた。


 そんな顔、するなよな……。


 慎重に言葉は選んだつもりだったのに。こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。だけれど、転がりだした棘のある言葉はもう止まらない。それと知らずに、父へのイラ立ちを上乗せして、ぐっと喉の奥で言葉を噛みしめた。



「お前は家族なんかじゃない」



 一瞬、彼女は下がり気味の眉を寄せて、どこでもないどこかに視線を彷徨わせた。さっと目尻に涙がたまり、顔をうつむかせる。



「家族ごっこがしたかったら、俺抜きでやれよ」


『でも……でもこんな所で一人で住み続けるなんて、お兄さんだって』


「俺はお前の兄貴じゃない! 俺の家族は一人だけ――お前と、お前の家族は、関係無いんだよ」 


 乱暴にドアフォンの回線を切ると、アイウェアを外した。門の方へと眼を向けると、彼女は呆然としていた。

 しばらくの後、うつむいて帰って行った彼女を見送り、盛大なため息をつく。


 外の世界の人と話すと、とてつもなく緊張する。

 別に、彼女を苦しめたいわけじゃないのに、口を開くといつもこうだ。誰かを傷つけなければ、言葉一つはき出せないのか――――


 眞子は父親と弟を自動車事故でいっぺんに亡くしたらしい。それは父から(一方的に)聞いている。

 それが三年前の話だというから、彼女は家族に飢えているのかもしれない。特に異性の家族に。


 黒瀬とて、今まさに家族がいないこの状況にゆっくりと毒ガスを吸い込んでいるみたいな不快感とかすかな恐怖、そして――孤独感にさい悩まされている。


 だが、だからといって安易あんいに新しい家族にくみしたくない。ここで十年以上過ごしてきた祖父との時間を、むかえが来たからといって用済みとばかりに投げ出せるほど、非情にはなれない。


 『昼の世界』の連中なら、時に感情を殺してでも効率の良い方法を選べるかも知れないが、自分にはとてもじゃないができない。

 もっとも、いずれはこの生活にも限界が来るのだって、わかってる。



 ふと、屋敷の入り口に車が止まったのに気がついて、物思いから目が覚める。



 黒塗りの、威圧的いあつてき様相ようそうのセダン。

 黒瀬は目を細めた。

 車から出てきた老人が、コートのえりを正して、正門に歩いてくる。

 黒瀬は身をおこし、アイウェアを再びかけた。



『――――初めまして黒瀬さん、亡くなられたお爺さまにお線香を上げさせてください』



 表示された立体像フォログラムをじっと見つめて、黒瀬は黙り込んでいた。

 もう誰も家に上げるつもりはなかった。

 この家は自分を守る防壁で、最終ラインなのだ。ここを超えられたら、自分を守るものはなにもない。"昼の世界"の人間に、"陰の世界この世界"を侵させるわけにはいかない。



『ご在宅なのは分かっています。"正式な手段"を踏まなくてはいけませんか』



 ドアフォンを切ろうとした黒瀬の耳に、声色の変わった老人の言葉が聞こえた。

 顔を上げ、ホログラムを見ると、老人はスーツの胸ポケットから手帳を取り出した所だった。



その所作をじっと見つめていた黒瀬の目が、ゆっくりと、細められる――――

 






 現れたその老人がさしだした手帳には、金色の菊の花が一輪咲いていた。

 花の下には老人の名前が印字されている。



 『麻戸 巧 "警部"』




 仏壇の鉢鈴はちりんをたたいた老人――麻戸警部は、義理とは思えない程長く、遺影に頭を下げ続けた。


「今後はお父上のところで暮らされるのですか」


 老人は、ロウで固めたようなシワだらけの顔を、じっと黒瀬に向けてそう言った。

 低くしわがれた声は酷くかさついていて、しゃべる度にマイクが誤作動したみたいな細切れの音がした。

 仏間の長机を挟んで向き合った黒瀬は口を開かず、首を振ってそれに答えた。



「では、どなたか引き取り手が?」



 黒瀬は視線を膝の上に置いた手に落とした。

 麻痺した左手を、右手の上に載せる。

 吊り布に隠れていたが、その下に置かれた右手は固く握りしめられ、こわばっている。


 そうしていないと、緊張で今にも全身が震え出しそうだった。

 額にはじわじわと汗の粒がにじみ出す感覚がした。――――祖父以外の人間がこの家に来る事など、今日まで考えもしなかった。

 いざ対面して他人と向き合うと、相手が何をし出すのかまったく予想がつかず、得体の知れない異様な程の巨大な恐怖を感じて、体が震えた。


 木目のある長机の上に置いた、茶の入った湯飲みで、うすい緑の水面が、小刻みに波紋を描いていた。


 結局、質問に答える事は出来なかった。答えたくもなかったが。

 そうしていると、麻戸はどうとったのか、またかさついた声で



「大変な時期にお伺いして申し訳ありません。黒瀬――完爾かんじさん」



 何でこいつ、俺の名前知ってるんだ。

 そう思ったが、たずねる事はしなかった。

 差し出された警察手帳を思い出す。


 この男は刑事なのだ。

 名前くらい簡単に調べ上げるだろう。

 それよりも、と黒瀬は思う。問題は刑事がなぜ線香なんてあげに来るかという事だ。



「……生前、お爺さんに変わった事はありませんでしたか。何らかの政治的な活動をしていたとか、交際していた方がいたとか」



 変な事を訊く。

 何をしに来たのか言わない気なのだろうか。

 ならば、こちらから仕掛けるしかない。


「じ――爺ちゃんは何か事件に関係していたんですか。誰かに殺された訳じゃなかったと思うけど」


 声は緊張で酷くこわばっていて、情けない程かすれていた。

 奇襲したつもりのかすれ声に、麻戸刑事は答えず、居間の長机にあった灰皿をたぐり寄せて、煙草に火をつけた。



「ええ、そうでしょう」



 それだけ言うと、煙草が半分になるまで黙ったままだった。



「Play fun!12というのはご存じですか」



 麻戸はまた唐突に口を開いた。

 苦しまぎれに茶をすすりかけていた黒瀬は、一瞬ほうけた顔で麻戸を見つめ、それから、苦々しい思いでその名を反芻はんすうした。

 手にした湯飲みを机に置き、その水面に広がる波の環を見つめる。

 Play fun!12――こんなところで耳にするとは思わなかった。



 その名が初めて世間に公表されたのは八年程前だった。

 だが黒瀬がそれを耳にしたのはもっとずっと前、物心ついた四歳か五歳くらいの頃だったと思う。


 まだ黒瀬が両親と暮らしていた頃……今よりはほんの少しは幸せだった頃、父の口からよく耳にした名だった。



 Play fun!12 



 それは人類が夢にまで見たフル体感シミュレーターであり、『もう一つの理想の世界』を作る機械だと父は語った。


 誰もが手軽に理想の世界を作り出せる。

 それは限りなく現実に近い、だが現実より居心地の良い世界。


 ボールペンの容器に入ったミミズみたいなナノマシンの固まりを鼻から吸引して鼻腔の粘膜から吸収し、脳下垂体から進入したそれらを小脳から大脳皮質に至るまでまんべんなく偏在へんざいさせると、全世界待望のフル体感仮想世界が現実になる――――何度も同じ説明を繰り返された。



 父こそが、Play fun!12を開発したV-tec Life社の重役の一人だった。


 父はよく、『私は新たな世界を創造しているんだ』と嬉しそうに口にしていた。

 普段は全身の血を鉄と入れ替えたんじゃないかと思う程冷たい父が、Play fun!12を語る時だけはまるで対等な友人のように話してくれた。それがうれしくて、黒瀬は必死になって父の言葉を飲み込んでいった。


 そんな自分と父を、母は不安といぶかしさが入り交じった表情で見つめていたが、当時の自分はその視線の意味に気づく事は出来なかった。


 父が喜々として語るその夢の世界は魅力的で至上の宝のように思えた。


 だが、幼い黒瀬は父の口からPlay fun!12を知れば知る程、次第にその『楽園エデン創造キット』に嫌悪感を抱くようになった。

 いや、嫌悪感は始めからあったのだ。

 時間が経つにつれて、それに気がついていっただけだ。

 


 父は自分以上にこの機械を愛している。



 今ではこんな簡単に言える事が、当時は幼すぎてわからなかった。

 子供のようにはしゃぐ父を嫌いになり、そんな自分が嫌いになり、Play fun!12も憎悪の対象になっていった。


 思えば、母も同じような思いを抱いていたのではないか。

 優しい母は毎夜、父の書斎の前で泣きじゃくっていた。Play fun!12はそういう記憶とセットの思い出となり、黒瀬の頭の片隅にうち捨てられていた。


 それを、この刑事は掘り起こそうとしている。一体、何が目的だ?




「このゲーム機が市販されたのは八年前……『鼻から吸引する』『脳に機械を入れる』そういったセンセーショナルな導入法が世間を騒がせました」



 黒瀬が黙っていると、麻戸は知らないと見なしたのか、ぼそぼそと平坦な声で解説し始めた。



「連日連夜、ワイドショーやニュースで、自称"知識人"達が論争をくり広げたものです。その倫理りんり性、技術的信憑性しんぴょうせい、命と機械の宗教的かかわり合い――――喧々騒々けんけんそうそう。しかし一年も経つとそう言ったやからは消え去りました。世間の興味を引く新たな事件があったのか、――――いずれにせよ、ここ八年間でPlay fun!12は日本中に広がりました。三年前、ユビキタス機能が付加されたPlay fun!12が発売されたのがそれに拍車はくしゃをかけた。大人から子供まで……今や変わり者や老人をのぞいて、導入してない者はいない」



 黒瀬はむっと口を歪めた。

 あの忌々いまいましい父が関わったものになどに関わりたくなくて、Play fun!12は導入していない。


 自分は変わり者だと言われた気がした。テレフィルムとか、街の広告塔とか、ネットワーク上の交流場所コミューンとかで散々話題になっているのは知っていたが、そもそもユビキタス機能なんて下品なものも嫌いで、ゲームもそれほど好きではない自分には関わりのないものだと思ってきたのだ。



「Play fun!12は導入してない。ユビキタス情報はアイウェアをかけて見るから」


「ではそれをかけてこちらをご覧ください」



 麻戸刑事はなにかをつかんで差し出すような仕草をした。

 黒瀬が胸元から取り出したアイウェアをかけると、彼は一枚のテキストウィンドウを手にしていた。

 半透明でコバルトブルーのそれを受け取って、目を通す。



「"外側中毒アウターホリツク"、ご存じですか」



 不意に、脈絡もなく麻戸はそう言った。黒瀬はしばらく思案してから、浅くうなずいて返した。

 最近よく耳にする単語だ。テレフィルムのニュースでよくやっている。

 Play fun!12が作り出す完璧な仮想世界――――現実と全く同じ世界で自由に創造された世界、その世界を外側世界アウターワールドと呼ぶ。

それは当人にとっての理想の世界だ。

 人殺しからセックスまで、あらゆる禁忌きんきおかし、性転換から永遠の命まで、あらゆる限界を突破できる。そこでは英雄になることも、悲劇のヒロインになることもできる。


 だがその理想の世界は、機械が脳の中に描き出した幻想卿にすぎない。


 つまりこの世界の外側にある世界アウターワールドなのだ。


 にもかかわらず、その幻想卿にのめり込む人間は後を絶たない。


 その中でもとりわけのめり込んだ連中が、飲食も睡眠も排泄も、それに仕事も交友関係も家族も全部忘れてひたすらゲームに没頭し、ついには死に至る――――それが、外側中毒アウターホリツク


Play fun!12の連続プレイ時間が二日を過ぎた時点から、その人の生命活動は急速に弱まり、タイムリミットの三日に至るまで生体機能がどんどん損傷していく。

 そして三日目に至ると、もはやその生命が終わるのを止める術はない。



「今やアルコール中毒アルコホリツクより名の知れた中毒ですよ、この、外側中毒アウターホリツクという奴は。もっとも、俗悪なメディアではその死がゲームに熱中しすぎた愚か者の末路として面白可笑しく取り上げられるばかりですがね。……これを」



 麻戸は胸元から、何かを取り出して卓の上に置いた。目を凝らすと、ケースの中に小さな、本当に小さな……糸か針金のような黒い線ワイヤーが見えた。



「検証は終ったので、差し上げます。あなたのお爺さんの脳から摘出したPlay fun!12です」



 思わず麻戸の顔を見上げた。麻戸は眉一つ、動かしていなかった。



「……は?」



 黒瀬はきょとんとした。

 麻戸が黒瀬が持つテキストウィンドウを指し示す。



「それは死亡した夜のお爺さんのログイン記録です」



 手元のウィンドウに目を凝らす。暗号図表か何かにしか見えない枠と数字の組み合わせが並んでいる。



「ログインって……Play fun!12ゲームの? 爺ちゃんが?」


「ええ、あなたのお爺さんがアウターワールドにログインしたプレイ記録ログです」



 幾ら何でもあり得ない話に思わず吹き出した。

 70を超した爺さんだったのに、ゲームをしてただって?


 だが、笑みを浮かべた黒瀬を、麻戸は冷淡とも、哀れみともつかない目でじっと見つめるばかりだった。

 彼の目は、よく見ると左目が正気を失ったみたいに明後日の方向を向いていて、まるでそれだけが独立した生き物のようにぐろぐろと蠢いている。それが、獲物に焦点を合わせるように、ぴたりとこちらを向いて止まった。


 その目を見ていると、彼が冗談を言っているわけではないのだという確信が、じわりと胸の内で広がっていく。



「ログインデータには、あなたのお爺さんがログインした時間と、ログアウトした時間が記録されています。ご覧なさい、これが、あなたのお爺さんの外側世界アウターワールドでの名前ですよ」



 麻戸が指さした先には、短い英単語が一つ、ぽつんと置かれていた。


――――[Eject排出]


 まるで暗号図表のようだったウィンドウの文字の意味が、おぼろげながらわかってくる。それはどうやら、『Eject』と言う名の誰かが、『IN』した時間と『OUT』した時間が淡々と記録されているようだった。


 最後の記録を見ると、死亡する前日の十時から、翌朝の五時まで『IN』状態だったのが記録されている。



「そのログ、一番最初にお爺さんがログインした日も記録されています」


 言われて、黒瀬はテキストウィンドウの上で親指をはじくような仕草をした。ウィンドウの中のテキストは流れるようにスライドしていく。それを四、五回繰り返した頃、画面はぴったりと止まった。一番最初の記録が、無機質に列記されている。




 < 2042/ 11 / 23 / PM11:47 IN >



「Play fun!12が発売されたのは20 "65" 年――――」



 黒瀬はテキストウィンドウから目を離し、麻戸に眼を向けた。



「あなたのお爺さん、Play fun!12が存在する二十年以上前からログインしているんです」







祖父は酷く旧式アナクロな人間だった。


 家具のほとんどに人工知能(AI)が搭載され、電子機器の操作に音声入力が当たり前になっても、祖父は相変わらず留守録機能もないような黒電話を使っていたし、食事も自分で作り、エレベーターは設置せず自分で階段を上がった。


 祖父はそういう生活を好んでいたし、そうじゃない生活を軽蔑けいべつしていた。黒瀬もその生活に慣れきっていた。この家には普通の家にあるような、一々要件をいてくるような電子機器はない。家の鍵も開けっ放しだ。


 その爺ちゃんが、ゲームをしていたって?


 ありえない。

 ……ありえない、はずだ。


 だが、人には誰しも秘密がある。

 隠しておきたい過去、忘れてしまいたい過去、現在進行形のそれ。


 黒瀬にだってある。例えば、幼い頃の記憶。よく周囲の子供達に馬鹿にされた。なにせ片手片足が動かないから、運動はろくに出来ないし、頭だって良い方じゃなかった。


 あの窮屈な学校と言う名ので、教師と言う名の看守によってもたらされる甚大じんだいなストレスのはけ口には打ってつけだったのだ――弱虫で無抵抗な自分は。


 情けない事に、散々いじめられたというのに、いじめっ子達の輪の中に入りたくて仕方がなかった。だから媚びへつらってなんでもやった。そんな過去は全部、たき火にくべてやりたい。そういう過去と決別するために、昼の世界に背を向けたのだ。



 そう、それと同じ事だ。

 祖父は誠実で優しい人だったが、やはり秘密がないわけじゃなかった。




『私はこういう仮説を考えているんです』




 一時間前、麻戸が講釈を垂れた『仮説』を反芻はんすうする。歯噛みしたい思いだ。ずらずらと並べ立てられた正論は、反論の余地がないだけにあまりに腹立たしかった。


『アウターホリックは単純な中毒症状ではない。過去の発症人数は、脈絡なく乱高下し、ここ半年ではアウターホリックで死亡した人間は急激に増加の一途をたどっている。こういう変動の仕方は、自然の物ではない。誰かが意図的にそうなるよう調整していると考えるのが自然です』


 黒瀬は今、祖父がよくこもっていた地下室に来ている。

 寒々しい部屋だ。むき出しのコンクリート壁、洒落っ気のない事務的な家具が少し、それにゆったりとした黒皮のチェアが一つ、ぽつんと部屋の中央に鎮座している。


 祖父はよく、この部屋にこもって何時間も出てこなかった。何をしていたのかは知らない。だが、今では少し、それをたどる手がかりがある。



 黒瀬は足下に転がっている、それを見つめる。

 黒金のサブマシンガンが、静かに転がっている。




『あなた、お爺さんについてどれくらい知っています?』


『……どれくらいって』


『例えば40年前の極東戦争ではミコト・セキュリティサービス社の諜報部隊インテリジェンス――――通称からす隊の一員だったとか、戦後は長く心的外傷後ストレス障害PTSDに苦しんだとか』


『……なんだよ、それ』


『どうぞこれを』


 麻戸が手渡した写真を、くしゃくしゃに握りしめてしまったそれを、胸元から取り出して見た。

 色あせたそれに映っていたのは、真っ黒な兵士達だった。

 固い友情で結ばれているのを誇示するように、彼らは肩を組み、不敵な笑みを浮かべて入る。


 その姿。

 真っ黒なゴム質のスーツが緩く彼らの全身を包み、真っ黒なハーネスがそれをきつく締め上げている。足下にはわずかにだぼついた裾を縛り上げる編上げブーツ。肘当て、膝当て、グローブに、弾倉やグレネードがいっぱいに詰まったベスト。肩を組んだ兵士達の、右から三番目。そこに映っていた。


 まぶしそうに眼を細める、若かりし頃の祖父の姿。



『お爺さんには、あなたの知らない過去がある』




 写真を持った手を下ろし、床に転がるサブマシンガンと、無数の真鍮製の弾丸を見つめる。


 この部屋に入ったのはつい昨夜の事だ。

 親戚の誰かがこの家の所有権を得たらしいので、部屋を整理する必要があると連絡があった。だから渋々とずっと手のつけられなかった祖父の自室の整理に手を出して――――そこで、『パンドラの箱』を見つけたのだ。


 アタッシュケース状のボックス。手軽に持ち歩くにはあまりにごついし、ケース全体を覆うような強固なロックが二つもついている。

 それを制御するCPUはタッチパネルとマイクがついていて、何の気無しにいじっていたら、唐突にロックが解除された。タッチパネルには、『音声認識完了』の文字が点滅していて、思わぬ事態に慌てた黒瀬の手から、ケースが滑り落ちた。


 そして、今この目の前に広がっている惨状が、まき散らされた。




『いくつかある考えられる可能性の一つとして、こういうのはどうでしょうか。あなたのお爺さんはアウターワールド創設に一役買った人物だった――――それこそ、歴史上初めてあの世界アウターワールドにログイン出来る程』


『そして彼はそのシステムを利用して、意図的な大量殺人を実行する構造プログラムを組み込んだ。それが、我々が外側中毒アウターホリツクと呼ぶものの正体』



 麻戸は短くなった煙草を灰皿に押しつけた。



『あなたのお爺さんに、大量殺人の嫌疑がかけられています』




 あの日。祖父が目を覚まさなかった朝。

 あの日から急速に事態は動き出していた。

 黒瀬には追いつけないくらい、急速に。



 昨日、この部屋の惨状を見た黒瀬は思わず逃げ出すようにここを後にし、気を失うくらい夜の街を意味もなく駆け回った。

 そして今、そのツケがあっという間に回ってきている。


 何かが始まりつつある。それが、ゆっくりと真綿で首を締め上げるように、自分の周囲を取り囲み始めているのを、総毛立つ気配と共に、感じ始めていた。




 





 祖父が何を隠していたのか、それを知る必要がある。



 出てきた銃をどこかで処分するにしても、一体祖父が何を目的としてそんな物を持っていたのか、そして麻戸刑事が語ったように、なぜ脳に機械デバイスを仕込んでまでゲームなどしていたのか、それが知りたい。


 無関心をよそおって、何も見なかったことにしてしまうことも、今ならまだ出来る。

 だが、そうしようと思うと、麻戸の言葉がちらつくのだ。"大量殺人の、嫌疑"――――祖父は、自分が今まで生きてきて、ただ一人の、"信じられる大人"だった。両親の元から逃げ出して、孤独な夜を過ごしたあの朝、まだ小さかった自分の手を握ってくれた、祖父のごつごつとした手の温もりは、今でも覚えている。

 あの手は血で染まっているのだと言われて、黙っている事は、できない。


 昨日、この床に散らばった惨状を見た時、思わず逃げ出して何もみなかった事にしてしまった。今、それと再び向き合った黒瀬は、床に転がっているケースに手を伸ばす。その重い蓋に手をかけ、ゆっくりと、引き上げるように開く。



 髑髏ドクロと目があった。



 ぎょっとして、身動きできなくなった。まごう事なき人間の頭蓋骨ずがいこつが、ばらまかれた銃弾にまみれた黒い保護パネルの中にしまわれていて、驚愕きょうがくしている黒瀬を冷然と見つめている。


 こわばる手をなんとかのばすと、木や鉄とも違う、乾燥しきった堅い石のような感触が、手中に収まった。思いの外、軽い。


 偽物ではない。フェイクと言うには、あまりに、あまりに……人間じみている。


 色濃く黄ばみ、所々褐色かっしょくになっていて、歯並びはがたがた。額の骨ははきれいな丸ではなくて、ぼこぼことへこんでいた。

 なにより眼窩の下の骨は痛々しいほどに砕けて穴が開いていて、激しい衝撃を受けて損傷したのが明らかだった。

 生前の姿が――――ひいては死後直後の顔が、浮かびあがるようだった。観賞用やハロウィンの仮装グッズにしては、あまりに生々しい。


 あなたのお爺さんに、大量殺人の嫌疑がかけられています。

 麻戸の言葉がフラッシュバックした。


 黒瀬はかぶりを振った。

 麻戸の言葉を受け入れそうになる自分を振り払う。

 違う。確かに祖父は、何かを隠している。骸の仮面はそれを悠然と物語り、反論を押しつぶしてしまう。


 だが、麻戸が言うような、殺人鬼だとは、思えない。


 少なくとも、黒瀬が知っている祖父は、厳しくも優しい、黒瀬が接してきた中で一番信頼の置ける人だったのだ。


 頭蓋骨をどけ、アタッシュケースを閉じようとする。

 すると、保護パネルのとケースの縁に、隙間があるのに気づいた。

 どうやら、まだ保護パネルの下に何かあるらしい。そういえば、ケースの厚さに対して、この容量の使い方はアンバランスだ。


 指を押し入れて、保護パネルを外した。


 ケースの底には写真の中で祖父が着ていた装備が、綺麗にしまわれていた。その上に封をするように、大きなレンズが二つ付いた仮面マスクがぽつんと置かれている。何の気無しに手に取った。


――――ガスマスク、のようだった。


 だがそれは、あちこちすり切れて穴が開き、実用性はもはや皆無かいむのように見える。無機質な大きいレンズが、じっと黒瀬のこわばった顔を映し出していた。口元についたボンベが、触るとひどく冷たい。


「……カラス?」


 レンズの片方に、片翼を広げた鴉の絵が描かれている。こちらに飛びかかってくるような仕草、鋭く持ち上がった目、その背後には、達筆たっぴつな漢字で『鴉』と印字されていた。


 ふと、アタッシュケースに目を落とす。ガスマスクのあった場所に、何かが姿を現していた。どうやら、下敷きになっていたらしい。

 手に取ると、現代では考えられないほど分厚い、情報端末PDAだった。いかつい弁当箱のようだ。軍用だからだろうか。あちこちいじっていると、静かなドライブの作動音と共に、ディスプレイに光が宿った。



『コードの入力を待機中................』



  国際共通語ユニコードで書かれたそれだけの文字が、点滅していた。PDAの端にあったキーボードに気づき、祖父に教えてもらった国際共通語ユニコードを苦労して思い出しながら、適当な語を入力する。


 "kurose""enter""unrock""start""config".......


 どれも反応しなかった。『コマンドは拒否された』と出てくるだけだ。ひとまずそれを置いておくことにした。最後に一つだけ、なにか打ち込めないかと考えて、麻戸がよこしたログを思い出した。他にいい案も思いつかず、自棄やけになってスペルも曖昧あいまいに、適当に打ちこむ。

 "eject"

 

 凄まじいビープ音が鳴り響いた。


 耳元で警報機ががなり立てているようだった。

 耳障りな高音がぶるぶると震えながらPDAから吹き出す。

 思わず、耳をふさごうとした黒瀬の足下で、突然何か、重々しく物が蠢く感触がした。


 はっとしてコンクリートの床に目を落とす。

 別段、何の変化もなかった――すくなくとも見た目は。

 だが足の裏の感触は、確実に何かが蠢くのを察知していた。


 鳴り出した時と同じように、ビープ音は突然止まった。


 異国に突然放り出されたような気分になった。一体何がどうなって、自分の身に何が降りかかろうとしているか。


 PDAを慎重にアタッシュケースの中にしまった。

 それから、おそるおそる灰色の床に目を這わせ、自分でも何事かわからぬ事を決心すると、足下にあった溝の隙間に指を入れた。



「…………無茶苦茶だ」



 重苦しく持ち上がった床にもたれかかるようにして、黒瀬はもはや虚脱してつぶやいた。



 眼前には、奈落の底まで続いているような巨大な空洞サイロが、ぽっかりと口を開けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る