【中編】
横たわるコーディの体は、神聖な生け
長机から垂れる手を握ると、かつて
それでも、細い指には柔らかさが残っていて、ほんのわずかだが指先から熱が伝わる。
胸の奥に温もりがにじんだ。
「彼女は目覚めません」
長机をはさんだ向かい側で、麻戸は鉄のような声を吐いた。
クロセは
「あんたは知らないかもしれないけど、最近は手が動いたり、寝返りを打ったりするんだ。……ていうか、今までどこ行ってたんだよ。 こっちは死んだと思ってた!」
「次なる
麻戸の返事は明確だった。クロセは目を細める。
よく見ると、麻戸の目の下には
「脅威って……」
「アウターワールドはサーバーを失ったのに、わずかながらの運用停止期間をもうけたのみで、いまだ運用を続けています。規模は確かに縮小したかも知れません。ゲームから受ける
クロセはぎょっとして
「運営って……アウターワールドをまだプレイしている連中がいるのか!? あんなことが起きた直後なのに」
「直後ではなく三ヶ月経っています」
麻戸の声はいやに冷静だった。
「そしてどんなに
「は……なに?」
そんな無茶苦茶があるかよ、とクロセは
「情報の
「あたるのですって……」
クロセはかぶりを振った。世間一般というものがまったく理解できない。現実の速度に追いつける気がしなかった。タイムスリップした浦島太郎はどうなったんだっけ、と
「……ていうか、アウターワールドが運用されてるって事は、また新しい
「それを調べていました……いえ、それだけではありません。脅威にはキリがない。一つの脅威が終われば、次なる脅威が目に見えないところで牙を剥いている。そういうものです」
そう語る麻戸の目は、確かに目に見えない脅威に対して鋭く細められている。永遠に続く
「……なぁ、ちょっと……落ち着けよ」
世間の
「平和な生活の裏で、様々な危機が渦巻いていることを私たちは知っていますが、それでもなお、平和という
クロセの言葉を遮るように放たれた麻戸の声音は、老齢であることを感じさせない程、力強く、熱がこもっていた。
「世界中が毎年終戦記念を迎えて、
あるいは。
あるいは麻戸は、自分に何かを気づかせようとしていたのかも知れない。低く押さえられた声音は、冷静たろうという理性によるものではなく、ただ事実を
彼にとっての--あるいは、
ヒリヒリするほど、麻戸の言葉には鋭さがあった。狂人が
麻戸の精神状態は見るからに問題があった。枯れ木が幽霊に見えるような精神状態に見える。麻戸自身がかつて語っていたとおり、麻戸は"敵"の姿を見るや、それ以外が目につかなくなる節があるようだった。
かつてそのような精神状態にあった結果、麻戸は……
クロセは麻戸の刺すような視線から目をそらし、変わりに胸元に手を突っ込んだ。
「……これ、返すよ」
麻戸は差し出された銀色のロケットに、微かにまぶたを押し開いた。
傷だらけの指でそれを撫でると、手に取る。
「大切なものだったんだろ」
クロセはじっと、彼の所作を見つめていた。麻戸はふたを開け、そこに収まっている幼い女の子の笑顔を見つめる。
燃えさかる車の中で、麻戸が投げてよこした物だった。
そこに収まっているのは、幼いコーディの姿だ。
「どうも」
麻戸の返礼はあっさりとしたものだった。しかし、その目はロケットの写真から逸らされていない。
ようやく視線を動かした後は、コーディの
「別人のようです」
その声からは緊張感が抜け落ちていて、自室にこもった男がつぶやくひとりごとのようだった。
「……そうか? 俺には同じに見える」
クロセもまた、コーディの寝顔に視線を注いだ。ここ三週間、一日の大半をかけて眺めてきた顔だ。
それでも、見慣れることはなかった。同じ時間を過ごしたとき、彼女は無表情に見せかけて、その
ロケットの中で、花のような笑顔を見せる少女のように。
「
「え?」
唐突に言われた。レーネ?
「彼女の--私の娘の、本当の名です」
コーディの顔を見る。なんだか違和感があるようで、それでもなんとなくすっと胸の内に落ちるような、妙な感じだった。
「……"私の娘だったころ"の令音は、甘えん坊で、そして、大人がぞっとするほど、聡い子でした」
"私の娘だったころ"
その物言いは、どうにも自分を断罪しているような調子が含まれていて、クロセは眉根を寄せた。
「母親が死んだ日、あの子は泣きました。その翌日、私が家に帰ると、彼女はベッドで眠っていました。壁の方を向いて、私には背を向けて。しばらく私はベッドに腰掛けていました。あの子を起こすべきでした。でも、私にはできなかった。母親が死んだ原因は、
麻戸はロケットの口を閉ざすと、虚空に目をやった。
「『ごめんなさい』」
ロケットを握りしめる麻戸に、クロセはかける言葉がなかった。話の意図が支離滅裂な気がしたが、彼が今どういう想いで目を覚まさない娘を見ているのかは、はっきりとわかった。
そしてそれに、口を挟む権利は、自分にはないのだ。そんな気がした。
「……寝たふりをしていたんでしょうね。それでも父親である私に甘えざるを得なくて、
「……変な言い方するなよ。今のコーディだって、あんたの娘だろ」
麻戸は黙っていた。黙って、眠ったままのコーディを見つめていた。
「そして再会した
再会?
何のことかと思ったが、麻戸が車内で話していたことを思い出す。
「じいちゃんと、
うなずく麻戸は、相変わらず、虚空に目を向けたままだった。
だが、その目にはわずかに、鋭さが戻ってきている。
「あの子は現実を拒否した。あの時の顔は----すべてが変わってしまったのだと確信できる程、歪んでいました。全くの別人でした。ただ甘えん坊がわがままで現実を拒否しているのではなく、強固な意思の下、私たちを"敵"と認識していました。事実、あなたのお祖父さんは彼女と交戦し、敗北しているのです」
「じいちゃんが?」
「かつてのお祖父さんの悪辣な目的を敏感に読みとったのか、あるいは、外の世界に対する
麻戸の太く、傷だらけの指が、幼い笑顔を映し出すロケットを、眠るコーディの胸の上に置いた。
「令音が目覚めない理由--それは彼女の覚醒しようという意思を、現実への恐怖に縛り上げられた本能が抑止しているから」
クロセは目を細め
「なんでコーディをここにつれてきた」
「ご想像の通りです」
麻戸は金縁めがねのツルをもちあげ、かみしめるように言った。
「彼女を--
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