【後編】
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┃┏╋┓┗┛ コッペリアのワルツ へ ようこそ! ┗┛┏╋┓┃
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■
゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.
あなたにとって、さいこうの瞬間とはなんですか?
あなたにとって、最愛のひと とは、だれですか?
゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.
"コッペリアのワルツ"をおどれば、その答えは
あなたのパートナーと一緒にゲームワールドにログインしましょう!
二人の記憶、印象、ホルモン分泌率、
パートナーが思い浮かべる最高の瞬間とはなんでしょうか?
∵☆∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵☆∵
ふたりで訪れたビーチ?
結婚式の誓いのキス?
それとももしかして……
あなたではない他の人との思い出だったりして……
∵☆∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵☆∵
ちょっぴりスリリングな思い出の旅にでかけましょう!
お互いの記憶に想いを
<注意事項>
識閾下へのアクセスには
・二者間の記憶の混濁
・覚醒後の意識混雑
・プロテクトによる一部意識の損傷
・多重人格自意識
・抑鬱・躁状態
・クォリアの変質による自我の損傷・喪失(離人症の発症)
個人防壁は必ず解除し、リンクするプレイヤーの承認を得ないログインを試みないでください。また、すでに死亡した人物、意識のない人物へのリンクを行わないでください。意識が不明瞭な状態の人物へのアクセスは、同じ状態の脳との同期を引き起こす可能性があります。
なお、ログインを承諾した時点で上記規約を誓約したと見なし、本ゲームプレイを通した身体的・精神的損傷は保証の対象外とします。あらかじめご了承ください。
それでは二人の美しい瞬間へ向けて、
プレイヤー様達の、美しい門出を、祝福いたします…………
〈MMM起動中〉
〈MMM識別コード確認中…………〉
〈プロテクトウォールの解放確認中…………〉
〈CPアクセスが障壁と干渉し合っています〉
【緊急】
・プロテクトウォールがリンクサーバーと干渉し合っています。
・Maxcon (c) サイエントキラーが不正な干渉に対処しています。
<MMMへの侵攻中……>
<マスターキーが解除コードを入力しています…………マスターキーは認証されました>
☆現在までに12カ所の致命的欠損を確認しました。(技術者コード:3c899o8)
now loading..........
now loading................
now loading...............................
天まで昇っていた意識が、地面にたたきつけられたみたいだった。
形のない
知らず荒くなっていた息をなんとか整える。肺の奥底から吐き出していた深く早い息を、ゆっくり、ゆっくりと、穏やかな呼吸にもどしていく……
ゆっくりと、顔をあげた。
「……はっ、はっ、はっ」
麻戸と話していた時と、なにも変わらない仏間だった。
……ねむってたのか?
一瞬そう思った。
あたりを見渡しても、見慣れた屋敷の光景しか目に入らない。オレンジ色に染まる仏間、ソファーとテレビくらいしかない殺風景なリビング、薄暗がりに見えるダイニング……
ダイニングの方がよく見えない。
もう一度目をこすろうとして、手が透明な壁に当たった。黒皮のグローブが手を覆っているのが見えた。
確かめるように握りしめると、分厚い感触が掌に返ってくる。
イジェクターの装備だ。
真っ黒なコートが、夕刻の風にたなびいている。
鈍いオレンジ色の陽光は、真っ黒な彼の姿をモノクロのオブジェのように塗り上げていた。
「
つぶやいた声がくぐもっていることに、ようやく気がついた。
「……戻ってきたのか」
しかし、あたりの光景は、いつも刺激過多だったあのアウターワールドの様子とは違っていた。これまで潜ってきたのは、創造主の欲望と理想、それにエゴにまみれてギラつき、イカレた"楽園"だった。
だが今目の当たりするこの光景は----流れる時間ですら
身構えていた自分と、あたりをただよう空気が、奇妙な対照形を描いていた。
違和感、と呼んでもいいだろう。
その正体をさぐろうと、クロセはあたりを見渡し、観葉植物や壁の感触を確かめていった。
「(
不意に、そう気づく。部屋の片隅で
何一つ変わっていないように見えた光景を、もう一度見回す。
クロセはゆっくりと歩みだし、部屋を巡った。質素なリビングは、見てくれは変わらないが、記憶の中の"現在の姿"とは微妙に
例えば、ソファにこぼしたカレーの跡がない。リビングテーブルの脚には、義足をぶつけたときの傷がない。
台所にたどり着くと、旧式のガス台に、鍋が一つ置いてあった。真鍮製で、炊き出しでもできそうな
料理なんて、ほとんどしたことがない。
眞子が置いていったものかと思ったが、彼女はそういう所は案外抜け目ない。そもそも、今朝はダイニングで目を覚ましたのだ。そんな物が置いてあれば、すぐに気がついたはずだ。
じゃあ、誰が?
鍋の中を覗くと、ついさっきまで煮立っていたような、おでんが入っていた。状況にそぐわない、間の抜けた料理に思えた。ただよってくるダシの香りをかぐと、不意に脳裏に祖父の背中が思い浮かんだ。
放っておけばろくな食事をしないクロセに、時々祖父はおでんを作っていた。なぜ"おでん"なのか知らないが、とにかく作るのはいつもこれだった。たぶん、これしか作れなかったんじゃないだろうか。
温かい食べ物が苦手だったクロセは、祖父が作っていたこれだけは、今でもまともに食べられる。
背中に視線を感じた
「じいちゃん?」
とっさに振り返る。
ダイニングの向こうで、リビングが赤茶けた色に染まっているだけだった。
一瞬だけ走った予感。
なにを感じたのか、はっきり意識する前に、クロセは
屋敷中を駆け巡った。記憶の中の光景と、わずかに違うところに次々と気がつく。しかし構っている余裕はなかった。急かされるように部屋という部屋を開けて周り、ふいに思いつく。
「(じいちゃんの部屋……!)」
屋敷の地下室。コンクリート壁がむき出しの寒々しい部屋で、祖父はよくこもっていた。そこになら、もしかしたら……なぜなら全ての違和感が、そこにつながっていたから。仏壇も、テレフィルムも、カレーの跡も、机の傷も、すべてすべて、祖父が生きていた頃には、なかったものだったのだ。
部屋の前にたどり着くと、クロセはゆっくりと息を吸った。
扉の向こうに、人の気配がした。
ドアノブに、手をかける。
「……なんだよ、これ」
つぶやく
鼻先が触れ合うほどの距離に、
""
甲高く、しかし
"
ウィンドウの中で刻まれるタイムリミットを見つめて、クロセは慌てて首を振って駆けだした。麻戸の言葉を思い出したのだ。
■ ■ ■ ■
15分前.................
■ ■ ■ ■
「睡眠状態は4つの段階に分けられます」
畳み張りの部屋では、麻戸が持ち出したウィンドウは文字通り"浮いていた"。
ウィンドウの中では、のたくる線グラフが緩やかに上下を繰り返し、穏やかな青白い波を描き出している。
「脳が活性化していますが、体は睡眠状態にあるS1。ここ、覚醒状態で活発になる
麻戸は線グラフの波を傷だらけの指でさしていく。特に波形が高く波打っている部分に指が触れると、グラフは赤く発光した。
「ここから段階的に脳波の振幅が低下していき、S2、S3と意識レベルは低下していきます。S2はいわゆる紡錘波と呼ばれる波を形成し、そこからS4段階へと波形は徐々に低下していきます。通常はこのS1からS4までのサイクルを繰り返して、睡眠という状態が作られるのです」
線グラフは駆け上がり、そして下っていく一つの波を形作っていたが、その線は電子音と共に伸び上がり、何度も上下運動を繰り返し、ついにはウィンドウの上端にたどり着き、覚醒の文字がクルクルと踊る。
「……もっとわかりやすく説明できないか?」
「言葉が理解できない異星人へのメッセージのように?」
クロセの"建設的な提案"は、間髪入れずにものすごい嫌みで返された。
麻戸は
彼が差し出すウィンドウは、彼なりに"無知"な人間にわかりやすくしたものらしかった。言葉は冷静ぶっているが、知らない言葉にクロセが眉根を寄せると、金縁めがねの奥で瞳がぎらつく。
「今度はこちらを」
説明を何度もくりかえしてから、クロセにもようやく多少は理解はできたとみたのか、麻戸はもう一つのウィンドウを取り出した。しかし今度の物は単純な波状のグラフではなく、いくつもの波形が複雑に絡み合い、束ねたケーブルのように大まかに一本の流れを作っていた。
「これは
一際太い波状の線グラフが重ねられた。コーディのものと比べると、波の高さが段違いだ。コーディはさざ波程度に上下しているだけで、時にウィンドウの一番下で横一線になっている時がある。
「
彼の言葉は、波形の動きと一致していて、うそをついているようには思えなかった。麻戸は妄執だけで彼女をここに連れてきたのではなかったようだ。
彼が正気だったことを喜ぶ気分には到底なれない。コーディを巡る事態が、より深刻になっただけだ。
「ここを見てください。彼女の波形は複雑な動きをしており、複数の波形が同時に存在しているような奇妙な動きをしています」
束ねられていた色とりどりの線から、一本の赤い線が、飛び抜けて大きな波を形作っている部分が拡大される。
「この赤い線は? この線はなんだ?」
「
思わず、クロセはコーディの寝顔に見入った。
「じゃ、じゃぁコーディはアウターワールドをプレイしてるのか!?」
「わかりません。しかしそう予想することはできます」
「どうして!」
「わかりません」
自分の娘についてはなしているとは思えないほど、麻戸の言葉は簡潔で、かたくなだった。
「わけがわからない……! あいつを
「一つ、大きな問題があります」
麻戸がウィンドウを操作すると、グラフは一際低い位置にある波形を拡大した。
ウィンドウの底にへばりつくように、ほとんど全ての線が平行になっている。
「覚醒状態に近いα波に波形が近づくと、突然
「潜ざ……なに? ちょっと待て、ワケが分からなくなってきた。……コーディは目が覚めそうになると、アウターワールドに"引き戻され"て、その後はほとんど死んだみたいになってるってことか?」
麻戸は浅くうなずく。
「おそらく、黒瀬さんがログインできるのはS3に近づく
10分から20分。
長いとはいえないだろう。以前はそれこそ、コーディが隣であれこれ情報を口出ししていたが、今度はそうはいかない。
単独で、自分の頭と手腕だけでゲームをクリアしなくてはならない。それも、ゲームそのものがいったい何なのかすらわからない状況で。
「もし……間に合わなかったら? この、S3の状態から、さらに下の状態に変わったら、どうなる」
「わかりません」
また、『わかりません』。
クロセは表情をゆがめて勢い込んだ。
「わかりませんって……これからそこにログインするかもしれないって時に、どうなるかもわからないままなのかよ!」
「まず
「誰も行ったことのない、ほとんど死に近い世界に、あなたは
クロセの額には、じっとりとした汗が浮かんでいた。
冷たい滴が、こめかみを流れるのがわかった。麻戸の
彼は
額を伝った冷たい汗。心臓がバクつくのがわかった。命がけの狂ったゲーム。ずっと遠くに行ってしまったと思っていた記憶が、痛みや吐き出される血、それに
もう一度、あれをやるっていうのか?
理性は『狂っている』と繰り返していた。また、命をかけるのか? 万に一つもない可能性をくぐり抜けて、お前はようやくここにいるのに。また英雄気取りであの世界にもどったら、今度こそ、お前は死ぬ。確率の女神は、お前にもう十分ほほえんだ。これ以上の幸運を期待して、お前は偶然にも助かった命を、また針山の中に放り込むって言うのか?
「……やろう」
拳で額を拭って、クロセは言った。
恐怖はあった。なにが起こるのか想像がつかないわけではなかった。
ただ、自分でもおどろくほど迷いはなかった。
自分と彼女の命を天秤に賭けて、どちらに傾くかなんてこと、考えたくなかった。
大切な人が『どれくらい大切か』計るなんて、したくもなかったのだ。
必ず連れ戻す。
たとえ、死んだとしても。
それだけでいい。
麻戸はうなずきもしなかった。最初から答えを知っていたような顔で、手首に巻いていた時計を取り外す。
武骨な黒いフレームとオレンジに発光する時計版。デジタルではなく、
「BangaRanga© 製 "マルチロール" 。
「BangaRanga……? あのヤバい企業?」
世には星の数ほどあるブランド企業は、いまやライフスタイルそのものと同じ。『ピンク・パルファム社』、『レガシー社』、『成華社』、そして『V-tecLife社』……家具から服、文房具に車まで、統一ブランドで固めることも珍しくない。
中でもBangaRanga社は、『反社会企業』を名乗る怪しいブランドで、アウトローな用途に転用可能な製品を堂々と売りまくっている。総じて高性能・高価格だ。
「機能は悪くありません。私は十年以上これを使っていました……針を手首にさして」
針? ぎょっとして見ると、時計は裏側に鋭い針が飛び出していた。直接人体と接続するのか?
このむちゃくちゃさがいかにもBangaRanga社製だ。
有無を言わせず、麻戸に手首をつかまれ、静脈へと針をつき入れられる。一瞬、視界にオレンジのフラッシュバックが飛んだ。
「それとこれを」
頭をふっているクロセに、麻戸は腰の裏から取り出した黒金の塊をわたした。
麻戸から"預かっていた"銃と違い、
「ドイツ製 P230--古い型の銃ですが、
「ちょ、ちょっと待てって……こんなもん渡すのはまずいだろ」
「今まで私の拳銃を持っていたはずです。それに、"
鼻でもならしそうな勢いだった。押しつけられるように握らされる。
「アウターワールド内でも同型の銃が取り扱えるように、テクスチャーやドライバデータを"マルチロール"にインストールしてあります。これで安定して、ほとんどのゲームでその銃があつかえるはずです」
渡されたホルスターを渋々と腰に巻くと、麻戸はコーディの手首にも針を刺していた。小さなガラスケースが頭についた針だ。彼女の細い手首に浮かんだ青白い静脈に突き刺すと、ガラスケースも
顔を上げると、クロセに鋭い瞳を差し向けた。
「正直に述べさせてもらえば、これは私のわがままに過ぎません。あなたの思いを利用して、危険な違法行為に荷担させようとしています」
麻戸はどこまでも
「……知るかよ、そんなの」
クロセはわずかに顎を引いて、開かないまぶたを震わせるコーディを見つめた。
死のうが生きようが
危険だろうが違法だろうが
もはやそんなもの、何の関係もない。
「やってやる」
■ ■ ■ ■
祖父の部屋が黒い物質に覆われていたのを見て、屋敷を飛び出してから大分経つが、人っこひとりみあたらない。コーディはもちろん、人気のある住宅街だというのに、子供も大人も、誰も見あたらない。
この街は空っぽだ。
小高い丘の上にあった屋敷から、クロセは坂を駆けおりる。眼下には、碁盤目状に広がる、古くさい町並みがあった。ぼろついた
「人間の生きている町」、だったか。
町並みの向こうに見える、背の高いビル達や、観光客向けのタワー。遠くに見える都会な街並みに比べれば、この町の姿は当てつけのように
「どこ探せばいいんだよ……!」
垣根や空き地、壁の向こうから時々見える家並みの間を駆け抜けながら、クロセは毒づいた。
ふいに思い立つ。
「"マルチロール"」
呼びかけると腕時計はオレンジの光を放ってウィンドウを表示した。ウィンドウを操作して周辺マップを表示すると、あたりの様子が
「……やっぱり、この街の分しか表示されてない」
街の外側を表示しようとすると、祖父の部屋で見たときと同じく"NO ENTRY"と表示される。
これで全体像はつかめたわけだ。
「……コーディはこんな所でなにしてんだ!」
この街に何か思い入れがあるとは思えなかった。彼女と過ごした時間は、いつも少し遠くの街へ足を運んでいた。指定第九地区の繁華街や病院、あとは夜にせいぜいランニングで、街の様子などほとんど目に入らなかったはずだ。
彼女はどこに?
あてもなく、必死に駆けていると、夕刻の空の空っぽさが妙に気になった。雲一つない。
昼でも夜でもない、どっちつかずな時間帯--この時間は苦手だ。妙に胸がざわつく。
通りをいくつか抜けると、かろうじて繁華街と呼べそうな路地に出た。
大型のショッピングモールが身を寄せ合う、いかにも
おそろしく小さな頃に、祖父がここに連れてきてくれた気がする。数少ない外に出た記憶だが、子供が来てもつまらない場所だったのは間違いない。ほとんど印象にない。
もちろん、ここにも人はいなかった。街の人間を丸めて飲み込んでしまいそうな大型駐車場が空っぽなのは、薄気味悪かった。誰もいない街に向けて、屋上から大きな垂れ幕がかかっている。
"あなたの想いが、国家の名誉。ひとりひとりが日本代表
ー東京オリンピックを応援しようー"
「---- "東京" オリンピック?」
足を止めた。垂れ幕の文字を見つめる。
東京オリンピックだって?
ひきこもりだったのだ。
「ちょっと待て……!」
周囲の光景が、ぐるぐると目まぐるしく駆けめぐって見えた。
足下が崩れ落ちたような、めまいがする。 息を殺していた人気のない街が、ぞわっと総毛立ったように思えた。感づかれた獲物に、襲いかかる獣のように。
目を覚ましてからずっとへばりついていた、"違和感"。
屋敷の中の異様な静寂、空っぽの空、妙にざわつく夕刻、嘘くさいほど
「"オリンピックの開催地" を教えてくれ」
マルチロールの音声認識に尋ねると、答えはすぐにウィンドウで表示された。
一番近いのは2076年開催の『エチオピアオリンピック』。さらにページを弾いていくと、あった。
"A.C. 2068 東京オリンピック"
「2068年----」
違和感の答え合わせが、カードめくりのように頭の中でひらめく。
『異様な静寂』--いつも騒々しい
『空っぽの空』--空をうめつくす企業PRの
『妙にざわつく夕刻』--太陽の位置が傾いたまま動かず、ずっと"夕方のまま"だから。
『嘘くさいほど
そして、『20”68”年 東京オリンピック』----
「この
背後から子供の笑い声
はっとして振り返ると、路地裏に駆け込んでいく人影が見えた。小学生くらいの、小さな子供の背中。
何か----何か、"黒い影"に手を引かれていた。
「ちょ--おい待て!」
慌てて子供の背中が消えた路地へ駆け込む。しかしそこには誰の姿もなく、ただ雑多な住宅街の裏通りが伸びているだけだった。路地の奥へと駆け込んだ。ふいに、また子供笑い声。はっとして振り返ると、わき道の向こうで、地面にしゃがみ込んで遊んでいる少年の姿が見えた。すぐさま引き返して通路を曲がると、少年は急に手をのばし、引きずられるようにして路地を駆け、曲がり角の向こうへ消える。
「……どこにいんだよ!? 」
曲がり角を抜けると、そこには誰もいない。
しかし、再び聞こえる笑い声。T字路を曲がる少年の背中が見えた。
今度ははっきりわかった。
「(あれは、"俺"か……!?)」
「(10年前の)」
「(小学一年生の、"俺"----!?)」
同じようなことを何度も繰り返した。見かけたと思えば姿を消し、からかうように再び立ち上る笑い声に振り返り、後を追う--その間にも、時計の針は一分一秒と、タイムリミットに近づいていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を切らし、ようやくたどり着いたのは、ずっと昔、記憶の奥底でかすんでいた、クリーム色の校舎だった。 校門に手をついた。ガスマスクの下、荒い息をつく。
スライド式の門扉には、ちょうど、小さな子供がひとり分通れるくらいの、隙間があった。グラウンドに脚を踏み入れる。
そこには、小さな少年と、少女の姿があった。
跳ねるような、はしゃぐ声がした。
グラウンドの土をいじる少年の前で、ちょっと年上のお姉さんのように、小さくて真っ黒な人影が、しゃがみこんでいる。異様なことに、彼女の体からはもやのような黒い影が立ち上っている。
花のように後頭部へ結い上げた髪。
陶器のように、白い肌。
丸顔だがすっきりした顎のラインで、薄い唇が楽しそうに口元で踊る。
終わらない夕刻の、冷たい
飛び立つ前の
彼女のはいたキュロットスカートが、あばれるようにゆれて、
「なにしてんだよ」
クロセはグラウンドに足を踏み入れる。ブーツに踏みしめられて、乾いた砂が、
「なにしてんだよ……!」
声にはその熱がこもり、
「なにやってんだよ----コーディッ!」
一瞬視界に砂嵐が走った。
いぶかしく思うような間断もなく、視界いっぱいに、漆黒の暗闇が降り注いだ。
あともう数歩で、コーディにたどり着くという瞬間、それを
炭のようなレギンスに
鈍痛が脳を
「あ、が……ッ!」
視界がちかちかと白と黒に明滅する。衝撃で血のにじんだ眼球が、赤く視界の
「お会いできてうれしいです--"
むせかえる程甘ったるい、ささやき声。
見上げた夕刻の空に、黒い
真っ黒なコート、真っ黒なキュロットスカート、真っ黒な編み上げブーツに、真っ黒な、ガキくさいツインテールの髪。
「ぐ……お、前……!」
薄い唇は心底おかしそうにゆがめられ、場違いなほど明るいパステルカラーに変色した瞳が、まばたきの度に星でも飛び出してきそうな
その顔。そう、たった今見たばかりの、顔。
ここ三週間、ベッドの中で閉じられたその目が再び開くのを願い続けた、その瞳。
そして麻戸と共に見下ろした、まぶたを震わせた"彼女"の姿----
「"
狂暴な笑みを浮かべて、
■ ■ ■ ■
宙に浮かぶコーディ……コーディ?……が視線だけを後ろにやった。
髪を花のように結い上げた"もう一人のコーディ"が、幼いクロセをあやす手を止め、何かに感づいたように顔をあげた。さっと小さな手を引くと、校舎の向こうへ駆けていく。
「おい待て!」
「あなたの方こそ」
宙に浮いて立ちはだかる"コーディ"が、ばっとコートをはためかせた。
舞い踊る黒いコートの陰に隠れて、幼い自分とその手を引く"彼女"は姿を消す。
「せっかく再会できたのですから、ゆっくりお話でもしませんか? わたし、
眼前に浮かんだ、ツインテールの"コーディ"が手をかざすと、青白く四角い光がその手に収束した。手のひらに現れたのは、ピンクの花柄があしらわれた小さなティーカップだった。
クロセの眼前にも同じ物が現れ、ゆっくりと回転する。
黒皮のグローブが、ティーカップを弾き飛ばした。陶器が砕ける甲高い音が、響きわたる。
「お前は誰だ」
腰裏の拳銃を素早く引き抜くと、スライドが揺れてかちゃりと音を立てた。銃口を向けられた"ツインテールの"コーディは、しかし笑みを浮かべたままだった。
マーブル色の華やかな色に覆われた瞳が、胸の高鳴りのように明滅する。
「私を忘れてしまったんですか?」
クロセの返事は、拳銃の撃鉄をあげる音だった。
くすくすと、鈴なりのような笑い声。コーディは目をらんらんと輝かせて、口元だけで抑えきれない笑いを漏らす。
「わたしは"私"。
薄く桜色に色づく唇。精巧な作り物めいた、柔らかな氷のような頬。それに、くるくると変わるアーモンド型の大きな瞳。華奢な体も、なにもかも、確かに彼女は"彼女"だった。
だが、その顔に浮かぶ、機械じみた笑み。パステルカラーに変色した、異様に明るい瞳の輝き。
「お前は、俺の知ってるコーディなんかじゃない」
「あなたは"私"のなにを知っているんです?」
コーディの艶々とした唇が、カップに口づけられる。
「私の幼い頃を知っていますか? 私があなたを愛していることは? 私が目覚めた時に感じる恐怖は?」
なに、言ってる……クロセが歯噛みしてつぶやいた言葉に、彼女は
「--幼いあなたの手を引いていた、"
荒い息の声が、遠くに聞こえた。耳元で誰かがいると思った。違った。荒々しく肩を上下させていたのは、自分のものだった。
「なんにも覚えていない。なんにも知らない」
コーディがふっと瞳を閉じ、そして開いたとき--その瞳の色は、最初からそうであったかのように、再び
「好き。それでも、大好きです!
にっこりとほほえんだその顔は、クロセがこれまで一度も見たことがない笑顔だった。大きな目をさらに大きく見せていた長いまつげが、今は山なりに、とびきりの笑みを浮かべている。
この、顔。
麻戸に返したはずの、ロケットの中でほほえむ少女の顔に、
泥のような"予感"が、クロセの胸の中で渦巻いた。プログラムが出力したような完璧な笑顔に、声をこし出した。
「お前、まさか……」
コーディの笑顔が、ゆっくりと
再びその目が押し開かれる。
完全に開ききらない瞳は、老齢の女が浮かべるような、なにもかも見透かした、悪魔じみた輝きをたたえていた。
「
だから、と彼女はソプラノの歌うような音色で、ささやいた。
「言ってるじゃないですか。私は、"
クロセの腕から、ビープ
腕時計がオレンジのウィンドウを立ち上げ、無機質な真っ赤な文字列を描き出す。
"
「あぁ……やっと"日暮れ"がやってきたようです」
つい、と空を見上げて、コーディがつぶやいた。風にただようような声の先には、オレンジに輝いていた夕日が、西の空に半分埋まっていた。
あたりに陰影を刻んでいた輝きは失われ、夕暮れの群青が微かに闇の
「
彼女が寂しそうにそう言ったが、その顔はわざとらしいほどに"悲しそう"だった。
「……コーディ。このままだと俺たちは
悪い冗談だと思いたかった。じりじりと過ぎゆく時間は、命を削っているも同然なのだ。このままでは二人とも永遠の眠りにつくことになる。文字通り、"永遠の眠り"に。
「虚無? ……あぁ、"ベッド"のこと」
彼女の返事は、つまらなさそうな顔と、呆れたような声音だった。
「ベッド?」
「夜になったら帰る場所。あたたかくて、安心できて、ゆっくりと好きなだけ、"眠っていられる"場所」
知らないんですか? と彼女は吹き出しそうな顔で言った。口元に、曲線を描く手を当てる。
「誰だってそこに帰るじゃないですか。 あたたかな"ベッド"にもぐり込めば、日々の疲れも、いやな現実も、全てから解放される。夜は解放の時間。暗闇は帰るべき場所。その人がその人であることを唯一、確信できる場所でしょう?」
偉そうに「レクチャーしてやる」と言わんばかりに言葉を吐き連ねるのはいかにもコーディらしかった。
だがそのただような口調、虚空を揺らぐ瞳、喜びをあけっぴろに分け与えようという、にこやかな態度は、どれも見覚えがなく、記憶の中の彼女とは一つも合致しない。
代わりに、一つの確信だけが、口をついた。
「コーディを夢の世界へ"引きずりもどしてる"のは、お前か!?」
コーディ……いや、
"レーネ"は、見るからに笑顔の形を変えた。
「どうしてしまったんでしょうか?
なにもかもを見抜いている
わずかに
「眠くなったらベッドに帰るのは当然のこと。でも一人で寝るのは忍びないですから」
握りしめた
「いっしょに眠りましょう。 わたしと、いっしょに!
「いい加減にしろッ!」
クロセの喉元は、引き絞られた筋肉のすじが浮かび上がっていた。
「その顔で言う戯れ言はもうたくさんだッ! コーディを現実に返してもらう! そんなに眠りたいなら、俺があの世に送ってやるッ!!」
「ああ……! どうぞ!」
彼女は両腕を広げたまま、それがまさに喜びの極みだとばかりに、跳ねるような声で言った。
「わたし を撃つのも、抱きしめて眠るのも、同じ事。殺すのは簡単。このゲームにおける わたし の"ライフポイント"は1。
彼女が足を踏み出す。
「
銃口が、震える。
こいつ、コーディじゃない。
だが、完全に別物でもない。
コーディなのか。いや、自分の知ってるコーディじゃない。ではコーディではないのか。少なくとも見た目は同じだ。いや、
それは、そう--遺伝子の問題ではなく、魂の問題なのだ。
「"私達"と眠りましょう? いっしょに、ね? 『私』を守るというのなら、ここより最適の場所はないんですよ? 美しい記憶に包まれた、穏やかなこの街。幼いあなたの手を引きながら、
深緑の空気をいっぱいに吸い込むように、彼女は大きく手を広げた。
「この世界は
何度も出てくる「私」と「わたし」。支離滅裂で混乱する。
彼女を倒せば、この世界は消え、コーディは
「でたらめ言うな!」
「…………」
しかし銃口を向けられた彼女の反応は、演じているものとは違う、真に喜びを感じている笑顔だった。
彼女はいったい何者なのか。門番とはなんなのか。なぜ彼女はここにいて、コーディはここで何をしているのか。
疑念だらけだった。だが、これだけはわかる。
まちがいなく、コーディをこの世界に閉じこめているのは"
口の中に錆の味がして、クロセはマスクのゴムを持ち上げた。
口腔にたまっていたつばごと、血を吐き捨てる。
「お前を、
飛び立つときを待っていた
レーネのコートは風を切ってたなびき、暴れ狂うツインテールは彼女のマーブルカラーの瞳を何度もかすめて、
「それはとっても残念です」
真っ黒なスーツに包まれた、
よくくびれた腰の裏に、
「あなたを
薄い唇がささやく。
腰裏から引き抜かれた
電磁警棒だ。腕の長さほどもありそうな鉄の棒。先端に突き出た二つの電極から、電光がはじける。
目を細めたクロセの前で、彼女は警棒に薄い唇を口付けた。
そして、これまで一度も、誰にも見せたことがないようなとびきりの笑顔で
「ブチ殺してあげますね」
その瞬間、クロセの視界は「跳ね上がった」。
今まで確かに踏みしめていた地面が、突然ブーツの裏を突き上げ、クロセの重心を空に放ったのだ。
つんのめった体が、無力に宙を舞う。暴力的な浮遊感が全身をつかみあげ、ついさっきまで立っていた地面が急激に遠ざかる。
逆転した視界で、レーネが手元に浮かんだウィンドウに手を突っ込んでいるのが見えた。数字を操作している。地面の
一瞬で小さくなったグラウンドは、しかしすぐにこちらへ迫って返す。突き上げられるように吹き飛ばされたクロセの体は、
受身もとれずに、地面に叩きつけられる。鋭い
「ぐッーー!」
すさまじい炸裂音。茶色い砂が爆煙のように巻き上がった。
瞬間、うめいた。ショックを与えて無力化させるような威力ではない。完全に殺す気の電圧が込められている。
一気に脳が沸騰し、闘争本能が獣のような咆哮を上げる。
すぐさま関節を曲げて固めた肘を、地面に突き刺さったままの電磁警棒に横からたたきつける。警棒が弾かれる。ばちばちと先端から火花をあげて、跳ね上がった。
その隙をつく。
肘打ちの勢いを利用して素早く身を転がして立ち上がる。コートが尾を引くように夕暮れのオレンジを黒く切り裂く。弾かれた警棒をかかげたままのレーネの顔。隙だらけだった。回転の勢いを一気に反転させ、クロセは
「もうお休みですか?」
迫る拳に、レーネは眉ひとつ動かさず、どころか、微笑みすら浮かべていた。
クロセの拳は、すんでのところで止まった。
ガスマスク越しの目が、ぶるぶると震えていた。灼けるような闘争心と、理性に、引き裂かれんばかりに。
彼女を殴れば、レーネは『死ぬ』かもしれない。
そうなったら、コーディは?
レーネの動きは素早かった。
「ッ!?」
何かを判断する時間はなかった。腹につきこまれた警棒の痛みに、呻くこともできない。
「ーーーーがあああああああああああ‼︎‼︎」
次の瞬間、視界は閃光につつまれた。
青い衝撃が、のたくる龍のように暴れ狂った。全身の筋肉が一斉に強張り、凄まじい力が骨格にのしかかる。
クロセの脇腹に突き立てられた電磁警棒。辺りに撒き散らされる青白い閃光に、レーネの愛情まみれの
「"兵は
鼻歌をささやくようなレーネの声は、クロセの咆哮にかき消される。
「がああ! ーーーーあああああああああああああ!!!!」
真っ白と暗闇に明滅する世界。
振り下ろした手刀は、突き立てられた警棒をなぎ払った。押し寄せる電撃の濁流を断ち切ると、返しざまにレーネの側頭を狙った。
「ーーーーいつも私を驚かせてくれますね」
ほんのわずかな
彼女の身体は質量と重力を忘れたように宙を滑り、クロセから距離を取った。
「おかしいですね、この電圧で生きてるなんて……」
うすい唇に細い指をやって、彼女はいぶかしげに小首をかしげた。紅茶にミルクをいれるべきかしら、とでも言っているかのような、優雅でかわいらしい仕草。それから、「あぁ」とぱっと笑顔になり、
「
真っ黒なコートが、そよ風に
「今度は確実に殺さなきゃ」
電磁警棒を握りしめる彼女の手に、ぎちぎちと音を立てて力がこもる。めいっぱいに圧縮された水蒸気が吹き出すような音が響きわたる。電磁警棒の先端から、青を通り越して真っ白になった極太の光が、地面にアーク放電を放った。
「あ、が……ッ!」
クロセのコートはあちこちが裂け、肉が焼けるにおいが裂け目から立ち上っていた。
筋肉を間接から引きはがすような電流の衝撃は、全身をぶるぶると震えあがらせていた。痺れ上がった腕をなんとか持ち上げて両手を見ると、意志に逆らって踊り狂うように痙攣していた。
グローブの指先に大きな穴があいている。電流が駆け抜けていったとおぼしき、その穴からは、炭化した指の先が見えた。骨の
「あ゛あ゛、あ゛あ゛あ゛……ッ!!」
やられる
理性も体も衝撃に震え上がっていたが、闘争本能だけはかみしめた奥歯の間に残っていた。正面からやりあったら、やられる。だが同時に、彼女を倒せば、永遠の眠りが待っている。
レーネから距離を取れ。
倒すべき敵は、彼女じゃない。彼女は倒せない。
倒すべき、ほんとうの、敵は----
「……あら、どちらへ行かれるんです?」
じりじりと後退し、彼女の間合いから離れゆくクロセに、レーネはにこやかに笑いかけた。
「傷ついちゃいます……嫌いになっちゃったんですか?」
ゆっくりと歩み寄ってくる彼女に、クロセは憎しみすら込めた眼を差し向ける。彼女が近づいてくるより前に、飛び込まれる間合いから離れる。
身をひるがえして、駆けだした。
レーネが大きく、腕を振るう。
大気をかきまぜるようなその動き。校門を飛び出したクロセの足下がぐらつく。
めりめりと音を立てて視界の景色が歪んでいく。
平衡感覚が狂い、確かだったはずの足元がずるずると動き出す。理解できなかった。だがそれは今、目の前で、足下で、起きている。古くさい街並みが、粘土をねじるように地面ごと回転を始める。垣根はへし曲がり、家は見る見るうちに滑り、上空へと移動していく。
世界が「回転」しはじめた。
どんどん斜めに引きずりあげられていく地面。足下をすくわれたクロセは、思わず手近にあった校門の門扉につかまった。
ねじれ上がっていく世界。上空が地上へ、地上が上空へ。さっきまで見上げていた空には灰色のコンクリートが敷き詰められ、人気のない家屋が空から生えている。気が狂ったとしか思えない。イカレた世界、イカレた光景。
天地逆転したのはクロセの足下も同じだった。門扉をつかんでいた体はぐるりと回転し、宙へとあっという間に持ち上げられた。重力だけが、取り残されたように上から下へと物体を引き寄せている。宙ぶらりんとなった足下を見ると、漆黒が迫りつつある夕方の、あざやかな空が口をあけていた。
「さぁ、飛び込んできてください!」
レーネが立つグラウンドは、何事もなかったかのように、地上は地上に、空は空にあった。グラウンドの土を踏みしめて、レーネはパステルピンクの眼を輝かせる。
「抱きしめさせて!」
両腕を広げる彼女だったが、その腕にはしっかりと閃光
「魔法使いかよアイツは……ッ! うわっ!?」
毒づきは思わず飛び出した悲鳴に変わった。両腕でしがみついていたスライド式の門扉が、重力に引き寄せられ、タガがはずれたように滑り出したのだ。
ガキン、と金具がはずれて、足下の空へと門扉は
ますますうれしそうに、レーネの瞳は輝いた。
空からふってくる星でも抱きとめようとしているかのようだ。
「(落ちたらやられる--ッ!)」
それはまず間違いない真実だった。とっさに武器を探して腰の裏に手をやると、取り落としたはずの拳銃があった。麻戸の言う「安定して使える」とはこういう意味か。しかし引き抜こうとしたところ、はた、と動きを止める。
彼女を殺してどうする。結果は彼女の言うとおり、
クロセはとっさに拳銃から手を離した。代わりにベストに目をやり、
「やったぁ!」
彼女は降り注ぐ
「いっしょに
爆轟が炸裂した。
真っ白な閃光が彼女を染め上げ、辺り一帯を閃光で塗り替えていく。
「…………」
そして光が収束したとき、そこに立っていたのは冷たい目をしたレーネだけだった。
つまらなそうに唇をとがらせて見上げると、校門にぶら下がっていたはずのクロセの姿はどこにもない。
「非致死性の
彼女の頬をかすめるように、パステルブルーのウィンドウが立ち上がった。左から右へと伸びた緑のライフバーは、まだめいっぱい「1」のライフを残している。
垣根と垣根の間を駆け抜ける、イジェクターの黒い影。
荒い息の合間に、周囲の古くさい光景が濁流のように流れていく。全身が気だるい。体が内部から破壊されたせいなのか、意識が消え失せそうになっているのか。手足が動くのが不思議なくらいだった。
「(コーディはどこに行ったんだ……!)」
レーネの言っていたことは全く支離滅裂で理解などできるはずがなかった。とにかくわかったのは二つだけ。ここはコーディが作り出した世界で、レーネはこの世界を守る門番。この世界に危機が訪れたとき、レーネはコーディを
鍵になるのはコーディだ。
「(レーネは倒せない……追い払う手段を考えないと)」
ベストにくくりつけられた非致死性の
『
突然、
「 なんだよこれ……!?」
マルチロールを掲げてウィンドウを見ると、『【
『 "コッペリアのワルツ"をお楽しみいただき、ありがとうございます。本時間軸より、新たな規約が追加されましたので、ご報告します。
以下のアイテムの使用を制限します。
・非致死性の武器
ほかのご利用者の迷惑とならないよう、引き続きゲームをお楽しみください。』
「ふざけんなよ!」
慌てて装備を確認する。ベストに結びつけられていた手榴弾やスタンガンに触れると『規約違反』の赤いウィンドウが浮かぶ。触れることすらできない。
対して、肩口に装着してあるナイフや、腰裏の拳銃はまだつかむことができる。
銃口を向けたときの、
「くっそ……」
『自分を殺せ』と言うことか。
このままでは実際に、彼女の思い通りになってしまう。
頼れるのは拳か、
コーディを見つけるしかない。
さらに駆ける足を速めた。夕刻の街には宵闇がかかり始めている。時間はほとんど残されていない。迷っている暇はなかった。だが、数歩進んだところで、ふいに辺りからメキメキと太い木材がへし折られるような音が響きわたった。
「おいおい嘘だろ……!」
垣根の向こうで立ち並んでいた住宅が、巨人につかみあげられるように、ゆっくりと傾き始めていた。いや、それはその家だけではない。周囲の家という家が、吸い上げられるように地面を離れていく。
歪んだ窓枠で弾け飛ぶガラス、大黒柱がコンクリの土台からひきはがされる破砕音、家だけではない。空き地に転がっていた廃車や、ガードレールに結びつけられてあった自転車、建設会社においてあった赤い鉄骨や、しまいにはクレーン車や電波塔に至るまで、木や鉄の破片の渦と共に、宙に浮かび上がる。
地面を踏みしめていた感覚が、なくなる。
「うわッ!」
吸い上げられるように周囲一帯の建造物は浮かび上がり、黒瀬の体もまた、巻き上がる家屋や破片と共に宙へ持ち上げられる。直後、すさまじい早さで空へと向けて『落下』した。上空五メートルの所に悲鳴を残し、彼とあらゆる質量を持った物体が天高くへと吸い込まれていく。あっというまに小さくなっていく地上の姿。歯抜けのようになった街。ずっと遠くに思えていた都会もミニチュアのようになって見えた。
直後、反転。
急転直下、宙に浮いていたあらゆる物が地上へと投げ落とされる。おもちゃのように小さくなっていた街が、突如実体を持って迫ってくる。つかむところを探して振り回した手足は、むなしく宙をかく。
「----がッは!?」
急速に迫る地上になすすべもなくたたきつけられた。目下にあった車や家の残骸が、あっという間に破片の山となっていく。クロセはその頂点へとたたき落とされ、廃材に全身を切り裂かれ、視界は土煙でいっぱいになった。
周囲で、家屋や巨大なコンクリートが砕け散るすさまじい音が連なる。
響きわたる衝撃で、廃墟の山が揺れた。
一瞬途切れていた意識を、意志の力でひきずりもどす。
眠ったら、死ぬ。
生きている理由が全くわからない。廃材の山に頂点から落ちたのが功を奏し、衝撃が幾ばくかでも和らげられたか。それでも体のあちこちで骨が折れている感覚があったし、裂けた手足からは血しぶきがこぼれる。これがゲームであることが生きている理由の一端のようにも思えたが、受ける衝撃と痛みだけは本物だった。
「あ゛ぁ--あ゛ぁ゛……!」
もはや呼吸なのかうめきなのか。何とか廃材の『海』から這い出る。すぐ脇に、空から落ちてきた鉄のコンテナが突き刺さって、粉塵が巻き上がった。
煙を泳ぐようにかいて、息継ぎをするように見上げると、信じられない物が目前にまで迫っていた。
倒壊した巨大なビルの影が、のっそりと、ガスマスクのレンズに影を落としている。無数に並ぶガラス窓に、呆然と見上げる自分の姿が映っていた。レンズの奥で、目が、愕然と震えている。
まちがいない
「ぅあああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛------ッ!!!!」
迫り来るビルの影に向けて、クロセは引き抜いた拳銃を撃った。衝撃が手のひらを撃ち、閃光が視界を焼く。これはゲームだ。震え出しそうになる体に言い聞かせた。これは、ゲームなんだ! 着弾したビルの窓が粉砕されるのを見て、クロセはその中へと目を凝らす。
膨大な粉塵をまきあげて、横倒しになったビル。
すっかり空っぽになった夕刻の空で、蝙蝠のような黒い影が浮いている。じっと崩れたビルを見下ろすマーブルの瞳。くずれたビルの姿が映っている。彼女は宙でくるりと身をひるがえす。宵闇へと姿を消そうとしたそのとき、その目がふいに、一点でとまる。
窓を叩き割って出てくる、人影が見えた。
これまで一度だって神様の存在など信じたことはないが、今回こそいい機会かもしれない。
手足がバラバラにならず、まだ動いていること自体、奇跡と言わずしてなんと言う?
「ぶっは--クソッ、あぁ……クソっ!」
落ちてきたコンテナに転がり込んだのは悪くない判断だったが、それは迫り来る弾丸にとっさに手を突き出すような行為に過ぎない。ほんのわずかでも生き残る可能性に飛びついただけ。
コンテナは紙切れでできていたみたいにへしゃげ、風に転がるように転がった。なんども全身は打ち付けられ、胸骨はいくつか折れたようだが、肺を切り裂くような痛みさえ別にすれば、感涙でむせび泣いてもいいくらいの結果だろう。
まだ、生きている。
空からの光を漏らす窓を、叩き割る。暗闇の中に、ガラスの破片がきらきらと舞い落ちていく。上半身は何とか出したが変形した窓がベルトに引っかかってうまく抜けない。
「いーじぇくたっ」
歌うようなソプラノの声。はっとして振り返ると、目をパステルブルーにしたレーネが、底の知れない微かな笑みをうかべて、こちらをのぞき込んでいた。
視界が、しゃがみ込む彼女の姿で覆われる。しゃがんだスカートの裾からのぞくみずみずしい脚には、電磁警棒がベルトで結びつけられている。
空気がごぅっと、ものすごい音を立て始めた気がした。
脳裏に危険信号が走り、視界が動揺で揺れた。慌てて這い出ようとするが、彼女は細い指でクロセの顔をひっつかみ、
がぽ、と清涼な空気にさらされる。
顔にへばりついた血が、ひどく冷たく感じた。冷や汗が溶かした血が、目の端を伝って落ちていく。そして彼女はいきなり顔を寄せたと思うと、唇を押し込んできた。
感触はほとんどなかった。
ただ、彼女の中を流れる鼓動が、熱となって伝わってくる。
甘い感触が歯の間を滑り、舌先で口の中をなで回した。執拗なほどに、頬の内側を、舌の裏を、奥歯のさらに奥まで、彼女の舌の味がわかるくらい、口腔をめちゃくちゃに舐め回される。怖気が走るほど、そのぬるりとした感触には"感情"がこもっていた。興奮と、
「----やめろっ!」
何とか動く腕で、彼女の華奢な肩を乱暴におしやる。
ちゅぽ、とようやく離れた唇。クロセは真っ赤になった顔で
「おま、おま……このイカレ女! なにすんだよこの--」
「
彼女は白い頬を上気させ、暑くなった吐息を吐きかける。唇から垂れた液体を、人差し指でなでとった。
瞳のマーブルの光が、興奮でぐるぐると
「逆も同じかな、って」
「逆?」
レーネはゆっくりと立ち上がると、小首を傾げて微笑みを残し、そこを
彼女の背後から現れたのは、目前まで迫った巨大な旅客機の先端だった。
エンジンの爆音を
巨大な鉄の塊に押し込まれた大気が、ものすごい圧力となって顔面にぶつかる。思い出したかのように、轟音が
「
風ががなり立てる音に混じって、しかし
「----私の、顔です」
夕日に背を向けた彼女の姿は真っ黒だった。ただ、紫色の瞳だけがぎらぎらと輝いていた。その光が刃のように細くなると、風に吹かれた灰のように姿を消した。
後には目前まで迫った、旅客機の鼻先だけが残った。
「ふざけんなよ--クソッ!?」
窓枠から、ベルトがはずれた。
なんとか脚を引っこ抜く。
鼓膜を切り裂くような轟音と共に、視界いっぱいにまで広がった旅客機の鼻面。風に吹き飛ばされるように窓から這いずりでると、倒壊したビルの側面を必死に駆けだした。整然とならんだ窓が、空を映し出す湖面のようになっている。
背後から迫る熱風、巨大なエンジンのうなり声、質量を伴った重たい風が背中をたたきつける。蹴つまづきそうになる。ここで倒れたりしたら、つっこんできた鉄の塊に挽き潰されてミンチになる。まちがいなく、死ぬ。
ピシッ----
軍用ブーツのかたい靴底が、踏みしめた窓にクモの巣状の
ブーツの頑丈さが
爆風が背中を殴りつけた。
視界がオレンジに染まり、世界が一瞬、黄昏で時を止めたようだった。
背骨がへし折れたと思った。へし曲げられた脊椎が、みしりと音を立てたのがはっきりと聞こえる。
すさまじい衝撃が背面を一斉に
機体の中程から炎の柱があがり、コートを溶かすほどの熱風がクロセを襲う。
ボールのように地面にたたきつけられ、ダンプカーに轢かれたような勢いでごろごろと転がる。背中や肩がぶつかる度に、窓ガラスがひび割れる音がした。勢いはとまらず、体はビルの側面をすべっていく。
崖のように切り立ったビルの端が、目前に迫る。
へし折れたビルの根本だった。むき出しの鉄骨があちこちに
とっさに腰のベルトに手を伸ばしたのは、あきらめの悪い理性の最後のわるあがきだった。
ベルトにくくってあった
"ひっかけた"という感触はなかった。それを確かめる間もなく、滑った身体が崖の向こうへと吹き飛ばされた。
一瞬の、無音。
重力に支えられて、ようやく地面と平行だった視界が、再び地上にむけて
生存本能が、意志とは関係なく手足を無様にふりまわし--しかしその手は宙をかくだけ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛----ッ!!!!」
ビルから、爆炎の火の粉をまき散らした機体が、宙へと飛び出した。
空を横切る赤黒い炎。
炎の熱と轟音を背にして、クロセは
黒革のグローブが、摩擦の熱で煙をくすぶらせる。
「----はぁ! はぁ! はぁ! はぁ!」
十数メートルもすべり落ちて、それでもようやく、体は宙で止まった。
揺れるザイルにしがみついて、クロセは呼吸とも悲鳴ともつかない息を吐く。
顔を上げた先で、地面に突き刺さった電波塔に旅客機がつっこんで爆発するのが見えた。衝撃波が、粉塵と共に一瞬で駆け抜けていき、遅れてくぐもった爆音が鼓膜を大きく揺らす。
----どうせあなたは、なにも覚えていないんです
脳裏に、ソプラノのあざ笑う声がする。
----あなたは"私"のなにを知っているんです?
----私の幼い頃を知っていますか? 私があなたを愛していることは? 私が目覚めた時に感じる恐怖は?
----幼いあなたの手を引いていた、"
「なにも覚えてない……?」
焼けたグローブにこもっていた力が抜け、身体が宙を舞った。空がどんどん遠ざかっていき、体が重力に吸い込まれていく。
残骸の山に背中から落ち、粉塵が舞い上がる。
意識が、手のひらから滑り落ちそうになる。痛みはとうにこえて、じんじんと脈打つ熱に変わっていた。指一本でも動かす気力はなかった。
宵闇が、天を
星達が、ささやかな光の
ガスマスクのレンズできらきらと
「……いや、覚えてる」
くぐもった声を、
たった、一つだけ。
■ ■ ■ ■
星々のきらめきが、はっきりと見える夜空。
顔をのぞかせたばかりの青白い月の光に照らされて、草原は夜風にさざ波をたてる。
郊外の土地は持ち主もはっきりしないまま、利用方法もなく、忘れられた土地となっている。野良犬や近所の子供たちの格好の遊び場になっているが、ある場所から先は絶対に行ってはいけないと、大人たちからは口を酸っぱくして言い聞かされている。
大人たちは知っているのだ。彼らにとって、そこは危険な想いを駆り立てられる場所。かつて行われた残虐な暴挙を、思い起こさせる場所。
子供たちが足を踏み入れない草原の真ん中には、ぽっかりと巨大な穴があいている。
草原をえぐりとばしたような跡は、今は大人たちしか知らない『極東戦争』で落ちたミサイル
穴の中央で、土をつかんだ幼い少年は、手のひらの中で土塊がバラバラに砕けるのをじっと見つめていた。
しゃがみ込んだ彼の前で、同じようにしゃがみ込んでいる黒い影。
彼女は少年の手を----"左手"を取ると、優しくなでた。コバルトブルーの瞳が、静かな
「やっぱ、ここにいたのか……コーディ」
さざ波の音を立てていた草原を、軍用ブーツの堅い靴底が踏みしめた。
眠るように
「……お前の
ガスマスクのレンズに映る彼女の姿に、クロセは目を細めた。
彼女の黒髪は、
歩み寄ろうと、足を踏み出した。
だが突然、さざ波のように揺れていた草原が一際激しくざわめく。突如吹き荒れた突風に導かれるように、黒い霧がとぐろを巻いて現れ、檻のように少年とコーディを包み込んだ。
クロセはゆっくりと振り返り、剣呑な目を背後に注ぐ。
「……ずぅっと待ってたのに」
顔をうつむかせて、レーネが
「コーディを出せ」
クロセの声は怒声にもならない音量だったが、そこに込められた殺意だけは本物だった。
引き抜いた拳銃の先を、レーネにさし向ける。
「その檻は 、わたし がやったんじゃありませんよ。"
レーネは微笑みを浮かべた。両手を広げ、コートをばさばさと揺らして見せた。
「私を撃つんですか? どうぞ----」
引き金にかけた指に、クロセは力を込めようとした。だが、指は途中まで引き金を引いただけで、動きを止める。
レーネを殺せば----
レーネはため息をついた。優しい微笑みを浮かべながら。意固地になった子供に、
「ここに、飛び込んできたらいいんですよ。やさしく、抱きしめてあげますよ。昔のように」
レーネの視線が、檻の中を見やる。黒い牢の間で、怯える幼いクロセを、コーディが抱きしめているのが見えた。
「
クロセが握りしめる銃口が、かすかに揺れる。
レーネの目に、おだやか だが、底の知れぬ
「どうぞ。
「……いっしょに眠るのか?」
「ええ、そうですよ」
レーネの声音は、甘く、優しく、穏やかだった。
「苦しみはないんだな」
「もちろんです」
「お前の胸に、抱きしめられて」
レーネはますます、その瞳に悦びの光をらんらんと輝かせた。
「ええ!」
歓喜の声が、宵闇にこだまする。
その声に答えるように、
「まな板で寝るなんざごめんだよ」
レーネの笑みがかききえる。
その瞳には、拳銃を持ち上げたクロセの姿が映ってた。
だが、その銃口が自分に向くのを見越して、レーネは壮絶な笑みを再び浮かべてみせた。
これで、この世界は終わり。
銃弾が自分の胸を貫き、血が吹き出し、この世界はかき消え、愛する
それは至上の幸せ。最高の悦び。彼の胸の中で、彼を抱きしめ、彼と共に永遠の時間を----
違った
クロセが握った銃口が、
その手に握られた銃口の先。それにレーネが気づいた時、しかし全ては手遅れだった。
炸裂音が、黄昏の空高くに舞い上がる。
吹き出す閃光が一筋の線を描き、そしてそれは、意思の無い瞳をもちあげた、コーディの胸に飛び込んだーー
----コーディがその胸に抱きしめた、幼いクロセの頭に。
ぱかん、と間の抜けた音と同時に、凄まじい勢いで脳髄と血飛沫が射入口の反対側から飛び出した。電源が切れたように力を失った小さな体が、土塊の中に倒れこみ、あとは群青色の空が、無音で全てを飲み込んだ。
真っ赤な血しぶきにまみれた両手を、コーディは静かに震わせて、じっと見つめていた。
彼女から目を離すと、クロセは一瞬たりとも瞬きしない眼で、レーネを見つめた。
「……うぅ」
彼女はうつむいていた。
わなわなと震える両手を、ギリギリと握りしめて。
「……正体をあらわせよ、クソ野郎」
彼女のうめき声が、ソプラノの響きを失った。少女の声を鈴なりのように漏らしていた口からは、かみしめられた八重歯が牙のようにのぞき、粘ついた液体が口の端から垂れていた。
「うぅ……うう……!」
握りしめた
「お前はコーディを守ってなんかいない」
「うぅうぅうぅ……ううううう………!!」
「
顔をはっきりと上げたレーネは、ヨダレを垂らすほど食いしばった歯をむき出しにして、獣の咆哮をあげた。
人間離れした動きで地面を蹴る。
手にした電磁警棒から雷光を
「コーディ!!」
檻の中でうつむいていた"
一瞬の、まばたき。
「 オーバークロックだッ!!」
彼女が瞳を開いたとき、
コバルトブルーの
それはこの世界で初めて、彼女がクロセの存在を認めた瞬間だった。
濃密な3秒間が、始まる。
クロセの口元が、
憎しみをかみしめるように。
笑みを浮かべるように。
ずっと見上げるばかりだった世界にオーバークロックの手が届いた。
世界の力学運動はその手中にひれ伏し、時の流動は
今まさにクロセの頭へと突き立てようと、レーネの警棒の切っ先がクロセへと向けられる。突き出た二つの電極が、青白い閃光を、のたくる龍の
黄金色の閃光がはじけた。
閃光の青龍に、黄金色の獣が飛びかかったようだった。
獣の弾丸は龍の
「あっ----」
青白い閃光は電極を失い暴れ狂って消え失せる。警棒から
レーネの細い腕は、彼女の懐にもぐりこんだクロセに握られていた。
手首を握りしめられ、肩の間接を完全に手のひらで押さえられ、一気に彼の腰の上に引きずりあげられる。
そして、反転。
視界の光景は濁流のように流れ、最後に彼女の視界を覆ったのは、満天の星が埋め尽くす夜空だった。
あ、と声を漏らした彼女の喉を、分厚い靴底が踏みしめた。喉に残った空気が、苦しげに口から漏れる。
「終わりだ」
夜空の煌めきを背景に、ガスマスクと銃口が、レーネの目をのぞき込んでいた。
ぶるぶると震える赤黒い瞳。彼女は踏みしめられた喉から、それでも炎を吐くように声をあげる。
「わたし が、守るんだ!」
「…………」
「わたし が……わたし が、今まで守ってきたんだ! わたし が、わたし こそが……」
少しもぶれない瞳で空から見下ろすイジェクターに、レーネはかっと瞳を燃やす。
「"
彼女はさんざんぱら、わめき散らした。何度も何度も、支離滅裂な言葉の群をぶつけてくる。
それを冷然と見下ろしている内に、彼女の言っていたことがようやく、クロセにも理解できた気がした。
彼女は"過去の番人"なのだ。
幼い自分の手を引いてくれていたコーディの人格、そのものだ。
自分は長い年月の果てに左手の感覚も失い、彼女の存在を忘れていった。そうして取り残されたコーディは、Playfun!12が普及してにぎやかになっていくネットワークの中で、たった一人だったはずだ。自分のことを知っていてくれる存在、自分の過去を知っていて、その人格を認めてくれる存在。それを失ったのだから。
暗闇の中、発狂しないでいるために、彼女がすがりつけるのはたった一つだけ。----幸せだった、"過去の記憶"だけだ。
現実の濁流に流されないように、何かにつかまっていないと生きていけない人がいる。日和は、自殺した姉の、見えない背中を追いかけていた。自分だってそうだった。もう目覚めない祖父の面影を探し続けるように、屋敷の中にとじこもった。
コーディにとって、ここは唯一しがみつける、幸せな記憶。
ネットワークの中に置き去りにされたコーディの、"過去の幸せな瞬間"--それが、"
「今まで……コーディを守っていてくれて、ありがとう」
こし出すような声になった。得体の知れない、自分を責める言葉が、脳裏にちらついた。お前にそんなことを言う資格はない。
「言う通りだよ、お前のーー『
レーネの瞳の色は変わらない。燃えるような、狂気と怒りの狭間を行き来するような、瞳。ぎらついたその眼が、愛憎と怒りを交えた焼けるような色になっていた。なにを言っても、彼女に言葉が届くとは思えなかった。
「でも俺たちは、未来を生きなきゃいけないんだ」
もうやめておけ、と理性は告げた。
お前は忘れていたんだから。
「居心地の良い世界で眠り続けていても、未来は何も変わらない。俺はもう知ってる。あの暗い部屋の中も、明るい外を歩くのも。辛くても、血反吐を吐いても、俺たちはーー俺とコーディは、未来を生きる」
レーネはうなっていた。うーうーと、唇をかみしめた歯の奥で、涙を流しながら顔を抑えている
「それに俺は、全てを忘れたわけじゃない。今この瞬間のことだって、ずっと死ぬまで覚えてるんだ。ーー黙って見守っていてくれ」
「私はあきらめません--あきらめませんから!」
令音の声は、喉を切り裂いて吐き出す
「 私は、愛しているんだから、あなたを、愛しているんだから!! 私はずっと見てる、ずっとずっとずっと! いつだって『私』を待ってる……だって『私』には、必要なんだから、誰にだって!必要なんだから!! 耐えられないほどの苦痛から、身を守るための、私のような存在が」
長い沈黙を、クロセは残した。
言い返せる言葉もないし、慰めの言葉ももう出てこない。あるのは真実だけだった。
彼女を、殺す。
"
「そうだな。もし……もしまたコーディが傷つく時がきたら。そしたら……」
レーネは顔を
彼女は眉を上げ、不敵な笑みを浮かべている
「ずっと、見ていますからね」
クロセは黙っていた。それから、静かに頷くと、音もなく引き金を引いた。
■ ■ ■ ■ ■
「私にとっては、現実なんです」
コーディは、ぐったりと頭を垂らす幼いクロセを、いつくしむように抱いていた。
穴の開いた頭をなで、まぶたをなで、その眼を安らかに閉ざす。
「みんなが忘れてしまっている過去でも、私にとっては、昨日のことのように感じられる、今なんです」
コーディは永遠の生きた機械になってから、成長もせず、死の可能性も閉ざされていた。
彼女の時は、ずっと止まったままだったのだ。
想像もつかない。彼女は何を思っているのだろう。ずっと、何十年も止めていた針を戻す時、どんな怖れが襲ってくるのか。10年引きこもっていた自分にだって、わかるはずがない。
その恐れこそが、彼女が目を覚まさない本当の理由なのだ。
人形だとわかっていても、幼い頃の自分と手をつないでいたかった。自分を置いて、ずっと未来に行ってしまった現実と向き合う恐れ。現実に追いすがるより、立ち止まって過去を振り返る方が、ずっと楽だ。
「世界はむかしのままじゃない。昔のことなんて、私自身だって忘れてしまってます。ずっと眠ったままだった私を、現実は待っててくれてはいないでしょう。だから」
彼女はそこで言葉を切り、そして続けることはなかった。だから、の先が、今ここにある過去の
クロセはがっくりと、頭を垂れた。
何か言わなきゃいけないのはわかっていた。なにか--慰めの言葉とか。
だけど気力はもう残っていなかった。張りつめていた闘争本能はなりをひそめ、あとに残ったのは、ひどい無気力感だけだった。
「……やっぱり、あの時ここに連れてきたの、コーディだったんだな」
かける言葉を探しても、どこもかしこも言わないほうがいいような言葉しかなかった。だから、とにかく、なんの意味もないような事を言った。強ばっていた体から力が抜けると、気の抜けたような言葉しか出てこなかった。
返事はなかった。
それでも、彼女に話しかけられるだけで、なんとなく嬉しくて、なぜかほっとした。
彼女の隣に座りこむ。立っているのもやっとだったのだ。もうなにも考えたくないし、考えられない。ぼんやりと、辺りをながめる。
「最悪の夜だったな、母さんが泣いてて、俺は布団をかぶってぴーぴー泣いてた。最悪だった。とにかく、いつも通りの夜だったけど、あの日は最悪だった。わけわかんないけど、とにかく、あの夜は」
ぶつぶつと恨み言のような言葉を吐いていると、いままで目を背けていた幼い頃の感情に引き戻された。
それは、左手に宿っていた、最後の記憶だ。
記憶の細い糸をたどると、いつもベッドの中で嗚咽を殺していた自分にたどり着く。母親は我が子の障害を嘆き、父はそれの一切を無視する。夜が来ると、母の泣き声が自分を責めたてる。
カーテンが揺れていたのを覚えている。
あの窓の向こうの、暗闇。
そして
「あの時、家の外に連れ出してくれたのは、コーディだったんだな」
コーディはようやく、顔を上げた。
「覚えてるんですか」
ようやく口を利いた。
何ヶ月ぶりかの会話なのに、妙に拍子抜けした。たくさん言いたいことがあったはずなのに、どの言葉も、何の意味もないものだったように思えた。
くだらない
「……ていうか、あれしか覚えてないんだけど。あの時、なんていうか、生まれて初めて、安心できた気がするんだよな。だから、たぶん、覚えてたんじゃないかな。この手がな」
空を見上げると、一足先に輝いていた金星が、一際大きく輝いていた。
「あのときの星が綺麗だったな……初めてちゃんと見たの、あのときなのかもな、星も」
コーディを見た。彼女も空を、見上げていた。
「あの時、横にいたよな。俺の手、握っててくれてたろ」
「はい」
彼女はずいぶん長い間黙ってから、うなずいた。
そのまま二人は黙っていた。金星が天頂に登り、草原が夜風にさざ波を奏で、群青の空が、眠りに誘うまで。
「このまま眠るなら、俺はそれでもいいよ」
クロセはつぶやいた。二人きりになって、こうして座っていると、本当になにもかも、どうでもよく思えた。生きるのも死ぬのも、起きていようが眠っていようが、ただここで二人がこうして、話をしている。それ以上必要なものなど、この世界にはないのだと思った。
「でも、手はつないでてくれよ」
「…………」
「俺がどれだけ待ってたか、知らないだろ。最悪だったんだぞ、クソ……時計の針を止められてたのは、お前だけじゃないんだ」
ため息混じりの言葉を吐いていると、不意に彼女は立ち上がった。
「帰りましょう」
案外、すんなりと彼女は言った。
その瞳は、いつものエメラルドブルーに輝いていて、光のない宇宙で見つけた銀河のように、音もなく揺れ動き、瞬いていた。
彼女が手を差し出す。
クロセはそれを見上げ、マスクの下で、微かに口角を持ち上げた。
ほとんど、無意識だったが、嬉しかったのだ。……たぶん。
横に並んだ二人のシルエットに、エメラルドブルーの光の輪がかぶる。
コーディの手際はいつものように素早かった。いくつものウィンドウを同時に操作し、あっという間にデータを操作すると、ログアウトの処理を終えた。ウィンドウを閉じた代わりに現れたのは、『EXIT』の文字が作る、光の輪だった。
「一つだけ、条件があります」
「……はぁ?」
「ここを出るための条件です。この条件がのまれない限り、私はやっぱり、ここを出ません」
人質交渉でもしてるかのように冷静な調子に、クロセは呆れた。
こいつ、肝が据わってるというか、なんというか……
「ずっと一緒に、いてくれますか?」
ガスマスクのレンズが、コーディの横顔をうつした。彼女はじっと、正面を見据えたままだった。色濃いまつ毛に縁取られた瞳は、いつも通り冷たいくらい何の感情も浮かべていなかった。
けれど、頬だけはわずかに、色づいていた。
マスクを外す。
「あたりまえだろ」
光の輪が、二人を包み込む。
二人の手は、結ばれたままだ。
世界は暗転し、ゲームの電源は落とされる。
「……さっき何かいってませんでした?」
「なにかって?」
「まな板って」
「…………」
「言ってましたよね?」
「…………」
「言ってました」
「言ってました」
〈了〉
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