二十八:入門へ

 藤間の返答を聞いて榊はほっとした。彼女の言う紐一本で制圧する技術というのが、明白に榊が求めていた――テレビの時代劇で彼が見て学びたいと思った――、霊縄でのナミカゲとの戦い方そのものだったからだ。

「ええと、早縄と本縄の違いって――?」

 どうやら早縄術を受講することによって望む通りのものを習うことが出来そうだと榊は安堵したが、せっかくだからその違いも訊いてみることにした。

「はい。早縄とは捕り方が犯人をその場で取り押さえて拘束するために行うもので、結び目を作らないことをその特徴とします。実践上過程が短く素早く行うことが出来るものですが、暴れる相手を取り押さえる護身術などには最適ですよ。現代の警察でも数手教えています。本縄の方は今は用いられることはありませんが、江戸時代、罪人を正式に縛るもので武士、町人など罪人の身分ごと、また流派ごとに複雑な縛り方がいくつもあり、とても難しいものです。――少々お待ちくださいね」


 藤間は正座の状態から爪先立てて体を起こし、立ち上がると部屋を出て行った。数分後三冊の本を持って部屋に戻ってくる。

「これが祖父の書いた本ですが――」

 また元の位置に座ると、榊に見やすいようにちゃんと上下を揃えて座卓越しに本を差し出して、榊の前に置く。白く、指の長い手だ。今自分の方に伸びてきた彼女の美しい手を目にしたことと、差し出された本の扱いに緊張しながら榊は置かれたうち一番上の本を手に取った。‘捕縄術要解’とあって、著者は藤間杵造、表紙写真にはこちらに背中を向けた白装束の人間が後ろ手に縛られているものが用いられている。時代劇や歴史漫画で見たことがあるが――複雑な縛り方だ。とても自分には真似できそうもない。パラパラ見てみると――200ページほどの本のうち、目次と、文章で捕縄術の歴史や性質について解説された序章は別として、前半四分の一ほどは、紐を持った人間が立ち合って攻撃してくる相手をその場で手に持った紐で取り押さえて拘束する技法が連続写真の形で解説されていた。モノクロ写真だがわかりやすく、これが早縄術のようだ。意外と手数が少なく、縛り方も見たところそれほど複雑でない。これなら理解できるかもしれないと榊は思った。しかしそこから先、本の大部をなす後半部分は全て本縄の縛り方の解説に割かれており、そのあまりに複雑な縛り方の数々はやや段階が飛んだ連続写真では例え文章の解説がついていても容易に理解できるものではなかった。これはナミカゲとの実戦で使えるものでは到底ない。他二冊も見たが、あと一冊は初めに見た本の改訂版、あと一冊は全て本縄について書かれている本だった。


「――捕縄術はなかなか理解していただける方が少ないため、祖父が出せた本もその三冊きりです。祖父は若いころから合気道など各種武術のほか、捕縄術の各流派の方々に教えを受けたそうです。見ての通り、本縄の方は複雑で、私も充分に祖父から教えを受けたわけではなく、ごく一部しか扱えません。それと――」

 藤間は顔を俯けた。やや顔が赤くなり、もじもじと腿の上に重ねた手を動かし、目は座卓の自分のお茶の方を恥ずかしそうに見るともなく見ている。

「――その、――やや特殊な性癖の方がいらっしゃることもあるのですが――、祖父も研究のために少し手を出してみたようですが、伝統的な本縄とはまるで別のものだということで――、そういう目的の入門の方は――」

 今までしっかりした態度を崩さなかった目の前の女性の突然の変わりように榊は一瞬ぽかんとし、彼女の言わんとする事がわかりかねたが、すぐに意図を察した。彼も顔が赤くなる。

「――あ、いえいえ――。俺のはそんなんじゃないですから! ――」

 片手で本を持ち、空いた片方の手を前に突き出し、左右にぶんぶんと振り回した。藤間は胸に手をやってほっと息をつき、

「いえ、その――、天海さんがそうだと言いたいわけではなく――、そういう方がいらっしゃるということで――」


 ようやく落ち着いたのか、元の姿勢に戻り、安心した笑顔を榊に向けた。榊はどぎまぎした。彼の心を溶かす可愛らしい笑顔もだが、この夕下がり、若い高校生の男女二人密室で性に関する恥じらいの気まずい空気を共有したことで、榊の男の心の部分が初めて本格的に目の前の相手を女性として意識するようになったのだ。それまでのしっかりした佇まいと、先の恥じらいの戸惑った様子とのギャップに心が刺激されたのもある。――いや、だめだ。俺はここに捕縄術を習いに来てるんだ。榊は目の前の相手に目立たぬよう、微かにぶんぶんと頭を振って余計なことを追い出そうとした。それにしても比恵といい、こうも立て続けに美しい女性と知り合いになるとは、榊は嬉しい反面、理性は爆発しそうだった。


「それでどうなさいますか? 早縄の捕縄術を習われますか?」

 再び背筋を伸ばしながらも、今度は安心したくつろいだ調子で訊いてきた。口元に穏やかな笑みを浮かべ、明るい眼で榊の方を見やる。

「――あ、はい。もちろんです」

 榊は大急ぎで答えた。先ほどの本の技法を見る限り、これはきわめて実戦的だ。まだ本式に習ってもいないから見当はつかないが、縄の縛り方自体もシンプルで無駄がないのだろう。ナミカゲとの戦いはともかく、世にこのような実践的な護身術がほとんど知れ渡っていないのに榊は驚きもした。そして、正直このような美しい女性から指導を受けることに喜びを感じていたのもある。

「ではしばらくお待ちください――」

 藤間は再びすっと立ち上がると部屋から去り、今度は数枚の書類のような紙とボールペンを持ってきた。

「こちらが入門用紙。こちらにお名前、住所、電話番号などをお書きください。お月謝は五千円ですがよろしいでしょうか? 申し訳ないのですが、捕縄術の方は高校生の学生割引のようなものがなくて――」

「――いえいえ、大丈夫です」

 目の前の本を横にどけて、受け取った紙とペンで記入しようとしながら榊は慌てて答えた。高校生になった榊の小遣いは月一万円だが、毎日登校日は昼食のお弁当を受け取っているし、衣服代や部活の試合などの際の電車賃は小遣いから使っているが、元々無欲な榊は月々の小遣い以上に金を使うことはめったになく、それまで受け取ったお年玉などもほぼ全て貯金で残してきていた。たまに大きな出費といえば自分のためでなく、父母へのプレゼントや妹の禊に何か買ってやるぐらいか。彼女も兄と同じく、ほとんど自分のために金を使うことのない人間だった。他、友人とのファーストフード店などでの外食に使う金に月五千円の道場稽古代を含めれば出費は一万円の糊を越えると思われたが、その場合は貯金を崩せばいい。


「毎月お月謝は月初めに頂いているのですが、今月は後半で二週間ほどですので二千円でよろしいです。次回お持ちください。――あとこちらがスポーツ保険の書類。年額二千円です」

 榊はうなずいた。バスケの部活でもスポーツ保険は入っている。武道にこのようなものがあるのは当然だろう。それより自席から腰を上げて座卓越しに身を乗り出して、頭を榊に近づけて両方の書類にその長い指で記入事項を示している藤間の黒く艶のある髪から漂ういい匂いが榊を何とも言えず魅了した。頭が半ばぼーっとする。

 榊は重要なことに気づいた。

「――すみません、印鑑忘れてきちゃって――」

「構いません。それらの用紙はお持ち帰りください。次回記入して持ってきてくださればいいですから」

 にっこり笑う。身を乗り出してごく近くにある笑顔がまた榊をぼーっとさせるが、その時、前傾姿勢の藤間の上体のワンピースの襟の隙間から覗く胸元がちょうど彼の目線上にあることに気づいた。――さっきまで書類に記入するため俯いていたため気づかなかった。肌白く大きな胸のかすかに揺れる谷間の陰が榊の目を惹きつけるが、ずっと見ていたいという思いと、釘付けになった視線を気付かれてはという思いがせめぎ合って、榊は首をのけぞらせて斜め下に目を向けたまま固まっていた。


「――あ、それと――」

 藤間が身を乗り出したままぽんと両手を軽く叩いた。榊が横にどけた本のうち一冊を選び出して取り(その時横に角度を変えながらも、藤間の胸が一層榊のそばに近づいた)、自席に普通に座り直すとその一冊を両手で榊の方に向かって差し出した。

「こちら先ほども言った通り祖父の書いた本ですけれど、できれば買って頂きたいんです。自己宣伝になるようですが、さっきも言った通り、捕縄術について書いた本はほとんどないので、早縄術について書かれた部分は少ないですが、自習用に最適だと思います。もう絶版本ですので、直接定価の三千円でお譲りいたします」


「あ、はい」

 榊は名残惜しげに、今しがた座卓の向こうに遠ざかり、差し出された本越しに、服に隠されて見えなくなった相手の胸元の方に目をやりながら(残念だという思いと相手に気づかれなくてよかったという両方の気持ちがあった)答えた。目の前の本なら、言われなくても先ほどパラパラ見ただけで興味を持ち、欲しいと思っていた。

「あの、今持ち合わせがないんで今度でいいですか?」

「結構です」


 藤間はこくりと頷いたが、すぐに困り顔になった。

「――しかし困りましたね。せっかくですので入門はしていただくとしても稽古相手がいないのでは――。早縄に限らず、武術は型稽古を伴うのが多いので、師と弟子の二人だけでは技をどのように掛けるものか学べませんし、こちらも横から見てアドバイスが出来ません――」

 長い手の指を顎に当てるが、その白の交わりの上での整った顔を悩ませての、形の良い細い眉を寄せた様でさえ、榊には美しく思えた。


 藤間はしばし考え込んでいたが、ふと思い付いたように目を開くと、「そうだ、あれがいいわね」と一人小声でつぶやいた。

 榊の方に明るい顔で向き直る。

「一人思い当たる方がいるので、その方に当たってみますね。恐らく上手くいくと思います。ご心配なく」

 学校の柔道授業以外で本格的に武道を習うのが初めての榊には、彼女の言う一対一で教える――教わる――困難のほどがどういうものか想像がつかなったが、ただ目の前の美女の悩みから解放されたようなハキハキした調子に頷くばかりだった。


「あと――」

 手の指を顎に当てたまま、視線を横の宙に沿わす。

「――そう、道着はお持ちですか?」

「――あ、中学の柔道で使ったやつがあるんで――」

 榊は答えながら思った。そういえば道着も必要になるのか――。稽古の際は学校から直行せざるを得ないし、すでにバスケットユニフォームなどが入っているスポーツバッグにさらに押し込めないといけない。幸いまだスペースはあるし、何とかなるだろうが、ぎゅうぎゅう詰めになるだろう。他の連中に悟られないように青のポリ袋にでも入れていくか――。そして、洗濯も必要となれば家族――特に母には隠し通しておけない。両親とも榊が好きでやっていると思っているバスケにもっと専念しろなどということは言ったことがないが、捕縄術などというものを習いだすと知ったらどんな顔をするだろうか。子供達に対して鷹揚で好きにさせてくれる両親だから大丈夫だと思うが――。


 決めた以上考えても仕方がなかった。

「大丈夫です」

 榊ははっきりと答えた。知らず知らずに内面の決心が、彼女の方を見る眼の力となって表れていた。藤間はこくりと頷き、

「では」

また立ち上がって部屋から出て行き、リングに通された鍵と大きな封筒を持って戻ってくると、立ったまま封筒を榊に手渡し、

「これに先ほどの用紙を入れてお持ち帰りください。道場をご案内します」

榊が受け取った用紙を封筒に収めてバッグに入れ、慌てて立ち上がると、藤間は先導するようについと身を返して歩き始めた。

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神道捕縄 猫大好き @nekodaisukimyaw

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