第25話 まだ夢の途中



 朝から雨の降る一日だった。街の人々は外出を控え、僕の店はいつもより閑散としていた。


 僕は特にすることもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 この街はよく雨が降る。こんな日は熱めのコーヒーを飲みながら、クッキーでもそばに置いてゆっくりと本を読んだりするのが良い。

 誰もいない店内は驚くほど静かで、雨が屋根や石畳で弾ける音が遠く聞こえた。


 音楽でも流したいな、と考え、僕は昔のことをふと思い出す。


 この店を開いたばかりの頃は、お客さんがひとりも来ない日が多かった。店内はいつも静かで、僕はこうしてぼうっと座っていた。


 あの日もたしか、雨だったっけ――



 φ



 あまりに雨の勢いが強いものだから、僕は店の外に出た。土砂降りの雨は視界を奪うほどで、通りの向こうの店が見えなかった。


 そんな日に外を好んで出歩く人はもちろんいなくて、だから僕の店にお客さんがくるなんてことがあるわけもなかった。店を開いて3か月。経営は順調とは言えない。溜息も重くなりもする。


「くしゅん」


 店の横手の方から可愛らしいくしゃみが聞こえたものだから、僕は驚いた。こんな日に出歩く人がいたなんて。


 傘を持ち出して様子を見に行く。その子は、店の横手に積まれた荷物の隙間に座り込んで、雨宿りをしていた。首筋あたりまでの青い髪も装飾の洒落た白いワンピースも雨に濡れ、両手で体を抱きしめるようにして、じっと地面を見つめていた。


 僕は声をかけるかためらった。その子が、あまりに思いつめた顔だったからだ。なにかひとつ衝撃を与えるだけで、全てが崩れてしまいそうな雰囲気だった。


 口の中でもごもごと言葉を探し、彼女が寒さによって微かに震えているのを見て、僕は自分を罵った。こういう時はいつだって、考えるよりもまず行動するべきなのだ。


「やあ、こんにちは」


 気の利いた言葉はなにも出てこなかった。

 少女はびくりと体を跳ね上げ、僕を見上げた。


「……なんですか」


 警戒した声。けれどその声は震えていたし、弱々しくもあった。


「実はこの店、僕の店なんだ」

「……ここ、お店だったんですね」

「そう、誰も知らない隠れた名店なんだ」

「誰も知らないのに名店なんですか」

「これからそうなる予定なんだ」


 力強く言うと、少女は眉をひそめた。困った顔だった。


「邪魔だったなら、すいません。すぐ、どきます」


 そう言って立ち上がろうとするものだから、僕は少し慌てた。こんな雨の日に、事情のありそうな女の子を、放っておけるか?


「どうせなら店の中に入らない? 熱いコーヒーとクッキーでも」

「コーヒー……?」少女はさらに眉をひそめた。「ごめんなさい。私、お金持ってないから」


 立ち上がった少女に、僕は自分の安っぽいナンパっぷりに苛立っていた。もっとうまく言えたら、どんなに良かっただろう。少なくとも、こんなに冷えた目で見られることもなかっただろう。


 少女は荷物を手に取っていた。自分と壁で挟むようにして、雨からかばっていたらしい。それがあまりに見覚えのある形をしていたものだから、僕は思わず声に出していた。


「ヴァイオリンケース?」


 少女は目を丸くして僕を見た。


「ヴァイオリンを知ってるの?」

「ああ、まあ、うん」

「まだ8挺しかないのに、どうして……」


 どうしてと言われても、むしろこの世界にヴァイオリンがあることの方が驚きだった。


 少女は問いただすように僕を見ているし、まさか異世界から来たんですとは言えないし、僕は面倒になって、店を指さした。


「とりあえず入らない? 濡らしたらまずいでしょ、ヴァイオリン」


 少女はかなり迷っていたが、ようやくうなずいた。


「変なことしたら、怒るから」


 しねえよ。



 φ



 タオルを渡したところでどうにもならない濡れ具合だったものだから、僕は彼女を浴室へ案内した。この喫茶店はもともと、酒場と宿屋を兼ねた建物だった。だから一般家庭よりも設備が整っていて、気軽に熱いシャワーを浴びるという選択肢を採れる。


 浴室を見た彼女が「狭い……」とつぶやいたところを見る限り、どこぞのお嬢様に違いなかった。


 水石による洗濯機に、温石を利用した乾燥機もあるから、服もすぐに乾くだろう。

 彼女が帰ってくるまでに、僕は体の暖まるポトフを煮込んでいた。僕の昨日の夕飯の残りなのだが、煮込み料理は時間を経るごとに美味しくなるのだ。


「あの……」


 浴室へ続く通路の角から、声を掛けられる。振り向くと、少女が顔だけをこちらに出している。


「どうしたの?」

「服……」

「服?」

「使い方が、わからなくて」

「……ああ」


 洗濯機と乾燥機の使い方だろう。簡単なものなのだが、触れたことがなければ分からないのも当然だ。そして、そうなると、つまり。


「えっと、そっちに行っても大丈夫かな?」


 少女はこくりとうなづいて、浴室の方へ戻っていった。僕はゆっくり10数えてから、後を追った。少女は浴室の中に引っ込んでいるようで、僕は一安心。洗濯機の蓋は閉じられているので、服を入れてはいるようだった。


 僕はちょちょいっと操作するだけのお仕事。3分もすれば綺麗になった服が出来上がりだ。


「あの、ごめんなさい」


 後ろから声が聞こえるが、僕は振り向かなかった。なんかほら、気まずいよね。


「大丈夫、分からないものは仕方ないし」

「ありがとう」


 少しの間。


「私、ティセ。あなたは?」

「僕はユウ。よろしく」

「ユウ……不思議な名前ね。どうしてヴァイオリンを知ってるの?」


 僕は言葉に詰まる。どう説明したものか。そして、なぜ服を着ていない女の子と、背中越しに会話をしているのか。頭が痛くなってきた。


「えーっと、前に、一度聞いたことがあるんだ」

「どこで?」

「ちょっと思い出せない、かな。小さいころのことだから」

「ふぅん……?」


 まったく納得していないようだった。かと言って僕にはどうしようもないので、誤魔化すしかなかった。

 

「これ、洗い終わったら乾燥機の中にいれて、この石を押し込んだら動くから」

「わかった。ありがとう」


 教えるだけ教えて、僕はささっと浴室を出た。あー、緊張した。



 φ



 ティセはお腹がすいていたらしく、ポトフを軽々と平らげた。食後にコーヒーとクッキーを出したが、ティセは平然とした顔でコーヒーを飲んでいて、僕は驚いた。


「苦くない?」

「苦い」

「美味しい?」

「美味しくはない……」


 あ、やっぱり美味しくないんだ。


 その反応に安心してしまう僕がいた。この世界でのコーヒーの人気のなさはひどいもので、誰もが好んで飲むものではない。苦味への慣れがないのだろう。苦味の中にあるコクや旨みには、なかなか気づいてもらえない。


「あの」


 ティセが店内を見回して、おずおずと言った。


「ここは、何のお店? 酒場、ではないみたいだけど」

「喫茶店なんだ」

「喫茶店?」

「コーヒーを飲みながら、ゆったりと時間を過ごす場所、かな。簡単な食事や、お菓子なんかもある」


 少し胸を張って言うと、ティセはふぅんと頷いた。


「サロンみたいなものかな」


 ティセが言った。


「サロン?」

「色んな人を呼んで、お茶やお菓子を振る舞いながら会話を楽しむの。お父さんがよくやってる」


 それ、貴族とかがやるやつじゃないですか?

 映画で観たことあるぞ。


「でも」ティセが言う。

「でも?」僕が訊く。

「誰も、いないみたいだけど……?」


 僕はコーヒーを飲み、窓の外を見た。


「隠れた名店なんだ」


 ほんとほんと。まだ誰も知らないだけだって。


「お父さんのサロンだと、いつも音楽が流れてる」

「音楽?」

「ピアノとか、フルートとか。演奏家を呼んだり、楽団員を連れてきたりして」

「それはすごいね」


 かなり規模の大きい話ではあるが、どうやらBGMの役割らしい。CDのひとつもないこの世界、音楽を流すというのはかなり大変だろう。


「このお店にも、必要じゃない?」


 コーヒーの水面を見つめながら、ティセがおずおずと言った。


「あるにこしたことはないけど……演奏家を呼ぶっていうのは、敷居が高いなあ」


 ジュークボックスじゃあるまいし、気軽にワンコインでとはいかないだろう。


「私」


 ティセが僕を見つめている。


「演奏、できる」

「それは、えーっと」


 どういう展開だ?


「ここで、演奏する。お金はいらない。代わりに、ここに居させてほしい」

「住み込みで働きたいってこと、かな?」


 ティセはこくりと頷いた。

 彼女は恐らく、どこかしらのお嬢様だろう。そして家出してきたのだろうと思う。鞄のひとつも持たずに、まさか旅行とは言わないはずだ。


 この土砂降りの雨の中、帰れと言えるわけもなく。家出した少女に説教できるほど偉いわけもなく。どこぞのお嬢様なら、すぐにでも家の方々が探しに来ることは疑うべくもない。


 だから僕は、たいして悩みもせずに頷いていた。

 理由は並べていたけれど、実は単純に寂しかっただけだ。話し相手もなく、一日中ひとりというのは、気が滅入るんだ。


 それにかわいい女の子と同居なんて、断る理由を探す方が難しいだろう?

「よかった」と笑みを浮かべるティセを見て、僕は深くうなずいていた。



 φ



 さて、僕は演奏家としてティセを雇ったわけなのだが、もちろん期待はしていなかった。ヴァイオリンはかなり難しい楽器だと聞いたことがあったし、僕と同年代の女の子が見事な演奏をするとは思っていなかった。精々、練習曲のひとつやふたつ、程度と思っていた。


 ティセの演奏を聴いて、僕はぶったまげた。


 音楽の良し悪しを判断するほど肥えた耳はないけれど、その演奏がすごいかどうかくらいは分かる。彼女の演奏は、間違いなくすごかった。一曲が終わってからしばらく、僕は口を開けて拍手をするだけだった。気安い褒め言葉すら失礼に思えて、すごいとしか言えなかったくらいだ。


 彼女はそれこそ一日中、演奏をしていた。食事と睡眠時間と、あとは演奏と言っても過言ではないくらいだ。よく昼寝はしているけれど。


 朝起きて僕が仕込みと朝食の準備をしていると、寝ぼけ眼のティセが部屋から降りてくる。その手にはもちろんヴァイオリンケースがある。うつらうつらとしながら椅子に座り、よどみのない手つきでヴァイオリンを調整し、演奏を始める。


 顔は寝ているのだが、手の動きはとても滑らかで、体の方は機械式なんじゃないかと疑いたくなるほどだ。


 寝起きの穏やかな演奏に耳を澄ましながら、僕はティセの寝癖を直してやり、一曲を終えると朝食になる。


 食事を終えると、目が覚めたティセの演奏会が始まる。激しい曲、楽しい曲、悲しい曲、演目はその時の気分次第のようだが、どの曲も素晴らしいとしか言えなかった。音楽の素養があればもっと言い様があるのだろうけれど、僕にはそれが精いっぱい。


 ティセがこの店に来てから2日目。彼女の演奏は、思わぬ効果をもたらした。


 彼女の演奏の最中、ドアベルが鳴ったのだ。


 落ち着いた装いの老婦人が店を覗いている。僕は手で入店を促して、カウンターを勧めた。老婦人は少女のような笑みを浮かべてカウンターに座った。ティセは気づきもせず、演奏を続けている。


 老婦人はティセを穏やかな瞳で見つめ、音楽に合わせて体をかすかに揺らしていた。

 少し時間を置いて、僕は訊ねる。


「何か飲まれますか?」

「そうね、この香りはコーヒー、よね? 一杯いただけるかしら」


 初めてコーヒーを頼まれた! 勧めていないのにコーヒーを!

 僕は歓喜しながら、いつもよりもさらに丁寧にコーヒーを淹れた。


 老婦人はコーヒーを片手に、ティセの演奏を楽しんでいる。


 すると、またドアベルが鳴り、新しい来客を告げた。皺一つない礼服を着こなした初老の男性だ。半身だけを店内に入れ、様子を窺うようにしている。僕は男性に笑いかけ、入店を促した。

 男性は老婦人からひとつ離れた席に腰を下ろした。


「ここは、何の店なのかな? 酒場、とは違うようだが」

「喫茶店です。軽食や、酒以外の飲み物を提供しています」


 男性は何度かまばたきをして、それから深くうなずいた。


「なるほど。では、何かお勧めを」


 そう言って、演奏を続けるティセに目を向けた。


「通りを歩いていると、珍しい音色が聞こえてね。まさか、こんな街中でヴァイオリンの音色に出会うとは思わなかった」


 つぶやくような言葉だった。


 ティセのおかげで、なんとこのお店にはお客さんがやってくるようになったのだ。

 それからも、ティセの演奏に引き寄せられるお客さんは増えていった。


 次第に、ティセの演奏を聴くためにこの店にやってくる人が常連となり、コーヒーに顔をしかめ、それでも店は少しずつ繁盛していった。



 φ



「ヴァイオリンの演奏家になることが、私の夢なの」


 ある日のことだ。夕食を食べながらティセが言った。視線は下を向いたままで、どこか恥じらっているようだった。


「おかしいでしょう? 女なのに、演奏家だなんて」

「おかしくないよ。ティセならなれると思う」


 お世辞ではなく、僕は本当にそう思っていた。いまや、うちにくるお客さんの多くが、ティセの演奏を楽しみにしているのだ。

 自分でも驚くほど、力強い言葉が出た。


「ありがとう。そういってくれる人がいて、嬉しい」


 ティセは目を弓のようにして笑みを浮かべた。


「でもね、お父さんは大反対。家庭を築け、ヴァイオリンは趣味でいいだろうって言うの。婚約者までね、見つけちゃって。結婚させられそうになったから、逃げてきちゃった」

「それはまた……」


 それがこの世界の常識なのかもしれなかったし、反対する親御さんの気持ちもわかった。けれど、ティセのことを思うと、胸が痛んだ。

 自分で家を出る。

 その選択肢を選ぶほど、彼女は追い詰められたのだ。


「どうして、ヴァイオリンの演奏者を?」

「お母さんがね、私が小さいころ、よく演奏してくれたの。その演奏を聴いてたら、悲しい時もつらい時も、なんだか元気になれた。お母さんは体が弱かったから、あんまり一緒にはいられなかったけど……ヴァイオリンの弾き方を教えてくれたの」


 彼女は懐かしむような笑みを浮かべた。


「お母さんとの、大事な思い出。私は、お母さんが大好きだったヴァイオリンを、もっと多くの人に知ってもらいたい。お母さんみたいに、ヴァイオリンで、悲しい思いをしてる人を元気にしてあげたい」

「そっか……良い夢だね」

「なんて、ね? 本当は、私にはそれしかできないから。私ね、不器用なの。人付き合いも苦手だし、料理も掃除もできないし……でもヴァイオリンを弾いているときは、その時だけは、なんだか生きるのって楽しいな、って思えるの」


 ティセはスープを飲み、目を細めた。


「私の演奏で、もし誰かを笑顔にしたり、悲しみを癒すことができたら……私が生きている意味も、あるんじゃないかって思えるから」


 彼女は照れたように咳払いをした。


「ユウには、ある? 夢とか、目標とか」

「そうだな、改めて聞かれると難しいけど」


 ううむ。ティセの後で語るには、僕の夢はあまりに平凡だった。


「うちの店に色んな人が来てほしいかな。それで、くつろいで、また頑張るための安らぎの場所にしたい。その中で僕もお客さんも笑いあえていたら、いいなと思うんだ」


 この世界でなにをしたらいいのか、自分になにができるのか、僕にはまったく分からなかった。ただ、実家の喫茶店のように、誰もが笑顔で、心安らげる場所を作りたいと思ったのだ。


「すごく、良いと思う。私も手伝う」

「ヴァイオリンの演奏家になるんじゃなかったっけ?」

「うん、だから、引退した後にまた来る」


 ティセがあまりに真剣に言うものだから、僕は思わず笑ってしまった。


「じゃあ、店内の音楽は任せるよ。楽しみにしてる」

「うん、約束よ」


 久しぶりに、僕は家の中に人がいる生活を送っていた。

 誰かと一緒に会話をしながら食事をする。そのぬくもりは、何よりも僕を温めてくれていた。何よりも怖く、人を不幸せにするのは、孤独なのだ。

 ひとりぼっちの生活は、とても寂しい。


 この生活がずっと続けばいいのに。


 僕はそんなことを考えていた。

 けれど、そう遠くないうちに終わる予感があった。


 ティセには夢がある。それも、大きくて、きらきらして、彼女にしかできない夢だ。今はこの小さな喫茶店で羽を休めているけれど、きっと、彼女は飛び立っていくだろう。


 そんな人が、時々いる。


 自分にはない力を持っていて、自分には行けない場所に、行ってしまう。僕もそうなりたいと願うけれど、叶うことはない。

 なぜ自分はそうなれないのだろう。どうして、同じようになれないのだろう。

 

 僕にできるのは、そんな彼女が羽ばたき、高く昇っていく姿を見上げるだけだ。


 僕は僕だ。自分のリズムで生きれば良い。そんなことはもちろん分かっているけれど……僕にも、行けるだろうか。生きることができるだろうか。胸を張って、彼女のように。


 ティセの姿が、僕にはあまりにまぶしかった。



 φ



 別れの予感が現実になるのは、思っていたよりもずっとすぐだった。

 2日後の夕方のことだ。ティセは日課の昼寝で部屋に上がっていて、店内にはお客さんの姿はなかった。


 ぼんやりと座っていた僕は、ドアベルを鳴らして入って来た男性に目を向けた。

 くすんだ金髪を撫で上げ、口周りのひげが丁寧に整えられている。目つきは鋭く、まるでライオンのような風格があった。


 僕がいらっしゃいませと言うよりも早く、男性は言った。


「娘が、世話になったようだね」

「……はい?」


 睨み付けるような目つきだった。


「私は、ティセの父親だ」


 突然の暴露に、僕の頭は思考停止。


「初めまして、お父さん……」


 なんだこの修羅場。やばくない? この人、怖くない? 僕、殺されない?

 脳みその中でその三つがぐるぐると回転していた。

 そんな僕をしり目に、男性はカウンターに腰を下ろし、顔の前で手を組んだ。


「ずいぶんと、娘が世話になった。礼を言う」

「ああ、いえ……」

「ところで、娘に手は出してないだろうね」


 マジで殺すぞという視線でにらまれて、僕は必死にうなずいた。


「そうか……信じるとしよう」


 男性は目をつむり、深く息を吐いた。


「すぐにでも、連れ戻そうと思った。だが、ティセがあまりに楽しそうな顔をしているのでな……あんな笑顔は、久しく、見ていなかった。あいつに、よく似ている」

「あんな笑顔……?」


 まるで自分で見たかのような物言いに、僕はおずおずと問い返した。


「家を出た娘の居場所を気にかけない親などいないだろう? ティセの周りには護衛がついていたし、私も何度かこの店に来ているんだ。もちろん、変装してね」


 マジかよ……気づかなかったよ。

 けれど、言われてみれば確かにその通りだ。娘をずっとほったらかしにする方がおかしい。

 してやったりと笑う男性の笑顔は、腰が引けるほどの迫力があった。


「だが、そろそろティセも満足しただろう。これは謝礼だ」


 男性が懐から取り出した小袋が机の上に置かれ、じゃらりと音を鳴らした。

 僕はそれをじっと見つめた。


「連れ帰りに、来たというわけですね」

「ああ。ティセの生きる世界はここではない。君も分かるだろう?」


 僕は息を吸った。

 なぜだろう。なぜ、僕はこんなことをするんだ?

 けれど、言葉は自然と出ていた。


「分かりませんね。生きる世界は、自分で決めるものだと思います」


 僕は小袋を取り上げ、男性の前に置きなおした。


「謝礼は結構です」


 男性は片眉を上げ、僕を見上げている。


「確かに、生きる世界は自分で決めるものだ。だが、若さはその決断を容易く誤らせてしまう。ティセも、君も、あまりに若い」

「ティセは、お母さんみたいに、自分の演奏で誰かを元気にしたいんだって、そう言っていました」


 男性の頬がかすかに動いた。


「確かにあなたから見れば若いかもしれません。けれど、彼女のその思いは、誰にも否定できないんじゃありませんか?」

「……この世界は、うまくいかないことばかりだ。特に、己の技術だけを頼りに生きていく世界では、成功することの方が難しい。努力すれば必ず報われるというわけでもない。幸せになれない可能性が高い世界に、喜んで送り出す親がいると思うかね」

「そう、ですね。たしかに、その通りです。でも、彼女はそれでも、その世界に踏み出したいと考えているんです」


 男性は目をつぶり、息を吐きだす。


「だめだ。私は、あの子を幸せにすると決めている。あいつと約束したのだ、ティセを守ると。立派に育て上げると」


 反射的に言葉があふれそうになった。

 幸せってなんだ、それはあなたが決めることなのか、屋敷の中に居れば幸せなのか、守られることが幸せなのか。


 けれど、全ての言葉を飲み込んだ。何の根拠も、実感も、責任もない、子供の戯言でしかないことを、僕自身が分かっていた。


 息を吸った。深く。どうしてここまで、僕が必死になっているのか、自分でも分からなかった。けれど、どうしても胸からあふれるものを、僕は抑えることができなかった。


「羽根が生えそろったのであれば、親鳥のもとから巣立つのが自然というものではありませんか?」


 男性が、目を開く。


「彼女は、巣立とうとしてるんです。自分の羽を生やして、行くべき先を見据えて。飛び立とうとしている鳥を籠に押し込めて守ったとしても、それはきっと、あなたが満足するだけです」


 男性も何も言わなかった。

 じっと黙り込み、なんども手を握りなおしていた。

 何分、沈黙が続いただろうか。


「どうして、君がそこまで必死に?」


 男性が静かな声で訊ねた。

 それは、僕が知りたいほどだった。なんと答えるべきか、頭の中はからっぽで、僕は返答に詰まった。


 けれど、口を開くと、言葉は自然と流れ出た。


「彼女はチケットを持っているんです。誰もが欲しがるけれど、手に入れることのできないチケットを」

「チケット……?」

「彼女がそのチケットを無駄にしてしまうことが、僕には我慢できません。お父さん、あなたですらいけない場所に、彼女は行くことができるんです。他の誰もが行けない場所にすら、行くことができるかもしれません。彼女の可能性を潰す権利は、誰にもないんだ。お父さん、どうか見守ってくれませんか」


 全てを言い切って、僕は深く息をついた。

 手足から血の気が引いて、震えるほど冷えていた。けれど、頬と、心臓が、燃えるように熱を持っていた。言うべきことを言えた。


 男性はじっと僕を見ていた。

 長い、長い時間だった。


「やれやれ」


 男性の苦笑。


「君のような若人から世の摂理を説かれてしまうとは。私も引退が近いかな……」


 男性は男性は胸元から小さなロケットペンダントを取り出した。小さく、美しい装飾の施されたそれは、女性向けの物に思えた。それを慈しむように、見つめる男性の横顔は、ひどく寂しげだった。


「私は、あの子の悲しむ姿を見たくない。幸せになってほしい。だから、だろうな。自分の手が届く場所に、いつ何があったとしても、私が助けてやれる場所に居てほしかった。私は、あの子が何よりも大切なんだ。私のすべてをかけて、あの子を守ってやりたいと、そう思っている」


 男性の思いに、僕は何も言えなかった。言うべき権利を、なにも持っていない。

 男性はぎゅっとペンダントを握りしめ、ふっと笑みを浮かべた。


「ティセは……いつの間にか、翼を持とうとしていたのだな。私が子離れしなければならないようだ」


 机の上にある小袋を、男性は手で押しやった。  


「君が受け取らないのであれば、これはあいつに渡してやってくれないか。君からだと言って。それから、もうすぐ、王都でコールリッジ楽団の新規入団者試験があると、教えてやってくれ」


 僕は少し戸惑った。


「ご自分で渡されては?」

「私は娘には甘くてね。今、娘に会ってしまうと、自分の決心を簡単に翻してしまうだろう。この手で抱きしめ、そのまま連れ帰りたくなってしまう。君も親になればわかるだろうが……親の中では、子はいつまでたっても幼いころのままなんだ。自分が守ってやらなければと、そう決心したあの頃のね」


 僕は頷き、その小袋を受け取った。男性の思いが込められたように、ずしりと重い。


「あの子はきっと、夢をかなえるだろう。会うのはそれからでも遅くない。立派になった娘に、それ見たことかと言われるのも、悪くないさ」

「反対していたわりに、ずいぶん自信があるんですね」

「私は親ばかでね」


 男性は、不器用なウインクをしてみせた。僕も笑みを返した。

 男性が立ち上がる。


「さて、娘に見つかる前に退散するとしよう。顔を見ると、名残惜しくなってしまうからな。最後に、名前を訊いても?」

「ユウです。ユウ=クロサワ」

「私はハワードだ。君には大切なことを教えてもらったよ。ありがとう。また来るよ、今度はひとりのお客として」

「お待ちしています。とびきりのコーヒーを用意して」


 僕が言うと、ハワードさんは顔をしかめた。


「いや……私は昔からあれが苦手でね。ココアを貰えると嬉しい。砂糖を2杯入れて」

「承りました」


 僕もハワードさんも、顔を合わせて笑みを浮かべた。

 それから、彼が踵を返し、ドアへ向かって歩みだしたその時に。


 店の奥から、ヴァイオリンの音色が響いた。手が震えているのだろうか、途切れ途切れの、歪な音色だった。

 ハワードさんは足を止め、誰も何も言わず、ヴァイオリンの音色だけが、響いている。


 ハワードさんは振り返らずに少し大きな声で言う。


「あの子に伝えてくれるか。もし辛くなったら……本当に、もうだめだと思ったら、いつでも家に帰って来いと、私は、お前の父親なのだからと」


 その声が微かに震えていることに、僕は気づかないことにした。


「はい。必ず」

「ありがとう」


 そしてハワードさんは一度も振り返らず、胸を張って、店を出ていった。

 ヴァイオリンが鳴りやみ、店内はしんと静まった。


 通路の奥へ向かうと、ヴァイオリンを手に座り込んで泣きじゃくるティセがいた。幼子のように肩を震わせ、手のひらを目に押し付け、押し殺すように泣いている。いつから居たのだろう。どこから聞いていたのだろう。そして今、何を思っているのだろう。


 僕は何も言わず、ティセの頭をそっと抱き寄せた。


「私、がんばる。ぜったいに、夢をかなえて、お父さんに会いに戻る。それ見たことかって、そう言う……!」


 吐き出すような、彼女の言葉。その夢が叶えばいいと、心の底から願った。



 φ



「のう、ユウよ! 王都で新たなソリストが誕生したのを訊いておるか」

「ソリスト?」


 朝から降り続いた雨はとっくに上がって、それに合わせて色んなお客さんが店に訪れた。閑散としていた頃が懐かしく思えるほどに、最近の我が店は賑やかだ。

 首都から遊びに来ていたリエッタの声に、僕は首をかしげる。


「演奏の山場でひとりで奏で上げる、楽団の中で最も名誉ある役割じゃ。通常、ソリストは男がやるものじゃが、なんと、初の女性ソリストが生まれたことで、王都は大賑わいなのじゃ」

「へえ! それはすごいね」

「うむ、それになコールリッジ楽団と言えば、王都で1,2を争う名楽団。さらに数少ないヴァイオリンの奏者ということもあってな。今や劇場は連日大満員の大評判。そこらの貴族ですらチケットを手に入れるのは難しいほどじゃよ。ええと、確か名前は……」


 注文の入ったココアを淹れながら、僕は笑った。


「ティセ」

「そうそう、ティセといったのう! ……ん? なぜ名前を知っておるのじゃ?」

「ちょっとね」


 カップに移したココアに、砂糖は二杯。

 カウンターの隅に座る男性に、僕はココアを出した。ちらりと目があって、不器用なウインクをされる。もちろん、僕も笑みを返す。


「いつものことながら、マスターは不思議じゃのう……。ともかく、そのティセの演奏たるや、あんなに心が震える音色を訊いたのは初めてじゃ。知らずと笑顔になってしまう」


 熱く語るリエッタの言葉に耳を傾け、他のお客さんの注文をさばきながら、新しい来店客にも対応する。

 ティセはうまくやったのだ。そして僕の店も、あの頃より繁盛している。


 リエッタには内緒だが、自室の机の上には、チケットが置いてある。ティセから送られてきたものだ。そして、ハワードさんにも。


 久しぶりに、彼女に会いに行こうと思っている。そして彼女が、自慢げにお父さんに、それ見たことかと笑いかける姿を、見たいと思う。きっと、素晴らしい光景だろう。


 だから、あともう少しだけ、僕らは夢の途中だ。



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