season2 第24話 煮込みハンバーグ
僕には、いつも不思議に思うことがある。それは素朴な疑問で、改めて誰かに訊ねたりすることもない。布団の中で目をつぶって、眠りに落ちるのを待つまでの時間や、お風呂で湯につかってぼんやりと天井を眺めているとき、僕はふとそのことについて考える。
時間というのは、どうしていつの間にか過ぎ去っているのだろう。
僕が子供のころ、一日は長くて厚くて、時計の針はゆっくりと回っていた。それがいつしか、時計の針は早回りになりだすし、一日はあっという間に終わっているし、気付けば1月も下旬に差し掛かっていたりする。
インターネットに投稿されている小説を見れば、前回の更新は3年近く前だったり、友人に最後にあってから5年が過ぎていたりもする。
とかく、時間というのはいつの間にか駆け足になっていて、僕たちをあっという間に置き去りにしてしまうものだ。必死についていくことに精一杯になって、僕たちはいろんなものを見落としていく。大事なものに気付くのは、いつだって通り過ぎてからだ。
今さら時間を遅くすることが難しいとしても、足を止めて自分にとって大事なものを見つめなおす時間があってもいいんじゃないだろうか。
腰を下ろして、荷物を置き、肩の力を抜いて、ほっと息をつく。濃いめのコーヒーを一杯頼んで、世界から切り離されたような店の中で、自分だけの時間を過ごす。それが喫茶店だ。
そんな店のマスターに、私はなりたい。
グラスを磨きながら、僕はたまにそんなことを考えるのだ。
「ようマスター、いつものやつをくれ。あ、コーヒーはいらねえ」
「はいはい、ローさん、モーニングセットですね。あと当店はコーヒーもおすすめですよ」
開店早々にやってきたお客さんの注文に、僕は苦笑しつつも準備を始める。ローさんは2m近い長身で、灰色のぼさぼさ髪からは鋭い三角耳が飛び出している。右目には派手な刀傷があって、非常に強面な狼族の獣人だ。コーヒーはとても苦手だと言う。
僕が異世界で売り出したモーニングセットは、特製のサンドウィッチに、朝市で仕入れた新鮮な果物、それとゆで卵のシンプルなものだ。本当はそこにコーヒーが付くのだが、この世界ではコーヒーは「健康に良いらしいが不味い泥水」というくらいの認識だったりする。
「ユウくーん、おはよ! モーニングセットくれる? 迷宮に行く前に腹ごしらえしなきゃ。あ、コーヒーはいらないからね」
「シャナさん、おはようございます。今日も迷宮ですか、気を付けてくださいね。それに当店はコーヒーもおすすめですよ」
朝陽を吸い込んだような金髪をなびかせながら、エルフ耳のお姉さんことシャナさんが入店した。革製の真っ赤な軽鎧に、短弓と矢筒を背負っている。そういった冒険者の姿は、この街では見慣れたものだった。なにしろ、ここは迷宮を中心として形成された迷宮都市だ。冒険者や商人に溢れ、迷宮探索のための学校があり、いつだって賑やかな街である。
2年前、僕は何の前振れもなくこの世界にやってきてしまった。
誰かに召喚されたとか、トラックに轢かれたとか、そんなこともなく。精々がマンホールに落ちた、くらいの経験の果てに、気付けばこの世界にいたのだ。
幸いにも保護してくれたじーさんのおかげで、僕は今もこうして生きている。実家が喫茶店を営んでいたこともあって、僕は異世界で生きていくために、こうして喫茶店を開業したのだった。真の目的はコーヒーの素晴らしさを世に広めることなのだが、そっちの方はあまりうまくいっていない。
朝のモーニングセット狙いのお客さんがひと段落して、店内が落ち着きを取り戻したころ、カランカランとドアベルが鳴り、ぬたりと入ってくる小さな影。
ノルトリだ。
外は眩しいほどに快晴だというのに、ノルトリの周りだけが少しよどんで見える。雨を凝縮したような水色の長髪はおさげに結ばれていて、アーリアル学院初等科の真っ白な制服に髪色がよく映えていた。髪からぴょこんと出た猫耳は、気だるそうに伏せられている。目はぼんやりと眠たげであったし、猫背でゆったりと歩くその姿は、生きることに疲れた老人のような風格すらあった。
ノルトリは窓際の奥から二番目――いつもの席に腰を下ろし、カウンターにぺたりと頬をつけた。
「ユウ……いつもの……」
「おはようノルトリ。今日もだるそうだね」
思わず笑みが浮かぶ。ノルトリはこの店の小さな常連さんだ。10歳にしてその無気力さはどうなのだろうと心配にはなるのだけれど、何だかんだで生命力のある逞しい子なのだ。
ノルトリお気に入りのココアを激ぬるで出すと、ノルトリはじーっとカップを見つめ、首だけを上げてふーふーと息をかけて冷ました。そして飲むのかと思いきや、またぺたりと脱力するのだった。
彼女はひどくマイペースなのだ。
肌の色は雪のように白く、顔は小ぶりだ。瞳に活き活きとした光が灯れば、誰もが放っておかないほどの魅力があるのだけれど、ノルトリはあらゆることにやる気がないので、そんな姿を見ることは早々にないだろうなと思う。けれど、そんな所がノルトリらしくもあり、彼女の魅力でもあるのだった。
「ノルトリ、学院はどうしたの。もう授業が始まる時間だと思うけど」
僕が言うと、ノルトリは顔を上げた。
「学……院……?」
「初めて聞きましたそんな言葉みたいな顔をするんじゃありません」
「授業……は……ない」
「ないわけないでしょ。制服着た子たちが店の前を走っていくのを見たよ、僕は」
「別の、学院の……生徒……」
「この街に学院はひとつしかなかったと思うけど?」
ノルトリは額に汗を浮かべ、きゅっと唇を噛んだ。僕の隙のない追及に、誤魔化すほどの余裕がなくなっていた。僕はコーヒーの入ったカップを持ち上げ、手のひらをうちわのように仰いで湯気を送る。ノルトリは「ふぬぅ……」と苦しみだし、そしてついに陥落した。
「サボった……」
「うむ、よろしい。さ、朝ごはんでも食べる?」
「って良いんかーい!」
横手からつっこまれた声に顔を向けると、そこには体格の良い青年が立っていた。短髪だ。へたれな顔をしている。他には特徴もなかった。
「えーと、いらっしゃいませ。何にしますか?」
「あ、あれ? 何でそんな他人行儀なんだよ」
「……? どこかでお会いしたことが……?」
「あるよ! 何回も来てるし話してるよ!」
僕は改めて青年の顔を見るが、思い出せそうで思い出せなかった。
助けを求めてノルトリの方を見るが、ノルトリは興味すら持っていなかった。
「すいません、記憶になくて……」
とりあえず謝ってみる。
「明日は朝からチェスでもしようぜって約束しただろ!?」
「そんな昔のことは忘れたな……」
「昨日のことですけど!?」
「まあそんな話はともかく、おはようキール」
「ちゃんと覚えてんじゃねえか! なんだよ今までの会話!」
「茶番」
「……っ! ……っ!!」
キールはカウンターに拳をぶつけているが、そんな姿もいつものことだった。
キールのせいで店内は騒がしくなるが、他にお客さんはノルトリしかいないので、あまり気にすることもない。
最近はこの店にもいろんなお客さんが来てくれるようになったけれど、客が途絶えることがないとはいかない。むしろまだまだ暇な時間が多かった。
キールとチェスを指しながら、僕は皿を洗ったりコップを磨いたり、ノルトリで遊んだり、いつもの常連さんを迎えたりしていると、時間は昼に差し掛かる。
店内には4人ほどのお客さんがいた。
チェス盤を前に頭を抱えているキールと、僕が遊んだ結果、寝ている間に編み込みだらけの髪型になっているノルトリ。窓際の席で分厚い本を読んでいるエルフの女性と、小さな宝石の山をルーペで熱心に見ているドワーフのおじさん。
わりといつもの光景だった。だからいつも通り、僕はぼちぼち昼食の準備を始める。
エルフのお姉さんは、特製サラダに肉抜きのサンドウィッチと果物。
ドワーフのおじさんは、しっかり焼いた肉料理。それと辛口の香辛料をたっぷり。
ノルトリはしばらく起きないからまだ大丈夫だ。キールは何でも食べるのでどうでもいい。
とりあえず肉料理の下準備をしようかと腕をまくると、ドアベルが軽快な音色で来客を知らせた。
白銀色の長髪を揺らして、長身の女性が入ってくる。宙に浮いているのではないかと疑うくらい足音がなく、歩くという動作だけで目が惹きつけられる。切れ長の瞳は凛々しいが、顔に浮かぶ表情は柔らかい。
「やあ、こんにちはマスター」
「アルベルさん。お昼に来られるのは珍しいですね」
「ああ、昨夜、迷宮から帰ったばかりでね。今日は休養日なんだ」
「だからいつもより可愛い服装なんですね」
「か、かわいい?」
いつもはピシッとした寒色の騎士服に軽鎧だったりするのだが、今日のアルベルさんは少し違っていた。
白のタートルネックに、ベージュとネイビーの2色でデザインされたコート。脚のラインがよく分かるズボンに、ショートブーツ。コートには雪の花が刺繍されている。海外のファッションモデルが雑誌から飛び出てきたと表現できればまだいいのだが、着こなしているアルベルさん自身の現実離れした美貌もあって、もはや意味が分からない。とりあえず写真に撮って大判ポスターにして部屋に飾りたい。
じっと見つめていると、アルベルさんは落ち着かなそうにそわそわと動き、コートの襟を直したり、裾を握ったりしている。
「やはり、変かな? 自分でも柄ではないと分かってはいるんだけど、ね」
「いえ部屋に飾りたいです」
「え?」
「間違えました。とてもよく似合ってますよ。どこも変じゃありません」
思わず違う方の本音を伝えてしまったので、すぐに訂正した。事実、アルベルさんのあまりのモデルっぷりに、キールは口を開けたまま動きを止めていた。
アルベルさんはほっと息を吐き、笑みを浮かべた。
「マスターにそう言ってもらえたなら安心だ。君は嘘をつけない人だから」
「つく必要がないだけですよ。次の機会までにはもっと良い褒め言葉を探しておきます。たくさん」
「それは楽しみだね。ブレンドコーヒーをもらえるかな。それと、何か食事を」
アルベルさんがカウンターに腰を下ろす。僕は同時にコーヒーの準備を始める。
「何か食べたいもの、あります?」
「新鮮な食材が食べられるなら、なんでも。昨日まで味気ない携帯食と保存食ばかりだったから」
アルベルさんは微笑を浮かべながら小首を傾げて、僕を試すように言った。瞳には悪戯っ子のような光があった。
美人のお姉さんにそんな表情で見られた日には、僕は逆立ちしてタップダンスを踊りたくなるね。
ぽこぽことサイフォンで生み出されていくコーヒーを見ながら、僕はレシピを考えた。
新鮮な食材だからサラダを、というのは安直だ。
携帯食、保存食ばかりだったということから考えて、手の込んだ食事は食べられなかったということだろう。迷宮内では栄養補給を第一とするから、とにかく味付けの濃いものが多かったはず。そして保存性を高めるために、携帯食というのは固いものが一般的だ。ビスケットとか、干し肉とか。
もろもろを考えた結果、僕はアルベルさんに挑むように笑いかけた。
「とっておきを食べさせてあげましょう」
「とっておき……?」
僕は冷蔵庫の中に保存していた、とっておきを取り出す。トレーの中に2つだけの、本当にとっておきだ。
カウンター越しにそれを見るアルベルさんは首を傾げた。
僕は何も言わず、フライパンを火にかけ、棚や冷蔵庫、保管庫から材料を取り出して並べていく。
コーヒーの抽出が終わったので、カップに注いだそれをアルベルさんへ。ゆっくり味わって待ってるが良いですよ。
この世界にはトマト缶なんてものがないので、トマトの下準備からやらなければならない。
迷宮から香辛料や食材が産出されるおかげで、この街の食生活の水準は驚くほど高い。現代っ子の僕が不満を抱かないほどだ。けれど、だからこそだろうか、料理という技術はあまり発展していない。
元の食材が良いものだから、創意工夫してなんとか美味しく食べるとか、組み合わせて食べ方を変えるとか、そういう発想がないのだ。
肉は豪快に調味料をかけて食べる。煮込む。飽きたら別の調味料を。そんなもんだ。特に冒険者が多い街だから、料理屋で出されるのは豪快で、味が強く酒に合い、大量に安くというものが多い。手間暇かけて作っても、それを望む人が少ないのだ。
とっておきをフライパンに入れ、下処理をして潰したトマトを入れる。それから旨みが染み出す出汁キノコを数種類。小瓶からビー玉ほどの木の実を4個ほど取り出す。これをナイフで割ると、中からとろりとした真っ赤な果肉がこぼれる。煮込むと形はなくなってしまうけれど、味はまさしくケチャップなのだ。赤ワインを入れて、あとは蓋をして煮込む。
「驚いた。そんなに手間をかけるんだね」
アルベルさんが目を丸くしていた。
「この店は、もしかして高級料理も扱っているのかな?」
真顔でそんなことを言われるものだから、僕は思わず笑ってしまった。
「そんなまさか。僕の趣味みたいなものですよ」
このとっておきも、本当は夕飯にでもしようかと思っていたのだから。完全に自分用の料理だ。
時々、とっておきをひっくり返しながら、煮詰まってきたソースの味見をする。うん、いい感じ。
仕上げに、薄くスライスしたチーズを乗せて、蓋をしてしばらく。
コーヒーを飲み干してうずうずと待っているアルベルさんが微笑ましくて仕方ない。
バゲットをスライスしたものと、簡単なサラダを先に並べるが、アルベルは見向きもせずにフライパンを見ていた。
僕はマジックを披露する手品師の気分で蓋を持ち、ゆっくりと開いた。フライパンの中で閉じ込められていた湯気と香りが小さな爆発を起こしたように立ち上り、トマトの甘酸っぱい香りと、ふっくらと煮込まれた肉の旨みが詰まった匂いが店中に広がる。
エルフのお姉さんがちらりとこちら見る。ドワーフのおじさんがルーペで宝石を見ながら、鼻を動かしている。キールは涎を垂らし、ノルトリは寝ている。
僕はとろけたチーズの黄色が鮮やかなそれを皿に盛る。旨みが凝縮されたソースもたっぷりと。
「はい、どうぞ。トマトとキノコの煮込みハンバーグです。格別な美味しさ、ですよ?」
アルベルさんは何も言わず、目の前の煮込みハンバーグを見ていた。
それからナイフとフォークを持ち上げ、覚悟を決めるようにハンバーグを切り分けた。そしてハンバーグのふっくらとした触感と、ナイフを押し返す弾力に驚いたようだ。一瞬手を止めてから、一口大のそれをフォークで口に運び……。
「……ああ、うまい」
ぽつりとそれだけを呟いた。
それきり言葉はなくなって、アルベルさんは煮込みハンバーグだけを食べ続けた。一口ですら惜しむように、小さく切り分けて、噛むたびに目をつぶって味わっている。
その姿を見ただけで、僕はとても満足だった。
誰かのために料理を作って、それを美味しく食べてもらえる喜びは言葉にしがたいほどだ。
その間にエルフのお姉さんとドワーフのおじさんの、いつもの昼食を準備する。
エルフのお姉さんに特製サンドウィッチセットを持っていくと、視線だけであの料理はないのかと訴えられた。「あれ、お肉ですよ」と言うと、肩を落としてしょんぼりしていた。彼女はお肉が食べられないのだった。
ドワーフのおじさんにしっかり焼いた辛口お肉料理を持っていくと、鼻の動きであの料理はないのかと訴えられた。「あれ、かなり柔らかいですよ」と言うと、悩ましそうに唸っていた。彼は歯ごたえのある肉じゃないと食った気にならないのだった。
キールに適当なものを持っていくと、「あの麗しの女性と同じものを」とドヤ顔で言われたので、ないと言っておいた。
「こんなに、柔らかくて、旨い肉は、初めてだ」
ハンバーグを食べ終えて、アルベルさんはしみじみと言った。
「それは良かった」
アルベルさんの前にあるお皿を回収すると、「あっ……」と切なげな声が聞こえる。
もちろん捨てるわけではなくて、もう一工夫があるのだ。
お皿に残ったソースをフライパンに戻し、熱を入れる。煮立った所に入れるのは、バターだ。このバターはかなり濃厚なので、ハンバーグにかけると味の邪魔をしてしまう。けれど、残ったソースを主役にするにはぴったりなのだ。岩塩で味を調えて、お皿に戻して、アルベルさんの前に置く。
「パンにつけてどうぞ。これもおすすめですよ」
「……!」
少女のような笑みだった。僕は惚れた。
結婚指輪を用意していない自分の段取りの悪さを後悔した。
にこにこと食事をする幸せそうなアルベルさんを見られただけで、僕の夕食がなくなったことすら何の問題にも感じられなかった。
φ
夜もすっかりふけると、うちの店は暇になる。夜は街中で酒場が開き、冒険者や仕事終わりの人たちでどんちゃん騒ぎが始まるからだ。
すっかりお客さんのいなくなった店で、僕は後片付けをしていた。
最後の洗い物を終える頃になると、時間はちょうど良い。
僕は冷蔵庫に残していた最後のハンバーグを取り出して、特製煮込みハンバーグの準備を始める。食べる人のことを考えてこっちは大きめに作ってあった。
店の外に遠く聞こえる喧噪をBGMに、僕は手早く料理を進める。
蓋をして煮込んでいると、ドアベルの音。
顔を向けると、予想通りの来客だった。
「や、リナリア、おかえり」
「ただいま。ごめん、ちょっと遅くなったわ」
真っ赤な髪をポニーテールにして、学院の制服を着た少女。僕がこの世界に来たころ、よく面倒を見てくれた女の子だ。
リナリアは椅子に座って深く息をついた。勝気な目は少し眠たげで、お疲れのようだった。
「疲れてるみたいだね」
「ん。試験が近いからね。ご飯食べたら図書館でもうちょっと勉強しなきゃ」
「……真面目だ」
「そうよ。真面目なの。悪い?」
にこりと微笑まれたものだから、僕は首を振った。迫力があった。試験で神経がピリピリしているに違いない。
ことことと煮込まれる音を聞きながら、甘めのカフェオレを用意する。
「はい、お疲れさま。温かいから、落ち着くよ」
「ありがと」
リナリアがカフェオレに息を吹きかける音、ハンバーグが煮込まれる音、遠くの街の喧噪。
じっと耳をすませると、不思議と笑みがこぼれる。
「どうしたのよ、いきなり笑って」
リナリアが訝しげに言った。
「なんだか懐かしいなと思って」
「懐かしい? 何が?」
「いや、何でもないよ」
眉を顰めるリナリアに笑い返して、僕は煮込みハンバーグを皿に盛る。
リナリアの前に置けば、彼女は笑みを浮かべる。いつだって美味しいものは人の心を安らかにするし、笑顔にする。人は食べたもので出来ているのだ。だから、食生活が偏れば体は不調になるし、不味いものを食べていれば心が貧しくなってしまう。
来た時とは打って変わって、リナリアが機嫌よさそうに食事をするのを見ながら、僕はサンドウィッチを作る。
本当はおにぎりと行きたいところなのだが、この世界での米は中々に希少品で高いのだ。
作り終えたサンドウィッチを弁当箱に詰め終える頃には、リナリアも食事を終えていた。
「ごちそうさま、美味しかったわ」
「あ、リナリア、これ」
弁当箱を布袋に入れて差し出す。
「夜食にでもどうぞ」
「……あんた、どこの主婦なの?」
「お母さんと呼んでもいいんだよ?」
「絶対にいや」
じとっとした目で僕を見るリナリア。たぶん女としてのプライドがとでも思っているのだろう。
「それじゃ、行ってくるわ」
「うん。頑張って」
ポニーテールを揺らしながら、リナリアは店を出ていった。
いつの間に食べたのか、サラダもパンもなく、皿のソースまで綺麗に食べられていた。とても気分がいい。僕はお皿を取り、手早く洗っていく。リナリアの後ろ姿が、ふと思い出された。
お客さんがやってくるとき、僕らは顔を合わせる。けれど、お客さんが帰るとき、僕が見るのはその背中だ。去っていく背中を、どこかに向かう背中を、僕は見送る。
僕は自分からどこかに行くということはない。
学院に通うこともないし、大冒険をすることもない。
この店が僕の居場所で、そして誰かが来ることを待つことしかできない。
だからこそ、やってきてくれたお客さんにとって素晴らしい時間を提供したいと思っている。この店が、その人にとって安らげる場所になれたら、悲しみや辛さを和らげることができたら、また旅立つための手助けができたら、これほど嬉しいことはないだろう。
そして一杯のコーヒーと、居心地の良い空間が、いつでもここにあることを知ってほしい。
僕はどこかに行くことはしない。この店は、誰かの帰りを待つ場所なのである。
ドアベルが鳴り、お客さんの来店を告げる。
皿を拭いていた手を止めて、僕はその人を迎える。
「いらっしゃいませ、喫茶ハルシオンへ。ご注文はお決まりですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます