第20話 彼の日記



<一日目>

 今日から日記をつけることにした。平和な喫茶店での毎日のことくらいしか書くことはないけれど、それもまあいいだろうと思う。日常なんてどこでだってそんなものなのだから、日記が平凡なのは当たり前である。


 まずは今日あったことを書こう。


 ……これといって書くようなこともなかった気がする。しまった。いつものことだからあまりよく覚えていない。


 明日からはもう少し注意して観察しておこうと思う。



<二日目>

 今日は大丈夫だ。日記に書くことを意識して一日を送った。これでちゃんとした日記が書ける。


 えーと、そうだ。今日は朝からゴル爺が倒れていた。開店準備を終えて外に出ると、店の目の前にうつ伏せになっていたのだ。いつも唐突で意味がわからない人である。近づいて足で小突いてみたけれど、反応はない。


 僕はゴル爺の傍らに立ち、ふむと悩んだ。


「どうしよう。見なかったことにしよう」


 僕が店内に戻ろうとすると、いきなりがしりと足を掴まれ、動けなくなる。


「……ユウちゃん、倒れている人間にその対応はちと薄情じゃないかのう」


 放してもらえませんか。これから開店準備で忙しいんです。


「いたいけな老人が行き倒れておるんじゃぞ? か弱くて愛らしくて見ているだけで笑顔になってしまうようなわしが、倒れておるんじゃぞ? もちっと相応しい対応があるじゃろ?」


 あの、ほんと迷惑なんで。これからすごい忙しいんで。


「かーっ! これじゃから最近の若いもんは! 老人を敬うっちゅーことを知らんのか!」


 ゴル爺が両手でばんばんと石畳を叩いた。あんたは子供ですか。


 掴まれていた足が自由になったのでその隙に逃げようとしたけれど、ゴル爺は僕の動きを予測したかのような手際の良さで再び足を掴んでくる。


 ちっ。


「今、舌打ちしたじゃろ?」


 ちっ。


「わざわざ聞こえるようにやり直さんでいいわい!」


 朝っぱらから文句の多い人である。ゴル爺は両手で僕の足を掴んで、死んでも離さないという顔で見上げてくる。仕方ないのでしゃがんで話を聞くことにした。朝っぱらから何のようですか。


「いやあ、急にユウちゃんの顔がみたくなってのう」


 僕、忙しいんですけど。


「ほれ、わしって老い先短い老人じゃろ? ユウちゃんの顔が見れんだけで寂しくて仕方なくてのう」


 これから、開店なんですけど。


「ユウちゃん、わざわざ会いに来たこの愛らしくて健気で心優しいわしに言うことがあるじゃろう?」


 話を聞いてください。


 それからすぐに秘書さんがやってきて、ゴル爺を引きずって帰っていった。やっぱり仕事を抜け出してきたらしい。あの人はなにがしたかったのだろう。



<三日目>

「お前はそれでも男かよ! もっと熱くなれよ!」


 キールがとても暑苦しい。無駄に筋肉のある体系なのでますます暑苦しい。


 僕はコップを磨きながら、だって店番あるし、と言う。


「お前は女の子よりも店番の方が大事だって言うのか! せっかくアーリアル学院の女生徒たちときゃっきゃうふふのカルパをやろうっていうのに、お前は心躍らないのかよ!」


 そもそもカルパってなに? と聞くと、意外と普通に説明してくれた。どうやらコンパみたいなものらしい。キール、リアさん一筋じゃなかったのか。


 しかしアーリアル学院か。あそこは容姿端麗かつ頭脳明晰な女の子が多いらしいので、ちょっと興味はあった。興味はあったけれど、僕が行っても話が合わないだろう。何を話せばいいのかも分からないし。あとお客さんとかまだいるし。


 だから僕は遠慮しとく、と答える。

 キールが熱く何かを語りだそうとするのを遮るようにドアベルが鳴って、アーリアル学院の黒い制服を着た女の子がふたり入ってくる。


「ユウちゃんおーっす、今日はあっついねー。いつものちょーだい」

「私はとりあえず冷たい水。水だけでいいから」


 はいはいと僕は注文されたものを用意する。その間に二人といくらか世間話をしてからキールに振り返ると、キールは「ちくしょう、ちくしょう」と呟きながら壁に頭をこすりつけている。意味がわからない。


「そうかよ、『カルパなんかしなくたって僕は女の子といくらでも話し放題だから遠慮しとくよふふん』ってことかよ! いいよいいよ! お前を誘ったおれが馬鹿だった! もう二度と誘ってやんねーからな! ばーかばーか!」


 そんな捨て台詞を残して、キールは外に飛び出して行った。暑苦しいやつだ。


「なになに? ユウちゃん、今の暑苦しそうなやつと友達なん?」

「いえ、今日初めて会ったんですけど。なんだったんでしょうね」


 とりあえず他人のふりでもしておこう。



<四日目>

 カウンターでリナリアが頭を抱えていた。眉間に皺まで寄せて、一枚の紙をじっと見つめている。あまりに熱心なので興味を引かれ、カウンターの向こうに回ってリナリアの後ろから覗き込む。


「古代神言語なんて分かるわけないでしょ、常識的に考えて……」


 ぶつぶつと呟いている。


 僕は紙に書かれた文字を見て、かなり驚く。日本語である。小学生が書いたように崩れてはいたけれど、確かに日本語だ。もしかしてこの世界には日本語が別の言語として存在するのだろうか。あるいは、過去に僕と同じように日本人がやってきているのかもしれない。


 ねえ、これってどこの言葉? とポニーテールを引っ張って声をかける。


「きゃっ!?」


 きゃっとは可愛らしい。さすが美少女。悲鳴まで美少女ですか。徹底していますね。

 振り向いたリナリアが、僕を見て文句を言う。


「アンタねえ。いきなり髪を引っ張らないでよね、びっくりするでしょ。あといつの間にか背後に立たないで」


 善処しよう、実行するかは分からないけど。そう答えると、リナリアはじとーと僕を睨んだ。美人が無表情になるとそれだけで迫力があった。沈黙に負けたので、とりあえず謝っておくことにした。まことに遺憾です。


「なにそれ?」


 謝罪の常套句。


「ほんとに謝ってるの?」


 本人としては謝っているつもりなのかもしれない。


「つまり?」


 受け取る方はそうとは思えない常套句です。


「……ふーん」


 頬をつねられた。痛い痛い。


 今度は素直に謝ると、リナリアは許してくれた。謝るときは単純な言葉で十分らしい。そこに誠意と心が篭っていれば。


 リナリアが持っていた紙について聞いてみると、どうやらその文字は古代神言語と呼ばれるものらしい。それがなぜ日本語なのだろう。よく分からない話だ。いつか詳しい人にでも聞いてみようと思う。


 ちなみに、そこに書かれた言葉を訳すのが宿題なんだとか。がんばれリナリア。たぶん、無理だと思うけど。


 紙に書かれた言葉を改めて見る。


『大根おろし』


 誰が書いたんだろう、大根おろし。こっちの言葉に訳せるのだろうか、大根おろし。

 謎は深まるばかりだ。



<五日目>

 空が明るくなり始めるころ。僕は外に立ってシルルを待っていた。今日はシルルが様々な食材を届けてくれる日だ。


 しばらくぼんやりしていると、向こうから走ってくる小さな人影。


「おはようございますユウはぶ!」


 アイハブ。ってそんなことより、シルルが派手にこけた。かなりの速度で走っていたので、こけたときの勢いもすごい。思わず目を丸くする。


 慌てて駆けよると、シルルが赤くなった鼻を押さえて座り込んでいる。ちょっと泣きそう。


「あうう、痛いですっ」


 大丈夫? と声をかける。シルルが涙目で僕を見上げて言う。


「こけちゃいました……」


 見りゃわかるよと苦笑しながら、シルルを助け起こす。驚くほど軽かった。


 シルルの服についた汚れをはたきながら見ると、右足の膝が擦り剥けて血が滲んでいる。かなり痛そうだ。けれどシルルは平然と尻尾をぱたぱたさせているので、不思議に思って訊いてみる。


 僕の言葉に、シルルが自分の膝を見下ろした。そして沈黙。やがてぷるぷると震えながら僕を見る。


「見たら痛くなってきました……」


 ああ、気づいてなかったんだ。


 シルルは一歩動くだけでも辛そうな顔をするので、おんぶして店の中に入った。シルルを椅子に座らせてから、濡れタオルと消毒液を用意する。あと清浄液も。清浄液というのは、なんでも汚れだけを取り除く魔法生成の液体だとか。


 それらを手にシルルのところに行く。シルルは耳をぺたんと伏せ、尻尾まで元気がない。眉を下げて不安げな瞳で僕を見上げる。


「それ、使うんですか?」


 一応、手当てはしておかないとね。


「うぅ……」


 どうかした? と声をかける。


「……しみるの、いやです」


 ああ、なるほど。たしかに、怪我よりも消毒されるときの方が痛かったりする。


 それでも汚れたままだとよろしくないので、僕はシルルの前にしゃがんだ。えっと、まずは清浄液で汚れを取り除くはず。


 きゅーんと子犬のような声でシルルが鳴くが、流されてはいけない。やることはやらないと。


 擦過傷に清浄液をかけることにする。小瓶から出てきた澄んだ青色の液体はどろりとしていて、まるでスライムみたいだった。実はこれを使うのは初めてだ。


 シルルの膝にぺたりと張り付いた液体が、うにょんと動く。


 ええっ。


 僕が目を丸くしている間にも、それはうにょんうにょんと動き、傷口全体を覆うまでに広がった。そこでうみょうみょと微動を続ける。


「あうあうあう」


 どうやらこれがしみるらしく、シルルは足を小刻みに揺らして、痛みをなんとか逃がそうとしている。謎の生命体スライムを観察しながらも、とりあえずシルルの足を押さえておいた。


 やがてスライムは動きを止め、ぽとっと剥がれ落ちた。ピンポン玉のように丸くなっている。それを小瓶の中に戻して、シルルの傷口を見る。砂汚れなんかが綺麗になくなっていた。医療用スライムみたいなものだろうか。


 とりあえず次は消毒しないと。消毒液入りの小瓶を取り上げると、シルルが僕の腕を掴む。


 この手はなに? と笑顔で言う。


「そ、それだけはっ」


 それだけはなに? と笑顔で言う。


「それはすごく、すごくしみるんです!」


 だから? と笑顔で言う。


「だ、だから!? ええっと、だから、その、ご遠慮していただけるとうれしいかなって」


 僕がご遠慮、すると思う? と笑顔で言う。


「……その笑顔は、しないと、おもいます」


 よくできました。


 というわけでさっさと消毒した。「きゃいん!」とか「くぅーん!」とかシルルが悲鳴をあげて悶えていた。誰もが通る道である。


 今日もいいことをしたなあ。



<六日目>

 けっ、これだからイケメンは。やってらんねえ。

 おっと、思わず荒んだ物言いになってしまった。気をつけよう。


 今日はウェットが女の子を連れてやってきた。鮮やかな金髪が眩しい活発そうな美少女。ウェットの幼馴染だ。


 カウンターに座るや、ウェットから紹介される。ユナという名前だそうだ。店内をきょろきょろと見回している姿は、ウェットの話に聞いていたよりもずっとおしとやかに見える。


 ウェットの話通りの子ならきっと面白いことになるだろうと思って、そのまま言ってみた。

 ユナさんはにこりと笑う。


「猫被ってますから」


 自分で言っちゃったよこの子。

 ユナさんは笑顔のままウェットに顔を向ける。


「どんなことを話してたのか、あとでゆっくり聞かせてね?」


 ウェットが何度も頷いた。明白な力関係だった。


「聞いてはいたけど、良い雰囲気のお店ですね」


 ユナさんが言った。

 聞いてはいたって、ウェットから? そう訊ねると、ユナさんはじろりとウェットを睨んだ。


「いえ、こいつはここに通ってることを黙ってました。昨日問い詰めたら、ようやく白状しやがりまして」

「は、はは……」


 問い詰められたのか。ウェットの空笑いがその厳しさを物語っているようだった。


 ユナさんはウェットを睨んだまま、ウェットの頬に指を突き刺した。ぐりぐりと捻りまで入れている。


「まさかこんなところでリャナンと会ってるなんてね」

「いや、だからそれは誤解ですって」

「へえ。誤解ですか。誤解ねえ」

「……含みのある言い方ですね」

「含ませてるもの」

「……そうですか」

「リャナンが自慢げに『私ね、最近はウェットさんと仲良くさせていただいてますの。静かな雰囲気の良いお店で、ふたりでお喋りをしたりしてね』とか言い出したときには、どうしてくれようかと思ったわよ。あんたを」

「ぼくですか」

「さすがに女の子を殴るわけにもいかないでしょう」

「ぼくは殴られるんですか」

「場合によってはね」


 なにこの痴話喧嘩。僕、叫んでいいかな。目の前でいちゃつくんじゃねえって叫んでいいかな。


 そんな会話がしばらく続いたあとに、薄紫色の髪をした女の子が来店した。身長が高く、長い髪が背中で波打っている。以前に何度か、ウェットの隣に座っているのを見た覚えがあった。どうやら彼女がリャナンさんらしい。


 リャナンさんが無理やりウェットたちと合流して、ユナさんが不機嫌になって、ウェットを挟んで口喧嘩を始めて、ウェットが胃を押さえて。なんというか、イケメンちくしょう。


 ウェットがしきりに何かを求めるような瞳でこちらを見てきたので、僕はにこりと笑っておいた。



<七日目>

「ふーん。あんたがねえ」


 店の横手に積み上げた空き箱やらの荷物を整理していると、見知らぬ少女に声をかけられた。色素の薄い金髪を右耳のあたりで縛っている。サイドポニーとでもいうのだろうか。特徴的な髪型だった。思わずひっぱりたくなる。


 10歳くらいのその子は腕組みをして、木箱の上に立っていた。


 それ、うちのだよね? と声をかける。


「そんなことはどうでもいいの! ちゃんと返事してよね!」


 そう言われても。

 落ちたら危ないよ? と言ってみる。


「ふふん、誰が落ちるって? もしかしてそれはあたしのこと? このあたしのこと?」


 胸に手を当てて、ふんぞりかえる女の子。

 僕はちょっとだけ考えてしまう。この子、めんどくさそうだな。もう店の中に戻っちゃおうかな。


 と、急に女の子が乗っていた木箱がガタガタと揺れだした。


「えっ、わっ、わあ!?」


 べたーん。

 急いで飛び降りた女の子だったけれど、着地でバランスを崩して顔面から倒れこんだ。言うわりに運動神経はよろしくないらしい。


「シュイ、ださい」


 揺れが収まった木箱のうしろから声。目をむけると、銀髪の女の子が出てきた。どうやら木箱を揺らしていたのはこの子らしい。


 その子が倒れたままの金髪の子に近寄り、すぐ横にしゃがみこんだ。つんつんと人差し指でつつく。


「だからやめたほうがいいって言ったのに。落ちるから」

「あんたが落としたんでしょうが! あたしは落ちたんじゃなくて落とされたの! あんたにね!」

「えっ」

「その不思議そうな顔はなに!? やってないとでも言うか!?」

「わたしじゃ、ないのに」

「嘘つくなっ!」

「本当は……」


 と、銀髪の女の子が不意に僕を見た。その視線をたどり、金髪の子まで僕を見る。首を傾げていたけれど、はっとした表情。そして「まさか」と呟く。


 金髪が立ち上がり、僕を睨んだ。


「あんたがやったのね!」

「ごめん、つい出来心で」


 なんとなく謝ってみた。


「あんたにできるわけないでしょうが! なに嘘ついてんのよばか! 最低ねっ!」

「さいてーね」


 ええっ。


「ったく、ニニもいきなり揺らさないでよね。落ちそうになったじゃない」


 え? 落ちてたよね? びたーんて落ちてたよね? なかったことにするつもりだろうか。


「ごめん、つい出来心で」


 ああっ、僕の台詞がパクられた。

 ふたりは積み上げた木箱を崩し、元あった場所に直した。あ、そこは律儀なんだ。


 片付け終わって、改めて向かい合う。金髪の子が腰に手を当て、僕を指差した。


「改めて! あなたがジクの料理を作ったという痛い痛い! 指が曲がっちゃいけないほうに曲がる!」

「人を指差しちゃだめ」

「わ、わかった! わかったから離して!」

「ん」


 金髪の人差し指を握って、上にぐいっとやっていた銀髪の子が手を離した。痛みに手をさすっている金髪を尻目に、こちらにすたすたと近寄ってくる。眠たげな瞳で僕を見上げる。


「あなたがジクの料理を作った人?」


 ジクの料理?

 そこで思い出す。そういえば、ノルトリにジクの料理を作ってくれと頼まれたことがあった。たしかお弁当で3人前。もしかして、この子たちの分だったのかな。


 僕が頷くと、女の子はぺこっと頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


 は、はあ。お粗末さまでした。

 女の子はそれだけ言って、金髪の子のところまで戻っていく。マイペースな子だな、と思う。


 再び金髪の子が僕に向かって啖呵をきりだしたので、僕はめんどくさくなって言った。

 とりあえず、中に入ったら?


 店の中に入って椅子に座っても、金髪の子がなにかを言いたそうにしていたので、餌付けでごまかすことにした。お子様ランチを作る。旗さえあれば全ての問題は解決するはずだ。


「美味しい……」

「うん、美味かな」

「ほう、こりゃうまいのう」


 待てじじい、なぜそこに座っている。


「ひょ? 最初からいたぞい?」


 ゴル爺がお子様ランチをぱくぱくと食べている。あれ、おかしいな。いつの間にゴル爺の分まで作ったのだろう。


 首を傾げる。記憶にないのだけど、まあいいか。


 子供ふたりがお子様ランチを食べている。じいさんひとりもお子様ランチを食べている。僕は全てを許容することにした。


「わっ、この旗かわいい! ……って待てえ! 危なかった! すごく危なかったわ! いつの間にか誤魔化されるところだった!」


 ちっ、気づいたか。


「これは餌付け」


 ちっ、そっちにも気づかれたか。


「ユウちゃん、ご飯はまだかのう?」


 おじいちゃん、今食べたばかりでしょ。


「油断も隙もないやつね! あたしはね、あんたに言いたいことがあるの!」

「ご飯、美味しかった」

「そう! ご飯美味しかったわ! 甘い卵焼きなんて初めてだったけどこれが中々――って違う!」

「ユウちゃん、甘いお菓子はないのかのう?」

「そうよ! お菓子はないの!? お菓子も美味しいって聞いたんだけど――じゃない!」

「彼女はいないけど」

「あ、そうなんだ。でもそのうち良い人ができるでしょ、ってそんなこと聞いてないわよっ!」


 ばんばんと平手でテーブルを叩く。ノリの良い子である。

 銀髪の子が楽しげにこちらを静観している。ゴル爺は秘書さんに引きずられて行く。


「だからあたしは!」

「あなたのことが?」

「す、好き……とでも言うと思ったか!」

「と思わせて?」

「やっぱり、好き……じゃないわよ!」

「べ、べつにあんたのことなんか」

「好きじゃないんだからねっ!」


 僕はぐっと親指を立てた。

 銀髪の子がぱちぱちと拍手をしてくれる。


「あー! 調子狂うぅ! あんたね! 人の話はまじめに聞けって先生に言われたでしょ!?」

「人を指差しちゃだめって先生に言われたでしょ」

「痛い痛いごめんなさい!」


 金髪が僕を指差し、その指を銀髪が捻った。なんという素早さ。


 ずいぶんと騒がしくなった店内に来店客。ぎゃあぎゃあとやっているふたりを無視して目を向けると、入ってきたのはノルトリだった。


 いらっしゃい、と僕が言う。


「あ、ノル! あんたからもこいつに何か言ってやって! あたしの話をまじめに聞かないのよ!」


 と金髪。


「やほ」


 と銀髪。


 そのふたりに煩わしそうな目を向けてから、ノルトリはカウンター席の窓際から二番目に座る。僕が出したジュースを一口啜って、ぴたりと動きを止めた。


 ギギギと錆付いた動きで隣を見る。いるのは金髪と銀髪。三人の視線が絡んで、少しの沈黙。


 尻尾をピンと張り、耳を立て、跳ねるようにノルトリが立ち上がった。ふたりを指差し、ノルトリが珍しく叫ぶ。


「な、なんでいるっ」

「人を指差しちゃだめだってば」

「……いたい」


 賑やかだなあ。



<八日目>

「がはは、こんな嬢ちゃんが俺に勝てるってか」


 夜の帳が落ちる頃。豪快な声が店内に響く。

 入り口に髭面の大男。手には酒瓶。酔っ払いだろうか。


 めんどくさそうだなと思いながら、僕は磨いていたコップを置いた。


 どしどしと歩いてきたその男が、カウンターの椅子を引っ張り出してどすりと座る。


「さあて、やろうじゃねえか」


 えっと、なにをでしょうか。


「あん? チェスに決まってんだろ。殴りあったって勝負は見えてらあ」


 男は答えて、懐から折りたたみ式のチェス盤を取り出した。ポケットからは汚れた袋。中に入っているのは古びた駒だった。


 手際よく駒を盤上に並べていく男を前に、僕はまだ状況を理解できていない。


「それで、嬢ちゃんはなにを賭けるよ?」


 か、賭ける?


「当たりめえだろ。遊びでチェスやってどうすんだよ」


 平然と言われる。


 たしかに、この世界で賭けチェスは当然のように行われているらしい。チェスは時として賭博のひとつとして数えられる。けれど、だからってなぜ僕がそれをしなければならないのだろう。


「あー、あれだ。昨日の昼にな、金髪のガキを捻ってやったんだがな。そいつが言うわけだよ。確かにアンタは強いが、この店の店主よりは弱いってな。そう言われちまったら引けねえだろ? この店見つけるのに時間掛かって昨日は野宿しちまったけどなあ。がはは!」


 とりあえず、声がでかい。あと金髪のガキってキールか。キールなのか。

 弱いのになんで賭けチェスなんかやるのだろう。まったく。


「それで、何を賭けるんだ? 金か、石か?」


 鋭い瞳でこちら見る男に、僕は首を振る。

 賭けチェスはしないと答える。


「ああん? しないだあ? なにを腑抜けたことを言ってやがる。こちとらわざわざ嬢ちゃんに会いにきたんだぜ? 相手すんのが礼儀ってもんだろ? ああ、それともお前はあれか。怖くて勝負ができねえのか。とんだ腰抜けだな」


 くつくつと男が笑う。馬鹿にした笑い。こちらを挑発するための笑い。

 仕方なく、僕はポケットから銀貨を一枚取り出した。


「……おいおい、それはねえだろ。面白くねえ。ああ、ひとつも面白くねえな」


 じゃあ諦めてくれません? と訊いてみる。


「やるまでここに居座るが、それでもいいか?」


 と答えられた。

 安い賭け金じゃやらない。つまらなくてもやらない。そしてやるまで帰らない。めんどくさいなあもう。

 

 はあと息を吐いて、僕はカウンターの奥からひとつの石を取り出した。ファルーバさんから貰った、紅涙と呼ばれる原石だ。それを男の眼前に置く。


 男は石をひと目。口角を髭ごと吊り上げた。


「いいねえ。心躍るほど高額の賭けだ。人生はこうでなくちゃなあ」


 男は懐を漁り、手に何かを掴んで取り出した。それを、僕が差し出した石の隣に並べる。

 真っ黒な石だ。黒の絵の具を溶かしたように単色でありながら、透き通る輝きを宿した不思議な色合い。


「星影っつう石だ。ちょいと小せえが、希少価値はこっちのが高え。値段はどっこいどっこいだろうよ」


 男は酒瓶を煽り、ぐいと腕で口を拭う。


「さあて、やろうじゃねえか坊主。人生楽しまねえとなあ!」


 僕は無言で椅子を持ってきて、男の正面に座る。


 この人、僕が男と分かっていながら、今まで「嬢ちゃん嬢ちゃん」と呼んでやがった。ちょっとかちんときた。


 ぜってえ負けねえからな。



「がははは!」と笑いながら、男は帰っていった。

 僕は椅子に座ったまま、カウンターに肘を付いて頭を抱えた。

 しまった。手に余る石が二つに増えてしまった。どうしよう、これ。



<九日目>

 美味しそうな料理が並んでいる。原材料はよく分からないけれど、匂いだけで食欲がそそられた。


「相変わらず体が細いねえあんたは。もっとしっかり食いな!」


 恰幅の良いおばちゃんが、僕の前にどんと皿を置いた。手羽先のようなものが山と積まれている。


 こんなに食べられませんよ、と苦笑する。


「残したらぶん殴るからね」


 僕の背中を叩きながら笑って、おばちゃんは他のお客さんのもとへ行った。


 おばちゃんの切り盛りする小さな食堂は、僕の店のほど近くにあった。美味しいし安いし、なによりおばちゃんの雰囲気が良いので、僕は気に入っている。


 喫茶店を開くときに相談したところ、おばちゃんは食材の仕入れ先を紹介してくれた。この世界の基本的な料理や、調味料、魚のさばき方などを教えてくれた。他にもいろいろなことで本当にお世話になった。だからおばちゃんには頭が上がらない。


 とりあえず肉の山を胃袋に移していると、おばちゃんが前の椅子に座る。

 あれ、お客さんは? と店内を見回すと、他には誰もいない。


「もう昼時も過ぎたからねえ。静かなもんさ」


 なるほど。頷いて、今度は魚料理に移る。全体的に黒い。焦げているのではなく、黒身魚である。見た目はきついけど、身は舌の上で溶けるように柔らかく、鼻に抜ける独特の後味が癖になる。


「そういや、まだひとりでやってるのかい?」


 おばちゃんがにこにこと笑いながら僕を見る。


 子供の相手をする親戚のおばちゃんという感じ。その瞳にちょっと戸惑いを覚えつつ、僕は頷いた。


「そろそろお客さんも増えてきたんだろ? ひとりで大丈夫かい?」


 最近、口コミでうちの店が知られているらしい。確かにお客さんは増えつつあった。今はまだ大丈夫だけれど、やがては従業員のひとりでも雇わないと、少しキツイかもしれない。


「人手がいるときは呼びなよ? 料理ならいくらでも作ってやるからね!」


 僕は笑顔で頷いた。

 おばちゃんはとても頼もしい。そして、懐かしいほどに暖かい。その人柄が、心地よかった。


 ああ、そうか。


 ふと僕は納得した。


 おばちゃんの料理は、おふくろの味なのだ。味付けとか、素材とか、そういうことを越えて。懐かしくて、優しい味。誰かと食卓を囲んで笑いあって食べる。そんな暖かい料理。


 少し熱くなった目頭をこすって、僕はスープを啜った。



<最終日>

 日記を書くのも飽きたので、今日でやめようと思う。

 長続きしないのも日記の醍醐味だから、まあいいんじゃないだろうか。


 今日はこれでおしまい。明日のために早く寝よう。

 明日も良い日になりますように。



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