第16話 吾輩は猫かもしれない
我輩は誇り高きラーオン族の純血種である。名前は猫である、らしい。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。といっても、単に忘れただけなのだが。自分の生まれた場所など、いちいち覚えてはおれぬのだ。
我輩の身には、誇り高きラーオンの純血が流れている。獣人というのは血に混ざり物のある劣等種であるから、今となっては我輩の存在は真に稀有であろう。あっちもこっちも人の形をしたものばかりで、誇り高きラーオン族もまた同様である。我輩は悲しい。
純血である我輩であるから、当然見目麗しい。人間の両の手の平の上にすっぽりと納まる大きさであり、毛はまるで闇を纏ったかのような色つやである。毎日の手入れは欠かさぬので、手触りはふわふわだ。といっても、これは世を忍ぶ仮の姿なのだが。
本来の姿に戻っても何ら構わぬのだが、そうなると様々な不都合が起こってしまう。女子に「かわいい!」なんて抱き上げられもしなくなるだろうし、大きいおっぱいにも小さいおっぱいにも顔をうずめる事ができなくなってしまう。そして撫で撫でもされなくなってしまうであろう。
もちろん、我輩には何の問題もない。だが、この毛を撫でられぬことで涙を流す人間はあまりに多いはずだ。誇り高きラーオン族の純血種である我輩は、実に情け深いのである。
そんな我輩であるが、最近になって名をもらうことになってしまった。
親を知らぬ我輩はもともと、名を持たぬ存在であった。この身に流れる血の誇りだけを知り、その尊さを頼りに生きてきたがゆえ、名などという矮小なものは必要なかったのである。
ある日のことだ。
我輩はあまりの空腹のせいで道端に倒れ伏していた。雨の月と呼ばれるだけあって、半月近くの間ずっと雨が降り続いていた。
ふわふわ感が自慢であった我輩の毛も泥に汚れ、体力は奪われてしまった。道行く人間は少なく、我輩に食事を献上する者たちもまた、この雨のせいで我輩を見つけられないようだった。
そんなこともあって、我輩は情けなくも力尽きてしまったのだ。どこを歩いたのか、どこで足を止めたのかはとんと分からぬ。冷たい雨が体を打ち、身を包む虚無感にも似た寒さを記憶に残している。ふいに我輩を抱き上げた、暖かな手の感触もまた、同様に。
「猫?」
声からして、どうやら若き少年らしい。男には決して触らせぬと決意していたので、我輩はなんとかその手から逃れようとした。例え命に危機が迫っていようとも、我輩に流れる血の誇りがそれを許しはしないのである。
しかし、弱りきった我輩の体はぴくりとも動かぬ。それどころか、体を包む暖かさを心地よいなどと感じてしまったのだ。我輩は情けなかった。よもや、乙女の胸以外の場所でそんな思いを抱くことになるとは。
体は動かず。瞼も重くなる。せめて我輩を抱き上げてくれやがった不埒者の顔を一目と思ったが、それすらも叶わぬことであった。我輩は落ちるように意識を失った。もう目覚めることがないとすれば、我輩の死に場所は男の手の上。悔やんでも悔やみ切れぬ。
ゆえに、我輩は地獄より舞い戻ってきた。死んだわりには黄泉の国というものも見ず、体を離れた実感もなかったが、おそらく死んだはずである。そして我輩の強き意志と強靭な魂によって、奇跡の復活を果たしたのである。さすが我輩、惚れ惚れする。
ところで、ここはどこであろうか。
雨によって灰色に染められた世界は、本来の色鮮やかさを取り戻していた。凍えるような寒さは、心蕩けるような暖かさに移り変わっている。
よくよく見れば、我輩は真白い布で包まれていた。柔らかな布が敷き詰められた籠の中に身を横たえ、その上にも布が掛けられている。部屋の隅では、暖炉の中で火石が煌々と熱を放っていた。
少年の手に抱き上げられたことは覚えていたが、こんな部屋はとんと見覚えがなかった。暖炉の前にはチェス盤の置かれた小机があり、それを挟むように揺り椅子が2つ並んでいる。目立つものはそれくらいで、あとは寝具と大きな収納棚、我輩が乗っている机くらいしかない。窓はあるが、透明度などないに等しいので、外ではまだ大雨らしいということしか分からぬ。
どうやらこれ以上考えても、新しい発見はなさそうであった。
諦めの良さもまた我輩の美点である。それに、この暖かさは中々に心地良くて離れがたい。
布に顔を埋め、尻尾をゆらゆらとさせてくつろぐ。見知らぬ場所でここまで心安らかに寛げるのは我輩くらいなものだろう。
しばらく夢見心地に寝ていると、扉が開いた。
そこから入ってきたのは若い女子であった。いや、これは男だろうか。なんと、この我輩が判断に迷うような容姿であった。
髪は長くもなく、短くもなく。我輩ほどではないが、美しい黒色をしている。瞳は大きく、その色は月夜の闇を湛えたようだ。体は小さく、盆を持つ手指は細い。やはり女子だろうか。しかしあの、あまりに平坦な胸は……いや、我輩は胸に貴賎があるとは思わぬ。たわわであれば良いというものではないのだ。
判断に困って首を傾げたままの我輩に気付いたらしく、少女か少年は声を漏らした。
「よかった。起きたか」
この声は、あの時に我輩を抱き上げた者ではないか。むう、少年であったか。
我輩が落胆していると、男らしからぬ容姿をした少年が我輩のもとへとやってくる。その手にある盆の上には、湯気を立てる皿があった。ほのかなミルクの香りが、空っぽの胃袋を刺激する。
「とりあえずミルク粥を作ってみたけど……食べるかなあ。ジジは食べてたんだけど」
ジジが何者かは知らぬが、心配せずともよいぞ少年。我輩、好き嫌いがないのが自慢である。味が良いならなんでも食べるぞ。
落ち着いた動作で、少年は我輩の籠の前に皿を置いた。真白いミルクの中には、粒々とした穀物がある。この地方では珍しい物ではあったが、我輩はそれの名を知っていた。コメと呼ばれるものだ。もっとも、コメをミルクで煮るという料理があることは知らなんだが。
味について多少の不安はあれど、空腹には耐えがたい。体を起こし、籠から机の上に足を降ろす。体の芯に寒さが残っていたが、暖められた室内のおかげで辛くはない。それよりも食事である。
「お、元気だなあ」
机と揃いの椅子に腰掛け、少年が笑みを見せる。浮かべた笑みを見るに、悪しき人間ではないようだった。
我輩の体ほどの大きさがある皿に近づき、湯気の中に顔をつっこむ。濃厚なミルクの香りが鼻孔を膨らませ、我輩の食欲は留まることを知らぬ。我輩は貪るように舌を伸ばした!
「にゃぁ!?」
熱っ! ちょ、めっちゃ熱っ!
食欲に背中を押されるままに行動してしまったが、我輩、熱いものは食べられないことを忘れていた。なんたる失態。ええい少年よ、愉快そうに笑うでない。我輩は楽しくも何ともないぞ。
できれば冷めるまで置いておきたいところであったが、それは我輩の矜持が許さぬ。ちょっとばかし熱いだけのミルク粥に、灼熱の情熱を身に秘めた我輩が劣ることなどあってはならぬのである。お腹も空いているのである。
舌の火傷を瞬時に癒した我輩は、慎重に皿に近づく。我輩は同じ過ちを侵すことのない存在である。そのような愚かさは持ち合わせておらぬのだ。ふうふうと息を吹きかけて熱を飛ばし、ミルクを舐める。
舌の上に広がるのは焼けるような熱さ。しかし、それよりも強く我輩を支配するものがあった。コメは舌の上で噛むまでもなくとろけだし、ミルクの芳香と混ざり合う。口の中を満たすあまりに凝縮された味のかたまりは、しかしすぐさま消え去ってしまう。後に残るのはミルクの爽やかな香りだけであった。
――うまい。
くどさを感じさせるぎりぎりの濃厚さでありながら、ふと気付けばもうどこにもいない。あれほどの存在が、かすかな残り香だけになっている。いくら探せど、もうどこにも見つけることはできない。そのもどかしさと言えば、うまいというよりも、もはや快感である。
我輩は熱さも忘れ、粥を貪った。舌が焼ける度に治癒し、突き抜ける熱さとミルクの香ばしさに身を浸した。食べるごとに体の奥底がゆっくりと温まり出し、活力がみなぎって来るようだった。ああ、こんなにうまいものが存在していたとは。
瞬く間に我輩は皿を空にした。腹は温もりで満たされ、緩やかな眠気が体を包んでいた。寒さの中で襲われた冷たい眠りではなく、安らかな春の日差しの下で身を横たえるような、暖かい眠りであった。
満腹になった我輩は少年に頭を下げることで礼を見せ、それからまた、籠の中へと戻った。布の中に潜り込むと、すぐに意識は沈んでいった。眠りに落ちる寸前、少年の手に撫でられた気がする。まあ、よかろう。美味なる食事の対価だ。我輩の毛並みの良さに惚れ惚れするがよい。
それからしばらく、我輩はこの少年と住居をともにすることにした。
相変わらず雨が続いていたという理由もあったが、少年の料理があまりに美味だったもので、我輩はちょっとばかし少年から離れられなくなっていた。恐ろしい中毒性だ。
少年は、喫茶店というものをやっているらしいことが分かった。もとは酒場と宿屋を合わせたようなものだったらしいが、今は宿屋はやっていないようだ。2階に存在するいくつもの空室が、静かな暗闇を湛えている。
ひとりの人間にここまで密接して生活を覗く機会も珍しいので、我輩はこの少年を観察してみることにした。純血である我輩にとってみれば、種を異とする人間の生態は実に興味深い。
喫茶店とやらの片隅に寝転んで、客と少年のやり取りを聞くうちに、いくつかの情報を得ることができた。
まず、少年の名はユウというらしい。古きラーオン族の言葉で「凶悪なうさぎ」という意味であったはずだが、人間の言葉ではどういう意味なのであろうか。まあ、響きは悪くなかろう。
ユウという少年は、ひとりで暮らしているようであった。人間では15、ラーオン族では13で成人と認められるゆえ、不可解というわけではない。我輩から見ても、少年は中々に優れた人間であるように思えた。日々の炊事と掃除、店の経営、接客。ひとりでするには大変であろうそれらを、少年はよくやっている。客のくだらぬ話にも耳を傾け、老人の生産性のない昔話にも笑顔で対応し、幼子らの相手も嫌な顔ひとつせず務めている。しかし我輩がなにより驚かされたのは、その少年の高潔さであった。
ある時、質の良い服を着た裕福そうな商人が銀時計を忘れて行った。精巧な細工の施されたそれは、さぞ高く売れることだろう。時計というのはそれだけでも高価なもので、銀製ともなれば値段の桁が変わる。
我輩はなんとはなしに少年がその時計を手に取るところを見ていた。なんら疑問に思うこともない。少年はそれを自分のものとし、売り払うなりなんなりとするのだろう。忘れていく人間が悪いのだから。少なくとも、我輩が今まで見てきた人間は、そのようにしてきた。
けれど少年は、それをカウンターの後ろにある棚の目立つ場所へと置いた。なにをしたいのか我輩には分からなかった。少年の真意を知ったのは、その翌日のことだ。あのときの商人が再びこの店にやってきた。少年に時計を忘れていないかと訊ねるその顔は、諦観に満ちていた。
当然だろう。無くした金目の物が戻ってくるなど、首都であってもほとんどあり得ぬことだ。商人もそれはよく知っているはずだった。それでも諦め切れぬほどに、あの時計は大事なものらしい。
ゆえに、少年が銀時計を差し出したときの商人の喜びようはなかった。髭面を喜色に染め、飛び上がらんばかりに興奮し、少年の手を握りしめて礼を言う。果ては礼金を払うとまで言い出した。
少年は首を振った。
当たり前のことをしただけだから、お金はいらない。そう言った。
尚も商人は金を払うと言いすがったが、少年は頑として首を振らなかった。商人というのは他人に借りを作りたがらない人種だ。それが後々にどんな損害を生むかを知っているからである。金はいらぬと言う少年に、商人も困っているようであった。
そんな商人に向けて、事態を見ていた客のひとりが言った。
マスターはそういう人間だから、何を言っても無駄だよ。
店内のそこかしこで、老若男女の客が同意するように笑った。馬鹿にしてからかう笑いではなく、少年の人柄を快いものと認めた笑いであった。
商人もついには諦めたようで、取り出していた財布を懐に収めた。代わりに、こんなことを言い出した。
なにか必要なものはないか。私は商人だ。なんだって手に入れてみせる。
少年は悩んでいたようだが、断っては商人も納まりがつかないことを見て取ったのだろう。それならと了承した。そのままいくつかの商談が交わされたが、商人が提示した金額は、いずれも通常より安価であった。
そのことを少年が指摘したが、商人は笑って言った。良心ある人間とは良心ある取引を、これが信条なのだと。
見事な細工のされた銀時計を持つ人間だ。優れた商人なのだろう。そういった者と取引ができることは、少年の考える以上に価値のあることだった。
他人のものに手をつけず、それを当たり前と言った少年の良心に、商人も応えてみせたのだ。
少年は簡単にやってのけたことだが、それができる人間は多くはいない。我輩にとっては金銭など無意味であるが、人間はそれを非常に価値あるものとしているからだ。金さえあれば人生が豊かになり、最上の幸せを味わえると信じているらしい。ゆえに、ひとたび金が絡めば、人間は知識ある動物へと成り下がるものだと思っていた。
その日を境に、我輩はユウという人間を別個の存在として見るようになった。
人間を創るのは環境だ。このような動物らしからぬ存在を、金が絡んだとしても知識ある人間であり続けた存在を創った環境に、興味を抱いたのだ。
知れば知るほど、我輩は少年の異様さを知った。
優しさと繊細さ、他人に対する好意や思いやり。人が人を心から信じることが稀少であるこの世界で、少年はまるで汚れを知らぬ純白の布のような存在であった。この世に純粋なる悪など存在しないと、信じているようなお人よしであった。まるで信じられぬ人間だ。争いなど起こらぬ平和ボケした世界で生まれ育ったのではないかとさえ思える。
しかし、その真白さに魅せられた人間が、確かにいた。
馬鹿と付けても過言ではないそのお人よしに、心を許す人間。裏切られることがない、傷つけられることがない。その穏やかさに、人は心地よさを感じていたようだった。誰もがここでは気を抜き、安らかな笑みを浮かべている。近すぎず、遠すぎず、そんな絶妙な心の距離が、人には時に暖かな安らぎとなるらしい。
多いとは言えないが、さまざまな人間が毎日のようにこの店に訪れた。我輩が名を知る者もまた、幾人かいた。我輩ですら知っているのだから、人間はより詳しく知っているだろう。しかし、誰も騒ぎ立てはしなかった。この店の中では、誰もが他人に不用意な干渉をしようとはしない。互いが互いを尊重し、なごやかな空気が流れていた。
そんなある日、真黒のドレスに身を包んだひとりの少女がやってきた。月のない夜の、深く深く光を飲み込んだ色の長髪を持った、年端のいかぬ少女だった。いとけない顔であり、体も華奢であった。しかし我輩は、その存在に血を滾らせた。
我輩の身に流れる古き血が、ラーオンの声が、この者の本質を叫んでいた。
出入り口にもっとも近いテーブルの上で横になっていた我輩は、少女が店内に入った瞬間にすぐさま立ち上がった。
構える我輩を一瞥することもなく、少女は毅然とした歩みでカウンターへと向かった。優雅な動作で椅子に腰掛け、少年に言う。
「お兄ちゃんって、わたしみたいなちっちゃい女の子に欲情しちゃうの?」
……なに?
我輩が言葉の意味を理解する前に、少年が口を開いた。黒の少女に臆することもなく、向かい合い、笑顔で。
「帰れ。その髪で首絞めるぞ」
「……やだもう。冗談なのに」
「お前の冗談は笑えない」
「お兄ちゃんのいけずぅ。ベッドの上ではあんなに愛してくれたのに……」
「よし分かった。いますぐその首絞めてやるから待ってろ」
言うやいなや、少年はカウンターから身を乗りだし、少女の長い黒髪を握った。それを鮮やかな手並みで少女の細首に巻きつける。
「え、あ、ちょっ!? ダメダメダメ! 本気で私の首を絞めようとしないで! マズイから! 私の命もマズイし貴方の世間体もマズイから!」
首に巻きついた自らの髪に危機感を覚えたのか、少女は少年の手を止めようとする。
そのまましばらくの間、少年は本気で少女の首を絞めようとしていたようだったが、少女が巧みに防いでいた。やがて、少年が諦めて手を離した。
「……ちっ」
非常に惜しそうな舌打ち。我輩は少年のことを穏やかな人間だと思っていたが、裏面が存在したらしい。とんだうさぎである。
首元でくしゃくしゃになった髪を手で梳いて整えながら、少女は感心したように呟いた。
「貴方って、ときどき本気でやろうとするから侮れないわ。久々に命の危機を感じたもの」
身に付けたエプロンの乱れを直しながら、少年が胸を張った。
「やるときはやる男だから、僕」
「こんなことで胸を張られても……」
我輩は脱力した。身構えていた自分のなんと滑稽なことか。
その場に再び身を横たえる。
少年に出されたカップから飲料を啜る少女の姿は、何の変哲もない純真な存在に見える。幼さゆえに感じさせる未熟な美しさがさぞ人の目を惹くことだろう。
しかし、やはり我輩の血は警鐘を鳴らしている。あの少女が身に宿す、穢れを訴えている。
少女の本質を判断しかねていた我輩の耳に、ふたりの会話が聞こえてくる。
「それでどう? 考えてくれた?」
「考えるもなにも、嫌だってば」
「あら、悪い話じゃないのに。わたしみたいにかわいくて魅力的な女の子が頼んであげているのだから、男ならふたつ返事で頷くものでしょう?」
「かわいくて魅力的な女の子? え、どこに?」
少年が左右を探す素振り。少女の顔にぴくりと青筋が浮かぶ。
「良い度胸ね、ユウ。現実から逸らされた目を戻してあげるために、今日の夜にでも貴方の部屋にお邪魔してよろしいかしら? 鍵は閉めてくれていて構わないわ。障害があるほど燃えるの、わたし」
少女の目は本気だった。思わず我輩もびくりと背筋を震わせてしまったほどだ。
美しい女子と床を共にするのは男の本懐とも呼べるものだが、それよりも先に命の危機を感じさせる。あの少女に囚われてしまえば最後、死ぬまで自由にはなれないだろう。
少年もまた、男としての本能が危険を感じとったらしい。
「あっ、こ、こんなところにとてもかわいくて魅力的な女の子が! って、誰かと思えばユイじゃないか! あまりに魅力的で気付かなかったなあ!」
「……わざとらしい」
「いや、ほんとだって。僕は嘘のつけない体質なんだ。ユイはかわいいよ。性格がちょっとアレだけどかわいいよ。中身さえ普通だったら目を奪われるくらいにはかわいい。ユイは本当にかわいくて、思わず近寄りがたいっていうか、お近づきになりたくないほどだよ」
「あ、あら、そう? そこまで言うなら信じてあげようかしら」
少女が頬に紅葉を散らし、自らの黒髪を右手でかき上げる。どうやらオツムはあまりよろしくないらしい。
顔を背けて笑いを堪えている少年には気付かず、少女は満足げに優雅な動きでカップを口に運んでいた。
「とにかく、もう少し真面目に考えなさいな。わたしは本気だから」
少女の視線が向けられると同時に、少年は笑みを消して至極まともな顔になった。その変わり様は、一種の特殊技能ではないかと思わせるほどだ。
「だからさ、ユイが本気でも困るって。むしろユイが本気だから困るんだって」
少年に向けて、少女が艶やかな笑みを見せる。子供が浮かべるにはあまりに不相応であったが、少女にはぞっとするほど似合っていた。
「貴方を愛しているの、狂おしいくらい」
話の筋はよくわからないのだが、言葉だけを聞けば愛の告白だろうか。
少女は細指を伸ばし、少年の頬を愛おしそうに撫でた。少年の瞳を絡めとり、妖艶な表情で言葉を紡ぐ。
「だから、わたしのものになりなさい」
我輩は言葉を失った。いや、すごいものだな。中身に宿すものはどうあれ、あの年頃の少女がこうまで言い放つとは。最近の子供はとても進んでいるようだった。少年にちょっとだけ羨ましいものを感じてしまう。できれば、もう少し成熟した乙女であれば文句はないのだが。
あそこまで熱い愛の告白に少年はどう答えるのか。
ちょっとしたわくわくを感じながら待っていると、少年が頬に当てられた少女の手を握った。
「あっ……」
思わず声を漏らす少女に、少年は顔を近づける。頬を鮮やかな色に染めた少女に、真剣な瞳を絡め合わせる。
「ユイ……まさか、君がそこまで僕のことを思ってくれていたなんて。もう我慢できないんだ……目を、閉じてくれるかな」
「……はい」
熱っぽい瞳で、少女は目を閉じた。期待でかすかに息が上がっているようだった。
真昼の純愛劇にわくわくの我輩である。
未熟な美しさを持った少女の唇に、少年が接吻を―――
「いたっ!?」
するわけもなく。
少女の額を、右手の中指で弾いたのだった。込められた力を知らしめるように指がぎりぎりと震えていたから、かなり本気の一撃であったようだ。
鈍い音を放った額を両手で押さえ、少女は痛みにもがいていた。
やがて、頬ではなく額を赤く染めた少女が、目じりに涙を浮かばせて少年をきっ、と睨む。
「な、なにをするのよ貴方は! これが純情清らかな乙女にすることなの!?」
「アホか。純情清らかな乙女が『わたしのものになりなさい』とか言うわけないだろうが! 寝言は寝て言いなさい」
「わたしは本気よ! 本気と書いてマジよ! 貴方はわたしのものになるのっ。わたしに仕えて、美味しい料理を毎日作るのよ!」
「完全にメシ目当てじゃねえかっ!」
「いたいっ」
少年が少女の頭をひっぱたいた。
叩かれた頭をさすりつつ、少女が少年を見上げる。
「なによもう。ちょっとした冗談じゃない」
「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ」
少年が嘆息。うむ、我輩もあれは本気だったと思うぞ。
「あ、でも、貴方のつっこみもちょっと気持ちいいかも……」
うっとりとした表情で、少女がぽそりと言った。
少年のなんとも言えぬ苦い顔が印象的であった。
終始、ふたりが交わすのはそんな会話だった。少年はひどく疲れた様子であったが、少女は楽しげであった。なんだかんだで、勝者は少女のようだ。
「それじゃあ、また来るわね」
「頼むからもう来んな」
「もう、照れやさんなんだから」
頬を染めて言う少女に、少年はもう何も言い返さなかった。どんな言葉も無駄だと悟ったらしい。
少年の反応にくすくすと笑って、少女はこちらへ歩いてきた。扉に手をかける前に、我輩の頭に手を伸ばす。それを避けようとしたが、しかし我輩の体は動かなかった。まるで何かに縛り付けられたように、ぎしりとした感触。
驚きと共に我が身に目をやる。そして我輩は、そこに鎖を見た。気付かぬうちに幾重にも巻きつけられ、我が身の自由を奪う闇の鎖。我輩ですら、強く意識しなければ目にすることすら難しい。
少女の手が我輩の頭を優しく撫でる。その優しさが、理解し得ぬ恐怖を感じさせる。
腰を折って我輩の顔に口を近づけ、浮かべる笑みとは対照的な温度のない声音で少女が囁いた。
「あら、
光の消えた瞳でそう言い捨てて、黒服の少女は去っていった。
薄ら寒いものを感じながら、我輩は小さな背中を見送った。我輩を縛り付けていた鎖は、いつの間にか消えていた。
それからしばらくして、雨の月も終わりを告げた。高く澄んだ青空が広がり、雲が穏やかに流れてゆく。
久方ぶりに喫茶店の外に出た我輩は、半月にも満たぬ時を過ごした場所を振り返った。そこには興味深いひとりの少年が住んでいた。うまい食事があった。暖かな寝床があった。
もうしばらく、あるいは永き時をここで過ごすのも、悪くない。
しかし、我輩は気高きラーオン族の純血である。誰かに与えられるだけの安寧に甘えることは、我輩の誇りが許さぬのだ。許せ少年よ。我輩は今、広き世界へと再び旅立つのだ。大地を寝床に、空を天井として生きて行く。もう会うこともないだろうが、泣くでないぞ。別れこそが人生なのだ。健やかにあれ。
世界に光が溢れ、新たな一日が始まる。
我輩は、この世に刻む確かな一歩を踏み出した。
φ
「ねこー、ねこー?」
ある日の昼下がり。客足が途絶えたのを見計らって、僕は皿を手にして店の裏に立っていた。皿にあるのは秋刀魚に似た魚である。
この世界は不思議なもので、犬とか猫と言った動物がとんといなかった。猫に似た生物(どちらかと言うとタヌキっぽいの)はいるのだけれど、僕の世界にいたような猫は全くいない。猫系の獣人はいるのになあと残念に思っていたところ、ちょっとばかし前に見つけたのだ。正真正銘の猫を。
これがまたかわいいのだ。子猫なのか、体はとても小さくて、黒色の毛はふわっふわである。もふもふするとすごい癒される。
雨の日に拾ったその猫は、2週間くらいそのままうちに住んでいた。
人の目を気にせずに猫耳を好きなだけ撫で撫で出来る機会はそうそうないので、思う存分撫でてしまったのだけれど、思えばそれがいけなかったのかもしれない。ある日、猫はいなくなってしまった。
ちょっとだけショックだった。あのふわふわな毛並みの手触りがちょっとした中毒になっていた僕は、涙をこぼしたものだった。
しかし一週間後、黒猫は何事もなかったようにひょっこりと僕の前に現れた。それ以来、定期的に食事を求めてこの店にやって来るようになっていた。これはあれか、餌付けに成功したのだろうか。
せっかくだから名前でも付けようかと思ったのだけれど、とくに良いのも思いつかなかった。タマとかじゃ面白くないし。結局、僕はいまだに猫と呼んでいる。この世界には猫という存在がいないので、猫だって名前みたいなものだろう。
「ねーこー? にゃー? にゃにゃーん?」
この時の僕の姿は、決して人には見せられない。もし見られようものなら、相手によっては刺し違えようかと思う。
しばらく呼び続けていると、裏路地の方からとことこと小さな黒猫が駆け寄ってきた。どことなく気品のある動きであるが、かわいらしさの方が強い。
しゃがんで、僕の足下までやってきた黒猫に皿を出してやる。猫は僕にお礼を言うように一声鳴いてから、魚をはぐはぐと食べ出した。
僕は猫の頭を撫でる。ああ、すごい癒される。
喉をくしくしと撫でると、猫が目を細めた。
「かわいいなあ」
僕に応えるように、猫がにゃーんと鳴いた。
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