第17話 その日、日常、喫茶店にて
平日の夕方。そろそろ日も暮れようかというところだった。
夕食時が近いということもあって、店内にお客さんの姿は少ない。テーブル席に2人。カウンター席にはノルトリひとりだけだ。
カウンター席の窓際から2つ目。そこがノルトリの指定席だった。学院帰りのようで、ノルトリは白い制服を着ている。雨色の長い髪は首元で適当にふたつに結ばれていて、頭の上には髪と同色の猫科の耳があった。ノルトリの猫耳はいつも気だるげにふにゃんとしているのだけれど、今日は少し様子が違った。ぴくぴくと忙しなく動いている。
「なにかあった?」
コップを磨きながらノルトリに聞くと、耳がぴくりと起き上がる。目からビームでも出して焦げ目をつけようとしているのかと思うほど熱心にテーブルを見つめていたノルトリが、慌てたように僕を見る。
「なんで……わかった……?」
獣人さんって耳とか尻尾に感情が表れすぎだと思う。だけど案外、本人はそのことには気付かないものらしい。
しかし、それを言ってしまってはおもしろくないので、僕はちょっとふざけることにした。
「ノルトリのことならなんでもお見通しさ」
キリっ。
つっこみは期待できないだろう。しかしノルトリのことだ。きっと鼻で笑ってくれるに違いない。と思っていたのだけれど。
「……そっか」
頷いて、視線を落としてしまう。え? あれ? ちょっとちょっとノルトリさん。なんでそこはかとなく嬉しそうなのでしょうか。なにこれ。放置プレイ? そんな反応されたら僕がすごい気障な男みたいじゃないですか。
なんでもお見通しさってなんだよ。くっさ。
仕方ないので自分でつっこみをいれておいた。なんて寂しい。
「あの、ね……」
言葉を迷うように何度かココアで唇を濡らしてから、おずおずとノルトリが言った。
僕は首を傾げることで続きをうながす。
「えっと…………うぅ……」
ノルトリはもにょもにょと言葉を濁らせた。それだけでは間が持たなくて、テーブルの上に置かれたココアのカップを回したり、傾けたりしていた。傾いたカップがカタンという音を立てて元に戻って、その音がノルトリを決心させたらしい。
猫耳をぴんと立たせて、ノルトリが僕を見上げる。
小さな口がついに開かれようとしたまさにその瞬間、扉が開いた。カランカランというドアベルがお客さんの入店を知らせて、そのついでとばかりにノルトリの言葉を飲み込んだ。
ノルトリの「呪い殺すぞてめえ」という鋭い視線をたどるようにして、僕も視線を移す。入ってきたのは、メイドさんだった。
「こんにちは」
僕の視線を待って、ニーナはぺこりと頭を下げた。肩の下まで真っ直ぐ伸びた黒髪が重力に引かれて流れ落ちる。白いフリフリが付いたカチューシャみたいなやつに、紺色のメイド服。むかしテレビで見たメイド喫茶というところのメイドさんよりも、随分と控えめなデザインだった。といっても、向こうは所詮コスプレで、ニーナは本物のメイドさんだ。こっちが正統派である。
「いらっしゃい。いつものでいいんだよね?」
ニーナの来店の目的は分かっていたことなので、僕はノルトリに「ちょっとごめんね」と声をかけてから、カウンターの奥へと向かう。そこは倉庫みたいになっていて、買い置きの食材や使わない食器類、大型冷蔵庫なんかもある。
目的のブツは、入ってすぐの所に置いてあった。雨が降り出す5分前の空みたいな色をした、壷型の大きな容器。密閉されたその中に入っているのは、僕特製のブレンド豆である。
それを白い布袋に詰めると、一抱えもある大きさになった。見た目はスーパーに売っている米袋そっくりだ。
ずっしりと重たい袋を抱えながら表に戻って、僕は目を丸めることになった。
「フーッ!」
「ぴぃっ!」
「……なにやってんの?」
ニーナの前。ノルトリがニーナを睨み上げて唸っていた。というより、威嚇?
「ゆ、ユウさん! 助けてくださいぃ!」
両手をわたわたさせてニーナが僕に言う。目じりにはちょっと涙が浮かんでいた。えっと、君ってたしか僕と同じくらいの年齢だったよね? 10歳の女の子に威嚇されて半泣きって、これ如何に。
「フーッ!」
「ひぅっ! 理由はわからないけどごめんなさいぃぃ!」
とりあえずため息ひとつこぼして、僕はカウンターに袋を置いた。それから、壁に追い詰められてついには頭を抱えてしゃがみこんでしまったニーナと、何故かやる気満々で威嚇しているノルトリの所に行く。
「こらこら。威嚇しないの」
ふーふー唸っていたノルトリの頭に手をやると、猫耳が僕の手を挟み込むように動いた。なだめる様に頭や耳をなでてやると、やがてノルトリの声が収まり、ごろごろと喉を鳴らしだす。ちょっとだけ、このままずっとなで続けたい衝動にかられてしまう。
「なんでこんなことしたの?」
しゃがんで、ノルトリに視線を合わせて訊く。
ノルトリは気まずそうに僕から視線をそらして、ぽつりと言葉を投げた。
「……邪魔、した」
「邪魔?」
何かを言おうとして、けれどノルトリの口からは何も出てこなかった。それでもじっと見つめて待っていると、ノルトリの視線があっちこっちに忙しなく動きだす。どことなく顔まで赤くなってきたようだ。「ぁ、ぅ」と言葉を探して、けれど結局、そっけなく一言。
「……べつに」
僕が何か言うよりも早く、ノルトリはおずおずとこちらをうかがっていたニーナをひと睨み。鋭い視線に、ニーナは再び「ひぅっ」と怯えて頭を抱えてしまう。
そのままノルトリはカウンターに戻って、指定席に座ってしまった。
どうしたのだろうか。ノルトリにしてはとてつもなく珍しい行動だった。というか、まったく状況が分からないのだけれど。
なにがどうなって、何が「邪魔」なのか。もうひとりの当事者であるニーナに聞けば分かるかもしれない。そう思って、隅っこでぷるぷると震えていたニーナに近寄り、肩を叩く。
「えっと、ニーナ?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ」
めちゃくちゃ怯えていた。
さすがにちょっと心配になって、ニーナの肩をゆさぶる。
「おーい、僕だってば。人畜無害のユウくんですよー?」
ぴたりとニーナの震えが止まり、おずおずと僕を見る。
「……ユウ、さん?」
「うん」
なぜか、しばらく見つめ合う僕ら。なにやってんだろ。
ニーナって睫毛長いなあとか、顔ちっさいなあとぼんやり考えていると、ニーナの体がカタカタと震えだし、瞳がじわあっと潤む。ええ? なんで?
刹那。
僕の視界から、ニーナが消える。
――なっ!?
この距離で姿が消えるわけがない。僕の頭の中で冷静な自分がそう言った。けれど僕は確かにニーナの姿を見失っていた。この距離でありながら、ニーナは僕の視界の闇に潜り込んだのだ!
「怖かったですーっ!」
「げふぉっ」
ニーナの頭が僕の腹部にめり込んだ。抱きつくというか、これはもはやタックルである。いや、かわいいメイドさんに抱きつかれるのはね、そりゃ嬉しいですけど。なんでこの子、タックルする時に一瞬消えるんだろう。わざと? 僕の不意を突くためにやってるの? 見えないからさ、気付いたらお腹にめり込んでるんだよね。
僕はその場に膝から崩れ落ちた。
φ
「本当にごめんなさいっ!」
地面に頭を叩き込む勢いでニーナが頭を下げた。動きに合わせて黒髪が宙を舞い、僕の顔をぺしりと叩く。
「ああっ、ご、ごめんなさいぃ!」
それに気付いたニーナが目に涙を浮かべ、首元で髪を押さえて再び頭を下げた。
「……まあ、気にしない方向でいこう」
カウンター席の窓際から三番目。ノルトリの隣に腰を下ろした僕は、鈍い痛みが残るお腹をさすった。気にしないというには少しきつい。けれど、僕が一言でも責めようものなら、ニーナは死んでお詫びしますとか言い出しかねないのである。
「で、でもっ」
「大丈夫だよ。つっこみには慣れてるし」
それにだ。
大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて謝る美少女メイドさんを前にして、「いたたたた。これは骨が折れとるわあ。姉ちゃん、どないしてくれんの?」とか言えるだろうか、いや言えない。かわいいは正義である。
「ユウ……」
隣から、ノルトリが自分のココアを差し出してくれる。お腹の奥からこみ上げてくるものがあったので、僕はそれをありがたく受け取ることにした。
「ちょっとだけもらうね」
一口。甘いココアを飲み込むと、お腹も少し落ち着いた気がした。
「ありがと」
ノルトリの手にココアを返す。
ノルトリは僕から受け取ったカップを両手で包むようにして持ち、興味深げにそれを見つめた。じーっと観察している。なにかあるのだろうか。もしかしてちょっと飲みすぎちゃったかな。ごめん。
「なるほど……ユウは、意外とこういうことには無神経……」
えっと、なにが?
思わず訊ねてしまう。
ノルトリから返ってきたのは「べつに……」の一言だけで、そのまま何事もなかったようにココアに口をつけてしまう。なんだったのだろうか、いったい。
「あ、あの、ユウさん。お代金を」
僕とノルトリのやり取りを、隣の席で居心地悪げに見ていたニーナがおずおず切り出した。そういえばふたりは面識なかったんだっけ。
蚊帳の外に置いてしまっていたことを謝ってから、コーヒー豆の今週の値段を告げる。
「あ、やっぱりお安いですね」
ちょっとだけ驚いた顔でニーナが言う。やっぱりって、君は毎週買いに来てるでしょ。
「先週、お休みなされていたでしょう? だから他のお店で買ったのですけど、ここの倍くらいのお値段でした。それに、その……お味のほうも、ちょっと……」
へえ。やっぱり他はそんなに高いのか。
僕の店が他よりもお安く売れるのは、ひとえにカントさんのお陰だった。カントさんは海運貿易なんかをやっている商人さんで、いろいろなものを安く売ってくれるのだ。以前、うちに時計を忘れていったことがあって、それが縁で知り合ったのだけれど、その時から良くしてもらっている。
仕入れた豆の中から僕に好きなやつを選ばせてくれたり、お値段がすごく良心的だったりで、うちの店は彼のおかげで持っていると言っても過言じゃなかった。
この世界で、コーヒー豆は総じて高い。本当に高い。ぶっ飛ぶほど高い。味の良し悪しに関係なく、質の良し悪しも考慮せず、平均的に高い。というのも、コーヒー豆は海の向こうの大陸でしか採れないとかで、主に輸送費に金が掛かっているらしいのだ。しょっぱい話である。
だから、良い豆を他よりも安い値段で提供することのできる当店は、コーヒー好きの人にはたまらないらしい。でも、ひとつ疑問。
「もっと良い豆とか買わないの? ニーナの雇い主さん、お金持ちなんでしょ?」
わざわざこんなちっさい店から買わなくても、商人から一級品を直接買い付ければいいのに。
僕がそう言うと、ニーナは笑ってみせた。
「旦那さまが仰っていましたよ。やっぱりこの店のコーヒーが一番うまいって」
「それはまあ、嬉しいけど」
「あと、週ごとに微妙に味が違うのも良いって」
「いろいろ試してるからねえ」
「お屋敷でも人気なんですよ、ユウさんのコーヒー。なんたってあのメイド長が楽しみにしてるんですから!」
「ごめん。あのメイド長、って言われてもよくわかんない」
苦笑して言うと、ニーナがちょっとだけ頬を赤くしてまた謝ってくる。いやいや、謝るほどのことでもないってば。気にしすぎです。
僕が笑うと、ニーナはまた顔を赤くして、今度はわたわたと手を振り回す。何度も言葉を詰まらせてから、ようやくこんなせりふをしぼり出した。
「えっと、だから、その、私が言いたいのは、ユウさんが大好きなんですっ!」
わあ……。
人生で初めて女の子から大好きなんて言われてしまった。おまけに、相手は黒髪の清楚系メイドさん。もちろんテンションは有頂天……というわけでもない。まあ、あれだ。いつものことなのだ、この子の暴走。誤解するだけ疲れる。
どうせあれでしょ? ユウさん(のコーヒー)が(みんな)大好きなんです、とかでしょ。分かってるって。
そんな感じの生暖かい微笑みで待っていると、ニーナの動きがぴたりと止まる。自分の発言を理解したらしい。固まった顔の首元から、じわじわと真っ赤に染まっていく。
「――ぴ」
「ぴ?」
「ぴええええええええええええええ!?」
「こっちがぴええだよ」
ニーナの口からふっ飛んできた鳴き声に、思わず冷静につっこみをいれてしまう。
僕の目の前で、顔をゆでだこにしたニーナが涙目で両手を振り回し始めた。
「ちがっ、ちがうのですユウさん! 大好きって、大好きじゃないです! あ、いえ! 個人的には好意にも似た感情はなきにしもあらずというわけでもなかったりするのかしないのかよくわからないんですけどちがうのですうううっ!」
「とりあえず落ち着こう」
どうどう。
この子、清楚だし素直ないい子なのだけれど、ときどき暴走するのである。あと、天然だと思う。
ぴえぴえと鳴くニーナを落ち着けさせていると、僕の背後からゆらりと進み出る小さな影。
耳がぴんと起き上がり、尻尾の先までオーラが纏っているような気さえする。その目は、ヤル気の目だった。捕食する獣の目だった。えっと、あの、ノルトリさん?
「フシャ―――ッ!」
「ぴええ―――っ!?」
なんかもう、僕には収拾がつけられそうになかった。ノルトリ参戦の意味がまるでわからない。原因が不明なのだから、僕にできることはふたつだけだ。原因の究明か、もう諦めて放棄するか。
僕は後者を選ぶことにした。
φ
結果はまあ、予想通りだった。
「ふーっ、ふーっ……」
素晴らしく体力のないノルトリなので、猫とひよこの戦いはすぐに終わりを迎えた。ニーナはというと、笑顔でコーヒー豆の袋を重そうに抱えて帰っていった。復活が早いのが彼女の良いところである。もしかしたら単にとり頭なだけなのかもしれないけれど、それはたぶん、気にしちゃいけないことだと思う。
一戦を終えて椅子の上に戻ったノルトリは、肩で息をしていた。
この子、猫科のわりにか弱いのだ。運動嫌いなせいかもしれない。
コップに冷たい水をいれて出してやる。ノルトリはしばらくその水をじっと観察してから、コップを両手にとってこくこくと飲み干した。
落ち着いたようで、息も穏やかになる。頭の上にある猫耳もいつも通り、気だるげにふにゃんとしていた。うむうむ、まさにノルトリ。
「疲れた……」
磨き終わったコップを棚に戻していると、後ろからそんな呟きが聞こえてくる。
そりゃ、あれだけはしゃげば疲れもするだろう。思わず苦笑が漏れた。
指紋一つなくなった最後のコップを棚に収めると、途端にすることがなくなってしまう。この時間帯はまったりしているので、頻繁に注文が入るということもない。こんなとき、どうしてもその物足りなさが顔を出してしまう。
なにかを食べたいわけでもなく、誰かと談笑したいわけでもない。けれど、ただ座っているだけではつまらない。
そんなときは、店内に流れる音色に耳を傾けるのだ。傍らにコーヒーの一杯でもあれば言うことはない。そうしていると、なんだか贅沢な時間を味わっているような気分になる。普段の自分が随分と急いでいることに気付いて、穏やかな時間はゆっくりと流れていることを知る。
やることがなくなって手持ち無沙汰になった僕は、ノルトリと話すことにした。耳を傾ける音楽がない以上、楽しみは誰かと話すくらいしかないのだ。
「ノルトリ、暇だ、話そう」
丸椅子を引っ張って行って、ノルトリと向かい合うようにして座る。カウンターにぐでんと突っ伏していたノルトリの耳が僕に向けられる。
「もう少し休む?」
ぴくぴく。
なるほど。まだ充電中か。本当に疲れたらしい。
ノルトリが相手をしてくれないので、僕はついにすることがなくなってしまった。お客さんの追加注文はなさそうだし、僕の方でやることもない。汚してまでコップを磨く気分でもないし、コーヒーのブレンドを研究するのもだるい。なにをしようか。
丸椅子の上でぼんやりと天井を見上げた。そこには光石の入ったカンテラがいくつもぶら下がっていた。ああ、そういえばそろそろ魔力切れが近いかもしれない。補給をお願いしないと。
黄色がかった魔力光をしばらく見つめていると、ぼそりと名前を呼ばれた。
「大丈夫?」
天井から顔を戻して訊いてみると、ノルトリは体を起こしてこくんと頷く。小さい体はエネルギー消費が激しいものの、回復するのも早いようだった。
「……あのね」
ノルトリがもそもそと迷ってから言う。
そういえば、ニーナが来る前になにかを言おうとしていた。あの続きだろうか。
なかなか出てこないノルトリの言葉をじっと待つ。窓の外の喧騒が聞こえてくる。
やはり言いだしにくいことなのか、ノルトリはしばらくもにょもにょと言葉をいじくっていた。それでも待っていると、ノルトリは僕をちらりと見てからようやく口を開く。
しかし、ノルトリの声は再び飲み込まれることになった。突然の来店客によって。
「ユウちゃん! 水をくれぃ!」
扉を跳ね飛ばすようにして入ってきたゴル爺が、息も絶え絶えに叫んだ。
皺だらけの顔には大粒の汗がいくつも流れていて、つるつるの頭に浮かんだ水滴が光を反射させてぺかぺかと光っていた。「骨董屋に鑑定させるぞくそじじいが」とでも言いたげなノルトリの視線を気にしながら、僕はお冷を用意した。
「かあっ! うまい!」
カウンターで水を受け取ったゴル爺はそれを一気に飲み干し、コップをだんっとカウンターに叩きつけた。割れるからやめてください。
「いやあ、助かったぞい。冷えた水だけ飲ませてくれるところなんぞ他に心当たりがなくてのう。おまけにユウちゃんの顔も見れて言うことなしじゃ! けっぇっぇっ!」
「……帰れじじい」
「ひょっ!?」
奇怪な笑い声をあげたゴル爺に、ノルトリが零度の視線で言い放った。
この子、本当に物怖じしないなあ。遠慮もしないなあ。
唐突に自分のことをじじい呼ばわりしたノルトリを見て、ゴル爺はちょっと驚いたようだった。けれどその瞳はすぐに好奇の色に染まる。
「おお、愛い子じゃのう。ユウちゃんの妹分かの?」
「……今のところは」
「ほっほっ、なるほどなるほど。今のところはか」
ノルトリの返事に目を細めながら、ゴル爺は軽い足取りでノルトリのところまで歩いていった。隣の椅子に腰掛けて、ノルトリと向き合う。
「わしはゴル爺と呼ばれておる」
そう言って手を差し出す。
ノルトリは戸惑った様子でその手を見て、それからゴル爺の顔を見て、最後に僕を見た。
まあ、うん。おもしろい人ではあるからいいんじゃないかな。
僕が笑って頷くと、ノルトリはおずおずとゴル爺の手を握った。
「……ノルトリ」
「うむ。よろしくのう」
ゴル爺は握った手をぶんぶんと振って、顔をしわくちゃにして笑った。ノルトリはちょっと居心地が悪そうだった。
人というのは、どうにも他人との間に一定の距離を保ちたがるように思う。初対面の人間であればなおさらだ。その人にどこまで近づくべきか、あるいは近寄らせるべきか。そういうことを考える。
ゴル爺は、そういったことをまったく無視する人だった。いきなり近寄ってきて、がっしりと握手をしてしまう。順々に距離を縮めて、ちょっとずつ仲良くなるという面倒な手間を省いてしまう。
他者との距離を気にするノルトリからすれば、ちょっとやり辛い相手かもしれなかった。
にこにこ笑うゴル爺と、仏頂面のノルトリ。そんなふたりが握手をしている光景は、どこか微笑ましい。
けれど、さっきからノルトリがちらちらと僕に助けを求めているので、そろそろ話を進めることにした。
「で、今日はどうしたんですか?」
「うむ。ちょいとな、追われておるのじゃ」
ノルトリから手を放して、事も無げにゴル爺が言った。
「追われてるって、また逃げたんですか。秘書さんに迷惑かけるの、いい加減やめたらどうです?」
「いやじゃ! わしは自由を愛する赤風琴鳥なんじゃ! 遊びたくなったら遊ぶのじゃ!」
んな子供みたいなこというなよ。あんた今いくつですか。
しかしそんなつっこみは確実に無駄なので、僕はもうため息だけで済ませることにした。
普段は秘書さんや黒服の人たちが護衛についているのだけれど、たまにこうして脱走してくるのだ、このじーさん。もちろん、秘書さんもそうさせないように対策はしているらしいのだが、毎回それを潜り抜けているとか。僕としてはそのやる気を他に向けろと言いたいのだけれど、これも言うだけ無駄だろう。
「……ダメ人間?」
ノルトリから的確な指摘が入る。
「違うぞノルちゃん! わしは自由を愛する赤風琴鳥じゃ! そう! わしは青く広い空を自由に飛び回る謳い鳥っ!」
ゴル爺さんが両手を広げて上下させる。一応、あれで翼のつもりらしい。
「……はっ」
「鼻で笑われた!? わし鼻で笑われてしもうたぞユウちゃん!」
「知りませんよ」
「かあっ! たまらん! ここまですっぱり切り捨てられたのはユウちゃん以来じゃ! こりゃあ将来有望じゃのう! どうじゃノルちゃん、ユウちゃんはいらんか?」
待て待て。なんで僕が進呈されるんだよ。
呆れて言葉を失っている僕の前、ノルトリが顎に手を当て、ふむと悩みこむ。
「……できれば、実力で……」
「うむ、そうか。そうじゃのう。やはり自由恋愛が一番じゃしのう。強制はいかんな。強制は」
「あんた前にうちの孫娘はいらんかとか言ってたでしょうが」
思わずつっこんでしまうが、ゴル爺は柳に風。「ひょ? そんなこと言っておったかのう? 記憶にないのう」とか言ってやがる。くっ、調子の良いときだけボケ老人気取りやがって。
どうしてくれようかこのじじいと拳を握りしめていると、不意にゴル爺が席から立ち上がった。
「ちぃっ! もう嗅ぎつけおったか!」
ぽかんと見つめる僕とノルトリを放って、ゴル爺は熱く語り出す。
「ユウちゃん、頼みがある。もうすぐここにわしを追って来る者がおるじゃろう。そやつはわしを見なかったかと聞くはずじゃ。そうしたら、わしは中心区の方へ行ったと言ってくれぬか。わしは商業区の方へ行く」
「はあ。わかりました。任せてください」
よく分からないけれど、とりあえず頷いておく。
「恩に着るぞい! じゃあの、ノルちゃん! また来世で!」
この人が言うとあんまり笑えない捨てぜりふを残して、ゴル爺は来たときと同じように走り去っていった。ゴル爺を送り出したドアベルの音色が店内に響く。
あの人、なにしに来たんだ?
「……変な人だね」
「まあ、見たままかな」
結局、水飲んでノルトリと握手して帰っただけだし。意味がわからない。
それからすぐのことだった。
ゴル爺が残して行った余韻が消える前に、ドアが穏やかに開けられた。ドアベルの音に目を向ければ、そこに立っていたのはプラチナブロンドの女性。青色のパンツスーツ姿で、白い頬には赤みが差していた。呼吸は整っているけれど、きっとゴル爺を探して走り回っていたのだろう。
わざわざぺこりと僕に頭を下げてから、秘書さんがこちらに歩き寄る。
「お邪魔いたします、ユウさま。ひとつお訊ねしたいのですが、旦那さまをお見かけしませんでしたか」
「中心区にいると思いますよ、たぶん」
「感謝いたします」
綺麗に一礼。風を切るように方向転換した秘書さんは、流れるような動きで外に出て行った。ゴル爺とは大違いである。育ちの違いが分かるなあ。
秘書さんの背中を見送ったまま頷いていると、つんつんと袖を引かれる。
「なんだねノルトリくん」
「……そのまま言うとは、思わなかった……」
その感想は実に分かる。
ゴル爺の人柄を考えれば、わざわざ自分の行く先を正直に言うわけがない。だから裏を掻いてこう言うべきだろう、「ゴル爺は商業区へ行った」と。しかし、ゴル爺はゴル爺であって、普通のちょっと嘘つきなじーさんではないのだ。商業区へ行くと見せかけて実は中心区に――と思わせつつ商業区に行っていたりするのがゴル爺である。中心区なのか、それともほんとうに商業区なのか、あるいはまったく別のところか。そこらへんは考え出すときりがない。
けれど、今回ばかりは確信があった。
外はもう夕方。日の入りが早い季節なので空は暗くなりつつあるものの、そろそろ学院のハイクラスの下校時間だ。学院の女子制服はスカートで、ゴル爺はエロ爺でもある。そして学院があるのは中心区。
そこらへんのことを懇切丁寧に説明すると、ノルトリは「あのじじいはもうダメだ」とでも言いたげな顔になった。
ノルトリの中で、ゴル爺への距離が決まった瞬間だった。
φ
「……あの、ね」
自分の本題が未だに語れていないことに気付いたノルトリが、ようやく口を開いた。外はもう暗くなっている。ゴル爺のせいで店内の空気がちょっと変わってしまったので、思い出すのに時間がかかったようだった。
「うん、どうした?」
視線を下げたノルトリは、やっぱり言い出しにくそうに言葉を迷っていた。尻尾をゆらゆらと落ち着きなく揺らしながら、懸命に踏ん切りをつけようとしている。
こっちがあまり待ち構えるとやり辛いだろうから、できるだけ気楽に待つ。
口を開いて、閉じて。そんな風に何度か繰り返して、ノルトリは喉の奥から押し出すように言葉を漏らした。
「お……」
「お?」
「おべん、と……作って……ほしい」
おべんと。お弁当?
「お弁当がほしいの?」
訊くと、こくんと頷く。
「えっと、それはノルトリが食べるやつ?」
再びこくん。
「一人前?」
ふるふる。
「二人前?」
ふるふる。
「じゃあ三人前?」
こくん。
なるほど。三人前のお弁当が欲しかったと。話はとても単純なことだった。
でも、なんでそんなに言い辛そうにしてたの?
「……あ、ぅ……そ、の……」
ただでさえ小さい体をさらに小さくして、ノルトリはじーとテーブルを睨んでしまう。どうやら、本題はここからのようだった。
「……ジクの、料理……」
「ジクの料理?」
えっと、ジクってあれだよね。極西にある小さな島国で、金の国って呼ばれてるとこ。確か黒髪黒瞳が特徴だっけ。
「そ、そのっ……ユウは、ジクの料理……できる……?」
ジクの料理かあ。どうなんだろう。訊いた限りだと日本っぽいんだけど。和食でいいのかな。
「前に作ってあげたおにぎりとか卵焼きとか、ああいうのでいいのかな?」
ノルトリがぶんぶんと頷いた。
「なら大丈夫。できるよ」
そう言うと、ノルトリがほっとしたような顔になる。緊張して起き上がっていた耳もふにゃんと脱力した。
「ところで、なんでジクの料理?」
「……べつ、に」
今度はふるふると首を振った。どうやら、ここらへんは話す気はないらしい。むむ……ちょっと理由が気になるけど、まあいいか。
「明日でいいんだよね? 作っとくから、朝にでも取りに来てくれるかな」
ノルトリが大きく頷いた。
その顔は、なぜか嬉しそうだった。
本当に謎である。
φ
「はあ? 食堂の料理長が寝込んだ?」
空はもう真っ暗で、すでに大半の酒場が光を灯していた。ノルトリも家に帰ってしまって、店内には客もいない。いや、ひとりいた。リナリアである。学院の黒い制服のまま、カウンターに座っている。
そういやこいつ、たしか寮生活だったよな。門限とかはいいのだろうか。まだ8時くらいとはいえ、外出は禁止されてそうなもんだけど。
「うちの食堂はほとんど料理長が仕切ってるようなものだから、料理長がいないと使えなくなるのよ。だから、明日はお弁当を持参しなさいってわけ。売店はすごい混むだろうから、幼等部なんかは皆お弁当でしょうね」
なるほど、そういう理由だったわけか。でもどうしてジク料理なんだろう。それに3人前だし。
リナリアに訊いてみると、にやにやと笑いながら僕を見る。
「自慢でもしたかったんじゃないの?」
「ああ、ジク料理ってこっちじゃ珍しいもんなあ」
うむと頷いて言うと、リナリアが呆れた表情になった。
なに、その目。なにか文句でもあるのかな。
「……にぶいわね、アンタ」
「不本意ながら、ときどき言われる。で、なにがにぶいの?」
「わからないなら気付かないでいいわ。私が推測で言っても仕方ないし」
ちぇっ。
薄めのコーヒーに砂糖とミルクをいれて、リナリアに出してやる。
最近はもっぱら、コーヒーの苦味が無理というリナリアにコーヒーの良さを分からせることに注力していた。リナリアは最近よく来るので、こいつがコーヒーを飲めるようになればマスターブレンドの毒見役がひとり――もとい、コーヒーを愛し親しむ同好者ができるのである。
「……飲まなきゃだめ?」
湯気を立てるカップを見つめ、リナリアが僕に訊いてくる。その声は露骨に飲みたくありませんと言っているようだった。
「まあ、ものは試しということで」
手でうながす。
しばらく僕に目で訴えかけていたけれど、リナリアは諦めたようにカップに手を伸ばした。
不味ければ飲まなくて良いと言っているので、一口我慢すればそれで済むと思っているのだろう。くそう、絶対うまいって言わせてやるからな。
僕がじっと見つめる先で、リナリアの唇がカップの縁に当てられ、カップがゆっくりと傾けられる。
「……にがい」
ちょっとだけ泣きそうな声。
眉のひそめられ具合から読み取るに、苦味レベルは4ってところだった。むむ、まだ苦いとな。砂糖にミルクまでぶっこんだのになあ。これはやはり豆から変える必要があるか。これ以上砂糖やらミルクなんかいれると、コーヒーではなくカフェオレになってしまう。
「やっぱりだめ。私は飲めない」
ずずず、とカップを突っ返してくる。好き嫌いの少ないリナリアだけれど、どうしてもコーヒーは苦手なようだった。おっかしいなあ。ここまで甘くしてるのになあ。
突っ返されたカップを持ち上げ、一口飲む。うあ、甘っ。
「あ――っ!」
甘さに顔をしかめると、リナリアがいきなり叫んだ。なに? そんなに変な顔だった?
ぽかんと見返すと、リナリアが「なななな!」と僕の口元を指差し、わなわなと口を震わせる。真っ赤な髪に負けないくらいに顔が赤くなっていた。
「あ、あああああんたはっ! なんでそういう無神経なこここことをっ」
「えっと、なにが?」
「なにがって!」
こちらに噛み付いてきそうなほどの勢いでリナリアが僕をにらむ。こっちとしてはまったく心当たりがないので、無神経と言われたってどうしようもない。
ばんばんと平手でカウンターを叩いて何か言おうとしていたようだったけれど、リナリアの口から言葉らしい言葉は出てこなかった。
腹の底からこみ上げてきたものを飲み込むようにして、今度はそれを丸ごと吐き出すような大きな嘆息。
「……もう、いいわ。アンタって、そういう人間だものね。諦める。私だけが気にしてるってバカみたいだし」
という感じで、結局はリナリアが勝手に自己完結してしまったのだった。
なんだよもう。
よくわからん奴である。
「そういえば、リナリアはお弁当はいいの?」
カップを片付けながら、ふと思いついたので訊いてみる。
食堂が使えないのならリナリアもお弁当が必要なんじゃないのかな。
「私はいいわよ、適当に買うから。なんなら食べなくてもいいし」
心底どうでもよさそうだった。リナリアは、こういうことには大して拘らない性格なのだ。ダイエットとかじゃなくて、めんどくさいから食べないという選択をするタイプ。そういうところは夏夜と似ているかもしれない。
ちょっと考えてから、僕は口を開いた。
「リナリアの分も作ろうか、お弁当」
どうせノルトリのお弁当を作るわけだし。
「い、いいわよ、私は」
「なにを照れているのかね、リナリアくん」
「照れてないわよ。ちっとも照れてない」
「ならいいじゃないか。作ってあげるよ、愛夫弁当を。手作りのお弁当、学校生活、お昼休み。うん、甘じょっぱいな」
「甘酸っぱいでしょ」
そんな細かいところ気にするなよ。
なんだかんだと言って、リナリアは遠慮し続けていた。きっと僕が下らないことをやらかすとでも思ったのだろう。ひどい誤解である。
まあ、結局は僕が押し切ってお弁当を作ってあげることになったのだけれど。
期待されると応えられずにはいられない僕であるから、もちろん全力を尽くした。
ノルトリには和食の重箱弁当。
そしてリナリアには、お子様ランチである。もちろん旗もつけた。完璧だ。
後日、「カティアにきらきらした目で羨ましがられたわよ!」と乗り込んできた紅髪ポニーテールがいたことをここに書いておく。
僕がお弁当を作ると、なぜか乗り込んでくる人が多い気がする。僕にはまったく理由がわからなかった。不思議だなあ。クックック……おっと、つい本性が。
平和な毎日である。
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