コミック版発売記念SS 「遠き山に日は登って」
苦手ではないけれど、好きではないものがある。
ピーマン、微糖のコーヒ一、0.3mmのシャーペン。そして運動だ。
とくに長距離走は最もたるものだろう。いざ走るとなれば人並みにはできるけれど、決して好きではないし、得意でもない。体育の授業でなければやることはない。
この世界に来てからしばらく、ほとんど引きこもって生活をしていたことがある。それで苦痛を感じるということもなかった。僕は性根がインドアの人間なのだ。
大人になって運動をしなくなる人も多い。そりゃ健康に気をつかって毎朝ランニングをする人もいるし、老後に水泳をやる人もいる。うちのじーちゃんはチェスだけでなくゴルフも好きだった。
それでも、山は登っていなかった。
ああ、そうだとも。走って泳いで球を打つ人は見かけても、登る人は少ない。なぜなら……。
「死ぬ。吐きそう。ギブ」
「うんうん、大変ね。はいがんばれー」
膝に手をついて息を荒げる僕の頭上に、まったく心のこもっていない声援が降ってくる。
いつもなら軽く言い負かせるのだけれど、今は破裂しそうな心臓をなだめることで手いっぱいだ。……いや、本当に。すぐに言い返せるんだってば。ほんとほんと。
大口をあけて顔をしかめ、呼吸に必死になって落ち着くのを待っていたけれど、人生の最高値を更新している拍動はちっとも下に降りてこない。
吹き出した汗が鼻筋をつたって地面に落ちるのをじっと見つめた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……酸素が足りないのか疲労のせいか頭の動きが鈍い。
「しょうがないわね。ちょっと休憩にしましょ」
「よし、その言葉を待ってた」
僕は背負っていたリュックをおろした。身体が浮くほどの解放感だ。
ちょうど腰掛けるのに良さげな岩があったので、くずおれるように尻を落ち着けた。
「少しは反省した?」
先行していた道を戻ってくるなり、リナリアが言った。
「もちろん。もう明日からは反抗しない。言われたことは常に実行するし、返事は『はい』だけだ。リナリアさまって呼ぶ」
「良い心がけね。じゃあ明日からはちゃんと運動しなさい」
「それは無理だ」
「5秒で自分の発言をなかったことにするんじゃないわよ」
「あれは心意気だから。現実はいつもうまくいかないものさ」
「今日は口よりも足を動かしてくれない?」
僕は両手を挙げて降参した。それについては反論できない。
リナリアが水筒を僕にさしだした。
ありがたく受けとってひと口飲んだ。冷えた水分が喉を通る快感はたまらなかった。ごくりごくりと自分でも驚くほどを一気に流しこんだ。ようやくひと息つけた気がした。
「生き返るって言葉を使う日があるとは思わなかった。これなに?」
「果実水に塩と砂糖を混ぜてるの。冒険者の御用達」
この世界で言うところのスポーツドリンクってわけか。
リナリアは僕から水筒を取り、ひと口、ふた口と飲んだ。顔には汗も浮かんでいない。
「この世界の人たちは体力がおかしいんだ」
「アンタがひ弱なだけでしょ」
いやそんなはずはない! と断言できないのが辛いところである。運動不足なのは痛感している。
「……それにしたって、山登りがこんなに大変だとは思わなかった」
リナリアに誘われたときにはまったく軽く考えていた。ピクニックとかハイキングとか、そういうヘルシーなイメージだった。まったく甘かった。
「山登りってほどでもないわよ。みんなよく行くって聞いたもの」
「みんなって?」
「カップルとか夫婦とかそういう––––やっぱ今のなし」
と、リナリアは頰をかいてそっぽを向いた。
なるほど、ここはデートスポットらしい。そういう場所に誘ってくれたことが嬉しい気持ちは大きい。娯楽の少ない世界だとデートの内容もこう変わるのかと納得した。感覚的には遊園地に遠出するようなものだろうか。
となれば、こうして悲鳴をあげて情けないところばかりを見せているわけにもいかない。
ああ、そうだとも。山くらい登ってやろうじゃないか。
立ち上がってリュックを背負い直す。
「なにぐずぐずしてるんだ。早く行くぞ」
「急に張り切ってなに?」
「男らしさを出してみた。かっこ良い?」
「似合ってないからやめて。気持ち悪い」
「心が折れたからもう下山するよ。山頂は任せた」
「そんなに下山したいならその斜面に立って? 背中を押してあげる」
「いやあ、楽しいなあ登山!」
と、口は元気なものの、やっぱりすぐにバテてしまって、ちょっとした岩場に苦戦する。その度にリナリアが僕に手を差し向けた。細手を握るとひょいと引っ張ってくれる。
先を歩くリナリアの背中が頼もしく、助けてもらってばかりの自分がちょっと恥ずかしく。けれどリナリアの髪を結ぶ白いリボンの揺れるさまを見ると、まあこういう関係もありかなと、にやける口元をこらえたりする。
デートスポットというだけあってか、山道といえども、ずっと坂というわけでもなかった。
合間には平坦な気持ちの良いハイキングコースもあれば、時々は下ったりもする。
そういうところでは僕も気を抜いて、あたりの木々や空を眺めたり、 森の腐養土も混じるいくらか湿った香りを楽しんだ。
早朝に乗り合い馬車で街を出てから、ようやく山頂に着いたのは昼も過ぎたころだった。
眼下に 広がる雄大な自然!
遠くに僕らの街!
ああなんて美しい景色!
と感動するより、ようやく休めるという本能の方が強くて、僕は岩肌のざらりとした感触を背中で味わっている。両手足を投げ出して倒れ伏しているとも言う。
空は青く、雲は白い。それで充分である。
風は火照った身体に心地良い。
やりきった、という達成感があった。それは不思議な気分だ。
真上からリナリアの顔がのぞいた。流れ落ちる髪が鼻をくすぐる。
「山登りも悪くないでしょ?」
「……そうだね。何だかあっという間にここまで来た気分だ。あんなに大変だったのにな」
「それを乗り越えた人だけがここに来てそう言えるのよ」
「なるほど、僕らは選ばれし勇者なわけだ。良い気持ちだよ」
リナリアは笑って僕のおでこを指で弾いた。
「さ、ご飯にしましょ」
重たい身体を起こすと、リナリアはリュックから弁当箱をとり出した。
僕の隣に座って、その間に置く。手をかけたまま開けない。
「どうかした?」
「……べつに」
となぜか頰を赤らめながら蓋をあけた。
「おお……!」
サンドウィッチの断面がこちらに顔を見せていた。たっぷりのタマゴ、野菜と分厚いハム、魚のオイル漬け。色鮮やかさが目にも楽しい。
「すごいね。リナリアが作ってくれたの?」
唇をとがらせてリナリアがうなずいた。
「で、でも、あんまり作ったことないから、おいしくないかも––––って、勝手に食べるんじゃない!」
「ん、おいひい。良い味らよ」
お世辞でもなく、本当においしかった。魚のオイル漬けのサンドウィッチは初めて食べたけれど、ぴりっとした辛さとクリームチーズがパンによく合う。
疲れた身体はよほどエネルギーを求めていたらしく、空腹に気がつくと食べる手が止まらなかった。
あ、これもおいしい、こっちも良い、と両手に持って夢中で食べてしまった。
ふと見ると、リナリアはちっとも食べずに僕のことを上目で見ている。
「僕ばっかり食べちゃってたね、ごめん」
リナリアは首を振った。笑っていた。
「ううん、いいの。いっぱい食べて。ユウのために作ったから」
「……お、おう」
不覚にも今日の心臓の最高値が更新された。
急にどうしてか胸がいっぱいになって、サンドウィッチを飲みこむのに苦労したものの、僕は期待に応えるべくしっかり食べた。この味と思い出を忘れないようにしようと決心した。
それから二人で並んで座って、山頂からの景色を眺めた。
日差しはあたたかく、雲の歩みはゆるやかだ。喫茶店とはまた違う独特な時間の流れがあるみたいに落ち着ける。
「気持ちがいいね」
としみじみ言うと、リナリアが小さく笑った。
「癖になりそう?」
「どうかな。途中が困難すぎるからなあ」
「慣れたら大丈夫よ」
「リナリアが一緒に来てくれるなら頑張るよ」
こつん、とリナリアの肩が僕の肩にぶつかった。
「じゃあ、また来ましょ」
「……今度はへばらないようにしないとね」
「期待してる」とリナリアが立ち上がった。「まずは今から、山を降りないとね」
「楽しみすぎて吐きそうだ」
登ったら、降りる。来たら、帰る。物事の道理というやつだろう。
僕は重い腰をあげて、歩き出したリナリアのあとをついていく。彼女が振り返って、微笑んで、「はやく」と手招きした。
道理は道理だけれど、それを守らなくても良いときもきっとある。帰らないで留まることを選んで、そうして見つける大事なものもあるはずだ。
ただ、まあ、山の上からは帰らなきゃだめだろうなあ。
僕はため息をこぼしつつ、リュックを背負い直した。
了
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