season3 第30話「エンディングの後でも人生は続いている」
緩やかな時間というのは、誰にでも必要なものだ。聖人君主だって、極悪人だって、大金持ちだって、一文無しだって、穏やかな時間を手に入れる権利は平等だ。
たとえば、ちょっと大通りから離れた喫茶店なんか、どうだろう?
中に入ると、ぴしりと糊のきいた真っ白なシャツを着たマスターが−−この場合は僕のことだけれども−−グラスを磨いたり、コーヒーを淹れていたりする。
座る席は自由だ。誰も案内をしないし、強制もしない。
ちょっと世間話がしたかったり、人恋しい気分だったり、何気ない会話で気を紛らわせたいことがあるときはカウンターがおすすめだ。
日頃は追い立てるような生活を送っていて、なんとか見つけ出した隙間に、自分の時間を楽しみたいのであれば窓際の席が良い。窓から通行人を眺めながらぼんやりと過ごす時間は、言葉では説明できないほどの心地よさを感じさせてくれるだろう。
喫茶店の何が良いかというと、そりゃもちろん魅力はたくさんあるのだけれど、マスターの醸し出す距離感がなによりだ。
他人行儀な親しみが大事なのだ。近すぎず、かといって遠すぎず。気軽に会話はできるけれど、気安く話しかけるわけではない。ひとりになりたいときはそれで良いし、ちょっと話したいときはいつでもそこにいる他人。
そうした存在がいる小さな店内には、温かい無関心が満ちている。気を使わず、自分を取り戻すことができる。だから、喫茶店は良いのだ。
ただ、カウンターで号泣されているとなると、話はまた別だ。僕もさすがに、無関心というわけにはいかない。
「……本を抱えて何で泣いてるかな君は」
「う、うぐ……ユウさんはこれを読んでいないからそんな冷血なことが言えるのですわ……」
ずずっ、と鼻をすすって、アイナが僕を見上げた。目も鼻も真っ赤になっている。
「本でそんなに泣いた経験はないなあ」
「あなたは人の心がないんですの!?」
「よし、表に出ろ」
「この本はですね、作者が十年前に書いた小さなお話が始まりとなってですね」
「聞けよ」
アイナは一度思い込んだら驚くほどにマイペースな一面を見せる。それはもう、僕のことなんか目にも入らない様子で一生懸命に本の解説をしている。
「つまりは良い話だったってことでしょ?」
「つまりはそういうことです。はあ……ついに完結してしまうとは。さびしいですわ」
「さびしい、ねえ」
たしかに、漫画が完結してしまったときに、もう続きがないということに落胆した記憶はあった。けれど、それは寂しいという感情とはまた違ったものに思える。
「読書の良いところはですね」とアイナが人差し指を立てた。「存分にその世界に入り込めることですわ。劇やオペラは目の前で行われますから、わたしたちはそれを観ているのです。けれど小説に描かれた情景はまぶたの裏で描かれ、登場人物の声は心で聞き、その心情はまるで自分自身のことのように思えるのです」
「なるほど、さっぱり分からない」
「あなた本当にバカですわね」
と、冷め切った目線で見られた。冗談だったのにな……。
「とにかく、良い小説とは物語と読者を同化させてしまうのです。大好きだった物語が終わるというのは、自分の一部が切り離されてしまうような辛さなのです」
そうして、アイナはまた、うっうっ、と本を抱えて泣き始めた。
「でも良い結末で良かったですわ……あ、コーヒーのお代わりをくださいな」
「自分の一部が切り離されたわりには元気だね……」
「とんでもありません。わたしの心にはぽっかりと空虚な穴が空いていますわ。なのでもう一度、一巻から読み返そうと思って持ってきたんですの」
言って、アイナは鞄から分厚い本を取り出し、一冊、二冊、三冊……と次々にカウンターに積み上げていく。
「……それ、今からここで読むの?」
「もちろんですとも。今日は学院もお休みですからね。最初からそのつもりでした。コーヒーとお菓子を傍らに、好きな物語を読み返す……ああ、なんて至福なんでしょう」
うっとりと本の表紙を撫でる表情は少しばかり距離をおきたいけれども、それだけ本を、物語を愛しているのだろうという感情はよく分かった。
僕は苦笑しつつも、コーヒーの準備に取り掛かる。あの本を一日中読むというなら、コーヒーもたっぷり必要になりそうだ。
アイナはうきうきと本を開いている。口元にはかすかな微笑みがある。それはどこか懐かしそうで、少しだけ幼げだ。その本を初めて読んだ昔のころの気持ちに戻っているのかも知れない。
そこまで楽しんで、大事に思ってくれる人がいて、作者もきっと嬉しいだろうなと思った。作者が物語を結んでも、読者はその世界を何度でも楽しめるし、物語の登場人物たちだって、読者の心のなかでひっそりと生き続けるのではないだろうか。アイナが言うように、物語と読者が同化してしまうのであれば。
だからまあ、終わりといっても、そう寂しがる必要もないはずだ。ページの先がなくなっていたって、物語というものはずっと続いているものだし。
僕はランプに火をつけ、サイフォンに熱をいれる。コーヒー豆を砕き、カップを準備する。今日もそうして、僕の日常は過ぎていくし、明日もきっとそうしているだろう。
カランカラン、と弾むようにドアベルが鳴った。
「––いらっしゃいませ。あっ、お久しぶりですね。どうぞ、お好きな席へ」
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