「だれかの願いが叶う場所」2



 その店の扉を前に、わたしは立っていた。

 なぜなら、そこまで案内してくれた女の子は「もう夕飯の時間なので」と笑顔で帰ってしまったからだ。「お兄さんによろしく」と言われたけれど、それならせめてそのお兄さんに紹介するところまでお願いしたかったなと思う。

 店構えは古びた酒場のようだった。入り口の上に掲げられ看板だけが美しく立派で、店の名前が書かれているけれど、それは「喫茶店」ではなかった。喫茶店とは店の名前ではなくて、何か別のものを示すらしい。

 窓越しに、中に幾人かのお客さんが座っているのが見えた。誰もが大人で、わたしのような学生はひとりもいなかった。

 もしかして「喫茶店」とは、高級料理店なのかもしれないし、会員制の秘密倶楽部なのかもしれないし、お子さまは入店禁止なのかもしれない。そしてわたしの財布には、貴族のお子さまのお小遣いより乏しいお金しか入っていない。あと、花を握りしめています。

 あまりに未知なことが多過ぎて、扉を開ける勇気がでないでいた。高鳴っていた心臓は緊張のために鼓動をはやめているし、手に汗もかいている。わたしは小心者なのだ。

 そこでふと気づいた。

 場所はわかったのだ。なにもひとりで入る必要はないんじゃないだろうか?

 明日、メディを連れてまた来れば良いんだ。

 わたし、天才か。

 よし今日はこれくらいで許してあげようと思う。さ、帰ろう。

「入らないのかね」

「ひゃっ」

 背後からどえらい渋い声が響いて、思わず飛び上がった。慌てて振り返ると、誰もいない。え、こわい。

「下だよ、お嬢さん」

 とっさに見やると、そこにラビ族の人がいることに気づいた。黒い礼服をきっちりと来こなして、頭にはハットまで乗せている。ラビ族は年齢がわかりづらいのだけれど、明らかにわたしよりも歳上で、なおかつ貴族みたいな風格が感じられた。

「この店に用があるのではないのかね」

「え、あ、そう、ですけど」

「ならば入ると良い。良い店だ」

「はあ」

 本当にこの小さな身体から出ているのだろうか。ついそんなことが気になってしまう。聞いているだけで安心してしまうような声に背を押されるように、わたしはドアに手をかけた。ドアは思っていたよりも軽く開いてしまって、からんからん、と甲高い音色が響いた。

 ふっ、と、空気が変わった気がした。

 店内は穏やかな灯りが満ちていた。床も壁もしっとりと磨かれた木材でできていて、天井には梁が通っている。ランプの揺らめきに合わせて、天井に影がちらちらと顔を見せている。

「いらっしゃいませ」

 と、カウンター席の向こうに立つ男の子が言った。珍しい黒髪に目を奪われていると、その男の子は「おや」と眉をあげた。

「コルレオーネさんのお友だちですか?」

「いや、店の前で立ちすくんでいたのでな。声をかけただけだ」

 わたしを追い越してラビ族の男性がカウンター席に向かった。どうやらコルレオーネという名前らしい。どこかで聞いたような気がする。

 立ち止まったコルレオーネさんがわたしに振り返った。

「ほら、こちらに来なさい」

「は、はい」

 コルレオーネさんに促されるようにして、わたしはカウンター席のひとつに腰をおろした。とっさに身体が動いていた。なんだろうこの人、学院の教授より堂々としているんだけど。

 男の子がカウンターから出てくる。その手には、赤い革張りの、小さくて立派な椅子を持っていた。それをカウンター席の椅子の上に置くと、コルレオーネさんがぴょんと飛び乗った。

「しかしずいぶんと暖かくなりましたね」

「ああ、もう冬も過ぎたな」

「いやいやいやいやいや」

 あまりに平然と会話をする二人に、つい口を挟んでしまった。

「どうしました?」

 男の子がわたしに言う。

 なんですかその立派なのに小さい椅子。というかどこから出したんですか。ここには標準装備なんですか。手馴れ過ぎてませんか。

 言いたいことはいっぱいあったのだけれど、わたしはぐっとそれをこらえて、愛想笑いを浮かべた。学院という貴族社会で学んだことは、余計なことは言わない、である。

「な、なんでもない、です」

 男の子は首をかしげつつもカウンターの中に入る。

「うちは初めてですよね?」

「えっと、はい。案内してもらって」

「案内?」

「花売りの女の子に」

 手に持ったままの花を見せると、男の子は笑みを浮かべた。

「なるほど。あとでお礼を言わないと。では、改めてようこそ喫茶店へ。ご注文はどうしましょうか」

 慌てて店内を見回すと、男の子の後ろに掛けられた黒板にメニューが書かれているのに気づいた。見上げるようにしてざっと目を通すと、軽食からデザートまで揃っているらしい。その中で気になるメニューがあった。

「あの、コーヒーってなんですか? 聞いたことがなくて」

 その時、男の子の目が光った気がした。きらんって。いや、ほんとに。

「コーヒーを知らない? それはいけませんね。いま、大流行中の飲み物ですから、ぜひ飲んでみてください。好きな人は大好きな、それはもう癖になって抜け出せなくなるような素晴らしい飲み物なんです」

「そ、そうなんですか」

 なんだこの人、急に早口になった……もしかして危ない飲み物なんじゃないだろうか。

「ユウ、お嬢さんが戸惑っているぞ」

 コルレオーネさんが呆れた声で言った。この男の子はユウというらしい。名前にしては珍しい響きだった。

「……おっと、失礼しました。僕としたことが、ついうっかり」

「そのうっかりを毎日繰り返していないか?」

「ははは、そんなまさか」

 やけに朗らかに笑う。なんだか変な人だった。

 そこまでおすすめされると、ちょっと気になるけれど。コーヒーの値段をたしかめて、わたしは「ひゃー」と内心で悲鳴をあげた。「ひゃー」な値段だった。貴族の学生ならともなく、苦学生のわたしにはとても手が届かない。

「あの、わたし、手持ちが少ないので……」

 おすすめしてもらって申し訳ないとは思うのだけれど。

 すると男の子は少し悩んで、

「実はいま、一杯目のコーヒーは無料期間中なんです」

 なんですって!?

 無料……それはわたしが世界で三番目に好きな言葉……!

 つい身を乗り出してしまう。

「そ、それなら、お願い、しちゃおうかな」

「はい、すぐに用意しますね」

 コルレオーネさんがくくく、と楽しそうに笑った。

「あの、どうかしました……?」

 わたしが何かおかしいことをしてしまったのかと思ったけれど、コルレオーネさんは「いや」と首を振った。

「ではユウよ、私もコーヒーをもらおうか。一杯目は無料なんだろう?」

「あ、これ、学生が対象なので。コルレオーネさんはだめです」

 今度こそコルレオーネさんは大笑いした。

「機転が利くな。そうか、学生が対象か。それなら仕方ないな」

「えっと、すみません」

 わたしだけ特別扱いされたことが申し訳なく思えて、つい謝ってしまう。

「良いんだよ、お嬢さん。これもユウなりの戦略だ」

「戦略……?」

「中身のわからないものに金を払う人間はそういない。しかし一度その中身を知り、気に入れば、次からは喜んで金を払うだろう。だから無料でも良いからまずは試してもらうのだよ。商人の常套手段だ」

「な、なるほど……」

 そんな方法があるとは、都会は恐ろしいところです……。

「こらこら、人聞きの悪いことを言わないでください。善意ですよ、善意」

「ほう。では少しもそんなことは考えなかったと?」

「さ、美味しいコーヒーをすぐ用意しますね」

 その切り替えの早さにわたしまで笑ってしまった。

 男の子は、棚から小さな白い壺を取り出すと、入っていた黒い豆を小さな筒に移した。筒には取っ手がついていて、それをぐるぐると回す。すると豆が砕かれる音がする。

「それ、砕実器具、ですよね?」

 薬学の実験で使ったことがある。実を砕いて粉にするために用いられるものだ。

「いえ、これはコーヒーミルです」

「ミル……? 砕実器具ですよね?」

「コーヒーミルです」

 あまりに自慢げに言われたので、わたしはそっと黙った。

 それから男の子は傍らにあった器具を取った。まさかとは思っていたのだけれど、それを使うらしい。

「あの、それ、抽出器具、ですよね? 薬品用の」

「いえ、これはサイフォンです」

「サイフォン……? 抽出器具ですよね?」

「サイフォンです」

 これ以外の名前は存在しないという風に言われたので、わたしはそっと黙った。

 一般的なものではないけれど、薬学を知る人間なら馴染みのあるものだ。何を隠そう、わたしは薬学者志望なのだ。薬品を調合するための器具を使って、この人は何を作るつもりなんだろう……どうしよう、帰りたくなってきた。

 しかしこの状況でやっぱり帰りますと言える度胸があれば、わたしは学院でもっと上手くやっていけている。かすかな緊張を握りしめながら、じっと男の子の動きを見つめる。

 そうだ、わたしは薬学者志望だ。そして特待生だ。もし怪しい薬品を調合しているなら、それを見抜けば良い。

 ランプで熱されたフラスコの中で、お湯が沸いている。少年は上部のロートに黒い豆を挽いたものを入れてからフラスコに差し込んだ。やがてお湯はロートから伸びた筒を上がっていく。こうして薬効のある成分を抽出するのだ。わたしもやったことがある。

 男の子は木べらを取り、手馴れた動きでロートの中を撹拌した。それは洗練された動きで、まるで食事をするときのメディの手つきみたいだった。何度も何度も、数え切れないほど繰り返したことで、無駄がそぎ落とされた動きだ。

 ロートの中では、成分が層になって分かれている。たぶん、抽出成功のはずだ。

 ふっ、と。不思議な香りがした。

 かすかに焦げくさい、けれど不快ではない香り。どんな薬品や香草とも違う。

 男の子は火を止めると、もう一度、鮮やかに撹拌した。抽出が終わった液体はゆるやかにフラスコに下がっていく。砕いた豆の粉や、重なった泡、細かなゴミがロートに残る。抽出された液体は、透き通ったガラスの中で黒糖の蜜のような色合いをしていた。

 用意された二つのカップに液体を注いで、男の子はわたしたちの前に置いた。

「どうぞ、コーヒーです。お好みで砂糖を入れて下さいね。もし苦すぎたらホットミルクも加えますから」

「はあ……」

 目の前の抽出物をじっと見つめる。

 手順に怪しいところはなかった。一種類の素材から抽出液を用意するだけだ。薬学的にもシンプルで、わたしたちみたいな新入生が、初めての実験で行うような内容。

 ちらと男の子を見上げると、にこりと邪気のない笑みを返された。

 横を見ると、コルレオーネさんはカップを両手で持って啜っている。かわいい。

 この状況で飲みませんとは、言えなかった。気の弱い自分が恨めしい。

 カップを取り上げ、湯気を吹き冷まし、そっと、おずおずと、ひとくち。

「ーー!」

 口の中に広がる味に、わたしは叫んだ。

「盛りましたね!?」

「なにを!?」

「この苦味、明らかに毒物です!」

「そこまで!?」

「苦味はつまり人体が有害だと教えてくれているんです!」

 はっはっは、と、コルレオーネさんがお腹を抱えて笑った。そこまで豪快に笑われると、調子が崩れてしまう。

「あの、真剣なんですが……」

 コルレオーネさんはようやく笑いをこらえて、

「すまない、毒物とは予想外でな。大丈夫だよ、お嬢さん。これは毒ではない」

「……本当ですか?」

 もちろん、と男の子が力強く頷いた。

 もう一度カップに口をつけて、唇を濡らす程度に口に含む。舌がぴりっとするような苦味、酸味、焦げたような香り。いくつもの複雑な味わいが同時に打ち寄せてくる。

 毒物にありがちな刺激臭や、刺すような舌の痛みはない。嘔吐反射もないし、即効性の有害性はないように思う。

「依存性とか、ありませんか」

 訊くと、男の子はそっと目をそらした。

「あるんですね!? 常習性の毒物じゃないですか!」

「いや、大丈夫……ちょっとだけだから。たまに飲まずにはいられなくなるだけだから」

「ぜんぜん大丈夫じゃないですよ!?」

 カップを見つめる。初めて見たけれど、もしかしたらわたしが知らないだけで、有名な薬物なのかもしれない。

「……どうしたの、カップを両手で持って立ち上がって」 

「これを持ち帰って成分調査するんです。教授なら分かるかも」

「やめてもらって良いですか?」

 男の子が泣きそうな声で言った。

 さすがに反応が過剰すぎたかもしれない。心を落ち着けて椅子に座りなおす。

「……本当に、毒じゃないんですよね?」

 男の子やコルレオーネさんの言葉を受けて、一応は納得したのだけれど、見る限りはやっぱり有害な液体に思えた。なにしろ色が暗すぎる。

「本当に大丈夫。むしろその味わいが癖になるんです」

「薬物を常習する人はみんなそう言うんですが……」

「コーヒーは安全だから!」

 たしかに、コルレオーネさんは平然と飲んでいるし、他のお客さんも気にした様子はない。違法薬物を摂取した際に見られる、異常な興奮や幻視、せん妄といった症状もないようだから、もし毒性があったとしても、弱いのかも。

「行くと夢が叶うって、このコーヒーの毒で幻覚を見たとかじゃないよね……?」

「行くと夢が叶う?」

 わたしはとっさに口を押さえた。独り言は悪い癖だった。

 男の子は興味深げにわたしを見ていた。

「あの、噂で。喫茶店という店に行けば、夢が叶うって」

「そんな噂があるんです? どこで?」

「学院で」

 男の子は口をぽかんと開けた。

「なんでそんなことになってるんだろう」

「いえ、わたしも知りたいです」

 二人して見つめ合うけれど、どっちも事情を知らないのだから、まったく無意味な時間だった。

「夢、叶います?」

 ぽつっと訊いてみる。

 男の子はきょとんとしていたけれど、ふと優しい笑みを浮かべた。

「もちろん叶いますよ。叶える気があるなら」

 それはとても当たり前の言葉で、けれどそんな当たり前のことを、どうしてか信じられずにいた自分に気づいた。

「そう、ですよね」

「ええ」

 毒だなんだと騒いでいた自分がふとばからしく思えて、わたしはコーヒーを啜った。苦いし酸味があるし色も変だし、薬品器具で抽出された液体だけれど、その味は首の裏側にじぃんと沁みて、そこに凝り固まっていた緊張や重みをほぐしてくれたみたいだった。

「……慣れると、悪くないですね」

 そうでしょう、と男の子は自慢げに笑った。

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