第6巻発売&書籍版完結記念特別短編「ノルトリ、大地に立つ」
喫茶店の良いところは、来ると誰かがそこにいることだったりもする。
人というのは難儀なもので、人の中にいると人が煩わしくなるし、かといってひとりでいると寂しいものだ。
馴染みの友人たちと騒ぐのも楽しいけれど、ひとりが恋しい時もある。慣れ親しんだ環境の中で、ある日ふと、自分がいつの間にか「自分」を演じていることに気づくことがある。頼られる自分、賑やかな自分、責任感のある自分。
そうなるともう、出来上がった自分からはみ出す行動はできないものだ。
コップに水滴を垂らしているように、溢れ出すときがくる。自分を演じることにも疲れて、自分をリセットしたくなったりして。
そんな時にこそ必要なのが、喫茶店である。まあ、カフェでも居酒屋でも良いのだけれど、やっぱりイチ押しは喫茶店だ。
そこには自分を知らない人がいて、ほどほどの無関心がちょうど良い。自分を演じる必要もなく、自分らしく過ごせる時間と美味しいコーヒーがある。ずっと無言で過ごすもよし、気まぐれにマスターに話しかけるのも良し。
つまりそれは第三の場所なのだ。
家族に向ける自分でもなく、仕事や学校での自分でもなく、ただひとりの人間としての自分でいられる場所。
そういう場所をもっていることが、自分の気持ちを助けてくれることがある。
「だからノルトリ、無理をしなくて良いんだ。君は君らしく、自由でいてくれ」
ノルトリは「あぁん? うるせぇなぁ」という、実にやさぐれた目で僕を睨めあげた。それからまた、手に持った分厚い本に顔を隠した。そこには「魔術の基礎から発展まで」と書いてある。たぶん学院の教科書なのだと思う。ノルトリは、それを枕にしているのでも、早弁のための衝立にしているのでもなく、読んでいるのだった。
ノルトリと出会って何年が過ぎたろう。
あの頃から、ノルトリはずいぶん成長している。背が伸びたし、背が伸びたし、ええと……背が、伸びた。
なにしろ喫茶店で見るノルトリは、大半が机に突っ伏して寝ているか、暖炉の前のクッションで寝ているか、カフェ・オ・レかココアに息を吹きかけているかだった。
勉強をしている姿なんて、一度として見たことはない。
つまりこれは異常事態なのだ。
あのノルトリが! 教科書を読んでいるなんて!
「さては、偽物か……?」
顎に手を当ててぼそりと言う。
「あなたも大概、失礼ですわね。素晴らしいことでしょう」
ノルトリの横に座っていたアイナが、じとりと呆れた瞳で言った。
「アイナはノルトリを知らないからそんなことが言えるんだよ。ノルトリは怠惰と無気力の化身、清々しいほどの生き様だったんだ」
「どういう評価ですかそれは」
「僕は心の中で師匠と呼んでいたんだけどな……」
走行中の自転車につま先をつっこんでコケた人を見るような目を僕に向けて、アイナはため息をついた。
その腕をノルトリが突ついて、教科書のページを指差した。
「はいはい、どこかしら。ああ、魔力抽出後の体内での変換効率についてですね。これこそが魔術師の腕の良し悪しを決める重要な技術です。期末考査には必ずといって出題されますわ」
そしてすらすらと教科書に補足を入れ、解説している。ノルトリの様子を見て理解度を推し量りながら、ときに表現を変えたり、前のページに戻ったりしている。まったく手慣れた様子だった。
「すごいな」
「家庭教師は何人も付けられましたからね。教え方も見よう見まねですわ」
と謙遜しているが、魔術についてまったく知識のない僕にだって、内容が理解できるほど明快な説明だった。
ノルトリは再び、教科書に顔を埋めるようにしている。その集中力は驚くほどで、もう一時間も休みなくそうしているのだ。
「急にどうしたんだろう」
ふざけてはいたものの、実は本当に困惑しているところもあった。ノルトリは学院をよくサボっていたし、勉強に興味がある様子もなかった。そんな子が急に教科書にかじりついているのだ。
ましてや、大して会話もしていなかったアイナに、こうして個人教授をお願いしているのだから。よほどのことがあったに違いない。
「進路選択の時期だからでしょう」
「進路選択?」
「幼等部は全科目共通ですが、中等部からは大まかに専攻が分かれるのです。貴族の大半は魔術学科にそのまま上がりますが、貴族以外がそれを専攻するには、資格試験があるのです」
はあ、なるほど。入学試験みたいなものなのか。
「あれ? ノルトリ、魔術学科に行きたいの?」
ノルトリは本の陰から僕を見上げて、こくりと頷いた。そしてまた目を落とす。
「そっか、ノルトリももうそんな歳なのか……大きくなったなあ」
「どこの親戚のおじさんですかあなたは」
「ノルトリの成長を見守ってきたからね。胸がいっぱいだ」
あのぐーたらだったノルトリが受験勉強をするだなんて! きみはやればできる子だと思っていたよ。
「……でも大丈夫? 授業とか、真面目に出てなかったでしょ?」
あれだけサボっていたのだ。おそらくエリートらしい魔術学科に行くというのは、大変なんじゃないだろうか。
心配だから訊いてみたのだが、アイナは呆れを隠さない顔で僕を見た。鳥について「大丈夫? 飛べるかな」と心配している人を見つけたみたいな顔だった。
「この子、ユウさんより優秀ですよ? この教科書、高等部の規定図書なんですから」
「……うん?」
ノルトリを見る。ページをめくっている。一時間前からずっと読んでいるし、アイナに質問までしていたし、普通に理解できているように思える。
「マジで?」
アイナはゆっくりと頷いた。
「学院は古来から成果主義なんです」
「成果主義?」
「たとえば、学院にはミュラー教授という人がいます。好き勝手な実験で校舎を破壊したり、講義をすっぽかしたりします。それでも彼が許されるのは、それだけの成果をあげているからです」
「はあ」
「リナリアさんもそうです。貴族至上主義が根強い魔術学科で、平民であるリナリアさんが在籍できるのも、首席になれたのも、それだけの成果、つまり成績を示しているからなんですよ。つまり」
「つまり?」
「やることさえやれば、自由が与えられるのです」
アイナの例え話を訊いて、僕はふむと考えた。それは、なるほど。
「成績が良かったら、学院をサボっても良いってこと?」
アイナはまた頷いた。
「学院の課す課題や考査を文句なくこなせるなら、あとは個人の時間というわけです。普通は、まあ、教授の評価や周りを慮ってやりませんけど」
と、アイナは横目でノルトリを見た。そして「ふふふ」と笑ってみせる。
「ずいぶんと将来有望な子がいたものですわ」
マジか……学院って、そんなルールだったのか……たしかに、ノルトリの授業とか出席日数は心配だったけども……。
「あの、ノルトリ、さん」
お勉強中のところ、申し訳ないんですけれども、と声をかける。
「…………?」
「学院の課題とか、勉強とか、ちゃんとやってたんだね?」
確認の意味も含めて訊ねると、ノルトリは眉間に皺を寄せて言う。
「……その方が、めんどくさく、ない……先生も、うるさくない、し……」
「あっ、はい」
この子、あれだ。有能な怠惰のタイプだった。夏休みの宿題を短期間集中で終わらせて、あとはひたすらだらだらするやつ。テストも合格点ぴったりの勉強だけして、無駄なことはしないやつ。やることはやってるから、周りも強く言えないやつ。
「周りからはやればもっとできるんだからって期待されるけど、絶対やらないやつだ……」
「そういう子がやる気を見せると、恐ろしいですわよ。能力の使い方をわかってますからね」
ごもっとも。
いや、やればできる子、将来は大物とは僕も常々思っていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。
「でも、なんで急にやる気をだしたの?」
「…………」
ノルトリは僕をじーっと睨みつけた。その視線の強さに、思わず身を引いてしまう。
「な、なんでしょう……?」
「……べつに」と、また本に視線を落とした。「…………負けない」という呟きが聞こえたけれど、ノルトリはいったい何と戦っているのだろう?
アイナに目線を向けると、肩をすくめて返事とされた。あの顔は何か勘付いていると思うのだけれど、僕に教える気はないらしい。
ぱたん、と本が閉じられた。見やると、その本を枕にして、ノルトリが突っ伏している。
「…………ねる」
そしてすぐに寝息が聞こえ始めた。
「あっ、いつものノルトリだ。良かった」
「なんですか、良かったって」
「いきなり真面目になったみたいでさ、こう、戸惑ってたんだ」
「どこの親ですかあなたは」
言われて気づく。そうか、これが子どもの成長を見守る親の気分なのか……。たしかに、いつまでも小さいと思っていたのに、いつの間にか立派になっていたことに気づいて、ちょっと動揺しちゃう感じに似ている……。
「ノルトリ……ちょっと見ない間に、成長したんだね……」
目尻なんて拭ってみたりして。
アイナのため息が聞こえたけれど、僕は気にしない。
聞き慣れたノルトリの寝息と、あどけない寝顔がある。けれどその枕は見慣れない魔術の教科書で、それはもしかしたらノルトリの未来につながるものかもしれない。
ああ、時間は流れているんだなあと、当たり前のことを実感したりして。
ノルトリの未来が良いものになりますようにと、その寝顔に祈っておいた。
了
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