第28話 きみのなは


 随分と久しぶりにこの店を開いている気もしたが、もちろん気のせいだった。定期的にこんなことを繰り返しているせいで、言い訳にも慣れてきたように思う。


 今日は日曜日みたいなもので、多くの人たちが休日を楽しんでいる。

 しかしもちろん僕のように飲食店をやっていたりすると、みんなと同じように休むというわけにはいかない。みんなが休むときこそ、かき入れ時というものだ。


 といってもうちの店は「隠れた名店」……は言い過ぎとしても、「知っている人は知っている」お店なものだから、大繁盛なんてことにはもちろんならない。


 普段はやってこない常連さんが「久しぶり」なんて言いながらやって来てくれたり、デートの中での刺激を求めたカップルが、物は試しという雰囲気で初入店してくれるといった感じだった。


 だから今日も今日とてお店は穏やかで、平日よりは席が埋まっているくらいのものだった。ランチ時はもう少し忙しい思いをしたものの、今はもうおやつ時が近い。店内の空気はまったりと流れていた。


 ただ、まったりというには少しどんよりとした空気もあった。カウンターの一番奥の席だ。くるくるとパーマのかかった金髪で、体の線のほそい男性が座っている。彼は頬杖をついてぽけーっと口を半開きにして、どこか遠くを見つめていた。少なくとも意味のあるものを見ているわけではないことは確かだった。


 溜まっていた食器を洗い終えた僕は、そっと彼のところまで歩いて行った。


「さっきからずっとそうしていますけど、どうしたんですか、ロミオさん」

「ん、ああ、いや」


 ロミオさんはぼんやりと僕を見た。


「大したことではないんだが、ああいや、ぼくにとっては間違いなく重要であるし大したことなんだが、君にとっては関わりのないことでもあるし、それゆえに大したことではないと表現したんだが――」

「持って回りますね」


 ロミオさんは劇作家としてデビューすることになっていた。劇作家だからなのか、もともとそういう性格なのかは分からないが、こうしてずいぶんと回りくどい物言いをすることがあった。


「おっと、すまない。ついいつもの癖で。まあ、要点をまとめるとだな……いや、ぼくの悩みの要点を搔い摘むなんて品のないことは本当はしたくないのだが」

「要点をまとめると?」

「原稿が進まない」


 とても簡潔だった。


「原稿というと、デビュー作のことですか」

「ああ、それのことだ。ぼくの記念すべき一作目だ」

「でもデビューが決まったのはずいぶんと前のことじゃありませんでしたっけ?」


 頭をひねって思い出してみたが、すでに半年くらいは過ぎている気がした。

 ロミオさんは腕をくんで黙り込んだ。眉間に皺を寄せたまま、目を固く閉じている。やがて、ぼそぼそと話し出す。


「編集者から手直しが入ってね。作品をよりよくするために、書き直しているんだ」

「はあ、書き直しですか」

「もともとが散文を書き散らしていたようなものだからね。ひとつの作品としてまとめるために、試行錯誤の日々なんだ」

「試行錯誤の日々」

「ああ、毎日ね」


 ここ数日、ロミオさんは毎日この店にやってきていたが、彼が原稿をやっているところを見たことはなかった。いつも頬杖をついて、ほけーっと天井を見ているだけだった。


「君はどうやら、ぼくが毎日ぼんやりとしていただけだと思っているようだ」


 ロミオさんが言った。片目だけを開いて、僕をじっと見ていた。察しがいいのは彼の洞察力が優れているのか、僕が顔に出してしまっていたのか、どっちだろうか。


「違うんですか」


 尋ねてみると、ロミオさんは深々と頷いた。


「違うとも」


 それから両手をカウンターに置き、前のめりになって語りだす。


「良いかい、書くという行為は創造的なものだ。それが物語ともなれば、想像的でもある。つまり、ぼくの仕事は手を動かすことと、頭の中で物語を生み出すことの二つに分けられる」

「はあ」

「君からすればぼーっとしているだけのようにも見えるだろうが、ぼくの頭の中では目まぐるしく物語が脈動を」

「してるんですか?」


 素直に訊いてみると、彼はぴたりと口を閉ざした。

 それからすーっと窓の外へ視線を向けた。


「今日は良い天気だな」


 露骨に話題をそらしたな、この人。

 じとっと見つめる。ロミオさんは「ああ、いや」と首を振った。


「今のは訂正しよう。ぼくとしたことが、実に品のない発言だった」

「そうですか? 何か問題があったようには思いませんけど」

「いや、いや。表現者としては情けない限りだ。ぼくはこう言うべきだった。『雲ひとつない青い空は、見上げる彼の心の陰鬱を気にも留めていない。その尊大と呼ぶべき無関心に、彼は清々しさすら覚えた。自分の抱える問題など気に掛けるほどの価値もないと言われているようで、空を見上げるだけで心は軽くなった』といったところか」

「ええと、どういうことでしょう」


 詩的な表現で詳しく情景を描写されたことはわかったが、ロミオさんが何を言いたかったのかは分からなかった。


「つまり『良い天気』などというものは存在しないんだ。あるひとつの天気がある。それを見た者がどう感じたかが重要だ。晴れているから良い天気だと言うのでは、あまりに下らない。どんな天気を見て、なぜ『良い』と感じたのかを読者に理解してもらわねばならない。良い天気といっただけでは、晴れか雨かも分からないだろう?」

「なるほど、確かに」


 ロミオさんの言葉ですとんと納得できた。

 良い天気だという表現に、僕はまったくおかしさを感じていなかった。晴れているから良い天気だと思っていた。


 けれど、例えばノルトリがここにいたとして、その表現に同意しただろうか。彼女は晴れ渡った空をみて清々しいとは感じないはずだ。降り注ぐ太陽の光に対して鬱陶しいと思うだろう。


 だから、あなたはどう感じるかは分かりませんが、彼はこんな天気に対してこう思ったんですよという説明が大事なのかもしれない。


 ただのダメな人かと思っていたのだけれど、ロミオさんの作家らしいこだわりに僕は深く感心した。


「それで、仕事はしてるんですか?」

「…………」


 感心したのはさておき、改めて訊ねると、ロミオさんはそっと視線を外した。


「……うまく、誤魔化せたと思ったのだけどね」

「それは残念でしたね」


 ロミオさんは額に手を当てて、大きく息を吐いた。


「正直に言おう」

「はい」


 彼は僕と視線を合わせ、きりりとした顔をしてみせた。


「まったく、進んで、いない」

「そんなに堂々と言われると困るんですけど、大丈夫なんですか」

「大丈夫ではないと思うが、やる気がでないんだ仕方ない」


 やれやれと首を振るロミオさんの姿は、安定のダメな人だった。


「原稿を見返すのが怖くてね」

「怖い?」

「自分の不完全さをまざまざと見せつけられているような気分になる。そして、原稿と向き合ってしまえばどうなると思う? 苦しみの始まりだよ。終わるのか、自分にできるのか、良いものを生み出せるのか、自分に問いかけ続けなければいけない日々だ。とても怖い」


 ロミオさんはガタガタと震えながら両手で頭を抱えた。もうだめなんじゃないだろうか、この人。本当に怖そうだった。


「それで毎日、ぼーっとしてたんですか」

「明日からやろう、明日こそは取り掛かろう、だから今日は最後の休息だと言い聞かせていたんだ。そしたらいつの間にか半年近く経っていた」

「それはやばいですね」

「やばいと思うか」

「やばいです」


 そうだよな、やばいよなと、ロミオさんは何度も頷いていた。本当にやばいと思っているのだろうか。


 彼はそのままカウンターにぐったりと倒れ伏した。

 まさに書けない作家という姿そのままだった。


「スランプっていうやつですかね」


 思い当たる言葉で表現してみたのだが、ロミオさんはうーうーと唸った。


「それはもっと熟達した人間に使う表現だ。ぼくの場合はひとことに尽きる。練習不足。実力がついていないだけだよ」

「はあ。書くということにも練習がいるんですか」

「もちろんだとも。作品を書き上げた経験。展開上の難題を考えに考え抜いて解決した経験。どんなに苦しくても書くことに取り組んだ経験。そういうものがないと、作家はひどく簡単に迷子になる。そして場末の酒場で酒浸りになるのさ。ぼくの場合は喫茶店だけど」


 大変そうだった。僕には縁遠い世界の話だが、毎日お気楽で自由気ままな生活とはいかないらしい。


 ロミオさんはカウンターに突っ伏したまま、微動だにしなくなってしまった。

 僕は洗い終わった食器を拭くことにした。


 食器を半分ほど拭き終えた頃になって、ドアベルが鳴った。


 顔を向けると、20代も半ばを過ぎた頃の女性が入ってきた。鋭い目つきだった。銀色のひっつめ頭で、雰囲気はとげとげしい。

 彼女は店内をちらりと見回してから、カウンターに座るロミオさんに目を付けた。そして他には目もくれずにまっすぐ歩いていく。


「あの、いらっしゃい、ませ」

「すぐ出ますので結構です」


 おずおずと言ってみたが、一瞥もされずにそう言われた。氷柱のように固く尖った声だった。

 彼女はロミオさんの横で立ち止まった。


「どこへ行っているのかと思えば、こんなところにいたのですか」

「ひっ!」


 ロミオさんが跳ね起き、女性を見て顔を引きつらせた。


「〆切も近いというのになにをしているんですか。進んだんですか、原稿は」


 瞬きすらなく射貫く視線に、ロミオさんはぷるぷると首を振った。猫に狙われたネズミのようだった。


「あなたは、本当に……」


 女性は首を振った。


「今まで担当した中でも、あなたほど筆の遅い方は初めてです。あなたのペースを知るためにしばらく好きにさせていましたが、もう分かりました」


 ずいっとロミオさんに顔を寄せ、その襟首を掴んだ。


「あなたは放っておいて書ける人ではないようです。さあ、帰りますよ。付きっきりでお尻を叩かせていただきます」

「ちょ、あの、や、やめ」


 立ち上がった女性に引きずられるように、ロミオさんも立ち上がった。

 僕はぽかんと見ているしかなかった。発言からするに、編集さんかなにかだろうか。少なくとも、ロミオさんの原稿を催促するために来たのは間違いないようだった。


「では、お騒がせ致しました。支払いはこれで足りますか」


 女性は銀貨をカウンターに置いた。ロミオさんの飲食代を払って余りある額だ。

 僕はこくこくと頷いた。


「お釣りはお納めください。では、失礼します。行きますよロミオ」


 彼女はそのままカツカツと出口に向かって歩いていく。

 ロミオさんは襟首を捕まれたまま、ふらふらと引っ張られていく。


「は、はなしてくれ! 歩ける! 逃げない! 聞こえてないのかジュリエット!」


 そして二人は店から出ていった。

 店内には静けさが戻ってきた。


 ロミオとジュリエットか。そうか……。

 二人が歩いていく姿が、通りに面した窓から見えた。こうしてみれば、なんだかお似合いの二人にも見えた。


 建物の隙間から、先ほどよりも色味が深い青空が見えた。どこからか流れてきた雲がぽつりと浮かんでいる。もうすぐ夕方が近い。空の下がぼんやりと赤みを帯びている。何かうまく表現したかったのだけれど、しばらく頭をひねってから、僕は諦めることにした。

 今日も、良い天気なのは確かだ。






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