第9話 海の記憶、貝の栞
夏の間、ぼくらはくるくると めまぐるしく働いた
「クラフティ・クララベル」は、都会にあった頃から人気があって
この街に移転したのを惜しんだ たくさんのお客さんたちが
夏休みにこぞって訪れたから
お菓子の学校から帰省したエミルは
一日中キッチンで 髭のパパの手伝いをして
花びらを集めたようなお菓子を焼いていた
彼女が泡立てる ふわふわメレンゲからは
しあわせにふんわり包まれるような やさしいバニラの香り
ノエルはカフェのお手伝い おすすめはこの子に任せてね
カイルはジェラートをすくう係 あれは結構コツがいるね
なぜ、ぼくまで忙しかったかというと
カフェに入りきれないお客さんや
クウヘンさんの珈琲と クララベルのケーキを一緒にという
リクエストが多くて、玻璃の音*書房も 目が回っていたから
ぼくはケーキをトレイに載せ、珈琲を溢さないよう気をつけながら
書房とクララベルを行ったり来たりした
こりすはお客さんにちやほやされて、しっぽの毛並みがつやつや
*
カイルは、夜になると ぼくの部屋にやってきて
ぼくの本や、書きかけの断片を声に出して読んでみるんだ
まるで一つ一つの感触を 確かめるかのように
ぼくが伝えたいことに 同化したように感じてくれる不思議
同時に、思いがけない言葉で 別の場所に連れて行かれる驚き
ぼくの手を離れた本が こういう形で返ってくることがあるんだな
書いた言葉は、もうぼくだけのものじゃない
世界の何処かできっと四方八方に散らばっていく
本人ですら、その瞬間に書いたことを覚えているわけじゃなくて
もう一度読んで、ふぅーんって思うことがあるくらいなんだ
*
夏の終わりに やっと訪れた小さなやすみに
ぼくとカイルは海に行くことにした
朝早く起きておむすびを作って出発する
山を越えて、お互いに負けまいと すごいスピードで自転車を漕いだ
どこまでも続いていくような
ゆるやかなカーブの坂道を下りはじめると
きらきらまぶしい波が見えてきた
海に行ったことがないと思っていた ぼくは
波の音を聞き、潮の香りを吸った瞬間
何かが あざやかに胸に広がるのを感じた
巻き貝の中で迷子になった小さな蟹が 出口を見つけたように
記憶の断片が 大きな渦を巻いて ぼくに流れ込んできた
それは、貝の記憶
ちいさな頃、ぼくは確かに海にいた
白い二枚貝を拾って 大切に手のひらに載せながら家に帰った
その貝は、本にはさんで栞にしていたんだ
ある日、貝は粉々になった 栞には向かないもの
ぼくの中に あふれだした記憶
あの日の ぼくを呼ぶ父の声 やわらかい母の笑顔
なつかしくて懐かしくて、涙が止まらなくなった
自転車をもっと早く飛ばして
涙を振り切るように 空中に置き去りにしたくて
砂浜に着いて、急いで海に向かって走っていく
水をすくって ばしゃばしゃ顔を洗った
海水と涙が 一緒になって 溶けてしまえばいい
波に手と足をさらわれて 膝をついたら
もっと大きな波がやってきた
体にあたる衝撃に、また涙が出そうになって
あわてて 大声でわぁーと叫んでみた
カイルも続くように駆け込んできて、波につっこんだ
口に入ってきた海水は、見事に潮の味がして ここが本物だと伝える
砂浜に寝転んで 海岸線を眺めていたら
一気に夏の疲れが流れていくように思えたんだ
ザザーっと打ち寄せる音が 心地よすぎて眠くなる
ぼくらは 一日中、海と戯れていた
最後に夕日に向かって うさぎのようにはね回って
砂浜のあちこちに自分の靴跡をつけて、別れを告げた
こんなに笑った夏はなかった
心から楽しかった カイルがいてくれるから
*
彼が抱えているものの重みを知ったのは、もっとあとのことだった
いつも太陽のような彼が どんな思いで笑っていたか
そしてぼくは もっと大切な何かを
思い出さなくてはならないことに気づいていた
帰り道は登り坂だということを ぼくらはすっかり忘れていた
足が疲れて ガタガタになって
途中でさかさまに転がりそうになって
全力で遊びきって、電池が切れたぼくらは
なんとか家に辿り着き、床にばたりと倒れて そのまま眠った
潮の香りを 漂わせたまま
記憶の波に 思いを馳せたまま
*今日の1曲 「Blue Pacific」 マイケル・フランクス Michael Franks
夏の終わりに聴きたくなる曲たち
少し熱をもった気だるさが ここちいい
同時に、ココロに浮かんでくるジャン・コクトーの詩
「私の耳は貝の耳 海の響きをなつかしむ」
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