第5話 ぼくの本は君の許に
玻璃の音*書房に お客さんが来ていた
柚子さんが ぼくを見つけて手招きした
フウチの詩集を気に入ってくださった方よ
あ、ぼくは思い出していた
あの冬の日 1冊売れたぼくの本
本が売れると 代わりに置かれる檸檬
その檸檬を抱えて 待っていてくれた柚子さんの姿
もしあの朝、柚子さんが現れなければ
引き返せないまま ぼくは深みにはまってしまったかもしれない
*
初老の紳士は、にっこりして握手を求めてきた
不思議な感覚だった
目の前に自分の本を読んでくれた人がいる
書く時に想定していなかったこと
ぼくがいつも思い描くのは、柚子さんが読んでいる姿
柚子さんがどう想ってくれるのか それだけだったから
あの本は私が気に入っていたのですが
孫がもっと気に入ってしまって 取られてしまいました
だから、もう1冊 探しに来たのです
そう言った時に、赤いきのこノエルが
両手いっぱいに大きな箱を持って入ってきた
あ、おじいちゃん!
おお、ノエル 学校は終わったのかい
ノエルの おじいちゃん?
*
ノエルが箱をあけて取りだしたのは
グラスに詰められた 赤と白のつめたいデザート
それは見事にバラバラな 赤と白の地層
すぐ傾いて 崩れ落ちそうな甘いビルディング
一緒に摘んだ 赤い宝石たちの散らばり具合に チカラが抜ける
パフェ? ううん、クープ
ムース・シャンティーイに ラズベリージャムをはさんだの
シャンティーイって何だろう
軽くてやわらかい 雲みたいな白いクリーム
コリスのルウは 小さなリス用グラスの特別仕様
時々あたまがキーンとしちゃうみたいで、目が回ってたね
一口掬ったら あまずっぱくて
きちんと混ざってない不器用さが
ノエルらしいおいしさを 引き出しているのかもしれないね
クリームだけ すこし珈琲にもらってもいいかな
*
ぼくの本、よんだの?
ノエルに 小声でたずねた
うん、お姉ちゃんもね
お兄ちゃんの本棚にあるんだよ
なんども繰り返して読んでるみたい
あ、秘密だって言われてるんだった!
いたずらそうに、ノエルがペロッと舌をだしだ
あいつが、ぼくの本を 持っている
カイルが、ぼくの本を 読んでいる
*
書房に、珈琲の香りが ゆらゆら立ちこめる
カイル君は冬によくここに来ましたね、クウヘンさんが言った
フウチがちょうど外を通りかかった時に
これを書いたのは 彼だよって教えたな
あの子は、あなたの詩集が気に入って
何度かここに来たらしいのです
それで、隣の空き家のことを調べてきて
一家でここに引っ越すことになったのです
おじいさんがニコニコして言った
ぼくは、会ったことがなかった
一度見たら忘れない顔だからね
でも、冬の間ぼくは
世界を見ているようで見ていなかっただけかもしれない
湯気の上がったカフェの中
曇ったガラス窓を通して、ぼくを見ていたであろうカイル
なんだか ざわざわと乱されるように
ぼくの中で 雪崩が起きるのを感じていた
*今日の1冊「粉のお菓子、果物のお菓子」堀井和子著
クープ coupe は、フランス語でカップ
堀井さんは、パンや粉に関する料理研究家
写真や絵がすてきな本をたくさん出版されています
彼女の赤い実のクープは、生クリームに卵白を加えた
ムース・シャンティーイをつかったレシピ
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