第5話 ぼくの本は君の許に


玻璃の音*書房に お客さんが来ていた


柚子さんが ぼくを見つけて手招きした

フウチの詩集を気に入ってくださった方よ


あ、ぼくは思い出していた

あの冬の日 1冊売れたぼくの本

本が売れると 代わりに置かれる檸檬


その檸檬を抱えて 待っていてくれた柚子さんの姿

もしあの朝、柚子さんが現れなければ

引き返せないまま ぼくは深みにはまってしまったかもしれない



初老の紳士は、にっこりして握手を求めてきた


不思議な感覚だった

目の前に自分の本を読んでくれた人がいる

書く時に想定していなかったこと

ぼくがいつも思い描くのは、柚子さんが読んでいる姿

柚子さんがどう想ってくれるのか それだけだったから


あの本は私が気に入っていたのですが

孫がもっと気に入ってしまって 取られてしまいました

だから、もう1冊 探しに来たのです


そう言った時に、赤いきのこノエルが

両手いっぱいに大きな箱を持って入ってきた


あ、おじいちゃん!

おお、ノエル 学校は終わったのかい


ノエルの おじいちゃん?



ノエルが箱をあけて取りだしたのは

グラスに詰められた 赤と白のつめたいデザート


それは見事にバラバラな 赤と白の地層

すぐ傾いて 崩れ落ちそうな甘いビルディング

一緒に摘んだ 赤い宝石たちの散らばり具合に チカラが抜ける


パフェ? ううん、クープ

ムース・シャンティーイに ラズベリージャムをはさんだの

シャンティーイって何だろう 

軽くてやわらかい 雲みたいな白いクリーム


コリスのルウは 小さなリス用グラスの特別仕様

時々あたまがキーンとしちゃうみたいで、目が回ってたね


一口掬ったら あまずっぱくて

きちんと混ざってない不器用さが

ノエルらしいおいしさを 引き出しているのかもしれないね


クリームだけ すこし珈琲にもらってもいいかな



ぼくの本、よんだの?

ノエルに 小声でたずねた


うん、お姉ちゃんもね

お兄ちゃんの本棚にあるんだよ

なんども繰り返して読んでるみたい

あ、秘密だって言われてるんだった!

いたずらそうに、ノエルがペロッと舌をだしだ


あいつが、ぼくの本を 持っている

カイルが、ぼくの本を 読んでいる



書房に、珈琲の香りが ゆらゆら立ちこめる


カイル君は冬によくここに来ましたね、クウヘンさんが言った

フウチがちょうど外を通りかかった時に

これを書いたのは 彼だよって教えたな


あの子は、あなたの詩集が気に入って

何度かここに来たらしいのです

それで、隣の空き家のことを調べてきて

一家でここに引っ越すことになったのです

おじいさんがニコニコして言った


ぼくは、会ったことがなかった

一度見たら忘れない顔だからね

でも、冬の間ぼくは

世界を見ているようで見ていなかっただけかもしれない


湯気の上がったカフェの中

曇ったガラス窓を通して、ぼくを見ていたであろうカイル


なんだか ざわざわと乱されるように

ぼくの中で 雪崩が起きるのを感じていた





*今日の1冊「粉のお菓子、果物のお菓子」堀井和子著

 クープ coupe は、フランス語でカップ

 堀井さんは、パンや粉に関する料理研究家

 写真や絵がすてきな本をたくさん出版されています

 彼女の赤い実のクープは、生クリームに卵白を加えた

 ムース・シャンティーイをつかったレシピ






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