第2話 林檎の花の匂い
新学期がはじまっていた
ぼくは相変わらず 文字を読むのがすきだった
化学の教科書でさえ 気に入った言葉の断片をみつけると
それを自分の中で変化させて使ってみる
世界地図の地名を 宙に放って再構築してみる そんな日々
教室の窓の外で 桜の花びらが散る
午后の風にのって、かすかに柚子さんの笑い声の気配
そうだ ぼくは風の音を聴くことができる
きっと今頃 あの場所にいるんだ
*
いつもの帰り道
玻璃の音*書房によると 貼り紙がしてあった
「臨時休業」
その下に 小さな紙片が貼ってあって
「フウチ 春の場所に来て」とぼくへの伝言
林檎の花が咲きはじめたのだ
柚子さんは 自分が生まれた土地には咲かない
林檎の花がことにお気に入りで
桜の時も喜んでいるけど
林檎の花の時はそわそわして、ほとんどお店にいられない
今日はとうとうクウヘンさんにも伝染したらしく
書房を休業して、あの森に行っているんだな
*
そこに行くまでの道すがら 森の音に耳を澄ませる
春は生きている命がさざめいて、少し騒がしいくらい
林檎の蕾が開きかけていた
三分咲きくらい まだほんのはじまりで
蕾の時は淡いピンク色
咲くと ふちにその色を少し残す 白い花
やわらかい香りがする 淡い時がふわりと揺れる
そんな木の下で、二人とコリスは
ピクニックを楽しんでいた
*
あ、おかえり
柚子さんが 桃色のワインで ちょっと頬をそめて言った
この人そのものが まるで花のよう
おいしそうなメニュウが並んでいた
アスパラや春の野菜の入ったサーモンパテ
ミモザとアンチョビのサラダ
クリームチーズとキュウリのサンドイッチ
朝からささやく歌声と共に作られた
グリーンとイエローのハーモニーに 薄桃色の影も挿して
口ずさむ 林檎にささげるメロディ
ミモザって、ほんもののお花入れてる訳じゃないのよ
これはね、ゆでたまごの黄身を集めてるの
柚子さんは毎年 それをぼくに言っている気がする 何回目かな
*
今、書房の大きな窓の前の ミモザの大きな木には
溢れんばかりの優しい黄色が咲いて、ゆさゆさと揺さぶられてる
コリスが登って、ちょこちょこ駆け回ると
しっぽとミモザが交互に窓に映りこみ
まるでこどもの追いかけっこ
柚子さんなら、本当の花を散らすくらいしそうだけど
あれは、たべても大丈夫な花だったろうか
コリスが今は、ミモザの代わりに
クウヘンさんの肩に飛び乗ったり、背中で伸びをしたりしてる
いてて、ほら、落ち着けよって
それはコリスへの言葉? それとも柚子さんに?
パーコレーターで入れてくれる、いつもの珈琲
ぼくは去年よりミルクの配合が少なくなった
*
未成年、ちょっと舐めてみる?
と、柚子さんがいたずらにさし出したワイングラス
ぼくは こういう仕草にどぎまぎしてしまう
少しは大人になれたはずなのに
*今日の1冊 「赤毛のアンの手作り絵本 I」
林檎の花といえば、だいすきな「赤毛のアン」が真っ先に浮かびます
アンがマシューに連れられて馬車で通った 林檎の花の満開の下
「アンの手作り絵本」は計3冊 1巻は少女編
松浦英亜樹氏のすてきな絵で描かれている 私の宝物の本
アンといえば、私が思い描くのは このロマンチックなアンなのです
高校の時、図書館でみつけていつも眺めていた
図書委員に呆れられるほど、何度借りたことでしょう
今は手元にあって いつでも開けるしあわせ
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