第33話 あたたかい檸檬


まだ息が白い朝、玄関の扉を開けると

そこに柚子さんが立っていた


ああ、何日振りなんだろう

柚子さんだった


もう長い間、会っていないような気がした

世界がぐらりと揺れて、ぼくはめまいを起こした


柚子さんは、檸檬を持って立っていた

そしてそれを ぼくに手渡した


  昨日ね、フウチの本が売れたの

  だから、その報告


  隣の街に住んでいる初老の紳士がね

  あなたの本を気に入って

  昨日の午後ずっと、珈琲を飲みながら読んでた


  これを書いた方はここに来ますか、と聞かれたから

  ええ、きっと、と答えておいたよ


それは、ぼくがはじめて書いた詩集で

つたない つたない 言葉を集めたもの

でも、柚子さんがとても気に入ってくれた 記念の本


柚子さんは、ぼくを覗き込むような目をしただけで

粉雪さんのことは聞かなかった


ただ心配そうに、ちゃんとたべてるの、と訊ねた


ぼくは、柚子さんが作ってくれた

あの林檎のパンを食べてるよ、と言った


   手が届くほど 近いのに

   ふれることもできない 遠い人


ずっと手で包んでいたのだろう

檸檬はとてもあたたかくて、身に沁みるほどに


ぼくは、二人分裂してに分裂していた自分が 手をつないで

ふっと結束してゆくのを感じた


   檸檬の中で、 ぼくは ぼくに 帰っていく


自分の心が叫んでいる声を、はっきり聴いた


たとえぼくが、柚子さんにとってオトウトであっても

ぼくは、柚子さんのものなんだ

近くにいられるだけでいいんだ


   たとえ叶わぬ恋なれど

     同時に二人を愛すこと

       できぬぼくは

         やはり臆病





 

* 今日の1冊 「レモン・ドロップス」石井睦美著

  三日月形のレモン・ドロップ 甘酸っぱい恋の香り

  いつのまにか大人になってしまったけど

  みんなこういう時代を通ってきたはず なんだよね



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