1章 新たな生活
1 大きい、小さい
心地いい。
ずっとこのままでもいいような、早く確かめたいような。そんな、こそばゆい感覚。
光でまぶたが明るく感じる。風が髪を撫でる。
温かくて、柔らかい。
ゆっくりと目を覚ました。
キラキラとまぶしく輝く世界に、慣れない目がまたたく。
次第に見えてくる黒っぽい木の天井。曲がった木をそのまま一本使った太い梁。少しくすんだ漆喰の壁。
古い家。
でも、ふと畳の香りが鼻をかすめる。張り直して間もない、いい匂いだった。
明るい光に誘われ、右側へと視線を移す。
開け放たれた障子の向こうで、若葉色の木々が風に葉を揺らしていた。広い縁側が、その風景に溶けこんでいる。
ふたたび部屋の中へと視線を返し、今度は反対側を見る。
私の真横に、ピタリと何かが寄りそっていた。
「っ!」
思わず布団を蹴って飛びのき、私は目を見開いたまま固まった。
それは、虎やライオンと見紛うほどに大きな……
犬?
まさか、そんな訳はない。そんな大きな犬なんて、見たことも聞いたこともない。世界一大きな犬だって、もうちょっと小さいはず――
「ぶはあっ!」
時が止まったように見つめる間、思考回路も、おまけに息も止まっていた。
改めて見直してもやっぱり大きい。ピンと立った耳、白くきれいな毛並み、ふさふさの尾。私を見つめる、澄んだ水色の瞳。
何て……何て立派だろう。
猛獣と言っても差しつかえないほどの生き物を前に見とれる。一足飛びに来られれば簡単に襲われてしまう距離だったのに、少しも恐怖を感じなかった。
「ずっとお前に寄りそってたんだよ」
聞いたことのある声に、私はゆっくりと視線を移す。
開けられた襖の向こうにいた人物。
昔話に出てくるおばあさんだと思った。
後ろにまとめられた、まっ白い髪。もんぺ姿の小柄な体。
でもよく見ると、着物はきれいな桜色で、もんぺもそれに合う紺色と若々しく、背筋はしゃんと伸びている。
「お前のことが気に入ったみたいだね」
いつの間にかまた私の隣に来ていた白い動物が、頭をすり寄せる。
眠っている間の心地よさは、この温もりのお陰でもあったことに気づいた。
「狼だとて、襲ったりはせん。心配ない」
言葉の内容など頭に入らなかった。
少しかすれたこの声。その正体に、やっと気づいたのだ。
目を見開き、老女をまじまじと見つめる。
穏やかな丸顔に、黒々とした目。最初の印象を裏切るほどに、皺は少ない。
この人が――――
「
「呼び捨てはおやめと言ったろう」
言下にぴしゃりと言われ、呆れ顔でため息をつかれた。
「あの、わ、私、あなたを探して――」
「ようやく
ふうわりと笑ったその顔を見たとき、なぜだろう、何だかもう大丈夫なんだと、ぼんやり思った。
「それ、母の――」
「そうさ。わしが、お前の母に告げていたんだよ。繰り返し、繰り返し、わしの名を教えるように。
私が三歳のとき、母は亡くなった。
まだ幼かった私には、思い出をとどめ置くことはできなかった。少しでも尋ねると父はいつも辛そうで、だから私は、母がどんな人だったのかよく知らないまま生きてきたのだ。
ただ一枚だけ残っていた写真。褪せた色の中で、赤ん坊の私を抱いて微笑む母は、まだ十六歳の若さだった。
私は、自身が十六歳になり、それからひとつずつ歳が離れていくごとに、少女の姿の彼女を余計に遠く感じるようになっていった。
その母の、温かな声を思い出す。
『あなたが彼女の名前を呼ぶことで、道は繋がるからね』
そして、十岐の名を教えてもらった。何度も、何度も。
母との思い出は、私の中にちゃんとあった。
心の片隅に、ポっと小さな明かりが灯る。そこから血が通い出し、じんわりと温かさが広がっていく。
「とにかく、こっちにおいで」
十岐の声に、現実に引き戻された。
手招きされ、思わず立ち上がって歩み寄ったけど、何だろう、この違和感。
すぐ目の前まで歩いて、やっと分かった。小柄だと思った十岐の目線が、私より上にあったからだ。
「背が、大きいんですね」
意外だった。私の身長は百六十五センチで、決して低くはない。おばあさんの年代でそれより大きいとなったら、大女と呼ばれていてもおかしくないような背丈なんじゃないだろうか。
「チビさね、昔からちっさいさ」
「え、でも、私より大きいのに……」
「いいからおいで」
今まで寝ていた場所は、布団以外何もない部屋だった。そこを出て、廊下を挟んだ向かい側の部屋へと、手を引かれて行く。
手をつなぐ。それすら久しぶりで、また違うところがじんわりした。
向かいの部屋も和室だった。さっきの部屋と同じくらいの大きさなのかもしれないけれど、家具が置かれているので狭く感じる。
懐かしいような匂い。和箪笥や床机など、どれもひと目で年代物だと分かる代物で、畳も古いままだ。まるで昭和、大正、明治、そのまた昔へとタイムスリップしたような気持ちになる。
「こっちだよ」
姿見の前に立たされた私の目の前で、掛けられていた朱色の縮緬布がめくられた。
一体全体、何の冗談だろう。
そう、思った。何年か前、ビルに飛行機が突っ込んだニュースを見て特撮としか思えなかった、あの現実感のなさと同じだ。
入学式の日に撮った写真のように、十岐の前に立つ私は――――子どもだった。
無意識に姿見に近寄る。ガラスに手を触れ、そこに映っている小さな顔へと滑らせていくと、鏡の向こう側の自分も寸分
「分かったろう。わしもチビだが、お前はもっと小さいのさ」
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