2 真実 -あまね

 出したこともないような声で絶叫したあと、居間に連れられていた。

 三十畳くらいあるだろうか、台所など壁で区切らないひとつの大きな空間だった。黒っぽい板張りの床。大きな囲炉裏。その側に寝そべる、さっきの白い狼。障子ごと全開にされた壁一面の掃き出し窓の先、広い縁側が、さっきまで寝ていた部屋の前へと続いている。

 風が、心地よく吹き抜けていく。


「何がどうなっているのかを教える前に、言っておこう」


 改まった言葉に、私は息を呑んだ。

 握りしめた手の平が汗ばんでいく。


「お前は、五日間寝ていたんだよ」

「…………へ?」


 それが、今この状況で前置きするほど大事なことか?

 拍子抜けすると同時に、普通なら五日も寝るのは異常だと思った途端、忘れていたようにお腹が鳴った。


「ほれ、一番大事なことだっただろう?」


 十岐は笑いながら、台所から大きな鍋を抱えてきて囲炉裏にかけた。

 程なくそれはぐつぐつと音を立て始め、運ばれてくる味噌の匂いが濃厚になる。

 必死に押さえても、腹の虫が鳴りやまない。私は、顔から湯気が出そうだった。


「恥ずかしがることはない。食べることは生きることさ。ハイよ」


 大きな木のお椀にたっぷりとよそって渡されたのは、沢山の具が入った豚汁。


「い、いただきます!」


 我慢できず、熱々で火傷しそうになるのも構わずに、夢中になって食べた。

 にんじん、じゃがいも、ごぼう、玉ねぎ、大根。どれも甘みを含んで、素材そのものの味がする。柔らかい豚肉は、脂がのって旨味たっぷり。大豆の風味香るお味噌が、全ての食材を引き立てていた。

 豚汁は元々好きだけど、こんなに美味しいと感じたことは今までになかった。


 一杯目をかきこみ、お代わりまでしたあとで、私はやっと言うべき言葉を思い出した。


「あの……美味しい、です」

「今頃言うかい。それだけガツガツ食べるのを見りゃあ、誰だって分かるさ」


 温かい食べ物と、盛大に笑われた恥ずかしさとで、私の顔はさらに熱くなる。


「結構、結構。食べ物は、美味しく頂けるのが一番だよ。特に子どもは、美味しいものをいっぱい食べなきゃ駄目だ」

「私は子どもじゃ……」


 言いかけて思い出した。

 鏡の中の、自分の姿。


「お前は今、十歳の子どもだよ」

「十……歳」

「そう、自分で子どもに戻ったのさ」

「自分で…………私が!?」


 私はごくごく普通の人間で、誇れる特技だって持っていないし、超能力なんか当然、使えない。

 それなのに、私が自分で自分を子どもに戻したなんて――


「あ、有り得ません! そんなこと――」

「少し落ち着きな」


 いつの間に用意したのか、身を乗り出さんばかりの私の前にマグカップが差し出された。


「ホットミルクだ。こんなときには丁度いい。さ、飲みな」


 十岐の言葉には、なぜだか素直に従ってしまうような、不思議な力があった。

 言われるままにひと口飲むと、ほのかに広がったのは、蜂蜜の甘み。甘くて温かい。それだけでも、心は和らぐものなのだと実感する。


「本当は、わしがお前を子どもに戻すつもりだった。だから丁度よかったと言えば、まあ、そうだね」


 そう、十岐は語り始めた。


「お前の母、凪子なぎこの血筋はね、ちょいと特別なんだよ。数百年ごとにひとり、ある役目を担う人間を産む家系なのさ。みなは役目のものを『あまね』と呼ぶ。わしは何百年か、数えるのも面倒だが、その『あまね』として生きてきた。凪子の生んだお前が連なるのは、わしの系図の末席だ」

「え……?」


 それは、じゃあ……この人は、ご先祖様……の、幽霊!?

 いや、じゃない、どう見ても生きてる…………生きてる!? 何百年も!? そ、それっていうのは……もしかして――――


「ようか――」

「妖怪ではないぞ。多少、長生きなだけさ」


 ズズーっと、十岐は自分のために用意していた熱いお茶をすすった。


「わしの役目は、任された土地をただ見守ること、それだけだ。わしは、わしが生きてきた過去と現在なら、この地に起きた全てを見ることができる。今の時代に関東地方と呼ばれているところが、大体わしが見ている土地さ。ほかの地にも、それぞれまた別のあまねがおる。わしらはただ見るだけで、変えることはできん。これから起こることも分からん。名の語源は、広く行き渡るという意味の『あまねく』だと言われているが、全てを思い通りにできる神様じゃあないんだよ。限られた土地に起こったものを見るだけの、ただの人間なのさ」


 一体全体、何のおとぎ話だろうと思った。

 日本の昔話のひとつだろうか。そんな話があっただろうか。

 十岐の言葉は、ふわふわと雲のように頭上に浮いて、ちっとも落ちてこない。

 私は何から理解すべきなのか、どうしたらいいのか分からないまま、とりあえずかろうじて生まれた疑問を口にする。


「何のために、そんな人がいるんですか」

「そんなもん知らん。何のために生き物が生まれ死んでいくのかなど、誰にも分からんだろう。それと一緒さ」


 そうなんだろうか。そんなものなんだろうか。一緒くたにするには、次元が違う気が……

 人間はあまりに突飛なことを目の前に突きつけられると、頭がフリーズするんだと改めて理解した。ふわふわと浮いた十岐の言葉は、今や大きな綿雲と化し、浮力を増して空高く上っていこうとしている。


「その、それで……それが、私に何の関係が」

「察しの悪い子だね。だが、無理もないか」


 少し間をおくと、十岐はおもむろに口を開いた。


「お前は、わしの後を継ぐ者として生まれたんだよ。つまり、お前もわしと同じ、あまねになる者なのさ」

「……私……が……?」

「そうさ」


 何を、そんなバカな。おとぎ話なら、他でやってもらいたい。とんだお笑いぐさだ。

 笑おうとしたけど、笑えなかった。

 十岐の顔が、静かだった。

 青天の霹靂。まだここは夢の中なのか。

 私は、大した取柄も何もなくて、平凡で、どこにでもあるような毎日を生きてきて……それが、こんなことって…………


「いや、でも……私、人間だし、十岐とは違――」

「わしは、妖怪ではないわ! 呼び捨てもおやめ!」

「でも――」


 混乱した頭で否定の言葉を口にし続けようとする私を、十岐はやんわりと制した。


「いいかい、よくお聞き。あまねは見るだけだと言ったが、時に関することでは多少なりともできることがある。自らの時を戻すと言うのも、そのひとつなのさ。お前がその姿になったことは、あまねであるという証しなんだよ」


 私は、明らかに小さくなった自分の体に視線を落とす。


「今のお前には、まだそんな力は使えないはずだったが――」

「じゃ、じゃあ! やっぱり、私がやったんじゃないんですよね!?」


 十岐は、ゆっくり首を振った。

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