3 真実 -過去

「お前が辿ってきた道は、『時の道』と言う」

「辿ってきた、道……」


 脳裏に濃い緑があふれた。


 どうやってあの道に行きついたのか。その記憶は、私の中にはなかった。

 緑に埋め尽くされた道を、気づいたときには歩いていた。なぜここにいるのか、どこへ向かうのかも分からず。


 しかしその直前……いや、もしかしたら何時間も前なのか。ただずっと、公園のベンチに座っていたことを、思い出す。

 私が二十五歳を迎えた日に亡くなった、父の葬儀を終えたあとだった。


 ひとりきりになった。

 そこに座って、思っていた。


「他に何本もあるが、あの『時の道』は、望めば自力で来られるように、わしがお前のために敷いたものだった。だがお前は、わしの名前も、どこに行かなければならないのかも忘れてしまったんだ。五日前、思い出すために記憶と重ね合わせて道を辿ったお前は、母を求め、母が生きていた頃の自分に戻ろうとしたのさ」


 私は――


「覚えているだろう? そう願ったことを。その強い思いが、本来できるはずのないことを可能にしたんだよ。まあ、途中で力を使い果たし、何日も眠り続ける羽目になったがな」


 私は――――


 そうだ。

 幸せそうに笑っていた、幼い頃。まだ三歳だった自分に、重なろうとした。

 母と一緒にいたいと、願った。


「子どものうちに十分な愛情を受けるというのは、人が心の芯を作るために必要なものだが、あまねには特に欠いてはならない。良いも悪いも全てを見ながら、永い、永い時を生きることに耐え、己で立ち続けるにはな。故にお前は、七つの歳まで親元で幸せに暮らし、それからをわしと共に過ごすはずだった」

「七歳……」

「ああ。なぜその歳なのかは、はっきりとは分からん。だが、七つまでは神のうちと言ってな、幼い子どもはまだ弱く、死んでしまうことが多かったんだ。あまねの子は非常に丈夫な体を持ち、命の危険にさらされることは少ないが、必ずしも死なない訳ではなかったんだろう。それが七歳という区切りの大きな理由だと、わしは思う」


 そこで十岐は、改めて私を見た。


「ふむ、十歳か。あと少しが足りなかったな。本来なら戻さねばならんが……よかろう。そのままでも恐らく大丈夫だろうよ」


 私の耳に、その言葉は届いていなかった。

 七歳の頃の記憶。ひどく断片的で、一体どんな日々を過ごしていたのか、ほとんど覚えていない。

 だから、答えを聞くのが、怖い。

 でも、聞かずには、いられない。


「どうして私は、七歳のとき来なかったんですか」


 十岐は、視線を縁側の先に移す。


「お前の両親のことから話そうか」


 どこか、遠いところを見ているような気がした。


「さっき話した通り、凪子の一族はちょいと特殊で、いろいろと制約も多い。特に女は、里を出ることを許されん。だが、偶然里に迷い込んだ、お前の父親となる男と出会った凪子は、結婚を反対されて駆け落ちをしてしまったんだよ。そして、お前が産まれた。役目を負った子どもだと分かった時点でお前を連れ戻そうとした里の者を、わしは止めた。その方が幸せだろうと思ったからね」


 十岐の目が、ほんの少し細くなった。


「わしの本当の居所を知るのは、代々、里を治める者のみ。だが、凪子には教えておいた。お前は、七歳にはここに来られるはずだったんだ。しかし、まだお前がしっかりと理解するには幼すぎるうちに、凪子の命が尽きてしまった。あまねのことは秘密ゆえ、詳しい事情など知りはしなかったが、里の者が現れると、お前の父親はお前を連れて逃げた。愛情深い男だったな。妻を失い、その上に子どもまでも奪われることを、何よりも恐れたのさ。血を分けた子に親が抱く愛執は、時に何よりも強いものとなる。血というのは、濃いほどに深く強く、互いの魂を結びつける。たとえ強引な方法を取って引き離したとしても、お前の父の心を、ひいてはお前の心を粉々に砕きかねなかった。わしにも手出しができなかったんだよ」


 父は、優しい人だった。

 少し……過保護だった、かもしれない。私と外の世界との関わりを遮断することも、あった。

 だけど、それでケンカになったりはしなかった。親戚のいない私たちは、きっと世の中の父娘と比べても結びつきが強かったと思う。


 父と母のこと。里のこと。

 何も知らなかった。

 知らなかったけれど、私を取られまいとする父の気持ちは、幼い頃から確かに感じ取っていた。遠い昔、転々と住むところが変わっていたような印象は、ひどくおぼろげながらも消えてはいない。


「お前が七歳を過ぎ里の者が追わなくなっても、大人になっても、そして自身が亡くなったあとも、お前を守り、手放さないという強い念は消えなかった。反対にお前は本来の生き方を外れ、年を重ねる毎に己を見失い、力を失っていった。強すぎる親の愛は、呪縛と変わっておったのさ。わしは、ずっと見ておった。そして、待った。心を解き放ち、こうしてお前が自分でここに来るときをな」


 十岐はまっすぐ私を見て、笑った。こうなることが、最初から分かっていたように。

 信じられないことばかりだ。

 だけど、過去の記憶とも重なる。これが夢ではないとしたら、十岐が嘘や出鱈目を話しているとは思えなかった。


 狼は相変わらず、気持ち良さそうに寝そべっている。

 一陣の風が、髪や頬を撫で、通り過ぎた。

 縁側の先では、木々が光を浴び、葉を揺らす。

 すっかり冷めて、ぬるくなったホットミルク。

 目覚めてから、どれくらいの時間がたったのだろう。


「まだ、上手く飲み込めないけど…………私はこのまま、ここで生きていくしかないんですよね」


 しばらく沈黙が続いたあと、私は口を開いた。

 いきなり全部は無理だけど、なぜだかこの不思議な状況を受け入れようとしている自分がいる。それを自覚したとき、いくらか気持ちが楽になっていた。すとんと、腑に落ちたような感覚だった。


 私の表情を見て、十岐は少し驚いた顔をした。きっと、もっと時間がかかると思っていたんだろう。


「そうさ」


 満面の笑顔で答えた。


 改めて歓迎するように、体をすり寄せてくる白い狼。

 その頭を撫でながら、もう一度辺りを見渡す。

 部屋の中や庭の木々、そこかしこに光が溢れて温かかった。

 これからは、ここで暮らす。きっと……大丈夫だ。そう、思った。


「ああ、そうだ。体と同じように、記憶と心も十歳に戻すこともできるぞ。どの道、大人になればお前も過去の全てを見るようになることだし、そのままだと余計な気苦労をせねばならん。どうするかい?」


 あまり考えずに答えは出ていた。


「このままでいいです。……覚えていたい」


 私が、どんな風に生きてきたか。

 父と母が、どんな想いで私を育てたか。


「そうかい」


 私の答えが分かっていたかのように、やっぱり十岐は笑っていた。

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