4 現実
新しい生活で私に用意されたのは、二階の一部屋だった。
「上がって左が倉庫、右側がお前の部屋さ。勝手に見といで」
多分、きっと、十岐は放任主義なんだろう。会って間もないけど、それが何となく十岐らしいと思った。
居間の壁際の、簡素な木の階段を上がる。狼だけがついて来た。
ちなみにこの狼は雄で、名は
ある雨上がり、子どもの狼が、どんぶらこっこと川を流れてきたんだとか。それを助けたら、水を吐きながら噛み付こうとして、そのときの吼え声が「おぼろ」と聞こえたんだとか。
「恐怖で訳が分からなくなって、必死で飛び掛かってきたのさ。水が大量に口から出るもんだから、変な声になっちまってね。それがなかったら、名前は白桃にしてたね」
だそうだ。
白桃よりはよかったんじゃないだろうか。由来が何であれ。
「わ……あ……!」
上がりきった右手、木の引き戸の向こうに現れたのは、板張りの明るい部屋だった。六畳とか八畳くらいを想像していたのに、その二、三倍は広い。
そして同時に目に入った左側に、一瞬にして心が躍った。
本好きの私がずっと憧れていた、壁一面の本棚。様々なジャンルの本がずらりと並んでいて、まるで外国の図書館のように、高いところにある本を取るための可動式の梯子までついている。
嬉しさに浮き立ちながら、右側に目を向けて――――
言葉を失くした。
居間同様、全開の大きな掃き出し窓の向こうに見えたのは、見渡す限りの絶景。風が光る緑の山と、果てなく澄んだ青い空。遠くに小さく見える、色とりどりの街。
吸い寄せられるように、足が向かった。
裸足のままベランダに出て、鳥の声とざわめく木々の音の中、私は佇み、澄みきった空気を肺に入れる。山や木や、それらを包む大気に、自分が同化していく。それまで味わったことのない、生きた心地がしていた。
こんな景色を見られるところが、自分の家になるなんて……
「ん……? え、ああ、うん」
もう入ろうとでも言うように、朧に袖を咥えて引っ張られ、私は中に戻った。
今、一瞬だったけど、誰かに見られていたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
今度は部屋の奥、東側に足を進める。
小さな窓が二つあり、それぞれの窓の前には机とベッドがあった。家具は全て古い木製で手触りがよく、温もりを感じる。
何気なく、机の引き出しを開けてみた。
目に飛び込んできたのは、私が今まで使っていた、見慣れた手帳。
手に取り開いてみると、母の写真が入っていた。何だか知らないけど、変な道を歩いて、意識を失って、辿りついたこの場所に……ここに、母がいた。
「よかった……」
手帳ごと、母を抱きしめた。
少し安心して、それから他の引き出しも開けてみた。大事にしていたもの、愛用していたものが、ちゃんとそこにある。
さらに安心して、しかしそこでふと、現実に返った。
手帳は、肌身離さず持ち歩いていた。でも、何で他のものまでここに?
「持ってきてくれ、た?」
そうか、五日間も眠っていたから、その間に――
「あれ……?」
そういえば、会社は? 家は?
どうなってるんだろう――――?
「十岐ーっ!」
階段を駆け下りながら叫んだ。
「何回、言わすんだい! 呼び捨てにするんじゃないよ!」
「ご、ごめんなさい。あの、私、会社に何も言ってないし、それに家も何もかもそのままで――」
「何だい、そんなことで慌てて。わしがやっておいたさ」
「え……?」
「父親を亡くして、孫はすっかり参ってしまったので、しばらく療養させますってな。退職願も出しておいた。急なことだが、みな納得しておったよ。家や他のことも心配いらん。荷物も上にあったろ」
「……孫?」
今、そう言った?
「血は繋がっているから大嘘でもあるまい。そうだな、わしのことは『おばば』とでも呼ぶんだね」
「…………おばば」
耳慣れない言葉を、つぶやいてみた。
「何だ」
「や、呼んだんじゃなくて……いや、その……」
会社には、親戚がいないことは言ってあった。
いきなり祖母を名乗る人間が現れ、本人は顔を出さない。確かめようがない。不審に思うはずだ。大いに怪しい。
なのに、何をどうしてすんなり納まったのか。聞きたいけど、分かるように説明してもらえる気がしなくて、しどろもどろになる。
「明日から小学校だよ。部屋で、準備でもしといで」
「は……はあっ!?」
そこへまた、私にとっては爆弾のような言葉が飛んできた。
嘘でしょ、そんな……
「小学校って、私は二十五歳で――」
「お前は十歳だ。小学生じゃないか。知らんのか、今の教育は義務なんだよ」
「え、いや、ちゃんと卒業したから、もう一回行くとかそんなことできるわけ――」
十岐は、にやりと笑った。
「気にするな。今のお前は、どこからどう見ても小学生だ。ほれ、さっさと用意せんか」
気にしないで済む訳なんかないのに、有無を言わせない勢いで二階に追い払われようとしている。
記憶を十歳に戻さなかったことを、私は早くも後悔し始めていた。
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