9章 水面下
1 火種の場所
「プロの演奏って、すごい」
「そうか? ふああ~~ぁふ……そりゃ、よかったな」
約束通り、今日はオーケストラを聴きに連れてきてもらっていた。
演目は、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」。クラシックなど興味のない人でも「あー、これね」となるだろう、有名な曲だ。
ちなみにピアノ協奏曲とは、オーケストラにソロのピアノを加えたもので、多くはピアノが主役である。
「それより、飯だ。腹が鳴りそうで焦った」
「……寝てたくせに」
気付いたときには、それはもう気持ちよさそうに寝ていた。大音響の中で。ほとんど最後まで。
あれで眠れるなら、どこでも大丈夫だ。不眠症になる心配なんて、欠片もない。
「聴いてたさ。最初はな。何だ? 文句があるなら、もう連れてこないぞ」
「えっ、また連れてきてくれるの?」
「まあ……そんなに喜んでるんじゃ、仕方ねえだろ。月一回くらいは、な」
飛び上がりそうになった。
金曜日の夜の、時刻は九時。明日は休みで、遅くなっても何の問題もない。レストランで夕食を取った。久し振りの外食だ。
「やっぱり、演奏は生が一番だね。CDもいいけど、迫力が違うよ」
メインディッシュはフィレステーキ。柔らかくて美味しい肉をほお張りながら、銀ちゃんが聞いてくる。
「ほりゃあ、ほうだろうな。ほれより……最近どうだ? 問題ないか?」
「ああ、うん、ないよ」
とっさに言っていた。
「何かあったら、すぐ言えよ。俺の見る限りでは、しばらくは戦意喪失だろうが」
「うん」
銀ちゃんが言っているのは、
宇田川先生は、確かに大人しい。あれ以来、めっきり静かになってしまった。銀ちゃんが目を光らせていることもあるのだろう。
今、問題は先生じゃない。
「それはいいけど、いつもみたいにスーツじゃないんだね」
今日の銀ちゃんは、黒のニットとジーンズに、コートを羽織ってきていた。
「あんな格好で来たら、寝てても肩が凝るからな。車で着替えた」
「あ、そう」
普段より服装に気を使う場所で、普段よりラフって、何でそうなるんだろう。
いや、いいんだけどね、別に。オーケストラだからって、正装しなくてもいいみたいだったし。楽な服で、好きなだけ、寝ていようと。別に。
私の反応を見て、銀ちゃんはちょっと不機嫌な声で言う。
「スーツなんて堅っ苦しいもん、好きで着てるんじゃねえよ。校長だから、仕方なくだ。じゃなけりゃ、いつもこんなもんなんだ」
「そっか。だからいつも、スーツなのに、全然ちゃんとした格好に見えないんだ」
つい、口が滑った。
「お前、もう聴きに来なくてもいいみたいだな」
「あっ! ごめっ、そういう意味じゃ……あの、つ、次は……あ! 『ラ・カンパネラ』がいいな! オーケストラじゃなくて、私が最初に弾いたやつ!」
「…………あれか。あれなら、俺も寝ずに済むかもな。いいだろう」
ホっ。
実際、大したことが起こった訳ではなかった。ただ単に、以前よりもクラスの雰囲気が悪くなった、というだけ。その域からは出ていないと思う。何か共同作業をするときに三つに分かれてしまうとか、一部の子達は目も合わせないとか、そんな感じだ。
まあ……ときどき物が無くなったり、誰かについての悪い噂が流れたりすることもあったけど。
「なあ。どうなってんだ、一組」
「どうって……」
昼休み。
また「顔貸して」と言われて、冬枯れした芝生の中庭にアシュリーと二人でいる。
グラウンドで遊ぶ子どもたちは遠く、この寒さの中を外でお喋りしようという物好きなど、他には見当たらない。
「一組が分裂してるのは、
「いや……それは初耳。勘弁して欲しいな」
今度は私の噂か。あんなに関わらないようにしていたのに、どうやら思いっきり巻き込まれているみたいだ。
「……また、あのクソ女か?」
「や、それはないと思う。もう、責任問題になるようなことは、避けてるみたいだから」
これは確信があった。
宇田川先生は、保身に走っている。
「そうか。でも、気はつけといた方がいい」
アシュリーは、ちょっと黙ってから言った。厳しい顔だった。
いい先生ではないことは分かっているけど(少なくとも私にとっては)、そもそもなぜそこまで気にするのだろう。
「アシュリーも、何かされたの?」
「私じゃないよ。二年のときの転校生。その子は、あの女のせいで学校に来れなくなって、また転校していった」
「それ……もしかして東京から来た子、だったりして」
「そうだったと思う」
なるほど。そういうことか。過去にも、とばっちりの被害者がいたのだ。
「あんなのは、もうごめんだ。噂のことは、私も探りを入れてみる。寧も油断するなよ」
「うん、ありがと」
答えたものの、今回は子どもたちの間の問題だろう。まあ……先生と私の確執も、そのひとつの背景にはなっているのかもしれないが。
これまでの噂は、数名の男子のものだった。性格が悪いとか、過去にどんな悪さをしたとか、子どもの考えそうな他愛もない噂。言われた本人は嫌だろうけど、周りはそんなに気にしない類のものだ。
私に関しては、少し前にひとつだけ、まことしやかに流れたものがある。三月にある卒業生のお別れ会で、私がピアノを弾くというものだ。それこそ出所が不明で、もちろん私は関知していなかった。
一体、何で勝手な話が出てくるのか。火のないところに煙は立たぬと言うけど、自分では火種を持った覚えがなかった。
人の噂は、よく分からない。
教室に戻ると、
「何でもないよ。ちょっと、変なことがあるって教えてくれただけだから」
冷えた体をストーブで温めながら、私はさっき聞いたことを軽く話した。
結の表情が少し曇る。
「あ、あのね、寧……」
「ん? 何?」
「……ううん、何でもない」
言おうかどうか迷って、結局、口を閉ざした。
「? ……そう」
気になったけど、追求はしなかった。
結は、軽はずみなことを口にしない慎重な性格だ。だから、私も信頼している。本当に結が言うべきだと思ったときには、きっと話してくれるだろう。
「
「ああ、ごめん。ちょっと用事で」
「何だよ、来いよなー。三雲が入った方が、面白いんだからよー」
男子たちと教室に戻ってきた
クラスの分裂後、男子はドッジやバスケをすることが多くなった。キックベースだと、人数が足りなくなったのだ。
「分かった。明日は行くから」
白けている先生側の女子たちを気にしながら言った。
明日になったら、この雰囲気がちょっとはマシになってたりしないだろうか。
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