10 一日、二つ
朝のざわつく教室の中、保健委員のあの子を見つけた。
私より小さくて目立たない、優しそうな女の子。
早くお礼を言って謝りたいけど、今の私の立場では、大勢の目があるところで話しかけるのはためらわれた。か弱そうなあの子では、私の巻き添えになるかもしれない。
向こうも何か言いたそうにしていたけど、近寄っては来なかった。
「オイ、聞いたか? 三雲のやつ、恥かくのが嫌で、倒れた振りして逃げようとしたんだってよ!」
誰から聞いたのか、ひとりの男子が大声で言った。
「きったねえ!」
「最悪」
「そこまでやるか。だっせー」
からかう声と、非難の目。
ちょっと面倒だな。絡んでこなければいい――
「やめてっ!」
どこにそんなに大きな声を出す力があったのだろう。
あの女の子だった。
「やめて…………そんなんじゃ……ない……」
だんだん声が小さくなる。
「何だ? 庇うのか?」
「あいつは仮病使ったんだよ」
「違うっ! ホントに三雲さんは……嘘なんかじゃないんだから! 謝って!!」
最後の「謝って」は、さっきよりもずっと大きな叫び声になっていた。
びっくりした。
私だけじゃなく、全員びっくりしていた。
大人しい子が、目に涙をためて頑張っている。こんなに、必死に……
「んだよ、急に。お前、生意気――」
「来て」
私は、近づいていこうとした男子の間に割って入った。
こうなったら仕方がないと、女の子の手を引く。
教室から離れたところまで走って――頭を下げた。
「昨日は、ありがとう。……ごめん」
「そんな! 三雲さんは悪くないよ! 私、見てたから……」
そこで私は、初めて女の子をしっかりと見た。
地味だけど、驚いたことに作りがいい。長くてまっすぐな黒髪が、日本人形を思わせた。
この子はきっと、大きくなったら急にきれいになるタイプだ。
「でも、どうしてあそこにいたの?」
「あ……ご、ごめんなさい!」
「あっ、いや! 責めてるんじゃなくて、ただその、気になって」
本当に、それだけだった。
慌てて手を振った。
「あの、私…………三雲さんが、大丈夫かなって……それで……」
この子は、私を助けてくれた恩人だ。
なのに、ひどく悪いことをしたように、小さな声だった。
「そっか……。ありがとう。本当に……。でも、もう大丈夫だから、さっきみたいなのはやめてね。あなたも立場が悪くなるから」
「で、でもっ!」
「大丈夫だから」
私は笑って言った。
女の子は、下を向いて黙る。
「じゃあ、戻ろうか」
「私っ……! こっ……こんなときに言うなんて、ダメだって分かってるのに…………。でも、ずっと言えなくて……! ずっと……最初から、友達になりたくて…………」
踵を返した私に、女の子の必死な声が届いた。
「え……」
「ご、ごめんなさい! 三雲さん、大変なのに……そんなときに……」
唇を噛んで、俯いた。
「あ……」
この子は――――自分を、恥じている。
今しか言えない自分が、私の弱みに付け込んでいるみたいで……嫌なんだ。
何かが、すうっと心に溶け込んだ。
「名前……何だった、かな。ごめん、私まだ、クラス全員の名前、ちゃんと覚えてないんだ。どうしても苦手で……」
「あ……私……
「桐生結ちゃん……。じゃあ……結、でいい?」
「えっ……? う……うんっ」
「私は、寧でいいよ」
「ねっ……寧、ちゃん」
「寧」
「ね…………寧……」
「うん」
まだ信じられない様子の結に、私は続ける。
「でも、今はまだ、みんなの前で私に関わらない方がいいよ」
「そっ、そんなことできない!」
「いや、辛い思いするから――」
「しない!」
その顔が、意外にも相当な頑固であることを物語っている。
「……分かった。じゃあ、少しでも害が及ばないよう、今日はみんなの鼻を明かそう」
結はキョトンとしていた。
そうだ。結にだけは教えてあげよう、今日の予定を。
私は、何だか楽しくなってきていた。
本当の子どもの頃も、大人になってからも、私にだって友達はいた。だけど、十五も歳の違うこの子に、私は今までにないものを感じ取っている。
阿尊くんの言葉を借りるなら「大丈夫」な人。
今日の私は、それを「そんなバカな」とは思わなかった。
直感は、信じた方がいい。今なら素直にそう言える。
一日で、二つの特別。ピアノと友。
そしてこれから……ふふふ……
これが楽しくなくて、どうする。
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