9 指先の記憶
ここは――
「寧! 気付いたか、気分はどうだ? 吐き気はないか?」
薄暗い中に浮かび上がる、もうこの頃では見慣れた天井。
そこから焦点が、目の前に現れた人の顔に合わされる。
「……銀ちゃん……? どうしたの……?」
「どうしたじゃないだろう! お前は倒れたんだぞ! 覚えてないのか」
倒れた……
「ああ……思い出した」
体を起こす。
「おい! 大丈夫なのか?」
「うん。何ともない」
「はぁー……。全くお前は、心配ばかりかけやがって……」
銀ちゃんは、ドカリと床に座った。
「あの……どうなったの? 何で銀ちゃんがここに?」
「お前のクラスの女の子が見つけて、保健室に駆け込んだんだ。石山さんが俺を呼んだ。頭を打ってるかもしれないから病院に運ぼうかとしたとき、その子は自分もついていくって泣きじゃくってた。保健委員だからと言ってな。明日、ちゃんと礼を言っとけ」
保健委員……
仮病のときに付き添ってくれた子だ。
「じゃあ、病院に?」
「……ばあ様が、俺に電話を寄越した。問題ないから、家に連れて来いと」
「そっ、か……そうだよね。ありが――」
自分の手元から銀ちゃんに視線を移して、言いかけた言葉を飲み込んだ。
私を見つめる、冷たい目。
今まで、一度も向けられたことのない、顔。
「なぜ、黙ってた。どうして、俺に言わなかった」
ゆっくりと発せられる静かな声が、かえって背筋を凍らせた。
本気で、怒っている。
知ってしまったのだ。何があったかを。
この人にだけは、知られたくなかったのに。
それもこんな、最悪な形で――
「お前がピアノを弾くことは、もうない。二度と…………こんなマネはさせない」
黙りこくる私に、立ち上がり怒りをはらんだ声で低く言うと、歩き出す。
「ま……待って! 違う!」
震える声で、必死に止めた。
怒りは、誰よりも銀ちゃん自身に向かっている。気づいてやれなかった自分自身を、許せないでいる。
そうじゃないんだって、分かってもらわなきゃ……ちゃんと見せなきゃ、私が前を向いてつかんだものを……!
「…………何が違うんだ」
背を向けたまま、横顔は影になってよく見えない。
「倒れたのは……そんなことになるなんて思わなかったけど、嫌だったからじゃなくて、受け入れたからなの! ピアノ触って、伝わってきた! 思い出したんだよ、私、ピアノが好きだった! だから…………ああっ、もうっ! 上手く言えないけど、大丈夫だから! もう……弾けるから……」
夜明けだった。
ほんの少しずつ、外が明るくなっていく。
「今から、学校に連れて行って……。もう隠したりしないから、見てて。ピアノ、弾きたい。お願い…………お願いします」
「一回だけだ。ダメなら……次はない」
沈黙のあと、刃物のような声が聞こえた。
暗さの残る早朝の学校に、人の気配はない。
ピアノを前に腰掛けた私の後ろには、銀ちゃんが立っている。
背中が、緊張で痛い。
でも、何かあればすぐに支えるつもりなのだということは、分かっている。心配をかけたことを、また心で詫びた。
小さく息をつき、意識を集中する。
鍵盤に、そっと触れる。
そう、何も起こらない。もう、大丈夫。
初めの音を、ゆっくりと――――
私の指は、踊りだした。
天才ピアニスト、リストの「ラ・カンパネラ」。
イタリア語で「鐘」を意味するこの曲は、パガニーニのバイオリンをアレンジし、鳴り響く鐘をピアノで表現している。
超絶技巧の、幻想的な音の世界。ずっと鳴り続ける、小気味のいい高音レのシャープ。トリル。
激しく行き交う音はどこか哀調を帯び、和音の連打へと続いていく。
クライマックスに近づくに従い、全身を使ってピアノを弾いていた。
最後の盛り上がり。
最後の和音――――
私の体は、動きを止めた。
音の消えた音楽室で、銀ちゃんが口を開く。
「寧、お前……」
「これ、だったんだよ。五歳の私が弾いた、最初で最後の曲。お父さんとお母さんの、思い出の曲だった」
私が生まれる前、父と母は、二人で行ったコンサートでこの曲に出会った。
二人がその話をしたとき、とても楽しそうだった。私まで嬉しくなるくらいに。
幸せな、とても幸せな思い出。
母が亡くなったあと、父はよくこの曲を聴いていた。だから、私も好きだった。
分からなかった。子どもが簡単に弾けるような代物じゃないことなど。
自分が弾けば、父に喜んでもらえる。
母との記憶を思い出し、幸せになってもらえる。
ピアノを前にしたとき、ただ、そう思った。
思った分だけ、傷ついた。私も、そして――――父も。
「そりゃあ、びっくりするよね。子どもがいきなりこんなの弾いたら、それは誰だって……。難しい曲だもんね」
「難しいなんてもんじゃないだろう。俺も、驚いた」
銀ちゃんがまとっていた凍りつくようなオーラが、今は解けていた。
忘れていたけど、この人は
さっきは……本当に怖かった。
「まあ、あのときは手がちっちゃかったから、ちょっと足りなかったんだけどね」
「何で、こんなのが弾けるんだ」
「分かんないよ。でも……好きなんだ、ピアノ」
私は笑った。
「……大丈夫、なんだな?」
「うん」
「そうか…………。分かった。なら、好きに弾け」
「うん!」
辺りは、すっかり明るくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます