4 脱出 -失敗?
あれから私は、クラスで浮いていた。ほとんど無視されている状況だった。
戸惑いがちにとか、仕方なくという感じの子も多かったけど、先生が率先していれば、みんなやるしかなかったのだろう。
やらなければ、「第二の私」になるかもしれない。怖いと思って当然だった。
でも、かえって楽になった。話すことがなければ演技する必要もないし、正体がバレる心配もしなくていい。ひとりの方が、都合がよかった。
十岐は、先生や子どもたちに正面から向き合えと言っていたけれど、無視されていては正面も何もない。自分に言い訳して、放っておいた。
ところが、ある日を境に、束の間の静けさは去った。宇田川先生が、何かと私を指名するようになったのだ。
授業中、手を上げてもいない私に問題を答えさせる。体育ならば、その日習うことをまず私にやらせる。音楽の時間にはリコーダーで、習いたての曲を私ひとりに吹かせるなど、キリがなかった。
「三雲さんは何でもできるのよ」と言う宇田川先生の笑顔が怖かったけど、変な気を回さない方がいいんだろうと、全部やってのけた。
するとさらに、係や当番がやたらと回ってくるようになって、雑用仕事もいっぱい言いつけられた。
疲れてきたのは、一部の子がそれに同調して私を持ち上げたり、用事を頼んできたり、「ホント、何でもできるよねー」と、嫌味を含んだ言い方をするのが当たり前になってきた頃だ。中には純粋に褒めてくれる子もいるので、おざなりな対応をする訳にもいかず、それが余計に厄介だった。
さらに、休み時間には先生の手先となった子たちが、私がどこにいても探しに来るようになった。「先生が呼んでる」と言って。これがまた、疲れる原因だった。
「じゃあ、この問題を、三雲さんにやってもらいましょう」
まただ。今日は一段とひどい。
まだ二時間目だというのに、すでに当てられたのは五回目。
前に出て黒板に計算の答えを書いたあと、さすがにうんざりしてしまった。
「はい、正解です。難しい問題なのに、よくできるわね。暗算で」
ああ、めんどくさい。
能面のような先生の笑顔から目をそらし、ぼんやり思っていると、悪い考えが頭に浮かぶ。
……仮病、使うか。
黙って抜け出すのがダメなら、堂々と断りを入れればいい。空気の淀んだこの教室から出て、気持ちよく深呼吸するために、多少の工作はむしろ正しい選択だと思えてきた。
左手を頭に添え、右手を弱々しく上げた。
「先生……」
「……どうしたの」
「頭が、痛いんです……」
「急に何? 熱は」
「熱……分かりません。さっきから痛くて、だんだんひどくなって……」
苦しそうな私を、先生は訝しむように冷たい目で見ていた。
「いいわ、保健委員は誰? 保健室に連れて行ってあげなさい」
「あ、はい」
呼ばれた子はガタガタと椅子を鳴らし、急いで私の側に駆け寄る。
「大丈夫?」
「……うん……」
どうも本気で気遣わしげな女の子に付き添われて、私は無事に保健室へと逃れた。
小さな罪悪感とともに。
「うーん、どんな風に痛い?」
保健の先生(おばさん)が症状を聞いてきた。
「……締め付けられるような感じです」
「今日が初めて?」
「時々……」
「うーん、そう。じゃあ、ベッドに横になって。寝たらよくなるでしょ」
それだけだった。
仮病がバレているのかと顔色を窺ったけど、いまどき珍しい瓶底眼鏡の奥の目は、細すぎてちっとも読めない。
「ほい、おやすミトコンドリアー」
おばさんは私をベッドに案内し、寒いひと言を残してカーテンを閉めた。
誰かに報告しに行くだろうかと、警戒して聞き耳を立てる。
しかしいつまでたっても、カリカリと物を書く音や、紙の擦れる音、キイキイ言う椅子の音しかしない。机に向かって事務仕事でもしているらしい。
どうやら大丈夫そうだ。そう、踏んだ。
警戒を解いた私は、そのままいつしか眠りについていた。
扉の開いた音がして、ハっと目が覚めた。
変わらず室内は明るい。そんなに時間は経っていないのだろう。
中断されたお陰で、夢の中の母は死なずに済んだ。
「よお、眠れたか?」
勢いよく開けられたカーテンの向こうに、笑顔が現れる。
斎藤校長だった。
「頭痛だってな。まだ痛いか?」
「あ、いや……」
寝起きのことで、まだちゃんと頭が回らない。
慌てる私を制するように、校長は勝手に話を進める。
「そうか、じゃあ、しょうがねえな。送ってってやるから、今日はもう帰れ」
「え? あ、それ――」
右手に持った、赤いランドセル。自分の物か確認する前に、背中を向けられた。
「負ぶされ」
「おぶっ!」
おんぶ!? いやいや、無理無理無理無理! この歳になっておんぶなんて、恥ずかしすぎる!
すっかりクリアになった頭を盛大に振って、後退りするつもりが、できなかった。
校長が、私の腕をつかんでいた。
「いいから、大人しく負ぶさって病人の振りしてろ」
……バレてる。
否応なしに私を軽々と引っ張って背負ったあと、校長は保健の先生に声をかける。
「じゃあ、あと頼みます」
「ほい、頼まれた」
机に向ったままのおばさんは、こっちを向きもせず手を上げた。
飄々としているというか、淡々としているというか、何とも変わった人のようだった。
保健室を出て車の前に辿り着くまで、私は校長の背中で顔を伏せていた。
いやに硬く、広い背中だった。
そう感じたのは、私が子どもになったからなのかもしれない。
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