2 恐れ、震えながら

 玄関に駆け込むなり叫ぶ。


「おばば!」

「ここに連れておいで」


 治療に必要なものが用意された居間に、十岐は座っていた。

 全てを見透かすその能力を、今初めて、心の底からありがたいと思った。


 幾重にも重ねられた、清潔で柔らかな布の上に、そっとヒナを下ろす。

 ぐったりした体からは、生気が感じられない。

 もう、助からないんじゃ……


「傷は多いが、深くはない。これは、わしが作った傷薬だ。深手の傷を負った者にもよく効いた」


 十岐が、手の平大のかめからすくい取った傷薬を、ヒナに塗りこんでいく。

 私は、それを食い入るように見つめた。見ている他に、何をしてやることもできない。

 赤鬼と朧も傍らでじっと見守っていて、青行燈は少し離れたところで、それとなくこちらを気にしているようにも感じられた。


「これでいいだろう」


 包帯でぐるぐる巻きになったヒナの姿が、そこにあった。浅い呼吸を繰り返し、目を閉ざしたまま、触られてもピクリともしない。

 痛々しい包帯の白さは、私の不安をいや増した。


「この子、助かる……?」

「さあて、それはお前次第だね」

「え……どういうこと?」


 十岐の言葉に、体が強張る。


「わしがやるのはここまでだ。あとはお前が手当てをするのさ」

「手当て……って、どうしたら……」

「そのまんまだよ。目を開けるまで、その子に手を当てていてやるんだ」

「そんなこと!? もっと具体的にできることはないの?」

「バカにするんじゃないよ。元気になって欲しいと手を当てることは、治療の原点だ。誰かの手から力をもらえることを、みなが本能的に知っているからこそ、手当てという言葉が今も廃れず使われているのさ。言葉ってのはお飾りじゃない、大事なんだよ。お前はそのことを、もっと考えなけりゃならん」


 言っていることは、分からないでもない。手当ての言葉の語源も知っている。

 だけどやっぱり、そんなことよりも有効な方法があるんじゃないかと思ってしまう。

 思ってしまう私は、十岐の言葉を本当の意味で理解していないということなのか。


「それに」


 十岐は続けた。


「あまねであるわしらは、自分の見守る大地から、常に力をもらっているんだよ。その力によって生かされていると言ってもいい。感覚を覚えれば、力を誰かに分け与えることもできるし、わしのようにある程度長く生きたあまねの体からは、何もしなくても少しずつ放たれるようにもなる。だから、わしが育てた朧はこれ、この通り」


 視線の先には、ヒナを見つめる、とても大きな狼がいた。


「もはや大きすぎて、誰も狼とは思わんだろうな。動物だろうが畑の野菜だろうが、わしが育てると大きくなるのさ。うっかり放っておくと玉ネギがスイカほどになり、スイカがわしより大きく育つ。大きくなり過ぎたものは不味いから、食べごろで収穫しちまうが」


 また、理解できない話が始まった。十岐より大きなスイカって……それは見たいけど、私が今望んでいるのはヒナを助けることだけだ。

 焦って言い返そうとした。


 だけど、何かおかしい。

 急に部屋の温度が下がったように感じて、寒気を覚えた。

 私を見る十岐の表情が、落ち着いていて――冷たい。


「つまり、だ。あまねを継ぐ者であるお前も、力をもらって生き、誰かに分けることもできるということさ」


 まさか――


「そのヒナは弱っておる。たとえ死んだとて、自然の摂理だ。誰のせいでもない。それでも生かしたい命ならば、己でやるんだよ、寧」

「そ、そんな! 私、そんなことできません! 何も知らないのに――」

「何もできないなどと人任せで生きるやつを、誰が本気で助けようと思うんだい。どんなときも、自分で考えて動くことをやめるんじゃないよ。それにこれは、自ら感覚をつかむ他ない。教えられるもんじゃないのさ」


 突き放されたことを悟った。

 十岐は、ここから先は手出しをしないと言っている。

 愕然とするような現実。もしヒナが死ぬようなことになっても、もう助けてはもらえない。

 泣き言を言うことも、甘えることも許さない厳しい自然が、十岐の姿を借りて目の前に在った。


 死なせたくないと強く思いながらも、私は赤鬼や十岐の力ばかり頼っていた。

 結局、自分では何もしていない。何もできないと思っていた。

 目の前が、暗くなっていく。

 震える手で、ヒナを抱きかかえた。

 軽い体。そこに宿る、命の重さ。

 そのどちらにも、私の心は押し潰されそうになる。


「部屋に行きます。集中したいから」

「ああ、そうしな」


 血の気の引いた体がふらつかないよう、一歩ずつ階段を踏みしめ、二階へ上った。

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