10 里 -根源

 私はポケットの眼鏡を急いで取り出し、掛けた。何の変哲もない縁無し眼鏡だ。

 こんなもので、何が……?

 近くに新たな人影はない。

 しかし声を潜める。


「あの、もしかして……里の人みなさん、私が来ることを知ってるんですか?」

「はい。申し訳ありません」

「でも、何で私の顔を見ただけで……。長と歩いているからでしょうか」

「その訳はご存知だと伺っておりましたが。里の人間には、十岐様や寧様の目は、美しく輝いて見えております。それが、何よりの証なのです」


 そうだ。妹尾宗矩の言葉をすっかり忘れていた。

 目で分かると、そう言っていた。


「その眼鏡には、目の光を消す効果があるようです。これで誰にも分からないでしょう。ゆっくり里をご覧いただけると思います」

「あ……はい」


 里の特殊性が、怖い。

 その中心に、十岐と……自分がいることが。

 見知らぬ人に、かしずかれたくなどない。いや、誰にも。

 普通にしていたいだけなのに……


 その後すれ違う人は、長に挨拶をしても、私には何の反応もなかった。

 ほっとしたものの、不安は消えない。

 誰もが長に挨拶をするような狭い社会なら、都会のように他人に無関心ではいられないだろう。そのうちまた誰かが私の正体に気づいて、同じことになりはしないか。


「あの、見慣れない人間が里にいたら、目立ちはしませんか?」

「里を出て外で所帯を持った者が、将来里の役に立つようにするため、私に子どもを預けることが度々あります。ですから、いつものことだと思うだけで、誰も変には感じないでしょう」

「そう……ですか」


 里の為にそこまでする感覚が、私には分からない。

 でもそのお陰で今、私は目立たないで済んでいる。

 複雑だった。


 程なくして、病院の前に着いた。

 古そうな建物だとは思っていたが、近くで見ると余計にそう感じる。

 自動ドアも付いていない。


「凪子は体が弱く、よくこの病院にかかりました。改装をしてありますので、その頃とは変わっておりますが。どうぞ、お入り下さい」


 長が開けてくれたドアから中に入って――

 驚いた。

 明るくて広いロビー。高い天井。リノリウムの床が全面に張られ、待合室には座り心地の良さそうなソファ。エスカレーターが二階へと続いている。

 古い市民病院くらいの想像をしていたのに、最先端の治療が受けられそうな、近代的で清潔感の溢れた内観だった。


「嘘みたい……」

「里の者が外に出る目的は、あらゆる技術や知識を持ち帰ることです。医療や建築などもそうです。里も日々進歩しております。ただ、外側は目立たないようにしておかなければなりませんので」


 病院内にいる何人かが、長に気づいて頭を下げる。


「どうなさいますか、寧様。このまま中をご覧になりますか」

「いえ……いいです」


 こんなに真新しくて無機質な場所では、母の面影は追えないと思った。

 結局のところ、私は里に自分のルーツを求めて来たのだ。そしてそのルーツとは、母を通じてでしか感じられないものだった。


 外に出て、他の建物も見て回った。

 学校、役所、図書館、銀行、デパート、映画館。どれを取ってみても、外と中のギャップは大きかった。

 しかしそれより気になったのは、どこに行っても人が少ないことだ。

 学校は夏休みだから不思議はないとしても、これだけの設備があるなら、人口は多いはずではないか。人々は、どこへ行ったのだろう。


 またしばらく歩いていくと、遠くの方から、ざわざわと賑やかな音がしてくるのに気づいた。

 近づくにつれて、それが大勢の人が出す音だと分かった。活気が伝わってくる。


「こちらへ参りましょう。少し遠くはなりますが、見渡すことができます」


 細い道へ逸れた。周りを木に囲まれた緩い上り坂を、喧騒を右側に聞きながら、ゆっくりと上がっていく。

 最後に大きく右にカーブして、道は途絶えた。


「これは……お祭りの準備?」


 目の前の、下りられそうもない急な斜面の下で、たくさんの人が動き回っていた。

 球場ほどに、大きな広場。その中央に据えられた、やぐら。屋台らしきものが並んでいる。


「はい。今夜、寧様がお戻りになられたお祝いをさせていただきます」

「えっ!?」


 長を振り返った。


「二十五年、みなが心配し、心を痛めていたのです。あなた様がこうして無事にお戻りになられることは、里の人間の切なる願いでした」

「あ……」


 二十五年――――

 私が生まれたときから、これほど多くの人が注目し、失望し、待ち続けていた。その、事実。


「寧様がお顔をお出しになる必要はありません。ですが、この祭りでみなが喜びを分かち合うことは、どうかお許し下さい」

「そんな、許すも何も……」


 私は、そんな立場になんてない。


「もちろん、お忍びで祭りをお楽しみになるのは、ご自由になさって下さいませ」


 長は、笑って言った。


 お祭り……か。

 この夏、クラスメイトと何年かぶりに行ったお祭りは、どれも楽しかった。忘れていた楽しさを、思い出させてくれた。

 里のお祭りは……どんなだろう。


 改めて、眼下を見渡す。

 本当にたくさんの人だった。みんな、よく動いている。小さな男の子や女の子から、おじいさんまで。おばあさん……は、見当たらない。

 ちょっと遠いし、人が多すぎて分かりにくいけど、ひとりも見つからないのは引っかかった。

 何となく見ていたけど、今度は真剣に探す。

 おじさん、おじいさん、おじさん。

 ――いない。

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