5 火曜日

 誰かのお腹が鳴っている。恥ずかしいくらいに大きな音だ。

 そう言えば、何だか私も、長い間ご飯にありついてないような気がする。

 ああ、お腹が空いたな。


 むっくりと起き上がった。

 南側の掃きだし窓から、西に傾いた日が差し込んでいる。

 まだ半分閉じている目で横を見ると、お盆に小ぶりの土鍋を乗せ、湯気を団扇で私に向けて扇いでいるサトリがいた。


「……何してんの」

「いや、お十岐がな、そろそろ起きてもいい頃だって、飯を用意してな。オレが持って行ってやるって……お前、腹が減ってるかな、ってな。へ、へへへ……」


 半開きの目でじっと見ると、サトリの言葉に勢いがなくなっていった。

 だけど、この出汁と香ばしい魚の香り――

 ぐうっと、私のお腹が鳴った。


「ほらな! さっきから寧の腹、鳴りっぱなしじゃないか! 食え! 美味いぞ!」

「え? さっきの、私!?」


 少なからずショックを受けた。

 しかしそんなことは、すぐに頭から消えた。湯気を通して見えた土鍋の中身に、私の心は瞬く間に魅了されたのだ。

 見るからに美味しそうな、焼き魚を乗せた雑炊だった。


「これは鮎だ。オレがほぐしてやる。ほらな、こうやって、背中とか押して骨を抜くんだぞ。上手いだろ。で、これを米と一緒に食うんだ。あ、米の方に入ってる緑のやつは、寧が採ってきた山菜――」


 待てない。

 サトリが説明しながらよそったお椀を、ひったくって食べた。


「ん~~っ!」


 火傷しそうに熱かった。だけど、美味さが熱さを越えた。塩焼きの鮎のほろ苦い香ばしさと、出汁の旨味と香りが、一緒になって鼻を抜けていく。

 一気にかき込んで、一発で頭が目覚めた。

 サトリの腕をつかみ、勢い込んで聞く。


「あの子、ヒナは!?」

「し、下にいる、みんな居間だ。って、オイ! 急に動いていいのか? 人間はやわなんだぞ! 知ってるぞ! オイ、大丈夫なのか!?」


 走り出した私の後ろから、まだ雑炊の残った土鍋のガチャガチャ言う音が付いてきた。


「どこっ!?」

「そこだよ」


 みんながくつろぐ囲炉裏端、十岐が指差したところには、うつ伏せに寝そべっている朧がいた。

 よく見ると首の上辺りに、もそもそと動く茶色い何かが乗っている。


「ピイー、ピイーエ、ピイーエ」


 目が合った瞬間、けたたましく鳴きだしたのは、あのヒナだった。

 私のことを、分かっている。

 思わず駆け寄った。

 ちゃんと生きていた。自分の目で見るまでは、どうしても不安だったけど、元気だ。

 よかった……本当に……

 抱き取ってヒナの体を撫でながら、目頭が熱くなった。


「安心したかい? もう大丈夫だよ。傷も全部、治っておる。むしろ、元気すぎてうるさいくらいだ」

「うん」


 ぐいっと目をこすって、笑顔で十岐に答えた。

 久し振りに笑ったような気分だった。


「ホントだよ。何様だと思ってんだか。声も態度も大きいよ」

「おや、あたしもお腹の大きさでは負けませんよぉ。ほほほ」


 管を巻く十兵衛ちゃんに、へべれけのはらだし。すでに出来上がっている。

 青行燈は白いままだけど、赤鬼は灰色の皮膚に赤味がさしていた。髪の毛と同じ色になったら、本当に赤鬼になりそうだ。


 みんなが囲炉裏に集まる馴染みの光景。

 ホっとひと息ついて安心すると同時に、いつでも酒浸りだなと思いながら苦笑いしていたら、どうやら十兵衛ちゃんがそれに気づいた。


「あたいだってね、寧ちゃんの寝顔をずっと見ていられたら、今頃、飲んだくれてなんかいないのさ。ちゃんと起きるのを待ってから、もっと美味い酒を飲むはずだったんだよ」


 どっちにしても、飲むのは飲むんだ。


「それをさ、お十岐がさ、邪魔だから居間に下りてろ、なんて追い出すもんだから。それに、お十岐の薬を飲んだあと、寧ちゃんの顔色がよくなったからね。あたいがついてなくても大丈夫なんだな、ってさ……」


 伏せがちの瞳が潤んでいるのは、寂しさからか、酔いが回ったのか。普段の数倍、色っぽい。

 果たして、この匂い立つような色香に耐えられる男性が、この世にいるのだろうかと考えてしまう。


「それであたしたちは、酒盛りして待つことにしたんですよねぇ」


 こっちはこっちで、飲むと一層明るくなる、はらだし。そのうちまた、腹踊りを繰り出すかもしれない。

 にしても、一度起きたときに口の中に突っ込まれたものは、やはり薬だったのか。そう言えば声もちゃんと出るし、体調もよくなっている。


「馬鹿どもは放っといて、雑炊を食べちまいな。冷めたら美味しくないよ」

「あ、うん」


 十岐の言葉で食べかけだったことを思い出し、サトリが差し出す土鍋を、ヒナを抱いたまま片手で受け取ろうとした。


「両手で取れよ! 重いんだぞ! ビーは朧にでも乗せろよな、毛むくじゃらが巣代わりになってるんだからよ」

「そうなんだ。ごめん」


 何だか不機嫌なサトリに言われ、私はヒナを朧の首の上に乗せた。

 そこが落ち着くのか、ふさふさの白い毛の中にヒナは大人しくしている。

 笑顔になりかけて――ハタと気づいた。


「サトリ、今、って言った? ……何それ」

「あ……あー、だから、そいつ……ビービーうるさいから、ビーって名前になった」

「ええ!? 何でもう名前ついてるの?」

「オ、オレじゃない! つけたのはお十岐だぞ! それに全員、納得してたんだからな、ピッタリだって」


 ムっとした。私がちょっと寝ている間に決めるなんて。


「勝手なんだから。つけ直す」

「多分、無理だと思うぞ。一昨日からビーって呼ばれて、そのチビも覚えたみたいだからな」

「……一昨日?」


 サトリを見たら、しまったとでも言うように顔を背けた。


「今朝、ヒナを連れてきたばっかりでしょ? え、何……? 今日、日曜日だよね?」

「まったく。わしが、順を追って話すと言っただろうが。お前の口には猿ぐつわが必要だね、サトリ。聞いた通りだ、寧。お前は二日間寝ていたのさ。何をしたらいいか、分かってるね」


 にやりと笑う十岐。

 私のお腹が鳴った。

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