7 無音の撃鉄

 私のクラスは四年一組だった。

 三階の教室に向かう途中、せめて横を歩く担任の名前くらいは早く覚えようと、彼女が抱え持つ名簿の表紙をチラ見する。そうだ、宇田川だ。


「本当に大変だったわね。先生にできることがあったら、何でも言ってね。勉強のこととか、何でもいいから」

「あ、はい、あの、ありがとうございます」


 気の毒そうな先生に、慌てて答えた。

 とりあえず、小学生程度の勉強など何の心配もない。

 大問題なのはファンタジーみたいなこの状況だけど、しかしそんなことを言える訳がなかった。これは、絶対にバレてはいけないことなのだ。


「前にいた東京の学校で、授業はどこまで進んでいたのかしら?」


 確かに私は、ついこの間まで東京にいた。大人として。働いて。

 でも子どもの頃は引越しの連続で、ひとつ所にとどまったことがなかった。だからなのか余計に記憶が曖昧で、小学生のときに東京にいたのかもよく覚えていない――


 いや、問題はそこじゃない。

 十岐が学校側にどんな設定で私のことを伝えているか、それが最重要事項なのだ。言っておいてくれないと、話が合わなかったらどうするんだ!

 帰ってから言う文句が、早くも増えた。


「ええと……その、勉強は大丈夫です」

「……そう。そうよね」


 上手い返事も思いつかず、これ以上聞かれないようにと言った言葉だったけど、一瞬、妙な空気が漂った気がした。そして、よく分からない納得をされたところで、私たちは教室に着いた。

 引き戸を開けた先生に続いて、私も中に入っていく。


「わあー、やっぱり転校生だ!」

「嘘じゃないって言っただろー!」

「お前、男だって言ったじゃん!」

「女の子じゃんかよー!」


 忘れていた。小学生という生き物が、どんなに騒々しいか。しかも、それが二、三十人もいる。久しく子どもに関わることのなかった私には、教室というこの四角い空間は、もはやカオスだった。


「はーい、みんな静かに! ちゃんと席に座ってー」


 黒板に書かれていく、三雲、寧。

 この名前を真っ先に覚えなければならないのは、他ならぬ、私。


「ご家族の都合で、東京から引っ越してこられました。みんな仲よくしてね。さ、三雲さん、挨拶を」

「……三雲、です。よろしくお願いします」


 席は窓側から二列目の一番後ろになった。

 何人もがちらちらとこっちを向いて、視線が痛い。

 私はただひたすら、時間が早く過ぎることを祈っていた。


 休み時間になると、今度は私の机の周りをたくさんの子どもが囲んだ。

 注目されるのは転校生の宿命と、覚悟はしていたが、なかなかの圧迫感だ。

 集まってきたのはなぜか大方が男の子で、女の子は少ない。十歳くらいだと、男の子の方が屈託がないのかもしれない。


「いつこっちに来たの?」

「え、と、一週間くらい前、かな」


 五日寝ていたなら、それくらいだろう。


「へえー! 家どこ?」

「あー……あっちの、山の麓辺り、かと」


 本当の場所は、いまだ不明。


「えー! 熊山くまやま? マジかよ! あの山、昔は熊が出てたから、熊山って言うんだぜ」

「今も出るって、じいちゃん言ってた! 三雲さん気をつけなよー」

「あ、ありがと」


 今さら、熊が出るくらいでは驚かないけど。


「三雲さん、かわいいねー! オシャレだし!」

「え? ……どうも」


 かわいい?

 もう長いこと、そんな言葉に縁はなかった。服だって、大人のときに着ていたものを、十岐が全く同じ形で小さく作り直しただけだ。黒無地のラグランTに、ストレートのジーパン。ただシンプルなだけの服が洒落て見えるなら、十岐の腕がいいのだろう。


「なーなー! ドッジとかサッカーとか、バスケできる?」

「あ、うん、まあ」


 それなりに、できたはず。


「おー! これで人数が増えたぜ!」

「イエーイ!」

「よっしゃーっ!」


 子どもって……小学生って、こんなに垣根のない生き物だっただろうか。


「ちょっと! 何してんのよ、そんな大勢で囲んで! 三雲さんが動けないじゃない!」


 圧倒されていると、割って入る声があった。

 腕組みをした子を先頭に、数人の女子が近づいてくる。


「何だよ! 俺らは話しかけてただけだろ!」

「そーだよ! 何もしてねーよ!」

「女子はまだいいわ。でも、男子! ウザいのよ! ほんっと、うるさい!」


 女子対男子。

 やっぱり、いつの時代もこういう風景はあるんだな。と、何だか妙な感心をしつつ、私はそのやりとりをボーっと見ていた。


「ねえ! 三雲さんも、そう思うでしょ?」

「…………え?」


 ボス格と思しき女の子の話を、私は気を抜いていて全く聞いていなかった。女の子の顔が少し赤くなる。


「だから! 男子なんてウザいよねって!」

「いや、別にそんな……」


 真っ赤な顔を怒りの形相にした女の子を見て、しまったと思った。

 相手は子どもだ。大人なら、もっと上手く対応して当然だった。

 余計な形で彼女のプライドを傷つけたと、気づいたときには、もう遅かった。


「好きにすれば!」


 去っていく女の子。

 やってしまった。初日からトラブル。

 ため息が出た。

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