終夜 月下の晩餐



 愛しいものの声が己の名を呼ぶのに気付き、ユアは目を開く。


「ディア……」

「ユア」


 待ち焦がれた黒い死神の腕の中で、ユアは目を覚ました。辺りを見回せば、そこは屋敷の近くの森の中のようだった。

 気を失っていたユアが目覚めるまで、ディアがここで待っていてくれたようだ。


「ディア」


 万感の思いを込めて、ユアがディアの首に抱き着いた。ようやく、その温もりを得られたような気がしたのだ。

 ディアも、力強くユアを抱きしめる。


 緑の木々が恐ろしく懐かしいものに感じ、青く澄み切った空がどこまでも続くことに安堵した。

 もう一度この世界に、愛する男と共に戻って来れたことに、感謝した。


 遠くで、美啼鳥ファティーツルの声が聞こえる。美しい歌声が、ユアの心を満たす。ユアは澄み切った空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。


 ユアは生まれてから初めて、こんなにも穏やかな気持ちになったと思った。

 何もかもを諦めなくてはならなかった自分が、こんなにも強い気持ちを手に入れられるとは、ユアは想像だにしていなかった。


 何もかもが、愛しい黒い死神のおかげだった。



 様子を伺いながら、ユアは一人屋敷の扉を開く。すると真っ先に気づいた侍女が、ユアに駆け寄ってきた。


「お帰りなさいませ、ユア様」


 あまりに自然な出迎え方に、ユアは少々戸惑った。


「ただいま」

「お疲れではございませんか? トマス様とのご旅行はどうでした?」


 どうやら、事情を悟ったトマスが使用人達に旅行に行くと説明をしてくれていたらしい。しかし、出迎えた侍女は少し困ったような顔をしていた。


「ユア様の姿が見当たらなくて、トマス様に連絡をするまで気が気ではなかったのですよ。ユア様、出かけられるのは結構ですが、一言言ってくださらなければ困ります」


 そう告げる侍女の姿が、一瞬アイナと重なり、ユアの胸に熱いものがこみ上げた。


「ごめんなさい、旅が楽しみで浮足立っていたの。あの……」

「次からは、きちんと声をかけてくださいね」


 ユアは侍女に微笑みかけた。


「ありがとう。私は部屋に戻るから、皆にそう伝えてください」

「かしこまりました」


 ユアは自分の部屋に急いだ。魔界にいた時間は一日にも満たなかったはずなのに、こちらでは数日が過ぎていたようだ。

 そして部屋に入るとそこには、愛する死神がいた。ブオを寝台に寝かせ、一足先に部屋で待っていたのだ。


「ディア」


 眩しいほどの笑みを浮かべ、ユアが安心したようにディアに触れた。


「嬉しい」

「私もだ、ユア」


 ディアがゆっくりとユアに顔を近づける。二人の唇が、静かに重なった。


「愛おしくて、たまらないよ、ユア」

「私も、愛しているわ、ディア」


 大切なものに触れるように優しい手つきで、お互いの存在を確かめ合う二人。ブオのことだけが心配だったが、しばらくは様子を見ることにした。


「こんなにも、穏やかな気持ちになれるとは思っていなかった。諦めていたものが、手に入れられるなんて、思っていなかったわ」

「それは私も同じだ、ユア」


 そこで言葉を切ったディアが、困ったような顔をする。ユアは首をかしげた。


「どうしたの?」

「いや……」


 ディアが言いにくそうに口ごもる。白皙の面が、ほのかに朱に染まっている。


「……次の満月の夜、私と晩餐を」

「え?」


 意味がわからず、ユアは呆けた声を出した。


「次の満月は一週間後だから、そのころにはブオも起き出していると思うんだ」

「ええ。でも、どうして晩餐を?」


 ユアに意味が通じていないことを知り、ディアは当惑する。そして、さらに赤面しながら口を開いた。


「向こう……私の生まれ育ったところでは永久の契りを交わすときに、満月の下で晩餐を開く」

「永久の契り?」


 ユアは首をかしげた。


「婚姻の儀だ」


 ディアが言った瞬間、ユアは眼を丸くした。そしてみるみる赤面する。


「立会人のブオと、君と私で――晩餐を開かないか、ユア」


 返事をする代わりに、ユアはディアに飛びついた。その紫の頭を、ディアはなでる。


「嬉しい! 満月の夜が楽しみ」



 そうして、二人は指折り数えて満月の夜を待った。約束を交わしてから三日後にはブオが眼を覚まし、悪態をつきながらも二人を祝福した。


 トマスも無事に帰ってきた二人を祝福し、ディアに正装を送ったりした。


「君もユアの隣に並ぶのに相応しい格好をしたらどうだ。なんだその襤褸外套は」

「む……」


 どこか強気に言うトマスに、ユアは笑ってしまう。

 兄のように思っていたトマスが、自分を妹扱いすることが、そのような関係を築けたことが、嬉しかった。


「そうね。その格好では、両親に会わせるのも困ってしまうわ」


 ユアにまで言われ、ディアはしかめ面になる。トマスは呆れたように黒い死神の長い髪を見た。


「その長い髪もどうかと思うんだけどな。ユアよりも長いじゃないか」

「髪はいいの」


 ユアはトマスの言葉に言い返す。


「こんなに素敵な髪、切ったらもったいないわ」

「私はどちらでもいいんだが……」

「駄目!」


 そうして皆で戯れながら、幸せな日々を過ごしていた。



 そんな幸せな日々に異変が起きたのは、それから二日後の夜だった。



 寝巻きに着替えたユアが、陽台に出て月を見上げていた。


 ユアの部屋の外から見える景色はいつもと変わらないはずなのに、見方が変わったせいかとても美しいものに見える。


 降り注ぐかのような星空が眩く、月明かりに照らされる森はどこか暖かく思えた。


「そんなところにいると、身体が冷えるぞ」

「ディア」


 夏といえども、夜になれば冷える。下ろした髪を風にたなびかせながら、ユアは微笑んだ。


「もうすぐで、満月ね」

「ああ、そうだな」


 随分大きくなった月を見上げ、ディアも微笑んだ。寄り添うように立ったディアに、ユアは身を預けた。そして、その冷たい手を握った。


「ディア、私、怖いの」

「怖い?」


 ディアが不思議そうにユアを見る。ユアは、不安げに自分の胸にある月に触れていた。


「そう。幸せすぎて怖いの。魔界の王が言っていたけれど……」


 ユアの言葉に、わずかながらもディアの顔が強張る。


「私達が惹かれあうのは、月のせいだと」

「……きっかけはそうであったかもしれないが……!」


 焦ったようなディアだったが、その言葉をユアが遮る。


「そう、きっかけよ。私は、必然だったと思っているわ。私達が惹かれあったことは。そして、紛れないものだと思っている」


 ユアの強い言葉に、ディアは押し黙った。


「でもね、無性に怖くなるの」

「……何故?」

「こんなに幸せで、いいのかって……」


 全てを諦めてきたユアにとって、何かを手に入れることは恐怖に近いのだろう。ディアは微笑んでユアの手を握り返す。


「迷わなくてもいい。私は、ずっと共にいよう」

「ええ」


 ブオは本調子ではないのか、すでに寝台で寝息を立てている。大きな月が見守る闇の中で、たった二人だけの世界だった。


 そこに、白金の男が現れるまでは――。


 羽音が二人だけの静寂を破る。月を背に現れたのは、ピーノだった。


「ピーノ!」


 ユアが驚いて声を上げた。ピーノは蒼銀の眼を細める。


「久しぶりだね。無事に戻って来れたようで何よりだ」

「ええ。貴方のおかげで、ディアと会えた。ありがとう」


 ユアがそう告げ、ディアも小さく会釈をした。そんな二人の様子を見て、ピーノはため息をつく。


「君達、約束を忘れていないかい?」

「忘れるものですか。何でも言うことを聞く、と」


 恩人に向かって、ユアは言った。


「なんでもおっしゃって」

「君もかい、ディア?」

「ああ、何者かは知らぬが……ずいぶん助けられた」


 するとピーノが満面の笑みを浮かべた。


「ここではなんだから、向こうへ行かないか? この建物には、見事な回廊に囲まれた中庭があるじゃないか」

「わかったわ」


 二つ返事で承諾したユアは、ディアと共に中庭へ向かった。



 夜の中庭は荘厳な雰囲気をたたえ、別世界に迷い込んだかのような錯覚さえ覚えさせる。初めて来る夜の中庭に、ユアはわずかながらに戸惑った。


「綺麗だな」

「ええ」


 素直に感想を述べるディアにうなずきながらも、ユアは不安を覚えていた。今更ながら、ピーノの願いが何であるのかが気になったのだ。


 そこに天からピーノが舞い降りてくる。それは、本当に美しい光景だった。


「やあ、待たせたかい?」

「いいえ」


 天使と呼ぶにはふさわしくないような軽薄そうな笑みを浮かべるピーノに、ユアが首を横に振る。


「ピーノ、あの、貴方の願いって何なの?」

「ああ、何、簡単なことだ」


 ピーノはそう言うと、ディアを見た。


「君はまだ、あの鎌を出せるのかい?」


 天使の問いに、ディアはうなずく。


「ああ、ユアを守るためだけに振るうものだ」

「そうか」


 ピーノは満足そうにうなずくと、眩いほどの笑顔を浮かべた。


「何、俺の願いは簡単なことさ。君達に少し協力してもらいたいんだ」

「協力?」


 ピーノは桃色に色づく唇を開いた。


「ユア、君に死んでもらいたいんだ。ディアの手で」


 時が、止まった。




「貴様、何を……」

「あれ、恩人に向かってそんな口を利いていいと思ってるの?」


 思いがけない言葉に、怒りに震えて蒼白となったディアに対し、ユアは無表情でピーノを見つめていた。そして、ゆっくりと口を開く。


「意図を、訊いてもいい?」

「うん、いいよ」


 あまりにも無邪気に、あまりにもあっさりとピーノがうなずく。


「俺の目的は、トウィンテルだ」


 ピーノの口が、ユアの予想通りの答えを告げる。


トウィンテルを天に返さなければ、同じことが起きる。ディア、君が、君の母親が、背負ったような悲劇がまた繰り返されるんだ」


 ディアの赤い瞳が揺らいだ。肩で息をするかのように、身体が小刻みに震えていた。

 ピーノが続ける。


「本当はユアの命を無理矢理奪って、トウィンテルを回収してもいいけど、いかんせん俺は天使だからな。殺生はご法度ってわけだ。そこにちょうどいい具合に死神の君がいてくれた」


 沈黙が流れた。


 木々が葉を鳴らす音だけが、耳に届く。夏の夜にはふさわしくないほど涼しい風が、吹いていた。

 闇が優しく降り注ぎ、静けさと共に寂しさも運んできた。


 ディアもユアも、動けなかった。


「ユア、君はもともと死ぬ運命だったんじゃないか。だから、いいだろう?」


 ユアの顔が、泣きそうに歪む。


 事実その通りだった。ユアはもともと死ぬ運命だった。それをディアが生かした。

 本来ならば、この幸せな時間もあるはずがないものだったのだ。


「ディア、君だって最初はユアの事をなんとも思っていなかったんだから、前に戻るだけだ」


 全てが元通りに戻るだけ、そう言われても、納得できるはずなどなかった。

 全てを手に入れてしまった、様々な感情を知ってしまった二人が、納得などできるはずがなかった。


「私のこの手で、ユアを殺せというのか?」


 ディアには、到底できる相談ではなかった。しかし、ピーノは当たり前のようにうなずくのだ。


「そう、君に起こった悲劇が二度と起こらぬように。二度と、ユアや君の母親のような女性が生まれないために」


 ピーノの言葉が、ディアの心をえぐる。

 ユアや、己や、己の母親を引き合いに出されれば、ディアは弱い。月から始まった悲劇を終わらせるためにと、そう言われてしまえば、ディアにはそうするしかできなくなる。


 ディアは泣きそうな顔で無表情を浮かべているユアを見た。



 一方のユアは、心が酷く落ち着いていた。代わりに、ディアの心が酷く乱れているのが、伝わってくるようだった。


 ユアはディアと出会ってからの日々を思い返していた。

 ディアと出会う前のユアは、何もかもを諦めていた。その諦めたものを、一つずつ与えてくれたのがディアだった。


 命も、恋も、愛も、友も、強さも、幸せも――。


 何もかもを諦めていたのに、ディアは魔法のようにユアに与えてくれたのだ。すでに充分すぎる幸せを、ユアは受け取っていた。


 これからディアと幸せな日々を過ごす。

 それはあまりにも甘美で、幸せそうだった。


 だがしかし、ユアの中ではそれがどうしても現実味を帯びてくれなかったのだ。

 今まで求めてこなかったものを、どのように求めればいいのかよくわからなかったのだ。


 それがユアの抱いていた恐怖心なのだと、ピーノの言葉で気がついた。



 何もかもを諦めて生きてきたユアの中にあった、憧れのようなもの。

 それら全てを形にしてしまったら、何故か満足できてしまった。



「いくらドルゴンがいなくなったとしても、再び月を狙いに他の死神がやってこないとも限らないだろ。ユア、君だってそんな風に怯えながら生きながらえるのは嫌だろう? やはり月は、天に返すべきなんだ」


 そして、あることに気づいたユアは、微笑んだ。

 なんでもないような様子を装っているピーノの瞳に、必死の色が浮かんでいることに、ユアは気づいてしまった。


「今すぐでなくてはならないの?」


 おそらく、この天使は焦っている。


「こちらにも、事情ってものがあるからね。もしあの死神が殺せないのなら、俺はほかを当たる。どちらにしろ君には死んでもらうよ」


 ピーノの銀蒼の瞳を、ユアが真っ直ぐと見つめる。口ではふざけているようでいて、ピーノはどこまでも真剣な様子だった。


「君には悪いと思っている。だが……時間がないんだ、俺には」


 ピーノが困ったように、そう言った。そのときユアがディアを振り返る。


「ディア、ピーノの言うとおりにしましょう」

「ユア!」


 ディアの口から悲鳴が上がった。


「私に、君を手にかけろというのか!」

「ディア、私は充分すぎるくらい幸せだった」


 ディアが息を飲む。ユアは、こんな時だというのに、笑っていた。


「もう、充分だと思うの」

「……君は私に、君を手にかけた罪を背負って生きろと、そう言うのか?」


 ディアの震える声に、ピーノが思い出したように口を開く。


「何も鎌を振るえとは言わないよ。ただ、君がユアと交わした契約を解いて欲しい。そうすれば、ユアは死ぬんだろう?」

「契約を……」


 ディアが己の胸を押さえる。今、確かに感じているもう一つの心の波。ピーノはそれを、断ち切れという。

 ユアまでも、もう充分だという。


 せっかく手に入れようとしていた、幸せの日々が、今霧散しようとしていた。


「私は、君との未来を描いていたんだ……」

「……ディア」

「今まで復讐という黒い感情でしか生きてこなかった私は、君との明るい未来に夢をはせていたんだ……っ」


 赤い瞳が揺らいでいた。ユアが悲しげに顔を歪めてディアに触れた。


「ディア、月が私の元にある限り、平穏は訪れないわ」

「ユア……」


 ユアは、眩しいほどの笑みを浮かべていた。その瞳に、涙をたたえながら。


「愛してる、ディア。私はもう、充分すぎるほど生きられた。悔いはない」


 ディアがユアを抱きしめた。ユアの身体は、震えていた。


 悔いがないと言えば、本当は嘘になる。

 これからのディアとの生活を夢見ていないかと問われれば、ディアと過ごしたいかと問われれば、ユアは首を縦に振るだろう。


 甘い蜜月のような生活が待っていると言われれば、ユアの心は今にも生きたいと叫びそうになる。


「私は君を失いたくなどない」


 そんな泣きそうなディアの言葉にも、ユアの心は揺れ動く。それでもユアは、今までの日々に満足していたのだ。

 すでに満足できていたから、今、月を返しても良いと思えた。


「共にいるわ」

「だが……!」


 ユアが笑った。欲を出すことなど知らない、純真な笑みを浮かべて。


「今度は貴方が私の魂を捕らえて」


 その言葉に、ディアが愕然とする。


「貴方にはできるでしょう?」

「……だが……」


 ユアの頭の中にあったのは、死してなお魂を捕らえられたシャラの姿だった。そしてそれがディアにも伝わる。

 ディアが望めば、ユアは魂のまま姿をとどめられる。


「死してなお、魂はそこにある。それで、良いじゃない」


 ユアが泣き笑いの顔でそう言った。しかし、その言葉は小さな灯りをディアの心に灯した。

 肉体を失ってもなお、ディアにはユアの魂を囚えることができるのだ。忌々しい死神の力で、ユアを引き留めることができるのだ。


「貴方には私が見えるのだから、それで良いじゃない」


 かつて己の父親となった魔界の王が、己の母親に施したような仕打ちではなく、共にいるために魂を囚える。

 それは、甘美なことのようにも思えた。過去の、忌まわしい記憶を塗り替える、甘い誘惑にも思えた。


「共に、いると……?」

「ええ」


 ディアがユアの顔に触れる。


「君は、死してなお、私と共にいると……」

「ええ、貴方と共に――愛しいディアルノ


 ディアが唇を噛んだ。


「……悲劇は、防がなくてはならないのだな」

「そう。もう二度と、貴方のお母様や貴方のように辛い思いをする人が現れてはいけないの。私のように、何もかもを諦めて生きるような人が現れてはいけない」


 ユアがくすぐったそうに笑った。


「この月の呪いを断ち切る勇気は、貴方が与えてくれたの。大丈夫、私達二人なら、この何年も続いた呪いを、解くことができるわ」


 ディアは、ユアの決意を知った。

 ユアはその身を呈して、この月をめぐる戦いに終焉をもたらそうとしているのだ。こんなにも若い娘が、強い決意をしているというのに、己はなんだ。


 ディアは震える己が身に活を入れる。


「愛している、ユア」

「私もよ」


 どちらからともなく、二人は口づけを交わす。そして離れたとき、赤と紫水晶の瞳が真剣に見つめあっていた。


「共に、決して消えないでくれ」

「ええ、約束するわ」


 ユアは困ったようにため息をつく。


「トマスや、両親に伝えられなかったのが心残りだけれど……貴方には私の言葉を彼らに伝えることができるでしょう?」

「伝える。それが君の望みなら」


 惜しむように、ユアとディアは抱き合った。


「君との日々は、かけがえのないものだった」

「私にとっても、幸せな日々だった」


 ユアにとって失うものも多く、だが得るものも多い日々だった。


「君の魂と共に、私は生きる」

「私の魂は、貴方と共に――」


 再び、二人は口づけを交わした。そして離れたとき、ディアが口を開く。


「私と契約をしよう」

「え?」

「身は滅びても、心は共に」


 ユアがしっかりとうなずいた。


「ありがとう、愛しいディアルノ

「愛しいユアリアーナ、私は」


 ディアが口を閉ざした。永遠のような、一瞬のようなひとときの後、ディアは口を再び開く。


「君との命の契約を解く」


 ディアの言葉が紡がれた瞬間、眩い閃光がディアの眼をつぶした。


「っ」


 心が引き裂かれるかのような痛みの後、立っていられないほどの衝撃を覚えたディアはその場にうずくまる。


 そのとき耳元で、ピーノの声がした。


「ありがとう。ごめんな……」


 そして顔を上げたときには、光は消えていた。ピーノの姿はどこにもなかった。そして、最愛の人の姿も――。


「ユア……?」


 赤い瞳が見開かれる。ユアの魂を、どこにも感じることができない。


「ユア!」


 死神として、それはあるまじき出来事だった。シンシアをその手にかけたときも、随分長い時間シンシアの魂を感じることができたのだ。

 天に還っていく様を、見届けたのだ。


 それなのに、ユアの魂を、全く感じることができない。ディアは愕然とした。


「ユア!?」


 ディアが慌ててユアの部屋に向かう。魂は慣れた場所に留まることが多いはずなのに、屋敷の中のどこにも、ユアを感じることができない。

 ディアは酷い焦燥を感じながら、ユアの部屋に飛び込んだ。物音に驚いて、ブオが飛び起きた。


「どうした?」

「ユア、どこにいるんだ?」


 狂ったようにユアの名を呼ぶディアに、ブオが訝しげな顔をする。


「ディア……?」

「約束したじゃないか、魂は共にと……!」


 ディアの悲痛の叫びに、ブオが戸惑う。


「おい、俺が寝ている間に一体何が……」

「契約を解いても共にいると約束したんだ! それなのに、ユアの魂がどこにも……っ」


 狂ったように叫ぶディアの言葉の端々から、状況を悟ったブオが眼を見開いた。


「おい、なんで契約を解くなんて真似を……!」

「あの天使が、月を天に返すと……! ユアが、そうしようと言うから……魂は共にいると言うから……っ」

「落ち着け、何があった!」


 ディアはしかし、陽台に飛び出た。天に向かって吼える。


「ユアああああああああああああああああっ」


 黒い死神の悲しい咆哮が、闇夜に溶けて消えた。




 ブオはため息をつきながら中庭に来た。そこに一人、あの白い椅子でうな垂れるディアの姿がある。

 ユアが消えたのは、二日前のことだった。それからずっと、ディアはここにいる。そしてディアの赤い瞳は何も映してはいなかった。


 その日は、本来ならば月下でユアとディアが婚姻の儀を行う日のはずであった。


 あの日ユアの姿は忽然と消えた。魂だけではなく、肉体もろとも。

 そのことに、ブオは違和感を覚えていた。


 ディアの言葉から悟るに、ピーノという天使は何らかの目的のために月を天に返す必要があり、肉体と魂ごとユアを連れて行ったようだ。


 ブオは空っぽになってしまったディアの姿を見て、唇を噛む。守ると約束した、大切な人の息子が、こんな様になってしまったことに、責任を感じていた。

 全てが起こってしまった夜に、のうのうと寝ていた自分を呪いたかった。


「ブオ……」


 そのとき、突然ディアが口を開いた。数日間言葉も発さなかったディアが口を開いたことに、ブオは驚いてディアに近づく。


「なんだ?」

「ブオ、願いがある」


 願いと聞いた瞬間、ブオは嫌な予感がする。顔を歪めたブオをよそに、ディアが今にも消え入りそうな声で続けた。


「今晩、満月の下で……私を殺してくれないか」


 それは、ブオの予想となんら違わない言葉だった。




 風が吹いていた。夜闇の中、眩い満月が照らす森は、いつもと変わらぬように揺れていた。

 手を伸ばせば手が届きそうなほどに近く、白い月がブオとディアを照らしている。微動だにしない黒い死神の衣と髪を、風がすくってゆく。


 漆黒と、そこに浮かぶ無数の星。様々な色の光が降り注いでいた。ため息が出るくらいに美しいその光景に、ブオは泣きたくなった。


 この光景を見て、喜ぶであろう少女はもういない。

 本来ならば、黒い死神と婚姻の儀を行うはずだったその日に、紫水晶の瞳を持つ少女は、もういない。

 そのことでこの死神が、生まれる前から守ってきたこの青年が、消沈している様は目も当てられなかった。


 愛する人を失った、その悲しみが黒い死神から生きる力を根こそぎ奪っていってしまった。

 本来ならば魂を捉えることができるはずのその瞳が、愛する人の魂を見つけられなかったというその事実が、黒い死神をうちのめしていた。


 再び突如いなくなったお嬢様に、屋敷でも大騒ぎが起きていた。

 そして連絡を受けて屋敷を訪ねたトマスに、ブオは全ての事情を説明した。ユアを失ったことを知り、泣き崩れたトマスは、屋敷の者達に説明をしてくれた。


 死神が、ユアを連れていったと――。


 突然のことに未だ屋敷の者達も信じられないらしかったが、それでも屋敷には暗い空気が流れている。数日後に、ユアの両親が到着するとのことらしかった。



「ディア」


 ブオが声をかけても、なんの反応も示さない。うなだれて、数日間同じように白い椅子に腰掛けているだけだった。


「ディア、満月だ」


 いつのまにか擬人化したブオが、ディアに声をかける。するとかすかにだが、ディアが反応した。


「満月だ」


 ブオが泣きそうな顔で繰り返した。すると、ディアは普段よりも更に血色が悪い顔を上げる。生気のない赤い瞳に、輝く月が光って写った。



 本当は、ディアを手に掛けたくなどない。だが、この様子のディアを見るのも辛かった。


 この世で一番大切な女性の息子で、ずっとそばで見守り続けた死神が、愛を知り変わってゆく様は、ブオの瞳にも眩しく輝いて見えた。

 愛しい人を得、空っぽで虚ろだった黒い心が洗い流されてゆく様子を見て、ブオが彼の復讐を終わらせることを決意したのだ。


 それがよもや、このような結末になろうとは、想像もしていなかった。



「お前の望みを、叶えてやるよ」


 ブオの髪を、風がさらった。その金色の瞳に、光るものが浮かんでいた。




 ピーノは、片手に収まるほどの石を持っていた。それを持ち上げ、感慨深げに眺める。

 それはトウィンテルだった。


 透き通るような青い空に、白い雲が浮かんでいる。白い石畳に白い煉瓦の建物が並ぶ、どこまでも、白が目に付く場所だった。

 植物は小ぶりなものが多く、蔦や蔓で壁に彩りを添えていた。


 純白の衣を身に纏い、ピーノは広場を駆けていた。高位の天使のみしか近づけない一角に、急ぐ。

 ピーノは、そこに近づくことを許された数少ない天使のうちの一人であった。


 神と天使の住まう天界は、魔界で摘み取られた魂を浄化する場所だった。新たな生命を与えるための場所だ。


 ピーノは何か、必死の面持ちで社に入った。

 その場所は他の場所とは雰囲気が違っていた。荘厳な、近寄りがたい空気を醸し出している。

 ここに入るとき、毎回ピーノは息が詰まる様な緊張を覚えるものだ。しかしそれでも、ピーノは謁見しなければならなかった。


「ただ今参りました、神様」


 社の中は狭く、暗い。円を重ねるように、一段ずつ低くなっている。その床には、緻密な文様が描かれていた。

 その幾重にも重なる円の中央となるところに、光が浮いていた。淡く光る蒼の球体が、揺蕩っている。


「お約束通り、トウィンテルをお持ちしました」


 光に向かって跪き、ピーノは緊張の面持ちで両手に抱えたトウィンテルを掲げた。その手が、震えていた。


「神様、どうか……」


 その声も、震えて掠れている。

 すると、光が震えた。その瞬間、ピーノの手の中にあった月が浮き上がり、光の中に飲み込まれて行く。

 息をするのも忘れて、ピーノはその様子を見つめていた。


 完全にトウィンテルが見えなくなると、光量が増した。そして、大きく震えたそれが、高い澄んだ音を奏でる。


「それでは……!」


 ピーノの顔に、笑みが広がった。そして一礼をすると、慌ただしく社を後にした。




 項垂れていたディアが、立ち上がった。虚ろな瞳が、ブオを見つめる。その背に、煌々と月が輝いている。


「本当に、いいんだな」


 念を押すように、ブオが告げた。


「ああ」


 ディアが淋しげに微笑んだ。


「色が、消えてしまったんだ」

「……ディア」

「ユアと共にいることで、私の目から見た世界がひどく美しいものになった。色とりどりで、美しいものになったんだ」


 ディアが、悲しげに顔を歪める。


「彼女のいない世界は、もう意味が無い」


 ブオが唇を噛み締めながら、涙を流していた。それを見て、ディアが目を閉じた。


「すまない、ブオ。私のかけがえのない友。母上の願いのために、私に付き合ってくれて、本当にありがとう」


 ブオが、乱暴に涙を拭った。そして、右手を振り上げる。


「ユア、今行く」


 ディアが月を見上げた。その胸元に、嗚咽しながらブオが鋭い爪を突き立てようとしたその時だった。


「ディア!」


 その場に響くはずのない声が、空気を引き裂くように降り注いだ。金と赤の瞳が、驚いたようにそちらを見上げた。


「ディア!」


 月を背後に、白い衣を纏った、背翼の生えたユアがそこにいた。しかしそれは、ディアの見間違いだった。

 月夜に現れたユアは、ピーノに抱きかかえられていたのだ。そして笑顔のピーノが、上空からユアを落とす。

 呆然としていたディアが、弾かれたように動いて、ユアを抱きとめた。ユアが泣きそうな顔でディアを抱き返す。


 未だ状況のわかっていないディアとブオのそばに、ピーノが降りてくる。


「遅くなってすまない」

「……これは、いったい……どういう、ことだ……?」


 ディアの腕の中にいるユアは、確かに肉体を持っている。泣きそうな笑顔で、ディアにしがみついていた。

 その胸からは、トウィンテルが消えていた。


「ディア、ごめんなさい。ごめんなさい……っ」

「ユア……?」

「ずっと天から見ていたの、貴方が……私を失ってあんな姿になってしまったのを」


 ユアがディアの首にしがみつきながら、嗚咽をこぼす。ディアの頭は、突然の出来事についていけず、ただただ混乱している。


「ま、待ってくれ。私には、何が何だか……」

「俺にも、説明してくれないか?」


 振り上げていた右手を困ったように下げたブオが、当惑の表情を隠そうともしない。


「事前に説明ができなかったんだ。すまない。本当に、ユアを取り戻せるかどうかもわからなかったから」


 ピーノが、申し訳なさそうに告げた。今までの高圧的で、自信にあふれていた様子が嘘のような平身低頭ぶりだった。


「どういうことだ?」


 ブオの言葉に、ピーノが小首を傾げる。


トウィンテルを、どうしても天に帰す必要があったんだ。そのためには、ユアとディアを繋げていた契約を切らなくてはならなかった。一度、ユアを現世から切り離す必要があったんだよ。月と分離するためにね」


 ピーノの言葉を、ディアは唖然として聞いている。ピーノは困ったように頬を掻く。


「何も説明しなかったのは悪かったと思ってるよ。でもな、ユアを永遠に失う可能性もあったんだ。俺にはどうにもできないところで……」

「貴様……」


 ディアが脱力しながら、ため息を付いた。そして、改めてユアの顔を見る。確かめるように、その顔に触れた。そして、月のあった胸元に手を伸ばす。


「ユア……、本当に……」


 ユアが首を横に振りながらディアの言葉を遮った。


「ごめんなさい、ディア。貴方を悲しませた。私の軽率な決心のせいで……」

「君は悪くない、何も……っ」


 ピーノが目を伏せる。


「君達が出会う前に、ユアから月を取り除くことができればよかったんだが、そこには問題があったんだ」

「どのような?」


 ディアが聞き捨てならないというようにピーノを見た。先ほどの生気を失ったような瞳が嘘のような、鋭い光をたたえている。


「君だよ」

「私?」

「そう。君の中に月があったから、どうしても君とユアが繋がる必要があった」


 ピーノの意外な告白に、ユアとディアの顔に、驚きが広がる。


「君達が繋がって、ディアの中にあった月の欠片が親に――ユアの中に流れ込んで、完全なものとなった。そして、ディアとの契約を切ってもらう必要があった。それが君達に起こったことなんだ。説明が出来なくて、本当に悪かったと思ってるよ」


 ばつが悪そうに告げたピーノに、ディアはため息をついた。すべては起こってしまったことだ。

 そしてディアが安心したように、ユアを見た。紫水晶の瞳が、嬉しそうに微笑んでいる。


「それでは、ユアは……」

「ああ、完全に月と魂を分離できた。ちょっと時間がかかってしまったが」

「そうか、よかった」


 ディアが存在を確かめるようにユアを抱きしめる。

 その様子を見届けたピーノが、その場を去ろうとした。その背中に、ブオが声をかける。


「あいつを解放しに行くんだろう?」


 ブオの言葉に、ピーノが足を止めた。


「お前がこんなにも手の込んだことをしたのは、あいつのためなんだろう?」

「……そうだよ。君にも迷惑をかけたね」


 振り返りもせずにピーノが片手を上げて挨拶をすると、そのまま飛翔した。



 ディアは、存在を確かめるようにユアに触れる。ユアはくすぐったそうにそれに応えた。


「本当に、戻ってきたんだな?」

「ええ、ディア。本当にごめんなさい」

「先程から、謝ってばかりだな」


 ディアが優しい声をかける。ユアが首を振った。


「共にいてくれるのではないのか?」


 紫水晶の瞳がディアを見上げた。


「私は、怖かった」

「ユア?」

「貴方との、希望と夢に満ちた生活が現実味を帯びてくれなくて……怖かったの」


 俯いてしまったユアの髪を、ディアがなでる。


「私も怖い」

「ディアも?」

「ああ、怖い。それでもユアと共になら、過ごしていけると思った。もう、君のいない生活など、考えられない」


 ディアの言葉を聞いて、しばしの沈黙が流れた。ブオは少し離れた場所から二人を見つめている。

 夜がますます深くなっていた。


「やっぱり、間違っていなかったわね」

「え?」


 唐突なユアの言葉に、ディアは首をかしげた。


「あの人が言っていたでしょう? 私達が惹かれあうのは、月のせいだと。でも、月がなくなった今でも、私は貴方を愛している。貴方も、私を――」

「ああ、愛している」


 ディアがユアの唇に己の唇で触れた。


「私と契約をしないか?」


 ディアがユアの耳元で囁く。


「共に生きる、契約を」

「一生、貴方と共に――」


 月下で悪魔の金の瞳に見つめられながら、黒い死神と紫の少女は永遠の愛を誓った。




 純白の光が、魔界の空を飛翔していた。その首には、白く光る水の入った小瓶がかけられていた。

 魔界を見下ろしながら、ピーノは感心する。見える景色はなんら変わらないのに、以前は薄気味悪い呪縛のようなものに囚われていたはずの魔界の雰囲気がずいぶん変わっていたせいだ。


 しかしそんなことに思いを馳せたのは一瞬で、ピーノは迷わずまっすぐに湖へ向かっていた。

 赤と黒の景色の中で、鮮やかに光る蒼の湖にいるのは、友愛の天使ラキュピーノのかけがえのない友である慈愛の天使ルシフェルだ。


 愛する友が、人間に恋をし、禁忌を犯した。


 それをピーノは止めることができなかった。

 止められなかった自分を恨み、友をたぶらかした人間を恨み、神をも恨んだ。途方もない時間を、黒い感情に囚われたまま生きてきた。


 しかし、ある日一縷の希望が人間の世界に産み落とされる。

 かつて友が愛した女性の生まれ変わりが、トウィンテルを持って生まれたのだ。その時から、ピーノは友を助けるためにトウィンテルを、天に返却し、友を解放しようと考えた。

 そのために、気が遠くなるほどの時間がかかってしまった。



「ルシフェル」


 ピーノは石となっている友の前に浮いた。どれだけの時間、この時を待ち望んでいたのか、もうピーノは忘れてしまっていた。

 ルシフェルが追放されたあの日から、彼はこの場所で涙を流し続けている。


 ピーノはルシフェルの頬をなでた。


「お前のために、トウィンテルを神に返したんだぞ」


 泣きそうな顔でピーノが語りかける。そして、首にかけられていた小瓶を左手に握った。


「お前を解放するために、俺は……」


 震える声を出したピーノが、その唇をルシフェルの額に落とした。そして、小瓶の中に入っていた液体をおもむろにルシフェルにかけた。

 その瞬間、ルシフェルの石化がみるみるうちに解けていく。

 色を取り戻したルシフェルの青い瞳が、ピーノの蒼の瞳を見返した。その瞬間、こみ上げるような感情がピーノを支配し、それをこらえるためにピーノが震える。


「ピーノ……?」


 愛する友の口が、自分の名を呼ぶ。ピーノは泣きそうになりながら、口を開いた。


「お前を、解放しにきたんだ」


 長い白髪を持つ美しい男の青い瞳が、驚きに見開かれる。長い間凍り付いていた彼の心が、今やっと動き出していた。


「僕を、解放だって……? 神が、あの方がそれを許すはずが……」

「お前が話せているのが、その証拠だ」


 ピーノがルシフェルの髪をなでる。言葉にできない想いを、込めるように。


「もう、終わったんだ。お前が愛したあの人も、今は新たな生命を受けて、幸せになった。全てが、終わったんだよ」


 魔界の紫色の月が、二人の天使を照らしていた。




 トマスは、それを見た瞬間噴きだした。


「あっはっは、君、なんだそれ」

「む」


 髪を丁寧になでつけ、高級な服を身につけたディアは、トマスに笑われ顔をしかめた。その隣では純白の洋装に身を包んだユアが、微笑んでいる。


 月は欠け始めているが、未だ円形をとどめている。

 その下で、ユアの暮らしていた屋敷で盛大な晩餐が開かれていた。


「ユアが死神に連れ去られたと聞いたときには、心臓が止まる思いでしたわ。でも、まさかこのように素敵な殿方と――……うふふ」


 アルティシア・ブルディオが、嬉しそうにトマスの近くにやってくる。その腕には、ブオが抱かれていた。


「ディオロットってば、娘の晴れ姿なのに、あんな仏頂面で」


 アルティシアは嬉しそうに娘に口付けをした。



 悲痛の面持ちで帰宅したブルディオ夫妻を出迎えたのは、ユアだった。その姿を見た瞬間、二人は卒倒しそうになったものだ。

 ディオロットはトマスに詰め寄り、謂れのない怒りを向けられたトマスは、内心ディアを恨みながらこう応えた。


「死神に連れ去られたユアは、全ての根源である月を天に返して戻ってきたんです」


 正確には天使に連れ去られていたのだが、そこは言っても仕方がない。そしてユアは、当初の予定通りディアを両親に紹介したのだ。


 ディアとユアの物語を二人に伝えるのには時間がかかった。トマスやブオもその場にいたが、喋る兎を目にしたディオロットの顔は、ひきつっていた。

 一方のアルティシアはすんなりとディアを受け入れ、一目でブオを気に入った。


「ユアが結婚するのならトマスとなんだと思っていましたのに、まさか死神を連れてくるだなんて、想像だにしていませんでしたわ。でも、よくよく思いだしてみると、闇の力がユアを現世にとどめているとおっしゃっていたものね。それが、ディア、貴方だったのね」


 そんな風に笑顔で受け入れてしまうのだから、大した度量の持ち主である。

 ユアの両親との見物な対面をしながら、当初の予定通りに月下の晩餐を開く運びとなったのだった。



 ディオロットが仏頂面で妻のもとへとやってきた。妻の正面にいる、娘に腕を掴まれている死神を見て、顔をさらに歪める。


「ユア、幸せになるんだぞ」

「お父様、ありがとう!」


 不機嫌を押し隠そうともせずに告げられた言葉に、ユアは満面の笑みを浮かべた。そしてディオロットはディアを見る。


「貴様、娘を泣かせたら、承知しないからな!」


 一応は自分を認めてくれているらしい言葉に、ディアも微笑んだ。


「これから私は、ユアのためだけにこの身を呈し、守り続けるつもりでいる」

「ディア」


 赤と紫水晶の視線が、交わる。

 それを見たディオロットが黙りこくるが、無言で近くにあった飲み物を手にとった。

 そして、恐縮しながらも慎ましやかに晩餐に参加する使用人達に手を止めるように合図をした。


「若い二人に祝福を!」

「乾杯!」


 ディオロットの声にその場にいた全ての人達が、祝福の声を上げた。


「ユア」

「何?」


 眩いほどに美しく着飾ったユアが、ディアを見つめる。


「愛している、私の愛しいユアリアーナ

「私も愛しているわ、愛しいディアルノ


 黒い死神と白い花嫁は、多くの人に祝福されながら月の下でその愛を確かめ合ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月夜に死神と晩餐を 神水紋奈 @seagodragon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ