第七夜 愛しい人



 ピーノが石となっている天使に近づくと、世界が振動するかのように揺れた。


「感じるか、ルシフェル。お前が愛した女の残り香を」


 視線をずらせば、ピーノの視界に湖面に力なく浮かぶブオの姿が映る。しかし、それを気にせず、ピーノはディアを抱え込んでいるルシフェルに近づいた。


「ディア」


 声をかけるが、黒い死神は微動だにしなかった。代わりに、ルシフェルの喉から低い唸り声が響いてくる。大気が震えているようにも思えた。


「ディア、いつまでそんなところにいる気だ。ユアがどうなってもいいのか?」


 黒い死神の蒼白の顔からは完全に血の気がうせ、ピーノの言葉にも何の反応も示さない。ピーノは微かに焦燥を覚えた。

 このままディアが間に合わなかったら、計画が崩れてしまう。

 綿密に練り、気が遠くなるほどの時を待ち、そしてようやっと実行に移した計画が、このままでは全て台無しになってしまう。


 ピーノは意を決してルシフェルに近づいた。すると、ルシフェルがピーノを捕らえようと牙を向けてきた。そう、ディアを捕らえていた牙を外したのだ。

 その一瞬の隙を狙い、ピーノはディアの身体を抱え急上昇した。

 黒い死神の身から水が激しく撒き散らされる。水を吸った黒い衣は異様に重たかった。


「く」


 ディアを失ったルシフェルが、絶叫した。大気を揺るがすような絶叫の後、苦悶の雄たけびを天に向かってあげ、その瞳から蒼い涙を流したその恰好のまま、ルシフェルは石になった。

 その様をピーノが悲しげに見つめるが、今はそれどころではなかった。


「ディア、起きろ」


 しかし、やはり黒い死神は微動だにしない。鋭い牙が食い込んでいた首元の傷は塞がり、わき腹を引き裂いていた爪の跡も、消えかかっている。

 生きているはずなのに、ディアは反応してくれない。


「……嘘だろ」


 もはや手遅れかと、ピーノが半ば諦めたときだった。鼻をくすぐる香りに気づいたのか、ディアが微かに動いた。

 ピーノの気分が興奮で高揚する。


 そのとき、赤い瞳が訝しげに開かれた。




 ディアは凍りついたような闇の中にいた。酷く寒く、身動きが取れない。


 あの男と対峙したとき、忌まわしき鎌を交えたとき、正直勝てると思った。

 守るべきものを持った自分と、ただ欲のためだけに生きているあの男。その想いの強さの違いか、今までのような威圧感を覚えなかった。


 だから、勝てると思った。


「ユアはお前などに渡さないっ」


 圧されているはずのドルゴンが、口元に笑みを浮かべる。


「馬鹿な幻想から眼を覚ませ」

「何?」


 認めたくはないが、その顔は見れば見るほど己に似ていた。


「お前があの月の姫を欲しがるのは、あの娘が月を持っているからだ」

「何を言ってる!」


 この期に及んで惑わせる気かと、ディアは気色ばむ。ドルゴンは面白がるように、その一言を告げた。


「あの娘はお前の母親の生まれ変わりだぞ? お前があれを求めるのは、母親への思慕だ」

「な……っ?」


 その言葉を聞いた瞬間、ディアの中に迷いが生まれてしまった。

 そしてドルゴンにはその一瞬で、事足りた。


「そしてお前もまた、月の申し子よ」


 それが、ディアが見た最後の光景だった。



 気づけば深い黒に染まった意識の中にいた。靄がかかった意識の中で、ドルゴンの言葉が延々と繰り返される。

 耳の奥に焼きついたかのようだった。


 ユアへの想いのために、憎い男と対峙したのに、その男のために心が揺らいだ。そんな自分が、憎かった。


 随分長い時間、そこにいたような気がする。

 そのディアが顔を上げたのは、白金の光が視界の端に入ったからだった。


 懐かしいその色に、赤い瞳を細めて眼を凝らすが、闇しか見えなかった。


 半ば諦めていた頃、深く湖の底まで沈められていたかのようなディアの意識が一気に上昇したのは、鼻腔の奥に愛する女性の香りが届いたからだった。


 迷いは消えていない。

 しかしそれでも、起きなくてはいけないと、母が告げたように思えた。




 眼を開いたとき、自分の身体が水に濡れて酷く冷えていることに、ディアは気づいた。そして、見知らぬ男に抱えられている。

 わき腹と首元に痛みを感じて、そこに触れれば、出血していた。しかし傷は治りかけている。


「おい、あんまり動くな。支えているのも大変なんだから」


 ピーノが文句を言えば、赤い瞳がそちらを睨みつけた。


「お前は誰だ。なぜユアの匂いを漂わせている?」


 ピーノに抱えられている姿では様にならないが、ディアはそんなことを気にせずに訊ねていた。

 ピーノは不敵な笑みを浮かべる。


「話せば長くなるが……そんな時間はない」

「何?」

「君の大切な人が、死にかけている」


 見る間に、ディアの眼が見開かれる。そして偶然かその赤い瞳が視線を下げたとき、黒い影が湖面に浮いているのに気づいた。


「ブオ!」


 悲鳴じみた声がディアの口から漏れた。それを見て、ピーノは意外に思った。案外、この死神はあの悪魔のことを大事に思っているらしい。

 いまだ自由にならない体でブオの元に向かおうとするのを、ピーノが止めた。


「だから、今はそんな場合じゃあないんだ。君の愛する人が、魔界の王に連れて行かれたぞ」

「何だって……?」


 信じられない言葉に、ディアは混乱する。しかし、ユアのもとにおいてきたはずのブオがこの場にいることが、見知らぬ天使の言葉に真実味を与えた。


「ほら、早く行け。あの悪魔は俺が助けておいてやるよ。その代わり、あとでなんでも言うことを聞け」


 ピーノの傲慢な言葉に、ディアは躊躇う。しかし、その言葉が本当なら、ユアが危ない。

 一つ頷いたディアはピーノの腕から飛び出すと、宙を舞いながら左手を大きく振りかぶった。すると、ずぶぬれだった襤褸衣が一瞬で消え去り、ディアは新たな黒衣を身にまとっていた。

 濡れた髪の毛が纏わりつくが、それを気にせず灰色の尖塔に向かって行った。


 それを見送ったピーノは、ほんの少しだけ安堵のため息をつくと、ブオの元へと向かった。

 ディアとの約束を守っておけば、後々有利に働くのだから。




 黒の天蓋つきの天鵞絨の寝台に、ユアは乱暴に落とされた。その紫水晶の瞳が、薄暗い中でも輝いて見える。

 そのどこまでも透き通った瞳に、ドルゴンは嫌悪感を覚えた。


「愚かな娘だ。偽りの愛に気づきもしないで」

「私達が惹かれあうのが、これのせいだということ?」


 ユアが自分の胸元にある月を指差した。ドルゴンは眼を細める。


「ああ、そうだ」

「貴方に愚かなどと言われる筋合いなどないわ」

「なんだと?」


 ユアは体勢を整えながら、ドルゴンを睨みつけていた。今までのユアならば、恐怖にすくんで動けなかっただろう。

 だが、ディアへの想いが、ユアを突き動かしていた。


「この月がなければ、ディアと私は出会えなかった。私は……」

「ふんっ、あの小僧がお前に惹かれるのはそいつのせいだ。そいつがなければ見向きもしなかっただろう」


 ドルゴンの言葉が、いちいちユアの心の深いところを抉る。


「お前達が愛し合っているというのは、幻覚だ」


 ディアはユアのことを愛しているのではなく、母親の影を、月を求めているだけなのだろうかと、ユアの心に迷いが浮かぶ。

 唇を噛んで、ユアは俯いた。


「お前はあいつに愛されてなどいない」


 ピーノが言っていた、自分はディアの母親の生まれ変わりだと。

 母親のためだけに、復讐のためだけに生きてきたディアは、復讐のためにユアと出会い、母親の生まれ変わりである彼女に惹かれたのだ。

 ディアの赤い瞳が見ているのは、自分ではなく、シャラだった。


「可哀想になぁ? だが、それももう終わりだ。大人しく私のものになればいいのだ。楽になれる」


 ユアの心が、酷く揺れていた。


 ユアが生きたいと願ったのは、生きていて良かったと思ったのは、全てディアがいたからだった。

 だがドルゴンは、ディアのユアへの想いは幻覚だという。偽物だと、そう言っているのだ。


 ユアの心が張り裂けそうになった。

 赤い瞳が愛おしい。低い声が愛おしい。長い髪が愛おしい。ディアの全てが愛おしい。


 そのユアの想いさえも、幻覚だと、幻想だと、錯覚だと言うのだ。



 ドルゴンがユアの頬に手を伸ばす。しかし、ユアはそれを跳ね返していた。迷いに揺れていた心が、糸を張ったかのように固いものとなる。


「私に触れていいのはディアだけよ」


 その瞬間、ユアは理解した。己が抱いている感情を、己がすべき行動を、ユアは直感的にわかっていた。ユアに拒絶され、ドルゴンの顔がみるみる歪んでいく。


「愚かな小娘め! まだ幻想だとわからぬのか!」

「幻想でもいいの!」


 ユアが叫んだ。ドルゴンは驚いて怯む。

 ユアの中で、迷いなど一瞬で吹き飛んでいた。


「ディアが私を愛していなくとも、私は愛しているのだから! 幻想でもいい。この想いは、確かにここに存在しているの!」


 ユアが胸を押さえながら、言い切った。

 その瞬間、稲妻に打たれたかの衝撃がドルゴンを襲った。非力なはずの人間の怒号に、ドルゴンは確かに恐怖を覚えた。


「貴方は哀れな人よ」


 強い意志のこもった瞳で、ユアはドルゴンを見つめた。

 何を言われようと、ユアがディアを愛しているというこの気持ちは、嘘偽りではないのだ。

 たとえそれがこの胸に抱える月のせいだとしても、たとえディアが母親への想いのためにユアを愛しているのだとしても、ユアはディアを愛しているという事実には変わりがないのだから、迷う必要などなかった。


「何だと……」

「貴方みたいな人に、私は壊せない!」


 ドルゴンが怒りに顔を歪めて、ユアの首に手をかけた。


「無駄よ……っ」

「ほざけ!」

「ディアが、たす……っ」


 ユアの整った眉がひそめられ、意識が朦朧とする。もう駄目かと、半ば諦めたときだった。

 激しい音がして、目の前からドルゴンが消えた。

 喉を圧迫していた力がなくなり、ユアは激しく咳き込んだ。そして目の前に黒い背中があるのに気づく。


「ディア……っ」


 ユアが歓喜の声を上げる。そこに立っていたのは、濡れた髪をそのままに、いつもの黒い襤褸を纏った愛しい男の姿だった。


「貴様……くそ、あの天使がやったのか」

「ユアはお前には渡さないと言ったはずだ!」


 ディアに突き飛ばされて床に座り込んでいたドルゴンは、口元に笑みを浮かべる。

 認めたくはないがユアに恐怖を覚えたドルゴンだったが、ディアの方は組みやすしと受け取った。


「お前が助けたいのは、この小娘ではなく母親だろうが」


 ユアには見えなかったが、ディアの瞳は不安と迷いから揺らいでいた。その時、動いたのはユアだった。


「いい加減にディアを傷つけるのはやめて! ディアが母親を求めて私に惹かれたのだとしても、私はディアを愛している! 愛する人を傷つけるのは、私が許さない!」


 ユアの叫びに、ディアは驚いたようにユアを見た。そして、己の心の近くから感じる、激しい想い――それを感じた瞬間、ディアの中から迷いが消し飛んでいた。


 自分はシャラへの想いからユアを愛したのではない。

 この、己の心の一番近くにある心の旋律を、己で守りたいと思ったから愛したのだ。


 迷いを断ち切ったディアが、全てを終わらせるために大鎌を振り上げた。形勢不利と悟ったか、ドルゴンが舌打ちをして鎌を受け止める。

 そのまま、ドルゴンはディアを押し返して、すぐさま体勢を立て直した。


 ディアは舌打ちをした。先ほどまで水に使っていた身体は、思うように動かない。だが、自分の背中には、守るべき大切な女性がいる。


 しばらく同じ赤い瞳が大鎌を構えたまま、睨みあう。ユアは固唾を呑んでその光景を見つめていた。


 ぶつかり合う殺気が、炎となり、稲妻となり、眼に見えるかのようだった。



 ドルゴンと対峙することで、ディアの中でいろいろな感情が浮かんでは消えていく。


 目の前にいるこの男は、酷く憎かった男だ。ディアはこの男に復讐するためだけに生きてきた。


 それは大切な母を奪った男だったからだろうか。

 それとも自分を息子として見てくれなかったせいだろうか。


 なんとも言いがたい感情が、込みあがってくる。


 思えば、復讐だけだった己の黒い心を溶かしてくれたのも、ユアだった。

 復讐のためだけに生きてきたディアに、生きる意味を与えてくれたのはユアなのだ。


 そのユアを守るために、この目の前にいる憎い男だけは倒さなくてはならない。



 ディアが動いた。その口から獣のような咆哮が発せられる。ユアは思わず身をすくめた。

 ドルゴンも雄たけびを上げながらディアに突進した。金属が激しくぶつかり合う音が響いた。

 同じ顔をした二人の男が、渾身の力を持って鎌を振るっている。力が同等なのか、二人の鎌がそこから動くことがない。

 赤い瞳が睨み合いながら、己の鎌を押すが、力を逃すこともままならないような均衡状態だった。

 少しでもどちらかの力が負ければ、斬られる。そんな状態だった。


 そのとき、ドルゴンが嫌な笑みを浮かべた。


「お前達の愛など、所詮幻想だ」

「まだ言うかっ」

「その証を立てることもできぬ若造が!」


 ドルゴンの周りを、眼に見えるほどの黒い妖気が包む。ディアの顔が歪んだ。


「殺してやるわ、この憎きできそこないめ!」


 できそこない、そう言われた瞬間、ディアの心の奥の奥にあった何かが、激しい痛みを発した。

 泣きそうに顔を歪めたディアを、ドルゴンが圧していく。


「ディアはできそこないなんかじゃない!」


 そのとき、ディアの背中から聞こえた愛する女性の声が、ディアに力を与えた。


「殺すつもりなら、なぜ殺さなかった?」


 ディアが口端をあげて、ドルゴンを睨みつけた。

 一瞬、ドルゴンの顔に動揺が見て取れた。それをディアは見逃さない。


「私を殺せば、ユアの命は魔界へ落ちたはずだ。でもお前は私を殺さなかった。瀕死に追い込んだにもかかわらず。お前は私を殺さなかったのではない、殺せなかったのだ!」


 叫びながらディアはドルゴンを圧しかえす。


 ドルゴンの顔が歪んだ。その脳裏に、ディアの命を絶とうとした瞬間が浮かぶ。

 大鎌を振るった瞬間、白金と翡翠の光が邪魔をした――。


「ほざけっ!」


 どうしても命を奪うことができず、堕天使のもとにディアを落とすしかできなかった情けなさに、ドルゴンが咆哮した。


「ディアっ!」


 その瞬間、ドルゴンの眼が大きく見開かれた。突然の変化に、ディアが驚く。


「な……に……?」


 ドルゴンの腹から、血に染まった手が伸びていた。ユアが息を飲み、悲鳴をこらえる。


「こんな男のために、お前の手を血に染めることはない、ディア。お前の心にはもう、復讐なんてないんだろう?」

「ブオ……」


 ドルゴンの手から大鎌がこぼれ、大気に溶けて消えた。


「貴様……っ」


 いつの間にか、ドルゴンの背後にブオが立っていた。ブオの顔は酷く穏やかで――それでいて、酷く悲しげだった。


「一つだけお前に感謝してるよ」


 ブオが手を引き抜いた。ドルゴンの口から、鮮血が吐き出される。


「お前のおかげでシャラに会えた」


 そして今度は心の臓をめがけて、ブオは鋭い爪をつきたてた。その瞬間、どこまでも澄んだ、その場にそぐわないほど澄んだ、透明な音がその場に響いた。

 腐った果実が、地に落ちて潰れたような鈍い音とともに、魔界の王の姿はその場から消えていた。



 あまりにも呆気ない、終焉だった。



 ドルゴンが跡形もなく砕け散った後、ユアとディアが呆然としている中、ブオが激しく咳き込みながらその場に崩れた。


「ブオ!」

「ブオ!?」


 ディアとユアが同時に悲鳴を上げ、近くにいたディアがブオを支える。ブオは、傷らだけで満身創痍といった風体だった。

 遅れて駆け寄ってきたユアが、ブオを抱きしめた。


「ブオ、大丈夫?」

「ちょっと……無理だ」


 そう呟くと、みるみるブオの身体が縮む。そしていつもの兎の姿に戻った。


「ブオ!」


 ユアが悲鳴を上げて、ブオを掻き抱く。ブオは、虫の息だった。


「いやっ、ブオ!」

「……ユア、落ち着け」


 ディアは内心穏やかではなかった。生まれたときから一緒にいたのがブオだ。そのブオが死に掛けているのに、穏やかでいられるはずがなかった。

 それでも、落ち着かなければなかった。


「ユア、大丈夫。ブオはこれくらいで死ぬほどやわじゃない」

「で、でも……」

「大丈夫だ。落ち着け」


 顔を上げたユアは、眼から涙を溢れさせていた。


「悪魔は丈夫なんだ。しっかり休ませてやれば、傷は癒える」


 ユアを落ち着かせるように、自分に言い聞かせるように、ディアが言った。


「本当に?」

「ああ。私の母上と出逢ったときも、ブオは瀕死だったのだから」


 ディアは頷くと、ゆっくりユアに触れた。それは、あまりにも久しぶりの接触だった。


「ユア……会いたかった」


 ゆっくりとブオを自分の太ももの上に乗せたユアが、ディアに右手を伸ばした。


「ディア、会いたかった」


 溢れるような想いを口にした瞬間、ユアの瞳から新たな涙が溢れ出る。赤い瞳と紫水晶の瞳が、一月ぶりに交わった瞬間だった。


「これで、全ては終わったの……?」

「ああ。もう、月を狙うものはいない」


 ディアは辺りを見回した。そこは憎き男の部屋――そこに居座るのは、酷く居心地が悪かった。


「行こう、君の世界へ」

「私と、貴方の」

「ああ」


 ディアが微笑んで、ユアの手をとった。そしてユアがブオを抱えなおして立ち上がろうとしたところに、騒々しい声が聞こえてきた。

 ユアが息を飲んでディアの背後に隠れ、ディアが向こう側から声がする重厚な扉を睨みつけた。


「陛下の部屋に向かうとは、いくら大将ゲオリク様の娘と言えども!」

「ティーア、突然どうしたのだ?」


 聞きなれた名前が出され、ディアとユアは顔を見合わせる。そのとき、無造作に扉が開かれた。そして、男の悲鳴が聞こえる。


「この無礼者が! あ、いや、ゲオリク様、申し訳ございません。陛下! 陛下、大変申し訳……え?」


 騒々しく部屋に入ってきたのは、険しい表情のティーアだった。そしてその後ろにいたのは、ディアと似たような黒衣を身にまとった壮年の男と、騒々しくわめき散らす上等の服を着た中年男だった。

 わめき散らしていた男がディアの姿を見て、唖然とする。


「ディ、ディア様……? なぜここに……?」

「終わったの?」


 男の疑問の声を無視して、ティーアが険しい声でディアに訊ねた。ゲオリクと呼ばれた黒衣の男が、ディアとティーアを見つめて訝しげな顔をする。


「ティーア、説明をしてはくれないのか?」

「お父様にはあとで説明をするわ。ディア、貴方は……復讐を果たしたの?」


 ティーアの言葉に、ゲオリクが息を飲んだ。そしてユアが驚く。ゲオリクと呼ばれた男は、ティーアとシンシアの父親だったのだ。


「いや、私は……復讐など、もうどうでも良かったのだ。ただ、ユアを守りたかった」


 ティーアの説明を求める瞳に、ディアが吐き出すように言った。


「それでは……」

「ブオが、代わりに……」


 歯切れが悪く伝えるディアに、ティーアは全てを悟りため息をついた。そして、その顔に微笑が広がった。


「それでは、全てが終わったのね」

「ま、ま、ま、まさか、ディア様、あ、貴方は、陛下を……その手にかけたのか!」


 中年男が蒼白になりながら、つばを撒き散らすように叫んだ。


「どちらにしろ、強欲者ドルゴンは去った、それで良いのね?」


 ディアが頷く。それを見たティーアの身体から、力が抜けた。


「シンシアの敵をとってくれて、ありがとう……」


 そう良いながら、ティーアの桃色の瞳から涙が零れ落ちる。その言葉に、ディアが首を横に振る。


「シンシアの命を奪ったのは、私だ……っ」


 悲鳴じみたディアの叫びを否定したのは、ゲオリクだった。


「ディア、それは違う。君は私の娘の命を奪ってなどいない」

「だが……」


 自分を育ててくれた男に、自分を愛してくれた死神の父親に、ディアはかける言葉が出てこない。


「君はシンシアの心を救った。そうだろう、ティーア?」


 ティーアが涙を流しながら頷く。彼女は声も出せない様子で、泣いていた。


「それでは、この国は王を失ったのか!」


 震える声で、先ほどから騒がしい壮年の男が言う。


「そうだな」


 ゲオリクの肯定の言葉に、男がすがるようにディアを見た。言葉に出さぬ思いを悟ったのか、ディアの代わりにゲオリクが首を横に振った。


「ベルデン、ディアは王になどならないぞ」

「だが、しかし! ゲオリク様……」


 ベルデンと呼ばれた男に、ゲオリクが言い聞かせるように口を開いた。


「彼は、人間なのだから。死神の王になどなれる道理がない」


 ユアが小さく息を呑む。今、ゲオリクはディアが人間だと言った。その意味を問いたかったが、口を出せるような雰囲気ではなく、ユアは口を閉じる。

 ベルデンは困り果てたかのように、頭を抱えてしまった。


「だがそれでは……この国は……」

「貴方が王になれば良い」


 見かねたディアが口を開いた。


「ゲオリク、貴方にならなれるはずだ。そして我が憎き男のように、欲にまみれることもなかろう。中立者ゲオリク

「ディア様、しかし貴方は……」


 ベルデンの言葉を遮り、ディアは口を開く。


「私は人の世で生きる。このかけがえのない愛しいユアリアーナと共に」


 ユアの肩を抱きながら言ったディアに、ティーアが頷く。そして、ゲオリクも見てわかるかわからないほどの微笑を浮かべた。


「君は、復讐のためだけに生きてきた君は、解放されたのだな」


 ゲオルクの言葉に、ディアは赤い視線をそちらに向けた。


「私は、母上のためだけに生きてきた。だがこれからは……共に生きるのだ、ユアと」

「君がそんなにも優しい顔をするとは、知らなかった。私のもう一人の子」


 思いがけない育て親であるゲオリクの言葉に、ディアが戸惑う。


「だが……私は……」

「知っている。君が私を父だとは思っていないことくらい。だが、強欲者ドルゴンが君をうちに連れてきたあの日から、君は私の息子だった。たとえ、君がそうは思っていなくても」


 目じりに深い皺が刻まれ、感慨深げにディアを見つめるゲオリクに、ディアは確かに父への想いにも似たものを抱いた。

 今まで、己がいかに何も見ていなかったかを、思い知らされたようだった。


「私が王になるかどうかはわからないが、君は行って良い。幸せになりなさい」


 ディアは力強く頷くと、ユアをしっかりと抱きとめ――その場から消えた。


「……シンシアは、幸せだったな」

「ええ、とても幸せだったのよ、お父様」


 眼を閉じたゲオリクの胸の奥で、シンシアが笑ったような気がした。


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